56話 悔しさはいまここに
目を覚ますと、いつもの見慣れた自室だった。
自室の天井を、染みひとつない天井をぼんやりと眺めながら、まりもは自身の手を顔に近づけた。
手の中にはなにもない。いままでログインしていたのだから、なにも握っていないというのは当たり前のことだ。その当たり前が、いまだけは違和感があった。
「……エリセ、さん」
ぼそっと口にしたのは、つい先ほどまで腕の中にいた人の名前。
現実ではどうあっても触れ合うことのできない人。現実には存在しえない人。でも、その人のぬくもりがまりもの腕の中にはたしかに残っていた。そのぬくもりを必死に守ろうとしていたのだ。
だが、まりもにできたのはただ唸ることだけ。唸りながら睨み付けることしかまりもにはできなかったのだ。
「……あんな体たらくで」
近づけた手で顔を覆う。悔しさで涙が込み上がってくる。
ただ唸り、喚いただけ。
そんな体たらくだった。
そんな体たらくでどうして守れたと言えるのだろうか。
言えるわけがない。
言っていいわけがない。
そんな自責の念がまりもを包み込んでいた。
込み上がってきた涙が目尻からこぼれ落ちる。
こぼれ落ちた涙が頬を伝う感触が続く。
(あぁ、情けない)
歯を噛み締めながらも、嗚咽が漏れていく。
初めてだった。
こんな悔しい思いをするのは、生まれて初めてだった。
いままで、現実、ゲーム内でも泣かされたことはあった。
だが、それはあくまでも自分の境遇に対するもの。
いわば、自分の不運に対しての涙だ。
決して自分の無力さへの嘆きのものではなく、運というどうしようもないファクターによるものだ。
だが、今回の涙は違う。
生まれて初めて、玉森まりもは敗北を知った。
そう、これは敗北だ。
守ろうとした。
守りたかった。
だが、守れなかった。
守ることができなかった。
守りたいと思っていた。大切だと思っていた。だから守りたかった。
エリセの弟であるシオンとも約束した。
幸せにすると。
そう約束したのに。
約束を破ったら絶対に許さないとシオンは睨み付けていた。
それだけシオンは、エリセは大切に思っていた。大好きな姉を託してくれたのだ。
なのに、まりもはそのシオンとの約束を破った。
破ることになってしまった。
たとえ、エリセ自身には意識がなかったとしても。
まりもはたしかに見て、憶えている。
ただ唸ることしかできなかったことを。
あがいても、なんの意味もなかったことを。
どんなに手を伸ばしても、届かなかった現実を。
まりもはたしかに憶えていた。
そして感じたのだ。
あぁ、これが「敗北」ということなのか、と。
玉森まりもにとって、「勝利」という言葉は当たり前だった。
朝起きて、食事を取って、夜になったら、風呂に浸かって寝る。
そんな日々のように、まりもにとって「勝利」という言葉は当たり前にあるものだった。手を伸ばせばすぐに届くような位置にあるものでしかなかった。
だから知らなかった。
「敗北の味」というものがどういうものであるのかを、まりもは決して知らなかった。
武闘大会のときとは違う。
武闘大会のときに、ローズと対戦して負けたときとは違う。
あのときは、一進一退の攻防をどうにか行って、最後には一歩及ばずに負けてしまった。状況によっては勝者と敗者は異なっていたはずだ。紙一重の敗北。しかし、その紙一重は決して軽いものではなかったが、本当にあと一歩だったのだ。
そのことはローズもわかっているだろう。だからこそ、ローズはタマモをライバルとして認めてくれた。
あのときもたしかに負けた。負けはしたし、悔しくもあった。だが、それ以上に清々しくもあったのだ。全力を賭して負けたのだ。だから悔しくても「次こそは」という気持ちが沸き起こった。そこには悔しさ以上の清々しい気分が満ちあふれていた。
だが、今回のは違う。
清々しさなどなにもなかった。
あるのはただの空虚さだけ。
そう、がらんどうとしていただけ。
そのがらんどうとした中に、なだれ込むように悔しさが注ぎ込まれた。
悔しさは次々に、惜しみもなく注ぎ込まれていく。
もういい。
もうやめてくれ。
そう叫びたくなるほどなのに、決して止まってはくれなかった。
止まることなく、悔しさはまりもの心の中を侵していく。
いっそ狂ってしまえたら、どんなに楽だろうか。
狂いに狂って、喉が嗄れるほどに叫び続けられたらどんなに楽だろうか。
だが、できない。
してたまるものか。
そんなことをすれば、本当に認めてしまう。
なにもできなかったことを。
手も足も出ずに負けたことを。
まりも自身が認めることになる。
そんなことは認められないのだ。
認めていいわけがないのだ。
だから、できない。
いや、したくない。
できることはただ耐えること。
この激流のような感情にただ耐えること。
濁流に呑み込まれた木の葉のように、頼りないこの身でただただ耐え続けることしか、いまのまりもにはできなかった。
両手で顔を覆う。
覆ったところで涙は止まってくれない。
まりもの抵抗を嘲笑うようにこぼれ落ち続けていく。
それでもまりもにできることは、ただ耐えることだけだった。
耐えながら、この終わりのない、終わりの見えない感情がいつかは静まるのを願うことしか──。
「ふふふ、まりものそんな姿、初めて見たわ」
──願うことしかできなかったはずだった。
だが、その願いは叶わなかった。
不意に聞こえてきた声に覆っていた両手をわずかにずらすと、自室の扉を背に母のまりなが穏やかに笑っていたのだ。
「おかあ、さま」
「はぁい。まりもの大好きなお母さんですよ。少し失礼するわね」
まりなはそう言って扉から離れると、まりもの横たわるベッドに腰掛けた。腰掛けはしたが、まりなはなにも言わない。なにも言わないまま、子供のように足をぶらぶらとばたつかせている。まるでとても楽しいことがあったかのようにだ。なにが楽しいかはまりもにはわからなかった。
「……たのしそう、ですね」
「ええ、それはとっても。だって、いままであなたのそんな姿なんて見たことがなかったんだもの」
ふふふ、とまたまりなが笑う。その言動にまりもの感情は揺れた。決していい意味ではなく、むしろ悪い意味で。怒りの方へと揺れ動いた。
「……なんですか、それ。まるでボクのいまの姿を見るのが楽しくて仕方がないと言っているみたいです」
「ええ、そう言っているわよ?」
「ふざけないで──」
「だって、ようやくだもの」
「──え?」
「ようやく、ちゃんとお母さんらしいことをしてあげられるんだなぁって思ったら、楽しくて仕方がないもの」
まりなの発言に怒りのまま叫ぼうとしたとしたまりもに、まりなが口にしたのは、まりもが思っていなかった言葉だった。「お母さんらしいことをようやくしてあげられる」と。その言葉の意味を考えている間に、まりなはまりもの隣に横たわり、そっとまりもを抱きしめた。
「おか、あさま」
「……我慢しなくていいの」
「……え?」
「なにがあったのかはわからない。たとえ、他の人にとってみれば、取るに足らないことやくだらないと思うことだったとしても、あなたにとってはとても大切なことだったのでしょう?」
「……」
「なら、いいの。たとえ他人がどう思おうと、それがあなたにとって譲れないことであるのであれば。その譲れないことで、なにかあったのであれば、我慢することはないわ」
「そんな、こと」
「あるでしょう? 私を誰だと思っているの?」
「……お母様、です」
「そう。あなたの母親なの。あなたが生まれてからもうすぐ20年。私は20年間、あなたをずっと見守っていた。あなたのことであれば、私は誰よりも知っているという自負がある。だからわかるの。あなたが初めて手も足も出ない、完全な敗北をしたんだってね」
「っ!」
声に出さなかったはずだ。
ただ泣いていただけだった。
なのに、母にはそれを気づかれていた。
そして母の口から、改めて完全な敗北を喫したのだという事実を突きつけられた。
抱擁は優しい。
しかし、その言葉はひどく厳しい。
優しさと厳しさ。
その両方を持って、まりなはまりもを責め立てていた。
だが、それが決してまりもを嫌っているがゆえのものではないことは、まりも自身理解していた。母は、まりなはただ──。
「泣いていいの。そんな我慢して声を押し殺す必要なんてない。思いっきり泣きなさい。その声はぜーんぶお母さんが閉じ込めてあげる。母親の包容力を甘く見ないでちょうだい」
──まりもに思いっきり涙を流させたいのだ。ふふん、と自信ありげに胸を張るまりなに、まりもは「なんですか、それ」と返事をするので精一杯だった。
「細かいことはいいじゃない。ささ、どうぞ、どうぞ。お母さんのお胸に顔を埋めて思いっきり、ね?」
ウインクをしながら、なんともおかしなことを口にするまりな。そんな母の姿に、まりもはただ力なく笑い、言われるがままにその胸に顔を埋めた。同時にまりなは優しくまりもの背中をぽんぽんと叩いた。たったそれだけだった。それだけだったはずなのに、どうしてだろうか。元々零していた涙だったが、いままで以上にこぼれ落ちていく。堰を切るというのはこういうことを差すんだろうかと思ったのは、ほんの一瞬だった。
抑え込んでいた感情が、理性という歯止めをあっという間に飲み込んだ。理性は濁流の中に消え、残ったのはただ発露する感情の大波だった。
まりもはまりなにしがみつきながら、泣いた。
そんなまりもをまりなは優しく抱き留める。服越しに聞こえる母の心音がやけに心地よく、涙を誘う。誘われた涙を止めることはできず、まりもはより一層激しく泣きじゃくる。そんなまりもにまりなは耳元に唇を寄せた。
「あなたは頑張った。あなたの思う通りにはいかなかったかもしれない。だけど、できるだけのことをした自分をこれ以上責めないで。悔しさはいまここに置いていきなさい。でも忘れないで。その悔しさを。その涙の味を決して忘れないで。そうすれば、きっといままで以上にあなたは強くあれる。強く一歩を踏み出せるからね」
母がまた背中を軽く叩いた。まりもはただ頷いた。頷きながら涙を流した。
母はもうなにも言わない。まりもを強く抱きしめるだけで、なにも言わない。
それがかえって心地よかった。それが救いになった。
まりもは泣いた。
いままでになく泣き続けた。
枯れ果てることがないと思えるほどに、永遠に続くのではないかと思えるほどに、まりもはただただ泣き続けた。その悔しさと涙の味を自身の奥底に刻みつけるようにして泣き続けるのだった。




