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Ex-29 勝利への布石

今回から特別編となります。

 体中に痛みが走っていた。


 呼吸を整えることさえ、嫌になるくらいの痛みだった。このゲームを通して、ほとんど初めてと言っていいほどの痛み。その痛みにアオイは玉座に深々と腰掛けながら喘いでいた。


 謁見の間には誰もいない。いるのはアオイひとりだけ。普段詰めているはずのPKたちも、護衛役の兵士代わりのPKもいない。広い謁見の間にアオイだけがいる。その空虚な光景は現実の私室を思わせてくれる。


「……よもや、ここまで再現するのかの」


 再現しているというわけではないだろうが、いまの光景を見ているとそうとしか思えなくなってしまう。謁見の間に誰もいないのは、単純にアオイがあらかじめ退かせていただけだ。大事な用があるので、その間誰かがいると集中が途切れてしまうとか言った記憶がある。


 PKたちはこぞって渋ってはいたが、厳命をすると渋々とだが退いてくれた。退かせようとした理由は特にない。ただ単に思い出し笑いをしてしまうだろうから。その思い出し笑いをしているときは、至福の時間ゆえ誰にも邪魔をされたくない。その程度の理由だった。


 だが、いまはその判断は正しかったなとアオイは思う。


 特殊なアイテムを使って、タマモの元から本拠地に帰還したいま、アオイはおよそ人前には出られない姿になってしまっていた。


 身に付けていた装備は、ほとんどが修復不可能と言っていいほどのダメージを負ってしまっているうえ、その下のインナーはところどころが破れて、穴が空いてアオイの素肌が完全に見えてしまっている。


 素肌は見えているが、隠すべき所はちゃんと隠せているが、それでもこの状態で人前に立つ勇気はさすがのアオイにもない。ダメージファッションという言葉はあれど、ここまで来ると、もはやファッションではなく、ただの痴女でしかない。


 そのうえ見えている素肌はすり切れて血がにじんでいたり、青黒く腫れた打撲痕があったりと非常に痛々しい。おまけに自慢の銀髪がいまや泥と額を切ったことで流れ出た血によって汚らしくなってしまっている。


 もしこの状態で帰還していたら、少々面倒なことになっていたかもしれない。そう思うと、事前にPKたちを退去させておいたのは正解だったなとアオイは思う。


(まぁ、ここまでの痛手を負うとは、思っておらなんだが)


 PKたちを退かせたのは個人的なオタノシミを邪魔されたくなかったからだったが、そのオタノシミの結果がまさか惨敗したとしか言いようがない状況に追いやられるとは、さしものアオイも考えてはいなかった。


 もし、これが決闘であったら、結果は誰がどう見てもアオイの負けである。相手には一太刀さえも浴びせられず、逆に一方的に嬲られたのだ。アオイの予定とは真逆の展開だった。


(ふふふ、タマモはやはりいいのぅ。まさに我が喰らうに相応しい獲物よな。もう少し信頼を勝ち取っておきたかったが、今回ばかりは致し方がないかの。思ったよりもタマモが戻ってくるのが早すぎた)


 これが凡百の相手に負わされたものであったら、怒り心頭となっていただろうが、愛しの獲物であるタマモからの傷とあれば話は変わる。もっとも戦闘中はアドレナリンのおかげで、少々憤慨しすぎてしまっていたので、せっかくのタマモとのランデブーが台無しになってしまったのは痛いが。


(あぁ、タマモが刻んでくれたと思うと、この傷一つ一つが愛おしい)


 ふと視界に入った左手の甲に刻まれた擦り傷。アオイはその傷をじっと見つめた後、なんのためらいもなく口づけると、みずから舌を這わせてにじみ出た血を舐め取っていく。


 舌を這わせるたびに、傷口から鈍い痛みが走るが、その痛みさえもどこか愛おしい。アオイは自身が完全に陶酔していることに気付きながらも、その陶酔に浸りながら延々と傷口に舌を這わせ、なめ回していく。


 誰もいない謁見の間の中で、ぴちゃぴちゃという小さな水音がしばらくの間響いた。反響するその音さえも、アオイにとってはより自身を陶酔させるスパイスでしかなかった。


「……あぁ、喰らいたい。タマモを喰らいたいのぅ」


 ひとしきり傷口に舌を這わせた後、アオイは物足りなさを感じていた。タマモが刻みつけてくれた愛おしい傷口。いわば、タマモからの愛の証。だが、その愛の証にいくら口づけたところで、返ってくるのは自身の荒い呼吸だけなのだ。


 傷口と舌の間に架かる橋は、所詮自分だけのもの。タマモとの間に架かっているわけではない。それがアオイにはもどかしいのだ。


 なによりもタマモからの反応がない。それではアオイの飢えを満たすことはできない。よりもどかしさを増長させることでしかない


「……連れて帰ればよかったかの。無理矢理連れて帰り、そのまま」


 アオイの口元が怪しく歪んだ。タマモには散々してやられてしまったが、それでもその気になれば「チート」を使えば、タマモを連れ去ることはできたはずだった。だが、そうすることはできなかった。時間切れになったからだ。


 時間切れにならなければ、タマモを連れ去ることはできた。すべては時間切れになってしまったせいである。


「……まぁ、よかろう。今回だけではないのだからな」


 アオイは喉の奥を鳴らして笑う。その笑い声が人気のない謁見の間で反響していく。反響する笑い声と誰もいないだだっ広いだけの部屋を眺めていると、ふと現実の私室を思い出してしまった。


 広いだけの空っぽな部屋。アオイの現実の部屋は、そんな部屋だった。広くはある。おそらく他人が聞けば、羨ましがるくらいには広いだろう。天蓋付きのベッドを置いても部屋のスペースの半分さえも、いや、十分の一をようやく占めることができるくらいには広い。


 だが、アオイにとってはそれだけだ。広いだけでなにもない。その中でアオイはいつもひとりっきりだ。


 お付きのメイドはいる。だが、大して話したこともないから、名前も知らない。いや、それどころか、家の使用人は誰も名前を知らない。家の中にいる者の中で名前を知っているのは父親だけだ。


 母親の顔をアオイは知らない。顔と名前くらいは知っているが、それだけだった。幼い頃に亡くなった母。その声さえもアオイにはわからない。優しい人だったという印象はあるのだけど、具体的な思い出はなにひとつ思い浮かばなかった。


 記憶にあるのは厳格な父親だけだ。父親はいつも言う。「強くあれ」と。「強くあらなければ、勝者でなければならないのだ」と。そう口癖のように父親は言う。親子としての愛情をそこに感じることはできなかった。


 それでもなに不自由なく育てて貰っている恩義はある。恩義はあるが、父親への愛情を抱いたことはない。父親がそれを向けてくれていると感じたことがないのだから、こちらから愛情を向けたところで、ただ空しいだけだ。


 その代わり、その恩義に報いるために父親の言葉を守り続けている。「強くあれ」、「勝者であれ」という言葉を守り、アオイはいままでどんなときでも、どんなところでも強くあり、勝者でい続けた。幼い頃からずっと、ずっとそうし続けてきた。


 思えば、その言葉を守ることだけが父親との繋がりを示す唯一のものだった。だからこそ、言葉を守り続ければ、いつかは父親が愛情を向けてくれると思っていた。……残念ながらどれだけ守り続けても父親が愛情を向けてくれることはなかったわけだが。


(父様が、私を愛してくれることはない。わかっていても、繋がりを守ることに執着してしまう。私の欠点のひとつ、だな)


 ゲーム内ではなく、現実の一人称になってしまっていることを自覚しながらも、アオイはひとりため息を吐いた。その際、どんな表情を浮かべているのかをアオイは気付くことはなかった。


 それは今回だけではなく、いつものこと。いつも父親のことを考えているとき、アオイは自分がどんな顔をしているのかを自覚していなかった。


 タマモと出会うまでは、アオイにとって執着するべきことは父親との繋がりだけだった。父親がことある毎に口にしていた言葉を守ることだけが、アオイの人生のすべてだった。その言葉を守らなければ、アオイは世界中で一人っきりになってしまう。


 だからこそ、なにがなんでも守らなければならなかった。なにがなんでも勝ち続けなければならなかった。


 その観点から言えば、今回のタマモとの一戦は、覆しようもない惨敗は本来であれば、決して肯んずることができないもののはずだった。


 しかしいまのアオイにとってみれば、今回の惨敗はさして気にすることでもない。


 いや、端から見れば惨敗であったとしても、アオイにしてみれば今回は痛み分けである。アオイは完全に目的を果たすことは叶わなかったが、タマモも目的を果たすことは叶わなかった。


 その際に負ったダメージはたしかにアオイの方が大きいだろう。だが、それはあくまでも肉体的なダメージ。精神的にはなんらダメージを負っていない。


 対してタマモは肉体的なダメージは皆無だが、精神的なダメージで言えば、アオイが負ったダメージと同等であろう。


 一見すれば、たしかにアオイの惨敗だ。しかし総合的に見れば、今回は痛み分けというところ。負けたわけではないのだ。勝てなかったことはたしかであるが、負けたわけではない。であれば、次は勝てばいい。


 今回はいわば初戦。その初戦から勝てるのであれば、それが望ましい。


 だが、今回タマモはアオイさえも圧倒する強者になった。そんな強者相手に最初から勝とうとするのは、さすがに望みすぎだ。その意味であれば、今回の痛み分けは手痛いものではない。むしろ、これ以上となく最上の結果と言える。


「勝利とは、最初から望むものではない。最終的に勝ち取るもの。道中いかなる失態を演じようとも、最後に勝てばそれでいい」


 アオイは諳んじながらその言葉を口にした。それもまた父親が幼い頃のアオイに向けて告げた一言である。


 最後の最後に勝てばいい。それはつまり、決戦までは情報収集に徹するということである。そして決戦の際に集めきった情報を武器に相手を圧倒すればいい。それがアオイのあり方であり、いまのいままでそれから逸れたことはない。


「さて、そうと決まれば、まずは整理から始めようかの」


 今回の一戦で得た情報。その情報の整理からまずは始めよう。そう決めたアオイは、今回のタマモとの戦いを一から振り返っていく。


 手痛い反撃を受けはしたが、負けたわけではない。今回は最終的な勝利のための布石である。そう思考しながらアオイは埋没していく。



「おめでとうございます。特殊称号「不撓不屈を知りし者」を獲得いたしました。この効果によりクラスチェンジが可能となりました」



 いずれ勝ち取る勝利を夢想していたアオイは、そのアナウンスを聞き逃していた。それほどにアオイは集中していた。いつか得る勝利。その勝利を得るための作業に集中していたのだ。その口元に浮かぶ笑みを深めながら、アオイはひとり今回の一戦の情報を整理していくのだった。

不撓不屈を知りし者……どのような困難があろうとも、屈することなき者に与えられし特別な称号。そのありようこそが誉れである。効果、取得方法ともに不明。



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