55話 エルの忠告
殺意。
その言葉の意味は知っていた。
知っているが、実感はなかった。
恵まれた環境で生まれ育ったまりもにとって、殺意を抱くような経験をしたことなどなかった。いや、それを抱かせる相手と巡り会うことはなかった。
いや、恵まれた環境でなくても、そもそも日本という平和な国では、よほどのことがない限り、殺意というものを抱くことはないのだ。中にはあるかもしれないが、それは本当によほどのことがあった場合である。
そのよほどのことがなければ、基本的に殺意というものを抱くことはない。特にまりものように非常に恵まれた人生を歩んでいるのであればなおさらだろう。だが、現在まりもはいままで抱いたことのない殺意を、目の前の人物への抑えきれない激しい衝動に突き動かされていた。
まりもの目はすっかりと血走り、穏やかな声を発する喉からは地響きに似た獣のようなうなり声が生じていた。なによりもその普段笑みを浮かべることの多いその表情はいまや抑えきれない憤怒に染まっていた。それらが向かう先にいるのは、まりもがプレイするゲーム「EKO」のプロデューサーであるエル。そのエルの腕の中には、ゲーム内でまりもの世話役のひとりであるエリセがあられもない姿で意識を失っていた。
それだけなら、まだまりもも冷静ではいられていた。しかし、エルはあろうことか、エリセの肢体をまさぐっているのだ。そのうえでエリセを自分たちに売れとのたまった。その一言はまりもの逆鱗に触れた。
しかし、逆鱗に触れたところで、いまのまりもにはどうすることもできずにいた。エリセに乱暴を働こうとした黒づくめの男たち──おそらくは特殊なNPCキャラたちによってまりもは拘束されていた。一度は拘束から抜け出せたものの、一度目よりもより強まった拘束の前にまりもは唸り声を上げることしかできなくなってしまっていた。
「ふふふ。いいですね、お嬢様。そのギラギラとした殺意に満ちあふれた瞳。そんなにこれが大事ですか? あなたにとっては本命の代理、所詮はキープでしょう? キープなんて本命がいるのであれば、意味ないじゃないですか。むしろ、本命と気持ちを繋がり合ったのであれば、邪魔なだけじゃないですか? だから、その邪魔なキープを私どもが有効活用してあげようと言っているだけなのに。なにがそんなに気に入らないのですか?」
エルは心底理解できないというように、まりもを煽る。煽られたまりもは唸り声を上げながら、いまにもエルに飛びかからんと言う表情で地面を引っ掻き続ける。しかしどれだけ地面を搔こうとも、エルに近づくことはない。それでもあがくようにして、まりもは地面を搔きながらエルへと向かっていこうとする。
だが、どれだけあがこうとも、まりもを上から押さえつける形で拘束する黒づくめの男たちはエルへの接近を許さないでいた。
必死にあがくまりもを嘲笑うようにして、近づいた分だけ引き戻すというやり取りを延々と行い続けていた。
その間も、エルによってエリセへの辱めは止まらない。エリセの服は徐々に脱がしていき、エリセの白い肌が露わになっていく。エルはそれをとても楽しそうに行っている。その姿にまりもの殺意はうなぎ登りに増し続ける。ループのような状況が延々と続いていた。
「そんなにこれが大事なんですねぇ? ただのキープ役のデータなのに?」
「返せ!」
「返せと言われましてもねぇ。これは私どものゲームに出てくるNPCですよ? つまり、もともとは私どものものということ。であれば、所有者である我々がどう扱っても構わないということでしょう?」
にやり、とエルは笑った。笑いながらエルが指を鳴らすと、エルの腕の中からエリセが消えた。今度はどこにと思ったときには、拘束が少し軽くなった。なにがあったと思ったときには、すぐそばでエリセが地面に横たわっていた。
「エリセ──っ!?」
エリセに声を掛けようとしたが、そのときにはエリセの上に黒づくめの男のひとりがのし掛かり、エリセの服に手を掛けたのだ。
「やめろ! 離れろ!」
まりもは堪らずに叫ぶ。だが、その制止を振り切る、いや、まるで聞いていないかのように黒づくめの男はエリセの服を引きちぎった。引きちぎられた服の残骸が宙を舞い、その残骸の向こう側で黒づくめの男が乱暴にエリセに触れた──ところでまりもの理性は限界を訪れた。
「おまえぇぇぇぇぇぇ!」
まりもは自分でも驚くほどの力を発揮して、上から押さえつけていた黒づくめの男たちをはね除け、エリセにのし掛かっていた男を殴りつけた。男はまともにまりもの拳を受け、そのまま地面を転がっていった。その間にまりもはエリセを自身を抱きしめた。なにがあっても守るといわんばかりに、その目は四囲の黒づくめの男たちとその先で口元を歪めて笑うエルへと向けられていた。
「素晴らしい。愛する者のために死力を振り絞る。あぁ、まさに見事です。美しい。これほど美しい光景は早々ありますまい。素晴らしいショーです」
パチパチと手を叩きながら、エルは笑っていた。陶酔しきったような、まるで夢心地であるかのように語っていた。そんなエルにまりもは唸り声を上げていた。唸り声を上げながら、いまにも「黙れ」と発しそうなほどにその目は憎悪に満ち満ちていた。
「しかし、解せませんねぇ。あなたにはもう本命がいるのでしょう? であれば、それはもう必要のない存在であるはず。なのになぜその必要ない者にまで愛情を注ぐのです? 意味などないのに」
エルは不思議そうに言った。まりもの言動を理解できない。いや、理解に苦しむと言わんばかりの表情でまりもを見つめていた。
「おまえに答える義理はない」
「ふふふ、すっかりと嫌われてしまいましたねぇ。ですが、私はこう見えてもあなたをだいぶ気に入っているのですよ?」
「どの口が」
「この口ですよ? まぁ、それは置いといて。……どうやらその子を本当に気に入ってくれているみたいだね?」
咳払いをひとつしてから、エルはそれまでの不敵な態度を崩し、とても穏やかな笑顔を浮かべた。それまでの邪悪極まりない笑顔と視線が不意に消えてなくなったのだ。加えて口調もそれまでの丁寧なものから急に砕けたものに変わっていた。その変化にまりもは戸惑いを隠せなかったが、油断することなくエリセを抱きしめた。そんなまりもの姿にエルはどこか嬉しそうに笑っていた。
「……その子は実の父親から「化け物」扱いされてきた。ただ、歴代でもっとも強い力を持って生まれただけでね。たったそれだけのことで、その子は「化け物」扱いで、疎まれ続けてきた。次第にその子は笑顔を忘れた。正確には、本当の意味での笑顔を忘れて、作り物の笑顔だけを浮かべるようになっていった。君と出会ったときも、この子は笑顔を浮かべていたけれど、あれもただ貼り付けただけの笑顔だった。言うなれば笑顔という仮面を付けていた」
エルは遠くを眺めながら、エリセの半生を語っていた。その半生はまりもも知っている。アバターである「タマモ」を通してエリセの半生を知った。そしてエリセを自身の世話役として無理矢理「水の妖狐の里」から引き抜いたのだ。あのまま「水の妖狐の里」にいても、エリセが幸せになることなど絶対にありえない。そう思ったのだ。
だからこそ、普段は使わない強権を、「金毛の妖狐」であるための強権を振るったのだ。まりも自身は「金毛の妖狐」がそこまで特別な種族だという意識はない。しかし、通常の妖狐たちにとっては「金毛の妖狐」は自身たちよりも上位の存在であるから、「金毛の妖狐」であるタマモからの命令に逆らうことはできず、里長であるのにも関わらず、タマモの世話役を就任することになった。
そうしてエリセはタマモの庇護下に置かれることになったのだ。
「……あれからまだ一週間ほどだが、私はあれほど喝采したくなることもなかったよ。恵まれなかったその子が、最高の相手に出会い、そして幸せにして貰えるんだ。とても嬉しかったよ」
エルは本当に嬉しいのだろう。とても穏やかな顔をしていた。さきほどまでの邪悪極まりない表情と、いまの穏やかな表情は同じ人物が浮かべていたとは思えないものだった。
「だからさ、その子を幸せにしてあげてくれないかい? 私ではどうあっても幸せにはできそうにないからね。……「彼女」を幸せにできなかったからね」
エルは笑顔を消して、いまにも泣きそうな顔で言った。だが、その言葉の意味がまりもにはよくわからなかった。
「「彼女」?」
誰のことを言っているのか。いや、誰とエリセを重ねているのだろうか。まりもには判断がつかなかった。
「君もたぶん知っているよ。まぁ、憶えているかは知らないけれど」
「憶えている?」
言われた意味がまたわからなかった。だが、そんなまりもの疑問にエルは答えるつもりがないようで、さてと座っていた椅子から立ち上がった。
「今回はここまでにしましょう。お越しいただきありがとうございます。そしていろいろと無礼を働き申し訳ありませんでした」
エルは深々と頭を下げていた。
なにからなにまでもいきなりすぎて、なにを言えばいいのかわからなくなってしまった。
「……あなたはいったい」
「ひとつだけ申し上げておきたいことがあります」
「なにを?」
「銀髪の持ち主には気を付けることです。「彼女」も結局銀髪の持ち主によって道を閉ざされた」
「なにを言って」
「いずれわかります。どうか、あなたの愛する者を守ってあげてください。決して諦めることなきよう」
エルはそう言って指をまた鳴らした。それによってまりもの意識は遠ざかった。
「あと、そうだ。ソラくんにも気をつけて。彼女もまたあなたに危害を加えかねませんから」
エルは心配げにまりもを見つめていた。その言葉に返事することもできずに、まりもの意識は沈んだ。腕の中にはエリセのぬくりもをたしかに感じながら。まりもは意識を手放した。




