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2話 ただ、耐えよ

 目の前には氷結王がいた。


 最初に会ったときのドラゴンの姿ではなく、いつもの人間の姿に擬態している。身に付けているのはいつもの着流しだった。


 毎回思うが、純和風の着流しと氷結王の見た目はあまりマッチしているとは言えないもののはずなのだが、不思議と似合っていた。好々爺然としているからなのかもしれないが、その貫禄はさすがの一言だった。


 しかし、いまの氷結王は普段の好々爺然としたものとは違い、とても痛ましそうな表情でタマモを見つめている。その視線を浴びて、自然とタマモは顔を逸らしていた。失礼だとは思うものの、あまりその手の視線はいま浴びたくなかったのだ。


 顔を逸らしたタマモにエリセは「旦那様」と声を掛けるも、それ以上の言葉を続けなかった。エリセ自身もおそらくはなんて言えばいいのかわからなかったのだろうとタマモは思った。


 対して氷結王は「構わぬ」とエリセを見やりながら言った。ちらりとその顔を見やると、眉尻を下げながら、なんとも申し訳なさそうにタマモを見つめていた。


 タマモ自身、怒っているわけじゃなかった。ただ単に、あまり触れて欲しくないだけ。だから怒っているわけではない。


 だから氷結王の表情の変化を見て、かえってタマモ自身申し訳なさをおぼえてしまう。タマモだけが悲しいわけではない。今回のことは誰もが、アンリと関わりを持った者は誰もが悲しんでいるのだ。


 その中でタマモは特にアンリとの関わりが深かった。出会ってからまだ数ヶ月しか経っていないが、それでもタマモにとってアンリがどれほどまでウェイトを占めていたのかを、喪ったことでようやく理解できた。……あまりにも遅すぎる自覚だと自嘲するほどに。


「……愛する者を喪う。その悲しみがどれほどのものなのかは我も知っていることだ。その者をどれほど愛しているかで、その悲しみは大きく深まっていく。同時にその悲しみを超えた絶望もまた、な」


 氷結王がじっとタマモを見つめている。なにを言おうとしているのかはわからない。続く言葉を探しているのか。それともまるで違う言葉を口にしようとしているのか。どちらかであることはたしかだろうけれど、それ以上のことはなにもわからなかった。


「……本来であれば、「白金の狐」となったことの祝いを告げたいところだが、いまそのようなことを言うのは憚れることだ。いや、このことを口にするのもだな。すまぬな、我自身どうそなたと触れ合えばいいのかわからなくなってしまっているようだ。千年以上も生きているというのに、わからないことばかりだというのはなんとも情けないことではあるのだが」


 小さくため息を吐く氷結王。「そんなことはありません」とタマモは口にしたが、それ以上の言葉を口にすることはできなかった。単純にそれ以上なにを言えばいいのかわからなくなってしまったのだ。


 タマモがなにか言ったところで、氷結王が口にした内容は、氷結王自身の評価であり、その評価を他人が覆すことはできない。本人だけの絶対評価と他人から見た相対評価では価値観があまりにも違いすぎる。


 他者から見れば欠点がないと思える人物であっても、当の本人からしてみれば欠点だらけということもある。今回のことはまさにそれだ。相対評価と絶対評価。その違いは比較対象の違いというわずかなもの。だが、そのわずかなものが決定的な違いを導き出している。タマモもまた覚えのあることではあるのだ。


 だからこそ、いまの氷結王になにを言えばいいのかがわからなくなってしまっていた。そもそも、千年以上もの月日を生きた氷結王に対して、せいぜい20年そこらのタマモがなにを言えばいいのかという話なのだ。余計に口にする言葉など思いつくわけもない。


「タマモや」


「はい」


「……失うことに慣れてはいかん」


「……慣れた方が楽ではないですか?」


「そうかもしれん。そなたの胸に宿る感情も時間が解決してくれるだろう。だからといって慣れていいわけではないと我は思う。慣れてしまったら、「悲しむ」という感情そのものが消えてしまう。「悲しみ」などない方がいいと思う一方で、それがあるからこそ、出会うという喜びが沸き起こるのではないかと我は思っている」


「出会いの喜び」


「あぁ。生きとし生けるものは、すべて出会いと別れを繰り返す。出会いの喜びと別れの悲しみは表裏一体だ。出会うからこそ悲しみという別れが必ず待ち受けている。だが、その先には必ず新しき出会いが待ち受けている、はずだ。いまのそなたに言うには少し、いや、ひどく残酷だろうが。いまはただ耐えよ。その悲しみにも絶望にもただ耐えよ。その先に新しいなにかが必ず待っているはずなのだから」


 氷結王はそう言ってまぶたを閉じた。深い皺に覆われたその顔からは、いまどんなことを考えているのかは想像もできない。


 ただ氷結王なりに、タマモに前を向けと言ってくれていることはわかった。……いろんな人から散々言われ続けてきたことではある。だが、氷結王が口にした言葉は他の人の言葉よりもタマモの中でわずかに響いていた。


 心の中でだけ響くもの。その残響を感じながら、タマモはただ静かに頷いた。悲しみも絶望もいまだに消えてなくならない。これからもずっと抱き続けていくのだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかはタマモにもわからない。


 だが、ひとつだけ。そうひとつだけ決意したことはある。それは悲しみと絶望から目をそらしはしないということ。この悲しみも絶望もすべてタマモのもの。そのふたつから目をそらしたり、なかったことにしたりはしないということ。


 もし、そんなことをしてしまえば、きっと逃げてしまう。アンリを喪ったという現実から逃げ出してしまう。だから見つめ続けよう。耐え続けよう。その先になにがあるのかはわからないけれど、少なくとも自暴自棄になることをアンリは望んでいないはずなのだから。


「……ありがとう、ございます」


「いや、大したことは言えなかったからな。気にしなくてもよい」


「……では、アンリを預かっていただけている事に対してということで」


「そちらも気にしなくてよい。我が好きにやっていることだ」


「それでも、です。ありがとうございます。もう少しだけお願いします」


「……うむ。精一杯やるといい」


 氷結王はそう頷いてくれた。タマモは一礼を行い、その場を後にした。エリセは後に続きながら、氷結王に頭を下げたようだ。水の妖狐であるエリセにしてみれば、氷結王は特別な存在だろうが、それでも氷結王よりもタマモを支えることを選んでくれた。そのことがタマモには堪らなく嬉しくもあり、そして申し訳なくもあった。


 そのことを口にしたところで、エリセもまた気にしなくていいと言うのはわかっているので、あえて口にはしない。ただ、少しくらいはエリセに報いてもいいだろう。


 タマモは振り返ると、エリセに向けて手を差し伸べた。いつのまにか、エリセと繋いでいた手は離れていたので、改めて手を繋ごうとしたのだ。するとエリセは嬉しそうに頬を綻ばしてくれた。その表情に愛おしさが募っていく。


 けれど、そのことを口にする気はない。


 エリセをアンリの代わりにするつもりはない。だからと言ってエリセが嫌いというわけでもない。


 エリセはエリセ。アンリはアンリ。ふたりはそれぞれにしかなれない。それぞれの代わりなんて誰もできない。だからエリセはアンリの代わりではないのだ。


 加えて、アンリを喪って間もないというのに、アンリの分までの愛情を注ぐというのは、いくらなんでも節操がなさすぎるし、エリセもおそらくは求めていないはずだ。


 それでもエリセの想いに報いることくらいはしても罰は当たらないと思う。再び繋ぎ合った手と手。エリセのぬくもりを感じながら、タマモは氷結王が用意してくれた氷室──山頂の裏手にある貯蔵庫とは別の洞窟──から離れていく。


 目指すのはアルトではなく、氷結王の眷属であるスライムたちの元だ。もっと言えば、その長であるエンシェントスライムのシュトロームのところへだ。ここ最近ずっと行っている日課をこなすためである。


「……今回は絶対に勝つ。なにがあっても必ず最後まで」


 シュトロームのところに向かいかながら、タマモは闘志を燃やしていた。その理由はいまら1週間前、アンリを喪った日まで遡る。

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