77話 赤別の時
不意に脳裏に響いた声。
それはアンリの声だった。
けれど、アンリの口から言葉は出ない。出るのは紅い血だけ。鮮やかな紅い血を時折吐き出すだけだった。
脳裏に響いたアンリの声。その場にいる全員が聞いていなかったら、幻聴と思ったことだろうが、全員が同時に幻聴を聞くことなどありえない。ゆえにそれは幻聴ではない。アンリが用いた念話によるものだということだった。
「これは、念話? でもアンリには」
アンリの姉貴分であったリィンは、突如として聞こえてきたアンリの声の正体に気付くも、アンリが念話を使うことができないことを知っているため、その表情には純粋な驚きの色が見て取れた。
『……おそらくですけど、クー様が力を貸してくださっているのです。アンリは一番長くクー様とご一緒でしたから』
アンリはそう言って笑っていた。ログイン制限があることを踏まえると、タマモよりもアンリの方が長くクーと一緒にいた。出会ったのはタマモが先ではあっても、タマモではログイン制限という壁があるため、出会いが先であっても、一緒にいる時間の長さはどうしてもアンリよりも短くなってしまう。
『……クー様は、アンリと出会ったときに正体を明かしてくださいましたから。だから、アンリはクー様がどういう方なのかを知っていました。旦那様がご存知でないことを知っていることは、クー様の秘密を知っているのは少しだけ心苦しくはありましたけど』
アンリの眉尻が少しだけ下がる。その表情は申し訳なさそうに、どこか悲しそうに歪んでいた。タマモは「そんなことないよ」とアンリの手を改めて握った。
「クーにはクーの考えがあった。だから、ボクがクーのことを知らなかったとしても、君が気にすることじゃないんだ」
タマモはそう言ってできる限り笑顔になるように口角を上げた。口角を上げていりるが、涙でくしゃくしゃになったいまのタマモを見て、笑っているという風に捉えることはできない。それでも必死になって笑おうとしているタマモに、そのことを指摘できる者はいなかった。アンリを除いては。
『……なんですか、それ? 旦那様、いまひどい顔をされておいでですよ? 無理して笑っているみたいで、どこかおかしいです』
アンリの表情がころりと変わった。悲しそうに歪められていた顔が、いまは破顔している。ただ、その目には光はもう宿っていない。それどころか、徐々にまぶたが閉ざされようとしている。
「ひどい顔って、それこそひどいよ、アンリ。ボクはただ、君を。きみ、を」
タマモは涙を溢れ続けさせながら笑っていた。笑いながらもその言葉は最後まで続かなかった。途中で言葉を発することができなくなっていた。最後まで続けるということは、決定的なことを言わなければならない。もうどうすることもできない現実を受け止めなければならない。それがタマモにはできなかった。
『……いいんです、旦那様。もうアンリ自身わかっていますから。アンリはもう助かりません。アンリは間もなく死んでしまうのですから』
「そんなことっ!」
『……ありますよ。自分の体のことです。だから誰よりもわかっています。アンリはもう旦那様とご一緒はできないのです』
「違う、そんなこと、そんなことは」
そんなことはない、と言い切りたいタマモだったが、現状を顧みて、言い切ることはできなかった。ただ口を噤み、涙をこぼすことしかできなかった。
『……ごめんなさい、旦那様。旦那様がせっかく「幸せになってもいい」と仰ってくださったのに。中途半端なところでいなくなってしまうアンリをお許しください』
アンリは申し訳なさそうだった。アンリが気にすることなんてないのに。それどころか、アンリこそが責めるべきであって、謝ることはなにもない。実にアンリらしい言葉。その言葉にタマモは泣きながら笑った。無理して笑っているのではなく、いつものように、普段通りに笑えていた。笑える心境ではないはずなのに、不思議と笑っていられていた。
『……よかった。旦那様が笑ってくださいました。もう思い残すことはありません』
アンリの呼吸が不意に止まる。同時にそのまぶたが閉ざされた。タマモは目を見開きながら、「アンリ!」と叫ぶ。すると、わずかに閉ざされたまぶたが開いた。その目にはやはり光は宿らない。光を宿してくれなかった。
『……大丈夫です。まだアンリは死なないのです。ただ、少しだけ考え事をしていただけですから』
「考え事?」
『はい。最後にわがままを言ってもいいかどうかを考えておりました』
「わがまま?」
『この雑木林の中でというのも悪くないのです。ここはクー様と最初に出会った場所ですから。でも、どうせなら、アンリはここの外を見たいのです。旦那様とクー様、それにヒナギク様やレン様、エリセ様にリィン姉様たちと一緒に過ごしたあの場所を見たいのです』
雑木林の中でも悪くはないが、どうせなら外が見たいとアンリは言った。その言葉が意味することがなんであるのかは考えるまでもなかった。アンリを助けてあげられないタマモたちにできるのは、その願いを聞いてあげることだけだった。
「……わかった。行こう、林の外へ。少しだけ距離があるけれど、いいかな?」
『はい、もちろんです』
にこやかにアンリは笑う。その笑顔を眺めながら、タマモは「行こうか」とだけ呟き、アンリを抱えたまま、本拠地へと向かって歩き出す。その後をヒナギクたちも続いていく。誰も一言も発さないまま続くその姿は、葬列のようにひどく静かなものだった。
ただ、静かだったのは途中までであった。途中からはアンリが念話でそれぞれに向けて言葉を贈っていた。
『ヒナギク様にはいろいろとよくして貰いましたね』
「……そんなことないよ。私はなにも」
『いいえ。ヒナギク様にはいろいろとアドバイスをしていただけました。ヒナギク様はほんのちょっとだけおっかないところもありますけど、それ以上にとてもお優しい方です。アンリはヒナギク様が大好きです』
「……私だって大好きだよ、アンリちゃん。でも、おっかないは一言余計だよ」
『ふふふ、ごめんなさい、ヒナギク様』
ヒナギクにはいろいろとアドバイスをしてもらったということをアンリは語る。ヒナギクは目元を腫らしていたが、タマモの腕の中のアンリへと笑顔を向けつつ、「おっかない」という言葉の報復として、アンリの鼻先を指で軽く弾いていた。アンリは「あぅ」と痛そうな声上げつつも、いつものように笑顔をヒナギクに向けていた。
『レン様には逆にアンリは大変困らされてしまいました。アンリは旦那様がいるというのに、レン様はすぐに粉をかけるようなことばかりされて困っていたのです』
「いや、粉にかけた覚えはないんだけど」
『いいえ、あるのです。レン様は女性好きにもほどがあるのです。すぐセクハラされることに、アンリはいっつも困っていたのです。レン様にはちゃんとヒナギク様がいらっしゃるのですから、ヒナギク様をちゃんと大切になさってください。アンリはヒナギク様を大切になさらないレン様は嫌いなのです』
「……いろいろと語弊はあるけれど、アンリちゃんの言うことはわかったよ。なんかいろいろとごめんね。それとありがとう」
『ふふふ、気になさらないでください。アンリは言うべきことを言っただけなのですから』
「……そっか」
『はい、そうなのです』
ヒナギクと打って変わり、レンに対してアンリは苦情を言い募った。レンにしてみれば、完全に言いがかりではあるのだが、誰もレンを擁護することはしなかった。レンにしてみれば、「そんなバカな」と言いたくなるようなことではあったが、最後にアンリはヒナギクをもっと大切にしろというアドバイスをくれた。
レンにしてみれば、大切にしているつもりでも、まだ足りないというアンリは言っているのだ。そのアドバイスはきっちりとヒナギクにも伝わっているため、ヒナギクの顔は真っ赤に染まっているが、アンリはどこか満足そうに頷いていた。
『リィン姉様。小さい頃からいままでずっとお世話になりっぱなしだったのに、なにもお返しできなくて申し訳ないのです』
「……おバカ。そんなこと、気にすることでもないでしょう?」
『ごめんなさい。でも、アンリはどうしても気になってしまうのです。アンリはリィン姉様が大好きなのです。とっても、とっても大好きなのです』
「……私だってそうだよ。手の掛かる妹分であるあんたが大好きで仕方がないんだよ。これからもずっと大好きなんだからね」
『嬉しいのです。それとごめんなさい。姉様の幸せをアンリは奪ってしまったのです』
「……それはもういいよ。私はあんたが幸せなのを見ているだけで十分だったもの。だから気にしないでいいの』
『リィン姉様はやっぱりお優しいです。そんなリィン姉様をアンリはずっと、ずっと大好きなです』
「もう、何度も言わなくてもわかっているよ。本当に手の掛かる妹だよね、アンリはさ」
リィンに対してアンリは何度も「大好き」だと言い、リィンもそのたびに同じ言葉を返した。お互いに思うことはあれど、長年の付き合いだからこそ言うべきことが見つからなかったということもあった。
だが、言うべきことは見つからなくても、お互いに向ける気持ちはたしかに同じであった。だからこそふたりは同じ言葉を繰り返す形でやり取りをし、その途中でアンリは不意打ち気味に口にした謝罪に、リィンは一瞬言葉を失うも、すぐに笑顔を取り戻した。そんなふたりのやりとりは血の繋がりはないはずなのに、とても親密であり、そして強い絆を感じられるものだった。
「アンリ、そろそろ抜けるよ」
『はい。そうですね。あの小川の音がだいぶ近付いてきていますもの』
「そうだね。あのせせらぎの音がすぐそばまで聞こえてくる』
アンリを抱きかかえながらタマモは、何気ない言葉を投げかけていた。いつもとなにも変わらないように。普段通りに振る舞っていた。止めどなく涙を溢れさせながら、タマモはいつもと変わらないようにアンリを見つめていた。
『……旦那様。アンリはいままでずっと言わなかったのですけど』
「うん?」
『アンリは本当はクー様よりも早く、旦那様のおそばにいたのです』
「え?」
『まだ旦那様がこの林を切り開かれている頃に、アンリは旦那様を初めてお見かけしたのです』
「そう、だったの?」
『はい。まだヒナギク様もレン様もおられなかった頃、まだクー様と誼を通じられる前からです。最初は初めてお見かけした眷属様だったことで、興味を惹かれていただけでした。でも、すぐにアンリは旦那様ご自身に惹かれていきました』
「……どうして? そのときはまだボクは君と」
『……こういうと恥ずかしいのですけど、アンリはお兄様が大好きなのです』
「アントンさんが?」
『はい。幼いアンリをいままで育ててくれたお兄様が大好きでした。だから、もし結婚するのであれば、お兄様のような人がいいと思っていたのです。そんなときにアンリは旦那様に出会えたのです』
「……でも、ボクとアントンさんはぜんぜん違うよ?」
アンリの思わぬ告白にタマモは驚いたが、どうにもその言葉には頷けなかった。アンリの兄であるアントンと自身はまるで違っている。アンリは結婚するのであればアントンのような人がいいと言ったが、そのアントンとの共通点が自身にあるとはタマモには思えなかった。
アントンはとても実直な人だった。厳しいときとは厳しいものの、基本的にはアンリには甘い。アンリのためであれば、なんだってやろうとする。ド級のシスコンというのはアントンのような人のことを言うのだろうとさえ思う。
そんなアントンと自身が似ているとはとてもではないが、タマモには思えなかったが、ヒナギクたちにはなにかしらの心当たりはあるようで、「あー、なるほど」と頷いていた。ヒナギクたちの反応を見る限り、タマモとアントンは実に似ているようであるが、心当たりがないタマモにとってみれば、「どの辺が?」としか言いようがなく、首を捻ることしかできずにいた。その間も林の中を進むタマモ。小川の音がよりはっきりと聞こえてきていた。
『……アンリが似ていると思ったのは、背中なのです』
「背中?」
『はい。まっすぐに伸びた背中。堂々とした強い背中。大きさはまるで違うけれど、旦那様とお兄様の背中がアンリには重なって見えました。それからアンリは旦那様に夢中になりました。最初はお兄様と同じ背中をしていたからでしたけど、すぐにお兄様に重ねてではなく、旦那様を見つめていたのです』
アンリは語る。きっかけは兄に似た背中をしていたからだったが、すぐにタマモ自身に惹かれるようになったのだと。アントンがシスコンであるのなら、アンリはブラコンということになるが、その大好きな兄に似ているという評価は、当時のアンリにとっては最大級の賛辞であろう。「光栄なことだね」とタマモは笑いながら、小川の水に反射する夕日に、ほんのわずかに目を眩ませた。もう、目の前に本拠地のコテージとそのそばの開墾した畑が見えていた。
「着いたよ、アンリ」
『はい、わかります。……旦那様、あのできましたら、休憩場所に』
「ああ、そうだね。わかった」
休憩場所こと丸太のテーブルセットの元へとタマモは向かう。まだコテージができる前に、伐採した丸太を置く場所だったが、いまやそこは複数の丸太を使った休憩用のテーブルセットになっていた。そのひとつにアンリを抱きかかえたまま、タマモは腰掛けた。休憩居場所はちょうど畑もコテージも小川も、そしてその先に広がるファーマーたちの畑がよく見えた。
ちょうどログインするプレイヤーが多くなる時間だからだろうか、畑には多くのファーマーがいる。そのファーマーたちはいつもとは異なるタマモたちの姿に違和感を憶えているのか、誰もが自身の畑からタマモたちの元へと向かい、普段との差異に目を見開いた。
最初に目を引くのは普段と姿の異なるタマモの姿。その姿は先日までとはまるで違っており、クラスチェンジ相当のなにかがあったということを示唆していた。「さすがはタマモちゃんだなぁ」と驚きながらも誰もが笑っていた。
だが、次いでその腕の中にいるアンリの変わり果てた姿に、その笑顔は消える。特に痛ましい深い傷を負った喉元を見て、「どういうことだ」や「なにがあったんだ」という声が次々に沸き起こるも、ヒナギクとレンが「……すみません。いまだけは静かにしてください」と声を掛けることで、その声は鎮まった。ヒナギクやレンの表情、そして涙を流し続けるタマモの姿を見て誰もが理解した。アンリの死を誰もが理解してしまったのだ。
ほとんどのファーマーは言葉を失っていた。ただひとり、タマモはもちろん、アンリとも親交があったデントだけは「いったい、なにがあったんだ!?」とヒナギクとレンに詰め寄り、事情を聞こうとする。そんなデントにタマモは一言呟いた。
「……デントさん、いまだけはなにも聞かないでください。お願いします」
消え入るような小さな声なのに、不思議なことに誰の耳にも聞こえる声でタマモは言った。その言葉にデントは「……ごめんよ」と力なく項垂れた。その言葉が騒いでしまったことに対してか、それともアンリを助けることができないことに対してなのか。
しかしその言葉はその場にいるファーマーたちにとっては、総意となる言葉でもあった。痛ましい姿になったアンリ。だが、そのアンリをこの場にいる誰もが救うことはできない。誰もが自身の無力さに打ちひしがれていた。
『……旦那様、見てください、とてもきれいです。ゆうひも、おがわも、はたけとそのさくもつも、ぜんぶがぜんぶ、とてもきれいです』
「……そう、だね。とってもきれいだね」
アンリは笑っていた。もう体を動かす余力もないのか、視線だけを向けて笑っている。その視線を追えば、見えるのは大地を照らす夕暮れと、静かに流れる冷たい小川、そしてその水と光によって元気に生育する畑の作物。そのすべてはここで生活するアンリにとっては見慣れたものであろう。
しかし、その見慣れたものを見て、アンリはとてもきれいだと言った。その言葉にタマモは頷いた。見慣れた光景であることはたしかだ。だが、その見慣れたものこそが、当たり前にある光景こそが、とても美しいのだと。そう心の底からタマモは思い、頷いたのだ。その瞬間、アンリの口から夥しい血が吐き出された。
「アンリ!」
タマモはアンリを抱きしめながら声を掛ける。ヒナギクとレンはもちろん、デントを始めたとしてファーマーたちも動揺していた。だが、どんなに慌てふためいても現実は変わらない。アンリの口から吐き出される血が止まることはなかった。そのたびに、アンリの命が削れていくことをタマモははっきりと感じ取っていた。
だが、タマモにはなにもできなかった。なにもしてあげることができなかった。
やがて、アンリの吐血が止まった。アンリは荒い呼吸を繰り返しながらタマモを見やり、そして力を振り絞るようにして、タマモの背中に腕を回し、顔を近づけ、そしてとても小さく軽やかな音を立てて、タマモの唇に自身のそれを合わせたのだ。
それは触れ合っただけのもの。だが、たしかに交わされた口づけだった。
「……アンリ」
最後の力を振り絞ってアンリがしてくれたキス。それはタマモにしても初めてのもの。甘酸っぱさなどはなく、あるのは鉄錆に似た生臭い血の臭い。それでもたしかにアンリと交わしたファーストキス。
「……だんなさま、あいしています。これから、も、ずっと、ずっと、あんりは、だんなさまをおしたいして、おります」
アンリは唇を離して、アンリは言った。血を吐きながらもたしかに自身の想いを口にしていた。その言葉にタマモは頷き言った。
「ボクも、愛している」
涙を流しながらタマモは自身の想いを告げた。
その言葉にアンリは満足そうに頷きながら、そっとタマモの肩に頭を乗せると、「やっといってもらえたのです」とだけ言ってまぶたを閉じると、タマモの背に回されていた手がゆっくりと地に落ちた。その手にはもう力は込められていなかった。
「アンリ?」
タマモはアンリを呼ぶ。けれど、アンリの返答はなかった。ただ沈黙だけが返ってくる。
それでもタマモはアンリを呼ぶ。アンリの声は聞こえない。聞こえるのは誰のものかもわからない嗚咽の声だけ。その声がさながら合唱のように重なって聞こえていた。そんな中でタマモはアンリを強く抱きしめながら、空を見上げた。いつもとなんら変わらない夕暮れだった。
「……愛しているよ、いつまでもずっと、君をボクは愛し続ける」
タマモはアンリだったものを抱きしめながら呟く。その声に返事はない。それでもタマモは鼓動が止まった体を強く、強く抱きしめ続けた。溢れ続ける涙を拭うこともせず、ぬくもりをまだ失っていない体を、徐々に冷えていく愛する人の亡骸を強く抱きしめ続けた。
無数の嗚咽と氷結王の御山から流れる小川の音。そのふたつの音を聞きながら、タマモは変わることのない夕暮れを、歪む視界で見上げ続けた。
七章の本編はおしまいです。次回から特別編となります




