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71話 懺悔と怒り

 アオイがゆっくりと仰向けに倒れていく。


 その様をタマモは見つめながら、なんとも言えない想いに駆られていた。晴れやかであるのに、胸がとても苦しいのだ。


(……なんでしょうね、これは。言葉にしづらいのですよ)


 この感情に相応しい言葉が、見つからなかった。


 嬉しいと思うのに、悲しい。


 対極な感情に彩られた内面に対して、タマモはどう扱えばいいのかわからなかった。


(……こんな感情もあるんですね)


 20年近く生きてきて、初めての経験だった。


 産まれて初めて、こんななんとも言えない気分に駆られてしまった。


 これはいったいどういう感情なのだろうか。


 そしてこの感情をどう扱えばいいのだろうか。


 わからない。わからないけれど、いまはもっと大事なことがある。


 そう自身に言い聞かせながら、タマモは視線をアオイから背後のアンリとクーへと向けた。

「ふたりとも大丈夫?」


 そう、振り返りながら尋ねると、アンリもクーも驚いた顔をしていた。驚いているが、それぞれの反応は若干異なる。同じ驚くというものだが、そのベクトルが大きく異なっている。

 クーは純粋に驚いていた。それもすごい顔で驚いていた。信じられないものを見るというか、目の前にいるのはなんなのかと言うかのような、それこそ初めて遭遇したナニカを見つめているような、なんとも不躾な視線を向けてくれていた。


 対してアンリは、やはり驚いているのだが、その目には少し前まであった悲壮感はない。その目に宿るのは純粋な好意の色。それこそいまにも「惚れ直しました」と囁かれてしまいそうなほどの、アンリらしい視線を向けてくれている。


 そんな同じ驚くでも、まるで別種の視線を投げかけてくれているふたりに対して、タマモは苦笑いしていた。苦笑いしながら、もう一度「大丈夫?」と尋ねた。すると、ふたりはようやく反応を返してくれた。


 クーは「きゅ」と小さく鳴きながら頷いた。が、すぐに痛そうに顔を歪めてしまう。全身を切り刻まれた、痛ましい痕を見れば顔を歪めるのも無理からぬ話である。そんなクーを見て、アンリが「クー様、大丈夫ですか」といまにも泣きそうな声で言う。


 クーはアンリの言葉に「……きゅ」と静かに頷く。体を動かすのも辛いだろうに、それでもクーはアンリを心配させまいと頷いていた。が、かえってその気遣いがアンリを心配させてしまう。そのことをクー自身も理解しているようだが、それでもクーは頷くしかないようだった。


「クー、どうしてこんなことに」


 あまりにも痛ましい、いや、惨たらしい姿になったクーを見て、タマモは眉尻を下げた。クーは全身の切創から夥しいほどの血を流していた。本来の昆虫であれば、無色か黄緑色の体液であるのだが、クーの傷から流れる血は赤く、その血によって緑色の体が真っ赤に染まっていた。


 しかも切創の中には、抉られたようなものもある。もしかしたら、突き刺されたうえに抉られたのかもしれない。そんな傷がいくつか見受けられる。なにせそこだけほかよりも血の量が多かった。


 そんな無数の切創は当然、クーの顔にも及んでいる。クーの大きな目は片方が潰され、頭のてっぺんにあった、いつもぴこぴこと動いていたふたつの触覚は片方は根元から、もう片方は半分からなくなっている。


 あまりにも惨い。


 クーの姿を見て、タマモは込み上がってくる涙を抑えることができなかった。


「クー。どうしてこんなことに」


 タマモは涙を目尻に溜めながら、クーを見つめる。傷だらけのその体を、見るに堪えない姿になったクーを見て、胸をひどく痛ませていた。


『……泣かないでくれ、友よ。こうなったのは、私が弱かったがゆえだ。弱いからこそ、こうなった。ただそれだけのこと。だから泣くな、我が友』


 不意に聞き覚えのない声が、頭の中で響いた。誰の声と思ったが、「友」というワードにその答えは簡単に導き出された。


「いまのは、クー。君の声なの?」


 恐る恐ると尋ねるタマモに、クーは「……きゅ」と鳴きながら頷いた。次いでまた頭の中に声が聞こえてきた。


『……すまなかった。いままでずっと君を、君たちを騙していた。本当ならもっと早く正体を明かしたかった。いや、明かすべきだったのだろう。だが、怖かったんだ』


 怖かった、とクーは言う。


 その言葉の意味をタマモは理解できなかった。なにを怖がる必要があるのかと。そう思ったが、クーは悲しげに隻眼を歪めた。


『……私はただのクロウラーではない。最上位種であるエンシェントクロウラーと呼ばれる種族だ。千年を掛けて成体であるエンシェントバタフライへとなる。そんな種族だよ』


「千年」


『あぁ、千年も生きる、化け物芋虫だよ』


 苦笑いするクー。苦笑いしながら「化け物」と自身を卑下していた。なぜそんなことを言うのかが、タマモには理解できなかった。


「なんで、そんなことを言うの? クーは化け物なんかじゃないよ」


 タマモは痛ましい姿になったクーを気遣いながら笑った。だが、あまりにも惨たらしい姿になったクーを見て、まともに笑いかけることはできなかった。その姿を見て悲しみが延々と押し寄せてくるが、それをできる限り抑え込んで、タマモは必死に笑顔を作る。


 だが、その笑顔を見てクーは悲しそうに顔を歪ませた。どうしたんだろうと思っていると、クーは言う。


『……無理をしなくていい、我が友。いまの私は気持ち悪いだろう? だから無理に笑うな』


「……え?」


 言われた意味がまるでわからない。


 クーの言葉の意味を理解することができなかった。


『……いや、気持ち悪いのはいつものことか。私はひどく醜いものな。産まれたときは、よく小石をぶつけられたものだよ。気持ち悪いや、クソムシだのなんのだと蔑まれたものだ。だから本当は、いつも君たちに抱きかかえてもらって、申し訳なく思っていた。こんなにも気持ち悪いものを膝の上で寝かせるのだ。吐き気を催させても無理もないな、とね』


 クーはまるで懺悔をするように言う。


 耳に入ってくる言葉の意味。そのひとつひとつを理解するたびに、胸がざわめく。激しい感情が波になって押し寄せてくるも、どうにかタマモは飲み込んでいた。まだクーの話は終わっていないだろう、と。そう自分に必死に言い聞かせてクーの話を聞いていく。


『だから怖かったんだ。ただでさえ気持ち悪い私が、化け物だと知られたらどうなるだろうかと。せっかく表面上は仲良くしてくれているのさえも失ってしまったら。そう思ったら怖くて仕方がなかった。産まれた頃には感じていたぬくもりを、また失ったらと思うと怖くて本当のことを伝えることができなかったんだ』


 クーは涙を流していた。


 泣きながら懺悔していた。


 その言葉にタマモは堪えることができなくなってしまった。


「ふざ、けるなよ」


『……君にそう言われるのも無理もないな。なにせ私は』


「違う!」


「旦那様、クー様は痛みで」


「わかっている。それでも言わなきゃいけない」


 アンリがタマモを抑えようとする。だが、タマモはもう自分を抑えることができなかった。アンリの言いたいことはわかる。痛みによって自身でなにを言っているのかわかっていないのだと。前後不覚になっているのだから仕方がないと言っているのだと。


 そんなことは言われずともわかっている。クーが負わされた傷はそれだけ深いのだ。意識が朦朧としてしまうのも無理がなかった。


 それでも言わなければならないことがあった。


「クー。ボクを、いや、ボクたちを嘗めるなよ」


『……嘗めた覚えはないが?』


「いいや、おまえはボクたちを嘗めている。千年を生きた? それがどうしたんだよ。たったそれだけのことで、ボクたちがおまえを化け物扱いするわけがないだろう!? 大切な友達をそれだけのことで悪く言うわけがないだろう!?」


 クーが息を呑んだ。信じられないとその目は物語るように、大きく見開かれていた。クーの隻眼をタマモはじっと見つめた。いや、睨み付けるように鋭く見つめていく。


『友、と。私にと言ってくれるのか? こんな化け物の私を』


「何度も言わせるな。ボクたちはおまえを化け物と見ていない。おまえは、クーはボクの、ボクたちの大切な友達なんだ!」


『……あぁ。そうか。そうだな。君は、いや、君たちはそういう人たちだったな。であれば、なるほど、たしかに嘗めていたのかもしれない。君たちのことを理解しているはずだったのに、怖がっていたとなれば、信じていないと言っているようなものだったな』


 怒るのも当然か、と自嘲するようにクーは言う。その言葉にタマモは頷いた。頷きながら涙を流す。そんなタマモを見つめながら、クーはすっかりと短くなってしまった触覚を伸ばすも、タマモの顔にまで届くことはなかった。


『……ダメか。いつもなら拭うこともできたのだが、これではな。すまない、友よ』


「気にしなくていいよ。こんなに傷だらけなんだ。無理しなくていいんだ」


『……いや、これしきの傷で音をあげるなど』


 クーはアンリの腕の中で体を起こそうとする。が、すぐに咳き込み始める。アンリが「クー様!」と慌てる。タマモもまた「無理しないで」とその身に触れた。


「……ぇ」


 タマモは愕然とした。クーの体が少し冷たくなっていたのだ。よく見ると血の量が少なくなっていた。傷が塞がったわけでも、血が固まったわけでもない。血は固まることなく流れていた。ただ、その量が減り続けていく。まるでいまにも血の流れが止まってしまいそうなほどに。


 恐る恐るとタマモはクーの胸に触れた。クロウラーの心臓が人間の心臓と同じ位置にあるのかはわからないが、それでも触れていた。胸の鼓動は聞こえる。だが、その鼓動はひどく弱々しかった。


「……クー、嘘、だよね?」


『……いや、嘘ではないよ。我が友。私はもう直息絶える』


 クーは何事もなかったように、はっきりとそう告げた。その一言にタマモは言葉を失った。

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