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73話 想定を超えて

 クーがいなくなった。


 クーを抱きしめていた感覚はまだ残っているのに、そのクーの姿はもうどこにもなかった。どこを探してもあの陽気で、優しくて、おかしなクロウラーはいない。


 そんな現実の前に、タマモは心が折れそうになっていた。


 隣ではアンリが静かに泣いている。ぽろぽろと涙をこぼしながら、両手で口元を押さえながら泣いていた。


 声を掛けてあげるべきなのだろうけれど、その声の掛け方がわからなかった。


 慰めてあげたいと思うのだけど、それはタマモも同じなのだ。タマモもまた大切な友人を目の前で失った。


 その悲しみが胸にこみ上げていく。


 こみ上げる悲しみを前に、タマモはなにもすることができなくなっていた。


 できたのは、クーを少し前まで抱きしめていた両腕を、見つめることだけだった。


 両腕は震えていた。


 いや、両腕じゃない。タマモの体自体が震えている。


 両腕を見つめていると、堪らない悲しみがこみ上げてくる。


 タマモは大きく息を吐きながら、木漏れ日の先の空を見上げた。


 真っ赤な夕焼け空が、木々の間から見えた。


 いつもと変わらない夕焼け空。


 アルトにいる限り、変わることのない空。永久の夕焼け。そんな空をぼんやりと眺めていた。そのときだった。


『だんな、さま』


 霞がかかったような光景を、血まみれになって息も絶え絶えになったアンリの姿を幻視した。


 とっさにアンリを見やるも、アンリは変わらない。悲しみに暮れたままだった。先ほどとなんら変わらない姿のアンリがいる。


(いまのは?)


 どくんどくんと早鐘のように打ち付ける鼓動を感じながら、タマモは思考を巡らしていると、また霞が掛かったような光景を幻視していた。


『地獄に落ちよ』


 悪鬼を思わせるような、ひどく歪んだ笑顔を浮かべたアオイが、両手を血まみれにしたアオイがアンリを見下ろしている光景が見えた。


 タマモは反射的に動いていた。


 アンリを抱きしめるように抱えてすぐに、その場から一足飛びに離れた。アンリはいきなりのことで目を白黒としていたが、その数瞬後に、アンリがいた地面が爆ぜ、土煙が舞う。


 アンリは「ぇ」と驚いた顔をしているが、その声に導かれるかのように、鋭い切っ先が土煙の向こうからまっすぐに伸びてくる。


 タマモはアンリを強く抱きしめながら、切っ先から逃れるように半身をずらしてから、大きく後ろと飛んで下がる。


 大きな軌跡を地面に描きながら着地する。同時に舞っていた土煙の先から人影がぼぅと現れた。人影の手には剣が握られており、その剣を地面に大きく擦らせながら、人影はゆっくりと近づいてくる。やがて土煙の先から人影は姿を露わにする。


「二度も避けられるとはな。我の剣を二度も避ける。やはり、そなたは極上の獲物じゃな」


 人影──アオイは大きく口元を歪ませながら笑っていた。その笑顔はさきほど幻視した悪鬼のような笑顔に重なっていた。


「……アンリを狙ったのか」


 奥歯を軋ませるように噛み締めながらタマモは、アオイを睨み付けた。その視線を浴びて、アオイは陶酔したような、なんとも言えない表情を浮かべて、赤い舌でみずからの唇を舐めた。


「あぁ。その目ぇ。その目じゃ。その目がよい。あぁ。よい。よいぞ。もっとじゃ。もっとその目で我を見よ、タマモ」


 ぶるりと体を震わせながらアオイは、頬を赤らめる。ひどく興奮している。それこそ、ようやく求めるものを得られたかのようだ。ひどく純粋で、だが、とことんまでねじ曲がった愛情がその姿からは感じられた。


「質問に答えろ。アンリを狙ったのはなぜだ?」


 タマモは怒りを燃やしながら、アオイを睨み付ける。


 しかし、当のアオイはどこ吹く風で、タマモの視線を浴びてもまるで意に介さなかった。いや、意に介さないというか、タマモを見ているようで彼女はタマモを見ていない。もっと言えば、彼女の中にはタマモとは違う別のタマモを見ているかのようだ。自身の理想のタマモを見つめているようだった。


(……狂っている)


 質問の答えは返ってきていないが、いまのアオイの姿を見て、タマモははっきりと狂っていると感じた。


 アオイの想いは狂いに狂っている。偏執狂という言葉さえも翳むほどにだ。いったいなにがアオイをそこまで駆り立てるのかが、タマモには理解することさえできなかった。


 ただひとつだけわかることもある。それはこのままでは、アンリの身が危ないということ。この女の思うがままにしていたら、アンリの身に危険が及ぶということである。


「……ボクが狙いであるのであれば、アンリは関係ないはずだ」


 アオイを睨み付けながら、タマモは少しずつ距離を取る。だが、アオイはその分だけ距離を詰めてくる。その目は逃がさないとはっきりとした意思を感じ取れる。


「アンリに手を出すのはやめてくれ。ボクが狙いであれば、いくらでも付き合ってやる。だから」


「だからこそ、その雌狐を狙うのじゃよ」


 にやりとアオイの口元が大きく弧を描きながら歪む。


 同時にアオイの持っていた剣がまっすぐに伸びてくる。その軌跡は明らかにアンリへと向けられていた。


 飛んで下がる。そう思ったが、それではより踏み込まれるだけだった。


 かといって、左右に体を捻ったところで、その方向に薙ぎ払われるだけ。


 となれば、手はひとつ。


「少し窮屈だけど、ごめんね」と腕の中のアンリに謝ってからタマモは、体を小さく屈めるとそのままアオイに向かって突っ込んだ。


 タマモの頭上すれすれをアオイの剣が通過する。いや、アオイの剣すれすれでタマモはその下を通過する。


 思っていなかったのだろうか。アオイの目が見開かれた。


 後ろへ下がるか、左右のどちらかに避けるのだろうと、アオイの反応からしてタマモは判断した。


 だからこそ、タマモはあえて前に突っ込んでいた。


 普通に考えれば、後ろへ下がって距離を取るか、左右に避けるだろう。


 だが、それでは最終的にじり貧になるだけ。


 もっと言えば、延々と攻め込まれるだけである。


 だからこそ、前に出て距離を詰めたのだ。


 距離を詰めるというのは、一見悪手だ。


 みずから相手に近づくなど、普通はやらない。


 そう、普通はやらない。いや、やれないからこそ、それは相手にとって思慮の外にある行為となり、隙を生じさせる。


 前に出て距離を詰める。それは一見みずから死地に赴くようなものであるが、場合によっては活路になる。そして今回は活路となった。


 アオイはタマモの行動に、戸惑っていた。

 

 それはタマモの行動が、アオイの想定を超えたということである。


 むしろ、アオイにとっては理解不能な行動だったのだろう。


 普通は後ろへ下がるか、左右へ避ける。中にはその場で踏みとどまって防御を固めるという者もいるだろうが、たいていは回避に移るはずだった。


 防御にしろ、回避にしろ、アオイにとってはその次、いや、その次の次まで読み取ることはできた。なにせどういう行動を起こしたところで、アオイがすることは変わらない。相手が倒れるまで攻め続ければいいだけなのだ。ゆえに、相手がどう行動したところでアオイがするべきことは変わらなかった。


 だが、タマモはその想定を超えてきた。


 前に出て距離を詰める。


 それはアオイとてありえるとは思っていたが、すぐさまに可能性から除外したことである。その除外したことをタマモは行い、アオイの思考は停止していた。


 それはほんのわずかなこと。わずかな隙だった。時間にしても一秒にも満たないもの。日常生活ならば、なんら問題もないことだった。


 しかし、こと戦闘時において、そのわずかな隙は大きなアドバンテージをタマモに与えさせることになる。


 加えて、タマモの行動は防御ではなかった。回避と防御は違うようで、大きな目で見れば同じである。回避と防御は言うなれば、ダメージを負わないためのもの、負けないための行動であるのだ。


 ダメージを負えば、その分だけ不利になり、負けに近づいていく。


 だが、ダメージを負わなければ不利にはならず、負けることは理論上なくなる。


 つまり徹底的にダメージを負わないように立ち回れば、攻撃をほぼ行わずに防御一辺倒にすれば負けないということだ。


 もっとも制限時間が決まっている格闘技の試合であれば、ダメージを負わなかったからといって負けないというわけではない。最終的には判定で負けるに繋がる。


 しかしこれは格闘技の試合ではないのだ。判定なんてものはない。ゆえにどれだけ時間を掛けたところで防御一辺倒にし、隙を見出してカウンターを放つという戦法で立ち回れば、事実上負けはない。


 その戦法はプレイヤー間の中では当たり前に行われていることだった。特に格上相手には必須の立ち回りである。


 アオイはその戦法を取られることに慣れていた。だからこそ、どう行動されようとも最終的に勝ちきることはできた。


 しかし、いまタマモの行動は、アオイにとって初めての行動であった。


 経験したことのない行為。その行為にアオイの対処は遅れた。ゆえにそれは必然であった。

「尻尾五段突き!」


 タマモはアオイの懐に飛び込むやいなや、全力での攻撃を放った。その攻撃をアオイはすべて被弾した。防御も回避もできずに、獰猛な五本の尻尾の餌食になったのだった。


 アオイの体は大きく後ろと飛んでいく。


 その様を見つめながら、タマモは隙なくアオイを見つめていた。


 その腕の中にいるアンリを傷つけまいという絶対の意思を秘めた瞳で、倒れ伏すアオイを見下ろすようにして見つめていた。

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