59話 心地いい時間を
まぶたを開くと、すぐ目の前にアンリの寝顔があった。
アンリと寝食をともにするようになってからも、あまり見ることがなかったものが目の前にあって、タマモはつい目を奪われていた。
アンリは健やかな寝息を立てて眠っている。
タマモがログインするときには、いつもすでに起きて畑仕事をしてくれている。
でも、今回は違っている。どうやら寝過ごしてしまっているようである。
「……まぁ、いつもお世話になっていますもんね」
そっとアンリの頬を撫でてから、タマモはアンリを起こさないように注意して、ベッドから抜け出す。
アンリはまだ眠っている。ただ、手が所在なさげに、なにかを探すようにしてあちらこちらへと向かっている。
タマモを探しているということが、はっきりとわかる。
後ろ髪を引かれてしまう光景ではあるものの、タマモは「ごめんね」と呟きながら、部屋の隅に置かれていたぬいぐるみを、アンリが暴走する原因となった金色の毛並みの狐のぬいぐるみをそっとアンリのそばにおいた。アンリの手がぬいぐるみに触れると、アンリはそのまま腕の中に閉じ込めてしまう。
その途端、アンリは心地よさそうに表情を緩ませた。なんだかんだでタマモの部屋に置かれているぬいぐるみには、部屋の主であるタマモの匂いがうつっているのだろう。その匂いを感じられたことで、アンリの表情は緩んだようだ。表情を緩ませながら、アンリは「だんなさま」と呟いた。その呟きにこめられた想いに、タマモはなんとも言えない衝動に駆られるも、断腸の思いでその衝動に耐えた。
「……少し出てくるね、アンリ」
部屋のドアを開きながら、振り返り、アンリに声を掛ける。アンリからの返事はない。でもそれでいい。あんなにも幸せそうに眠っているというのに、起こすのは忍びなさすぎる。だが、アンリと少しでも話をしたくはある。しかし、自分の欲望を優先することはタマモにはできなかった。
「またね、アンリ」
それだけ言って、タマモは部屋を出て、できるだけ静かに部屋の扉を閉めた。話なら返ってきた後で、いくらでもできる。そう思いながら部屋を出て、短い廊下を進み、リビングに繋がる扉を開く。
「ららら~」
リビングに出ると、軽快な音を立てて、包丁を振るうエリセがいた。
思ってもいなかった光景に、唖然とするタマモ。
なんでという言葉を飲み込みながら、タマモは鼻歌混じりに調理をするその姿を見つめた。エリセはタマモに気づいていないのか、頭を左右にリズムよく振りながら、調理に集中しているようだった。
ただ調理をしているだけなのに、その姿を見ていると涙が出そうになった。
なにもできなかった自分の弱さを突きつけられている気がして、泣きたくなったのだ。
タマモはまぶたを閉じて、静かに深呼吸をした。
胸が痛んでいた。
悔しさがよみがえってくる。
打ちひしがれた悲しみが込み上がる。
込み上がってきた悲しみを抑えるべく、タマモは大きく息を吸い込み──。
「どうされたんどすか、旦那様?」
──すぐそばでエリセの声が聞こえてきた。
まぶたを開くとそこには不思議そうに首を傾げるエリセがいた。前髪を掻き上げながら、タマモと目線を合わせるようにしてしゃがみ込んでいるエリセ。
タマモは堪らなくなり、正面からエリセに抱きついた。
「え、えっと、旦那様?」
腕の中でエリセが慌てている。
だが、タマモはエリセの戸惑いに答えることなく、その身をぎゅっと抱きしめた。できる限りの力でエリセを抱きしめ続ける。エリセはあからさまに困惑しているのだが、タマモはエリセの困惑に対してなにも言うことができなかった。
「……ほんまにどうされたんどすか? いつもの旦那様らしゅうないどすけど」
「……るから」
「え?」
困惑を続けるエリセに、タマモは絞り出すように呟いた。
その呟きをエリセは聞き取れなかったようだった。だからタマモは大きく深呼吸をして続けた。
「……ボクが絶対に守るから。今度は絶対に君を守るから。だからそばにいて、エリセ」
タマモは涙を流した。泣きながら必死にエリセの体を抱きしめる。絶対に離さないと言わんばかりにその体を、自身よりも大きなエリセの体を力一杯に抱きしめた。
「……呼びほかしにされたことやら、抱きしめて貰えたことやら、いろいろ言いたいことあるんやけど、とりあえず言わしてもらうとしたら──」
エリセは若干苦笑いしつつも、そっとタマモを抱きしめてくれた。抱きしめながらエリセもまた呟いた。
「──絶対守っとくれやっしゃ。約束どすえ」
エリセは頬ずりするようにして、タマモの肩に顔を埋めていく。エリセのぬくもりが全身に広がっていく。
「……約束する。絶対にボクが君を守る」
「……はい、旦那様」
エリセが恥ずかしそうに、だが、とても幸せそうに頷いてくれた。
心地よいぬくもりが広がっていく。
胸に、体に、心に。そのぬくもりが広がっていく。
(……変わらない。なにも変わらないんだ)
広がっていくぬくもりに、タマモは思った。
エルは何度も言った。
それはデータにしかすぎないと。
作り物なのだと。
エリセという女性は、どこを探しても実在しない。
いま目の前にいるのは、科学の粋でできあがった虚構なのだと。
その虚構をどうこうしようと問題ないとも。
たしかに。たしかにその通りだ。
エリセという女性は実在しない。
同名の女性は探せば、いくらでもいるだろう。
だが、それは別人だ。いま、タマモの目の前にいるエリセは、現実世界にはどこにも存在しない。
それは事実だし、否定なんてできない。
しかしだ。
たとえ現実に存在していなかったとしても。
いま目の前にいるのがデータの塊だったとしても。
すべてが終われば、もう二度と出会うことも叶わなかったとしても。
いま、たしかに、エリセはここにいる。
タマモの腕の中にエリセはいるのだ。
そして、この腕の中のぬくもりはなにも変わらない。
実在している人たちとなんら変わらないのだ。
そこに違いなどありはしない。
あるわけがない。
あっていいわけがない。
だから言える。
だからこそ口にできる。
本当の想いを。
言えなかった言葉をようやく告げられる。
「……大好きだよ、エリセ」
万感を込めた想い。照れくさくて言えなかった言葉。たった一言の告白。その言葉にエリセが腕の中で息を呑んだ。
端から見れば、ふたりの関係は少し歳の離れた姉妹のように見えるだろう。だからタマモの告白は大好きな姉に甘える妹のように見えることだろう。しかし、ふたりは姉妹ではない。ゆえにタマモが告げた想いは、実の家族への愛情とは違う。似て非なるものである。その想いを告げられたエリセは、タマモからどうあっても見えないが、頬を真っ赤に染めながらも嬉しそうに頷いた。
「……うちもお慕いしとります、旦那様」
エリセの四つの尻尾が緩やかに振られていく。肩越しに見える尻尾を見つめながら、タマモは「ボクも」とだけ答えた。
そこで会話は途切れた。
けれど、それ以外は途切れなかった。
腕の中のぬくもりも。
お互いにへと向ける想いも。
決して途切れることなく続いていく。
心地いい時間。
その時間はレンとヒナギクが揃ってリビングに出てくるまで続いたのだった。




