17話 変わらない特別なもの
「──ふむ。ここまでにしようか」
落書きみたいな顔をしたスライムが、シュトロームが動きを止めた。
同時にヒナギクは、背中から倒れて仰向けに寝転がった。
木々の切れ間からは夜空が見えていた。
アルト内では決して見られないもの。
現実ではそれこそ飽きるほどに見ているもの。
そんな飽きるほどに見ている夜空であるのに、不思議とその夜空をヒナギクはぼんやりと見上げていた。
「そんなに夜空が珍しいかね?」
不意に視界に入ったのは、シュトロームの落書きに似た顔だった。それもかなりのどアップである。
いきなりで、少し体が硬直しかけたが、当のシュトロームはお構いなしと言わんばかりにそのぷよぷよボディを揺らしていた。返事を待っているのだろうとヒナギクは思った。
「……いえ、珍しいわけじゃないです。アルトの中では見られなかったなぁって思っただけで」
「あぁ、そうか。アルトでは常に夕空であったな。沈みかけの日が常に街中を彩っている。あそこはそういう街であったな」
「えぇ。アルトの外に出れば、時間帯によって空は変わるという話でしたけど、私アルトの外に出たことってそんなになかったんで」
正式リリースして半年が過ぎ、まだアルトから出ていないというのは、意外なことにそれなりの数のプレイヤーがいる。
アルトの外に広がるフィールドに出たことがあるという程度であれば、誰もが行っているが、アルトよりも先の街に行ったことがあるプレイヤーということになると話は変わってくる。
タマモたちが本拠地としている農業ギルド所属のファーマーを始めとした、生産職プレイヤーなどがその大半だった。
レンが赴いた北のベルスを含む東西南北の第二都市には、それぞれ農業ギルドがある。もっともそれぞれの都市の農地には大きく差があった。
たとえば、ベルスであれば、アルトの農地の半分ほどしか面積がないうえに、取り扱っている株や種などはアルトの農業ギルドで取り扱っているものしかないし、その量もアルトよりも少なかった。
ただし、工業都市という側面があるからなのか、アルトでは見かけられない土壌改善の特殊肥料や、収穫物の品質の向上や収穫量を増加できる薬液などが取り扱われているため、向かう意味がないというわけではない。
他の3つの都市、南のベウス、西のベーウェ、東のベーストにもそれぞれの街の特色ゆえの長所と短所があり、各生産職での向き不向きが存在している。
ベルスの農業ギルドのように生産職向けの特殊なアイテムが販売している都市も中にはあるが、第二都市にたどり着いたばかりのレベルでは販売して貰えないものも多くある。
特殊アイテムを手に入れるために第二都市に向かったというのに、レベル不足で手に入らないということが、正式リリースして一ヶ月ほどの間で、先行した生産職でたびたび起こっていた。
その結果、特殊アイテムを手に入れるためには、相応のレベルまでアルトで留まることが推奨されるようになったのだ。
第二都市まで行ってから第二都市内でレベリングを行おうとするプレイヤーもいるにはいる。
だが、そこには落とし穴がある。第二都市でレベリングを行うためには、相応のレベルが求められるからだ。
ファーマーであれば、ベルスでキャベベを増産しようとしても、品質が最低になりやすい。その理由はベルスの街の農地の土壌がアルトよりも悪いためである。
工業都市であるためか、土壌が汚染されているという設定でもされているようで、アルトと同じように生育させたとしても、その品質は評価1ないし最低の評価不能となる。
評価不能というのは、評価できないほどに低品質ということ。現実世界で言えば、まっすぐに育たずに丸まってしまったキュウリ、傷だらけのナスなどの出荷できないレベルのもの。いわば捨ててしまうタイプの野菜である。
現実世界では見た目は悪いけれど、十分に食べられるものではあるが、このゲーム内では評価不能の収穫物はすべて一律で食べられないものになる。
キャベベで言えば、虫さえも食べないほどに固い芯だらけだったり、汚染土壌の影響からか、葉がすべて腐っていたり毒々しい色の食欲が沸かないものになったりと、まさにゴミ同然のものしか収穫できなくなる。
むしろ、評価1が出れば御の字というアルトであれば、ありえない状況に追い込まれてしまう。
しかも、折角評価1が収穫できたとしても、それはあくまでも生産者側の視点であり、消費者側にとってみれば、どれだけ努力の上での評価1であっても、評価1は評価1以外の何者でもない。その努力の証を納品したところで農業ギルドからの評価はお察しである。
他の第二都市も理由は違えど、大概は似たようなものである。それはどの生産職でも同じであるため、生産職が第二都市を目指すのは、第二都市でも通用できるほどにレベルを上げてから。それが現在アルトに留まるプレイヤーで生産職が多い理由である。
もちろん、アルトに留まるプレイヤーの中で、ヒナギクのように非生産職であるプレイヤーもいるにはいるが、生産職に比べればその数はごく一部である。
とはいえ、それが悪いというわけではない。
攻略組と呼ばれるプレイヤーたちは最前線でレベリングを行い続けて、日夜まだ見ぬモンスターとの戦闘に明け暮れているし、攻略組ではないけれど、まだ誰も見たことがない景色などを見るために、各フィールドをくまなく彷徨うプレイヤーだっている。
プレイスタイルは人それぞれであり、それぞれが追い求めるものがあるのであれば、アルトに常駐したところでなんの問題もないのだ。
中にはクラン内の事情によってアルトから離れられないプレイヤーもいるにはいるだろう。ヒナギクもその口ではあるが、レンという前例もあるため、絶対にアルトから離れられないというわけではない。
ではなぜ、ヒナギクがアルトから離れなかったのか。その理由は──。
「なんとなくなんですけど、私はアルトから離れなくてもいいかなぁって思っていたんです」
「ほう?」
──特に大したものではなかった。
1カ所にあえて留まり続ける。事実上、攻略を完全に投げ捨てているようなものであるが、それもまたひとつの楽しみ方でもある。
ゲームを攻略することに生きがいを感じるプレイヤーにしてみれば、「なんのためにプレイしているの」と言われるかもしれない。
未踏の光景を見ようとフィールドを駆け巡るプレイヤーからも、理解はされづらいのかもしれない。
それでも、ヒナギクにとってはアルトが出ないというのは、そこまでおかしなことではなかった。
いや、おかしいということにはならなくなっていた。
「私、なんだかんだでアルトが好きなんですよ。最初は、寝ても覚めても夕焼け空ばかりの変な街だなぁと思っていたけれど、変わらない空の下で、変わらない街並みを眺めるのって悪くないなぁって思うようになったんです」
アルトの景色は変わらない。
アルトに滞在するプレイヤーは日々変化するものの、それで街並みが変化するわけじゃない。
アルトの空はいつだって夕焼けだし、アルトの街並みはその夕焼けの光をいつもどんなときでも浴び続けている。
変わらない街並みと変わることのない空の下で、アルトはいつも通りの営みが行われている。
そのいつも通りの、不変の光景にヒナギクは価値を見出したのだ。
「人も景色も移り変わるものです。でも、変わらないものはたしかにあって、その変わらないものを、人は「当たり前」って呼ぶと思うんです。でも、本当は「当たり前」ってないんだろうなぁとも思うんです」
「……そうだな。「当たり前」なんてものは本来存在しない。それはあくまでもそういう風に思い込んでいるというだけのこと。実際は「当たり前」なんてものはなにひとつ存在しない。すべてがすべて特別なものだ」
シュトロームの目がわずかに細められた。縦線と横線が集まった落書きのような顔であるシュトロームの顔だが、それでもヒナギクはそのわずかな変化に気づけた。
気付きはしたけれど、それをあえて指摘するつもりはないし、意味もなかった。ただ、シュトロームはシュトロームで抱えるものがあるということはわかった。
「私、こう見えてもシュトロームさんどころか、アルトで道行くお子さんを連れた親御さんと比べてもかなり若輩です。だから、シュトロームさんの言葉を「わかります」とは言えません。ただ、変わることのない特別なものってあるんだろうなぁって思うんです。それをアルトでは見られる気がするんです。それを私はいつまでも見ていたいなって思うんです」
「……不変ゆえの特別なもの、か。さすがは妖狐の仲間なのかな。面白い考え方をする。あれはあれで面白い存在だが、あなたはあなたで面白いな」
「そう、ですかね? タマちゃんとは比べようもないとは思っているんですけど」
「そう思うのはあなただけかもしれぬな。不変の識者、いや、不変の渇望者とでも言えばいいのかな?」
「渇望とまではいきませんよ。ただ、見てみたいなぁって思うだけです」
「それもまた渇望と言う気もするが、まぁ、あなたが言うならそれはそれでいいのかもしれぬな。想い願うことは人それぞれだ。特別を目指す者もいれば、特別から普遍的になろうとする者もいる。理由もまたひとそれぞれ異なるが、あなたはそれを第三者の視点で見ようとするのだろうな。母のような穏やかなまなざしで、神のごとき視界でな。本当に妖狐の仲間は面白い」
シュトロームは笑っていた。
ただ、ヒナギクにしてみれば、褒められたのかどうかもよくわからなかった。
できたのは曖昧に返事をするだけであった。
「とにかく、今日は終わりだ。あとはゆっくりとするがいい」
そう言って、シュトロームは体を離し、ぷよぷよとした体で地面を飛び跳ねながら去って行った。その背を見送ってからヒナギクは再び夜空を見上げる。さきほどまでと変わらない空。けれど、特別な空。その空を眺めながら、ヒナギクは静かにまぶたを閉じるのだった。




