49話 誕生日
アンリの誕生日はあっという間に訪れた。
アンリの誕生日である12月は、農閑期ということもあり、一家総出で出かけたとしても特に問題はなかった。
問題があるとすれば、年末という時期であるため、家の掃除などにもそろそろ手を掛けなくてはならないということくらい。それさえも、農閑期であり、時間はいくらでもあるため、アンリの誕生日当日もしなくてはならないというわけではない。
ゆえに出かけること自体に問題はなにもなかった。あるとすれば、出かけ先が上界であるということくらい。その問題とて、きちんと適正な対処をしていれば、なんの問題もない。念には念をと口酸っぱく注意されることくらい。そもそも上界に出ることは禁じられてはいなかった。
でなければ、里長である大ババ様自身が里の外で生活することなどできるわけもないし、その子息や孫なども上界に出られるわけではなかった。せいぜい、気をつけろと口を酸っぱくして言われることくらいだった。
それは「風の妖狐の里」で住まう妖狐全員に言われていることであり、アンリ一家にだけ言われていたことではなかった。
アンリの誕生日に上界に出る。
それ自体は特に問題もなく、許可は出された。アンリの両親も「アンリが望むのであれば」と二つ返事で頷いた。
そうしてアンリは誕生日の贈り物として「上界体験」をすることができるようになった。その話が正式に決まって、当時のアンリは飛び跳ねるほどに喜んだ。別に上界で欲しいものがあるわけではない。
ただ、生まれてから一度も見たことがない景色を、里の外の光景を見られるということが嬉しかったのだ。
アンリが生まれてちょうど30年。里の中は狭いわけではなく、それぞれの家にそれなりの広さの専用の農地があるほどには広大である。
だが、いくら広大とは言っても、その広さには限りがある。日を追う毎に広がり続けているわけではないのだ。限りある空間だけでの生活では、30年もあればすべて見知るには十分すぎる。
いくら広大とは言っても、民家以外は農地か里山しかなければ、どれだけ里の領域内を巡っても代わり映えのない光景しかなければ、どんな者でも見飽きてしまうのも当然のこと。当時のアンリのようにまだ幼い子供であれば、好奇心の強い子供であればなおさらだった。
アンリが誕生日にと口にした願いが許可されたのも、アンリくらいの子供が代わり映えのしない光景に飽き飽きしていることへの配慮もあったし、次代を作る子供たちに広い世界を見て欲しいという気持ちが大ババ様にもあったのだろう。加えてめったにわがままを言わないアンリの願いということもあった。
上界に出る許可が出たのは、いろんな事情が絡み合ったからこその結果だった。
しかし、その結果悲劇は起きた。
それはアンリたち一家が上界に出て、しばらく経ってからのこと。
「おなかがすきました」
上界に出て、アンリははしゃいだ。
それこそ、初めて見る街並みや行き交う人々の姿に目を奪われて、普段ではありえないほどにテンションを上げてしまっていた。
店先に並べられた商品を見るたびに目を輝かせたり、行き交う人々に挨拶をしたりなど、上界に出る際に大ババ様から「目立つ行動は避けること」という注意を完全に忘れてしまっていた。
そんなアンリに、アンリの両親や兄のアントンはそのたびに慌てたり、苦笑いしていたりしていたが、特にこれと言った問題は起きていなかったのだ。
最初はアンリの行動に慌てていた一家ではあったが、次第に警戒心を薄めていった。慣れない洋装を身に付けていたことへの疲れもあったのかもしれない。
アンリたち一家は上界に出るに伴って、普段の和服から洋服にと服を変え、そのうえで認識阻害の魔法で妖狐ではなく、人間の一家を装っていた。田舎から出てきたお上りさん一家。それが上界である「アルト」に来たアンリたちの仮の素性であった。
だからこそ、アンリの好奇心溢れる行動は、田舎には見られない物や人々にテンションを上げてしまっている子供という風に捉えられていた。
それゆえにか、街に行き交う人々や店主などからは穏やかな目を向けられていた。中には露骨に無視する人もいたが、誰もがそういう対応をしていたわけではなかった。
そんな、身構えていたのが馬鹿馬鹿しくなるような状況が続いていたこともあり、アンリの両親やアントンはすっかりと気が抜けてしまっていた。そんなとき、アンリがかわいらしくお腹を鳴らしたのだ。
朝から街中を見回っていたが、それだけで歩き回れるほどに「アルト」は小さくなかった。
お昼頃まで回っても、ようやく全体の4分の1に至るかどうかという程度で、1日歩き回っても街のすべてを見られそうにもなかった。
「これは1日だけでは無理だな」
「えぇ。もう1日あってどうにかというところですかね? それも歩き回ることに集中してようやく、というところですかね? 休み休みであったら、それこそ数日は掛かりそうです」
アンリの両親はそれぞれにため息を吐いた。農作業であれば1日中続けられるが、見慣れない街中を、気張って過ごすというのはなかなかに骨が折れることである。そのこともあって、いくらか注意力が散漫となっていた。
「アンリは元気だな。そんなに街は楽しいか?」
アントンも両親同様に疲れていた。が、両親よりかはいくらか気楽であり、アンリ同様に初めて見る光景に胸を高鳴らせていたこともあり、両親よりも疲れてはいなかった。さすがに一切疲れを見せていないアンリとは比べようもなかったが。
「はい、たのしいです! でも、いまはおなかがすきました」
かわいらしく鳴るお腹をアンリは撫でながら言った。そんなアンリの姿に両親とアントンは笑いながら、時計塔の広場で持ってきていたお弁当を食べることにしたのだ。お弁当の中身は、妖狐族であれば誰もが好きないなり寿司である。そのいなり寿司を笹の葉で包み、それぞれに分けたのが妖狐族のお弁当であった。
そんなお弁当をアンリの母は家族それぞれに渡して、時計塔を眺めながら食べることにしたのだ。
それだけであれば、特に問題はなかった。
問題だったのはその先であった。
「あら、お茶の用意を忘れていました」
「それくらいは問題ないさ。この場で水を沸かせばいいだけだ」
「そうですね。お土産に買った茶葉もありますし」
上界に出るということで、お土産をお願いされていた。茶葉は大ババ様からのリクエストであり、店先で試飲させて貰い、なかなかに美味しかったこともあって、家用に別途で買っていたものがあった。
お茶がなくても、買った茶葉でお茶を用意すればいい。幸いなことに家で使っている茶器が古びていたこともあって、新しいものを用立てていたので、茶器の心配もない。問題はお湯だけだったが、お湯を用意することは妖狐にとってはたやすいことである。狐火を用いて沸かせばいいだけのことだった。
ただ、街中で狐火を使うというのは少し憚れた。さすがに狐火を使ってしまっては、自分たちが妖狐であると言っているようなものだった。
だから使うとしてもこっそりと。それもできる限り魔法を使っているように見せるようにしないといけない。いくらか注意を払いながら使わなければならなかった。アンリの両親は注意を払いながら狐火を使おうとしたのだが、そこにアンリが無邪気に言ってしまったのだ。
「アンリがやります!」
しゅたっと手を挙げながら、アンリはむむむと唸って力んでいく。その姿だけを見るととても愛らしくはあった。ただ、力む姿は見る限りになにかしらのことをしようとしているようにしか見えない。
アンリの両親は慌てて、やらなくていいと言ったのだが、アンリの耳には届かなかった。
アンリが力んでいたのは、狐火を使うためだった。
ただ、アンリは妖狐にしては珍しく狐火を使うのが苦手だったのだ。
それでも普段は練習にと狐火をことある毎にアンリは使わせて貰っていた。
だから、それはいつもの延長線上の行為だった。
少なくともアンリにとってはそうだったのだ。
だから、アンリは気にすることなく、狐火を使ってしまった。
「きつねび!」
えいや、と力んで狐火を放ったアンリ。狐火というにはほとんど火の粉のようなものでしかったが、そこにはたしかに火が点ったのだ。その光景に、それまで一家を穏やかに見つめていた人々の目が、いや、空気自体が変わった。騒然とはしていなかった。ただ、凪いだかのような静寂が場を包み込んだのだ。
その静寂にアンリの両親は慌てた。アントンはどうにかごまかそうと「こらこら、狐火なんて物騒なことを言ってはならないと言っているだろうに」と下手な言い訳を口にしていた。
だが、その程度で空気が変わるわけもなかった。
空気は変わらないまま、ただ静寂だけが場を包み込んでいく。そしてそれは起きたのだった。




