57話 感傷に揺られても
わりとよく泣く子だった。
人前ではなく、ひとりっきりのときにはよく泣いていた。
声を掛けることはいつだってできた。
でも、ひとり声を押し殺して泣く姿を見ていると、普段のように茶化すことはできなかったし、セクハラじみた言動も鳴りを潜めるしかなかった。
それは子供の頃から変わらない。
華道の稽古終わりにその厳しさに音を上げたり、習い事のせいで友人と遊べないことにさみしさを感じたり、と。
理由は様々だったが、よく彼女はひとり泣いていた。当時はまだ主従関係というわけではなかった。形式上では主従ではあった。だが、実際の関係は擬似的な姉妹のようなものであったので、その気になれば慰めることはできた。
しかし、あえて藍那はしなかった。彼女であれば、まりもであれば乗り越えられると信じていたからだ。
だが、それも結局まりもにとっては重荷でしかなかったのだろう。久方ぶりのまりもの嗚咽を聞いて、ようやく当時の過ちに気づけた気がする。
もっとも、あの過ちの日々があったからこそ、いまのまりもがあることも事実だ。長い目で見れば、あの日々は間違いではなかった。ただ、幼い少女にするべきことであったのかという問いかけに是として答えることはできないが。
そこで藍那は思考を切り換えた。これ以上考えたところで、答えは出ない。むしろ、当時の自分を責めることにしかならないので、これ以上は意味がない。自責の念など、数え切れないほどに抱いてきたのだ。そんなものにいまさら感情を揺れ動かさせられたくなかった。
(……もっともいまの姿を客観的に見たら、感情的ではないとは言い切れないけれど)
そう、いまの藍那の姿を見たら、感情的になっていないとは言えない。なにせ、いま藍那はまりもの自室の外にいた。自室の外の壁に背を預けて、体育座りをしながらまりもの嗚咽を聞いていた。……端から見れば、ストーカーと思われかねないことではあるが、藍那にはそんなつもりは一切ない。ここにいるのはいろいろと事情が重なったが故のことである。
(……普段通りに戻そう)
事情が重なったが故のことだが、これ以上はアンニュイな気分になるのはいろいろと支障がある。ここからはいつもの自分に戻ろうと藍那は決めた。が、今日は不思議となかなか切り換えることができなかった。
「……珍しいこともあるものですね」
ぽつり、と藍那は呟いた。
壁越しに聞こえる嗚咽には、なんとも言えない気分に駆られてしまう。
普段の藍那であれば、その嗚咽を聞けば、「興奮しますね」とか言うべきだろうが、いまの藍那にはそんなことを言う気力はなかった。
壁越しに聞こえる嗚咽に胸が痛む。両膝を抱え込みながら、藍那は顔を膝に押しつける。胸の痛みがどうしても消えてくれない。普段の藍那であれば、もっとはっちゃけられるのだが、いまはそんなことができる余裕は皆無だった。
「……なんだ、こんなところで一服か、藍那?」
不意に頭上から聞こえてきた声に顔を向けると、そこには藍那にとって直接の上司にあたる早苗が、普段の取り繕った姿からはかけ離れた野卑た笑みを浮かべて、紫煙を揺らめかせていた。
「……そういうお姉様こそ、まだ仕事中でありませんでしたか?」
「はん。今日は元旦だろ? ご当主様も無礼講と言われたんだから、好き勝手にやらせてもらっているだけさ」
喉の奥を鳴らして笑いながら、早苗は藍那が腰掛ける地面の隣に腰を下ろした。片膝を立てて、その膝の上に肘を置いて、紫煙の元となるものを指の間で挟みながら、ふぅと小さく息を吐く。その姿は完璧なメイド然とした姿からはかけ離れていた。別人ではないかと思ってしまいかねないほどに、いまの早苗と普段の早苗は違っていた。それこそ、二重人格かなにかと勘ぐってしまいたくなるほどにだ。
「屋敷内は禁煙ですよ?」
「あぁ? ここは屋敷の外なんだから問題ねえだろう?」
「では言い換えましょうか。敷地内は禁煙です」
「……堅苦しいことを抜かしているんじゃねえよ」
「では、もう一度言い換えましょうか。お嬢様は煙草の煙が苦手ですよ?」
「……」
小さく舌打ちをしながら、藍那は懐から携帯式の灰皿を取り出し、吸っていたそれを消した。
「……本当にお嬢様には弱いですね、あなたは」
「うるせえ」
懐からガムを取り出し、早苗は噛み始めた。煙草の代わりということだろう。口寂しさを紛らわすためだろうが、煙草を吸う以上にやんちゃな雰囲気が漂い始める。が、ガムくらいであれば、藍那とて噛む。もっとも噛んだとしてもメイド服に袖を通しているときには決して噛むことはしない。が、早苗は「ん」と言って取り出したガムのひとつを藍那に手渡してきた。
お裾分けと取れなくもないが、この場合は「おまえも共犯者になれ」と言われているのだ。はぁと小さくため息を吐きつつ、藍那は渡されたガムを口に放り込む。ミントの強い香りとやや辛みのある味が口内に広がっていく。
「……辛い」
「は、こんくらい刺激がある方がスカッとするだろう?」
「単純にあなたがニコチンジャンキーなだけでしょうに」
「……否定はしねえ」
早苗は視線を逸らす。が、その視線が向かう先は頭上である。正確には寄りかかった壁にある窓にへと向けられていた。
「……心配ですか?」
「……そっくりそのまま返す」
「でしょうね。私も心配ですから」
「……そうか」
早苗はそれだけ言って黙ってしまった。
藍那もまた口を閉ざした。
口内のガムを慎重に噛みながら、しばらくの間無言になっていた。
その間も窓の向こう側からは嗚咽が聞こえてくる。
その嗚咽になんとも言えない気分に駆られた。
「……お嬢様がこんなに泣かれるなんて初めてだよ」
早苗はすっかりと意気消沈した様子で肩を落としていた。そんな早苗の姿は珍しい。が、藍那自身人のことが言える立場ではなかった。
「えぇ。私もですよ。お嬢様がお生まれになられたときから知っていますけどね。あの方がこんなに泣くところなんて、ほとんど見たことないです」
「……あるにはあるんだな?」
「ええ。あなたが拾われる前のことですからね」
「はん」
吐き捨てるように早苗は言う。
自分が知らないまりものことを、藍那が知っているということが気にくわないのだろう。まるで面倒なファンのようだと藍那は思った。
「……聞きたいですか?」
「……聞いたところで、なにかできるわけでもねえ」
「そうですか。ではお聞かせしましょう」
「おい」
「あれは、お嬢様がまだ5つくらいの頃ですかね」
「人の話を聞けよ」
「当時、お嬢様は──」
「だから、おまえな」
早苗はがしがしと後頭部をかきむしるも、藍那はお構いなしに当時のことを語り始めると、大きくため息を吐いてそれ以上はなにも言わなくなった。
(なんだかんだで、この人押しに弱いんですよね)
押しが強そうに見えて、実のところ早苗は押しに弱い。正確には押されすぎると面倒になってしまうのだ。
そのことを知っているのは藍那の他には、雇い主である当主とその妻であるまりなしか知らない。まりもも早苗の押しの弱さは知らないのだ。そもそも、まりもは早苗の素を知らなかった。早苗はまりもにだけは素を見せないようにしている。完璧なメイドとしての姿しか早苗はまりもに見せない。
早苗にとってまりもは雇い主の娘ではなく、早苗にとっての主はまりもなのだ。主には常に完璧に接しようとする。それがまりもには素を見せない事情である。
(……素は狂犬そのものだというのに、あの子の前でだけは忠犬のような従順な姿を見せる。二重人格と言われても無理もないですね)
メイド隊の部下たちから見れば、早苗は二重人格者のようにしか思えないだろう。だが、藍那には二重人格者ではなく、飼い主に気に入られようと必死に尻尾を振るかわいいワンちゃんとしか見えない。……早苗本人に言ったら殴りかかってくるだろうからあえて言うつもりはないのだが。
「……おまえ、いま失礼なことを考えただろう?」
「いいえ。かわいらしいワンちゃんですね、と思っただけですが? 普段は狂犬じみているくせに、大好きなご主人様の前では千切れんばかりに尻尾を振る。非常にかわいらしいワンちゃんですよね」
「え? おまえ喧嘩売っているの?」
「え? 事実を言っただけなのに?」
にっこりとお互いに笑い合う。よく見ると早苗のこめかみに青筋が浮いているが、そんなことはどうでもいい。
「その狂犬じみた本性をよくまぁ隠すものですね」
「……うるっせえな」
「まぁ、気持ちはわかりますよ、狂犬お姉様。お嬢様、いえ、まりもはそれほどの子ですからね」
「……おまえな、職務中なんだから、呼び捨てはやめろよ」
「あら? さきほどご当主様に無礼講だからと、紫煙を揺らめかせていた方が言うことではないのでは?」
「……むぅ」
ぐうの音も出ないとはこのことだろうか。苦虫を潰したかのような顔を早苗は浮かべる。コロコロと表情が変わる様はまりもによく似ていた。ペットは飼い主に似ているというのはこのことだろうか。
「……また失礼なことを考えたろ、おまえ?」
「さて?」
「……この腹黒女め」
「狂犬メイドに言われるとは思いませんでしたよ」
早苗が何度めかの舌打ちをする。
そうこうしている間に、嗚咽は聞こえなくなっていた。
代わりに子守歌のようなものが漏れ聞こえてきた。
「……もうそんなお歳でもねえってのに」と早苗が呆れたような声をあげるも、その声はさきほどまでよりも幾分か柔らかい。その表情も狂犬ではなく、とても穏やかなものだった。
「……まりも以外にもそういうところを見せた方がいいんじゃないですか?」
「だから呼び捨てすんなっての」
「もう癖になっていますのでね。実際、あの子が小さい頃は、誰もいないときは呼び捨てにしていましたよ。あの子も私のことを「あいなおねえちゃん」と呼んでくれていましたから」
「羨ましい話だな」
「ふふふ、姉代わりとしてともに育ってきた者の特権です」
「どんな特権だよ、それ」
はぁとため息を吐く早苗。舌打ちとため息。今日はどちらもよくするなぁと他人事のように藍那は思った。早苗本人が聞いたら「誰のせいだよ」と言うことは間違いないであろう。
「で、藍那、どうするんだ?」
「どうとは?」
「ごまかすな。おまえはお嬢様を慰められるのかってことだ」
「……する必要はありません」
「だが」
「あまり私のかわいい妹分を舐めないでくださいね? あの子は強い子です。このくらいのことで潰れる子じゃない。それに奥様がきちんと導かれた。であれば、もう憂いはありません」
藍那はそう言って立ち上がった。まりもは強い子である。……強い子になってしまったのだ。それは過ちとも言えるし、正解とも言えた。弱いままよりかは強い方がいい。ただ、強すぎるだけでは何の意味もないが、その点は安心できる。まりもは強くもあるが弱くもある。そういう子になってくれた。
それは今回のことでより顕著になるだろう。であれば、もう憂いなどない。あるとすれば、藍那の手でそう仕向けることができなかったことくらい。それさえも憂いと言えるものではない。
どんなにまりもを想おうと、姉妹のように育ったとはいえ、実際に姉妹ではない。実の姉妹ではない藍那にできることなどもうなにもないのだ。
だからこれはただの感傷でしなかった。その感傷はここで終わりだ。
元々長居するつもりはなかった。腹ごなしの散歩をしていたら、たまたままりもの嗚咽が聞こえてきてしまったことで、立ち止まることになったがもともとここに長居するつもりなど藍那にはなかったのだ。
「……なんかむかつくな」
「はい?」
「……私以上にあの人のことがわかっているっておまえの面がむかつく。だから、一杯付き合え。もちろん仕事終わりにだ。それでチャラにしてやる。あの人を呼び捨てにしたこともそれで不問にする」
「ずいぶんと寛大ですね」
「言っていろ」
「ですが、承知しました。仕事終わりにお部屋にお邪魔しますよ」
「あぁ、待っているよ」
ひらひらと手を振る早苗。もうしばらくここに居座るつもりのようだ。言っても無駄であることはわかっているので、あえて藍那から言うことはない。
「では、これで失礼致します。お姉様」
「あぁ」
短く返事をする早苗を横目に、藍那はその場から立ち去った。立ち去りながらも考えるのはまりものこと。
(……まりも、信じているからね。あなたならきっと大丈夫だって私は信じているからね)
いくら強くても限度はある。けれど、まりもなら大丈夫だと藍那は信じていた。根拠などない。ないが、藍那は信じている。玉森まりもはこの程度で潰れるような子ではないことを。誰よりも信じている。
「さぁ、面倒なお仕事と行きますか」
んんーと声を漏らしながらの背伸びをして、藍那は立ち去った。胸に宿るまりもへの想いを秘めて、残る仕事をこなすのだった。




