Ex-32 星明りを胸に抱いて
時計塔から降りたエリセは、焦燥感に迫られるがまま、農業ギルドへの道を進んでいた。
込み上がってくる焦燥感はどうしても消えてくれない。むしろ、農業ギルドに近付けば近付くほど、拭いきれない焦燥感に襲われていた。
(……旦那様、アンリちゃん)
エリセの脳裏に浮かぶのは、か弱く大切なふたりの姿。
特にエリセを突き動かした、あの空耳のような声の持ち主であるアンリの無事が気に掛かった。
とはいえ、安全なアルトの中でアンリの身に危険が迫るというのは、どうにも頷けないことではある。
だが、頷けなくても、たしかにエリセは耳にしていた。アンリの声を。エリセに後を託すと告げたアンリの声を、たしかに聞いていた。
ただの空耳であればいい。
もしくは、エリセの妄想の産物であればいい。
空耳や妄想の産物であれば、タマモたちの元に着いてから、面白おかしくそれを告げれば、きっとアンリはいつものように頬をぷくっと膨らまして、腕をぐるぐると回転させながら、ぽかぽかと殴りつけてくるだろう。
いつもなら体格の差を活かして、アンリの腕が届かない位置までアンリを突き放して回避するが、今回は黙って受ければいい。きっとそれはそれで楽しいはずだからだ。
もっともアンリのことだ。「え、エリセ様? どうしていつもみたいに避けられないんですか!? 熱でもあるのですか!?」と目を見開いて慌ててしまうだろうが。
そんなアンリの姿をありありと想像できる。とても愛らしくかわいらしいその反応が想像できてしまう。
だから。そう、だからこそ無事でいてほしい。
この焦燥感も、あの声も、すべて気のせいであってほしい。
この道の先にあるのは、いつも通りの笑顔に溢れるタマモたちの本拠地であってほしい。
そんな願いを込めながら、エリセは早足で進んでいた道を、ついに駆け始めた。
胸がひどく高鳴っていた。
興奮ゆえにではない。
急に走り出したからでもない。
この先に悲しみが待っているという、どうしようもない予感がエリセの胸を高鳴らせていく。早鐘のように鳴り響く心臓の鼓動。いまにも胸が飛び出てしまいそうなほどに高鳴り続ける鼓動。胸を押さえつけながらエリセは走る。視界はすでに歪んでいた。
なにかあったと決まったわけではない。
むしろ、なにもないに決まっている。そう思いたいのに、エリセはそれがありえないことであることを理解してしまっていた。
普段閉じているまぶたを見開きながら、エリセは道を駆ける。
まぶたを開いたのは、本当にたまたまだった。
エリセの目は特別だった。相手の心を見ることができる目。それはもはや魔眼とでも言うべきほどに特別なもので、「心眼」と呼ばれる特殊能力。
その特別な目を持つがゆえに、エリセはまぶたを開くことはない。開いたとしても、薄らとだけだ。薄らとだけであれば、「心眼」は発動しない。せいぜいが名前がわかるくらいだろうか。とはいえ、名前がわかると言っても、それは事前に相手の素性がわかっている場合だけ。
さきほどのユキナのように、未知の相手にはその効果は発動しない。だが、事前に相手の素性をわかっている場合は、薄らと開けたただけでも相手のことがわかってしまう。絶妙に使い勝手が悪い目だった。
だが、使い勝手が悪かったとしても、その能力は十分に驚異であることは理解できていた。だから父や実母がエリセを気味悪がるの無理からぬことだ。化け物と呼ばれてしまうのも無理のないことなのだ。
そんな「心眼」持ちのエリセを、タマモはもちろん、アンリも気味悪がることはなかった。むしろ目を開いたエリセを見て、アンリは言ったのだ。
「すごくきれいな目です。エリセ様の目は青空みたいにとてもきれいです」
アンリは目を輝かせながら言った。その言葉を聞いて、エリセは驚き、そして涙を流した。エリセの目を見て、きれいだと言ってくれたのだ。エリセの力を聞いてもなお、アンリはきれいだと言ってくれた。そしてその心もまた同じ事を思っていたのだ。羨ましいくらいにきれいな目だとそう思ってくれていたのだ。
その言葉に、その思いにエリセは子供の頃以来の、どうしようもない現実に屈してしまう前の、頑張ればいつかみんなが認めてくれると思い込んでいた頃以来の涙を流したのだ。
そんなエリセをタマモはその小さな体で抱きしめてくれた。端から見れば、娘が母親に抱きついているようにしか見えない光景だったけれど、それでもタマモなりに抱きしめてくれたのだ。
あれからだ。エリセにとってタマモとアンリは絶対に守らなければならない存在にとなった。
タマモは戦う力を多少持っているけれど、それでもエリセには遠く及ばない。アンリに至っては、戦う力は皆無と言ってもいい。
そんなふたりを守る。そうエリセは決めていた。
だからこそ、急がなければならなかった。
だが、まぶたを閉じたまま走ることはさすがのエリセもできない。
わずかにでも、まぶたを開いて周囲の確認をしないとさすがに走ることはできなかった。だからまぶたを開いた。そして見えてしまったのだ。
見覚えのない銀髪の女性が、怪しい笑みを浮かべて、農業ギルドへと向かう姿を、だ。
それはいつもの「心眼」では見られないものだ。
だが、そのとき、はっきりとエリセには見えたのだ。その怪しい女性の姿を。そしてその女性がなにかを為すために農業ギルドへと向かおうとしているのをだ。
その光景を見た瞬間、エリセは駆け出したのだ。
普段見開くことない目を、見開きながらエリセは駆けていく。
その胸に込み上がるのは不安と焦燥感、そしてありえない希望だけ。
そのありえない希望を抱きながら、エリセは駆け出していく。
無事にいることなんてありえない。
それでも無事にいてほしい。
そんな相反する感情に突き動かされるまま、エリセは必死に駆けていく。
駆けながら、徐々に違和感をおぼえた。
農業ギルドに近付くにつれて、人の波ができていたのだ。
普段はできることのない人の波。それはまるで葬列のように、まっすぐと農業ギルドへと向かっているのだ。
嫌な予感がよぎる。あってほしくない未来が確定されそうな、そんな予感が脳裏をよぎっていく。
それでも足を進めていたエリセだったが、ほどなくしてギルドの敷地内にたどり着いたことでその予感が真実だったことを痛感させられた。
敷地に着くと、号泣が聞こえてきたのだ。
その号泣は敷地内を流れる小川から聞こえてくる。
エリセは頭の中が真っ白になるのを感じながら、ゆっくりと小川へと向かっていく。
弾んでいた呼吸は、それまで以上に荒いものへと変わっていく。
それでもなお、エリセは足を止めることなく進んでいった。
そしてその光景を見た。
「……嘘」
エリセはその場で膝を突いた。
エリセが見たのは、多くのファーマーたちとその先の小川の向こうで、星の光のような髪になったタマモとその腕の中で喉元を紅く染めたアンリがいたのだ。
「……嘘、やろう」
タマモの腕の中にいるアンリは、血の気を失っていた。喉元の傷を見れば、彼女がどうなったのかなんて考えるまでもなかった。
「アンリちゃん、なんで」
よろりと体をよろめかせながら、エリセはタマモの元へと向かう。すると、タマモの目がエリセを捉えた。
「……エリセ」
「旦那様、アンリちゃんは」
「……もう、いない。アンリは、もういないんだ」
タマモはそう言って涙を流した。光を失った瞳で、タマモは泣いている。その姿にファーマーたちもより深く涙を流していた。そんな光景を前に、エリセはいても立ってもいられなくなった。よろめきながらも小川を渡り、タマモの元へと向かい、声もなく泣きじゃくるその体をそっと抱きしめた。
タマモの目はゆっくりとエリセを捉えた。するとそれまで無表情で泣いていたタマモの顔がゆっくりと崩れていき、その顔はくしゃくしゃになってしまった。
「エリセ、ボクは、ボク、は」
「ええんどす。わかってます。そやさかい無理はしいひんで」
エリセはタマモを抱きしめながら言う。タマモは言葉にならない声を上げながら泣き弱鳴っていく。その背中を優しく叩きながら、エリセはタマモを抱きしめていった。抱きしめることしかできない。そんな自分を情けなく思いながらも、エリセはタマモを抱きしめた。
すぐそばには血の気を失ったアンリが見える。その姿を歪みきった視界で眺めながらも。エリセはタマモをただ抱きしめ続けた。




