51話 本物の想いを抱きながら
ギリギリではあった。
分水嶺という言葉があるが、いまタマモのしたことはまさにそれだ。タマモもそのことは自覚していたが、こうでもしないとアンリはずっと自身を責め続けるのは明らかだった。
(……アンリがアンリを責めるのを見るのは辛いもの)
アオイとヒナギクを嫁と口にすることはあるものの、決してそれは本気ではなかった。半ば、いや、若干本気のところもなくはないが、タマモとしてはそこまで本気というわけではない。
だから、アンリに言ったことは、「自分の女」という言葉は、これまで一度も口にしたことはなかった。
そもそも、言う意味がなかった。
なにせ、アンリは実在しない女性だった。
データの中にしかいない存在だった。
そんな相手に「自分の女」というのは、ひどく空しかった。
だから、言いたくなかった。
たとえ、日に日にアンリに心を奪われていっても、アンリを一目でも見ないとどうにも落ち着かなくなっていた。
いまでは、そこにエリセも含まれているが、最初はアンリだった。
アンリを一目見るだけで最初は十分だった。
次には一言でも話を交わさないとダメになり、いまでは少しでもふれ合いたくなっている。
アンリと過ごす日々の中で、タマモ自身の欲求は徐々に強くなっていた。
このままだと、行き着くところまで行きそうになってしまう。
だが、それはできない。
もし、この世界が異世界であれば、できたかもしれない。
しかし、この世界は異世界ではなく、ゲーム内なのだ。
運営という名の神がいる世界だ。
運営の許可なしではなにもできない世界。
その許可内には、行き着く先は含まれることは絶対にない。禁止事項の中でもかなり重い部類のものだ。
だから、どんなにアンリとエリセを想おうと、いや、想えば想うほど辛くなってしまうのだ。
深く触れ合うことができないふたりがそばにいる。触れ合いたいのに、触れ合えない。どんなに想っていても決して深くまでも触れ合うことができない。その事実はタマモの心を摩耗させる。
だから言えなかった。
言わなければ、口にしなければ、見ないでいられるからだ。
自分の心と向き合わずにいられる。
だから言う気はなかった。
空しさもあるにはあったけれど、それ以上に自分の想いと正直に向き合うことができなかったのだ。
向き合ってしまったら、もう自分を抑えきれなくなってしまうから。
いまだって、自分勝手なことをした。アンリの首筋に証を刻み込んでしまった。
普通に考えれば、この行為はほぼグレーゾーンだ。いや、場合によってはアウトと取られかねない。タマモのしたことを運営がどう判断するのかはわからないが、下手すればアカウントを停止させられることだって十分にありえた。
アカウント停止されなかったとしても、厳重注意はされるだろう。もしかしたら、いまこの瞬間にも運営部屋に案内されかねない。それだけのことをタマモはしたのだ。
しかし、いまのところその予兆はない。
予兆はないが、油断はできない。
運営がその気になれば、すぐにでも中断はさせられるのだ。
だからこれ以上はいけない。
これ以上を望んではいけない。
これ以上のことをしてはいけない。
自身の欲求を深く抑え込みながらも、タマモは目の前にいるアンリを見下ろしていた。
光のなくなった瞳。
きれいな緑色の瞳には、いま光は宿っていない。その姿はタマモの胸をひどく痛ませる。だがどんなに胸を痛ませてもタマモができることはほとんどないのだ。
(もし、これが現実であれば)
そう、もし現実であったら、行き着くところまで行き着いてでも、アンリにアンリへと抱く気持ちがどれほどのものであるのかを知って貰える。
しかしゲーム内世界という、制約がある中ではそれもできない。どれほどタマモがアンリを想っているのかを、アンリに知ってもらうことはできない。
たった「6文字」の言葉を伝えるこさえできない。
なによりも言いたい言葉を伝えられない。
それがただ辛かった。もどかしくて堪らなかった。
でも、どんなに辛くても、もどかしくても、それを伝えるわけにはいかない。歯止めを利かなくさせるわけにはいかなかった。だからこれ以上は望めなかった。望んではいけなかった。見ない振りをしないといけなかった。
「……アンリは」
「うん?」
「アンリは、幸せになってもいいのでしょうか? お父様とお母様を殺したアンリが、幸せになってもいいのですか?」
なのに、アンリはそんなタマモの自制心を嘲笑う。たとえ本人にその気がなかったとしても、タマモにとってはアンリの言動はすべて、タマモの自制心を嘲笑っているようにしか思えなかった。いや、嘲笑うというよりかは、自制心を試していると言うべきなのだろうか。
光を失った瞳でタマモを見つめるアンリは、堪らなくきれいだった。普段からきれいな子ではあるが、いまは普段に輪を掛けて魅力的に思えるし、同時に優越感に浸れていた。
(……普段とは違うアンリを知っているのはボクだけ。ボクだけがこのアンリを知っている)
そう、いまのアンリは普段のアンリとは違う。明るく積極的なアンリとはまるで別人のようにしおらしい。そんなアンリを知っているのはタマモだけだ。それがこれ以上とない優越感に浸らせてくれる。その優越感と普段とは違うアンリの姿が、より普段以上にアンリを魅力的に見せてくれている。いや、魅力というよりかは魅惑という方が正しいか。アンリを見ているだけで、生唾を飲みそうになる。それが意味することは、行き着く先はひとつだけだった。アンリ自身が口にしたこと。そう──。
(……子供を作る相手、か)
──子作りの相手と見てくれるのかとアンリは言った。あまりにも生々しすぎる言葉に、ゲーム内であることを一瞬忘れてしまいそうになったが、それでもタマモはたしかに頷いたのだ。
いまだって本当はそういうことがしたいとは思う。
想い合うふたりが行き着く先は、最終的に至るのはそこであることは、異性同性関係なく同じなのだ。
ただ、ゲーム内という制約があるからこそ、至っていないだけである。制約がなければとっくの昔に交わっていることは間違いなかった。
「アンリは幸せになっても」
「……いいよ。幸せになっても。ううん、君は幸せにならなければならないんだ。お父さんとお母さんの分まで、君は幸せになるべきなんだよ、アンリ」
タマモはアンリの言葉を遮るように言い切った。その言葉にアンリの目尻からまた涙がこぼれた。けれど、それまでの涙とは違い、消えた光が瞳に戻っていた。いつもと同じ光を宿しながら、アンリは涙を流す。濡れ光る緑の瞳にタマモは──。
「好きだよ、アンリ。絶対に幸せにするからね」
──本当に言いたい「6文字」ではなく、その前に位置する言葉を告げる。若干の物足りなさのある言葉を告げると、アンリは嬉しそうに笑いながら頷いた。
「アンリも旦那様が大好きです」
飾り気のない一言。だが、その一言にはこれでもかとアンリの想いが込められていた。その想いごとタマモはアンリを抱きしめる。たとえ、実在していなかったとしても、この想いは決して偽物ではない。本物の気持ちなんだと思いながら、目の前にいる愛おしい人を強く抱きしめるのだった。




