48話 わがままと影法師
アンリが30歳の誕生日を迎える少し前。
いつものように里長の家で日中を過ごし、夕方頃に迎えに来てくれたアントンとともにアンリは家に帰った。
それはいつもとなんら変わらない光景。
暮れなずむ空も、里の中を行き交う人々も、途中の家々から漏れ聞こえるその家の住人の声も。なにかもがいつもと同じ。なんら変わらない、いつも通りの帰宅路。その帰路の最中のことだった。
「そろそろおまえの誕生日だな、アンリ」
いつもは手を繋いでくれる兄が、その日は肩車をしてくれていた。
当時のアンリを肩車することは、畑仕事で疲れていた兄でもできた。それくらいにアンリは幼く軽かった。
それでもアンリはいつもであれば、肩車ではなく自分の足で歩いて家にまで帰っていた。
いくらアンリが軽くても、兄が仕事で疲れていることは紛れもない事実だった。
だから「肩車でもしようか?」と言われても、いつもであれば断っていた。実際にその日も最初は断ったのだ。が、兄は笑いながら「遠慮するな」と言って、やや強引にアンリを担ぎ上げて、肩に乗せてしまったのだ。
一度そうなってしまったら、もう受け入れるしかなかった。別段、高いところが苦手というわけでもないし、肩車が嫌いというわけでもなかった。下手に暴れて落ちてしまったら、かえって兄に悪いし、アンリを大切にしてくれている兄は気にするだろう。当時のアンリにできるのは、肩車を黙って受け入れることくらいだった。
兄に悪いとは思っていた。畑仕事で疲れているだろうに、迎えに来てくれるだけでありがたいというのに、さらに軽いとはいえ、米俵くらいはあるアンリを肩に担いでくれていたのだ。兄に肩車をして貰うのは好きではあるが、申し訳なさはあった。
その申し訳なさも、実際に肩車をして貰い、いつもとは異なる視点で帰路に着いているうちうに徐々に薄れていった。
幼かった頃のアンリは、兄の肩車が大好きだった。
父の肩車も好きだが、一番好きなのは兄の肩車だった。視点だって兄よりも父の方が高く、より遠くまで見通せる。なのに、一番好きで、一番安心できたのが兄の肩車だった。
目に映るものはいつもとなんら変わらないのに、視点が違うだけではじめて目にしたかのように思えていた。
思わずはしゃぎそうになりそうな自身を抑えながらも、アンリは兄の肩車にして貰いながらの帰路に心を躍らせていた。
そんなときに、兄が口にしたのは、誕生日の話題だった。
「誕生日に欲しいものはあるか?」
「ほしいもの、ですか?」
「あぁ。なんでもいいぞ。多少高かろうが、なんでも言っていいのだ」
「……そんなのないのです」
「そうなのか?」
「はい。アンリは、アンリはおとうさま、おかあさま、おにいさまといっしょにいられるだけですごく、すっごくしあわせなのです」
欲しいものを聞かれてアンリが答えたのは、欲というものが一切感じられないものだった。日中は畑で汗を流す両親と兄と一緒にいられること。それ以上に望むことなどない。それだって、日が落ちてから眠るまでのわずかな間だけだが一緒に過ごすことができる。そのわずかな時間のふれ合いだけでも、十分すぎるほどにアンリは幸せだった。だからいまさら欲しいものがあるかと問われても答えようがなかったし、これと言って欲しいと思うものなどなかったのだ。
「……そう言ってくれるのは嬉しいし、ありがたいとは思うのだがなぁ」
そんなアンリの返答に兄は困ったように笑っていた。その反応に当時のアンリは首を傾げた。欲しいものがない。家族と一緒にいられるだけで十分だと言ったのに、その返答のどこに困る要素があるのか。それがアンリにはわからなかった。
(うちには、そんなにおかねがないのに。おかねがかかるものはいらないっていったのに、なにがダメなんでしょう?)
仮に欲しいものがあったとしても、それを強請ればお金がなくなる。食べる物には困らないが、決して余裕があるとは言えないアンリの家にとって、誕生日の贈り物は少なくないダメージを家計に与えることになる。だから、そんなものはいらないと言ったのに、それがなぜダメなのか。幼いアンリはその理由がよくわからなかった。
「……おまえの気遣いはとても嬉しいし、おまえが本当に心優しい、いい子だということをこの兄もそして父上も母上も理解している。だがな、アンリ。その気遣いはかえって兄たちには辛いことなのだぞ?」
「え?」
「おまえはまだ30歳にもなっていない子供だ。大ババ様が仰るには、ヒューマンで言うところの5つか6つの年頃ということだが、その年頃の子供が家の懐事情を察して、欲しいものをねだらないというのは、稼ぎの悪い大人のせいということになってしまう。むろん、おまえがそんなつもりで言ったわけではないということはわかっている。わかっているのだが、どうしても思ってしまうのだよ。まだ幼いおまえにいらぬ気遣いをさせてしまっているのだなぁとね。そう思うと、この兄の胸は申し訳なさで張り裂けてしまいそうなのだ。父上と母上もまたな」
「そんな」
兄の言葉にアンリは大きな衝撃を受けた。家族のために、家族が無理をしないようにと欲しいものはないと言った。本当に欲しいものは特になく、一緒に過ごせるだけで十分すぎると思っていた。
だが、それが兄や両親に申し訳なさを抱かせてしまっているなんて考えてもいなかったのだ。その兄の一言にアンリの胸は張り裂けそうになってしまった。視界がゆっくりと歪んでいくのがわかった。
「あぁ、泣くな、アンリ。別に怒っているわけではないのだぞ? ただ、兄たちは思うのだ。もっとわがままを言っていいのだ、とな。おまえは少し、そう、ほんの少しだけいい子すぎるのだよ。いい子でいるのが悪いわけではない。ただ、なんというかなぁ。おまえにはもっと子供らしい子供でいてほしい、とどうしても願ってしまうのだ」
「こどもらしい?」
しゃくりあげながら、アンリが聞き返すと、兄は「あぁ」と頷いた。
「おまえはまだ30歳にもなっていない子供だ。そんな子供のおまえがわがままのひとつも言わないのは、いや、わがままを言わせてあげられないというのはなんとも辛いのだよ。家がもっと裕福であれば、いくらでもわがままを言わせてあげられるのに。わがままのひとつも言えないようにしてしまったことが、なんとも辛いのだ」
兄は立ち止まりながら、沈み行く夕日を眺めていた。その夕日をアンリもまた眺めた。濡れた視界で眺める夕日は、ひどく歪んでいて、いつも見ている夕日とはまるで違うもののようだった。
「だからな、アンリ。欲しいものがないとおまえは言ったが、今回ばかりは欲しいものをあえて言ってほしい。無理に言えとは言わぬし、本当にないのであれば、父上たちと相談して早々に畑仕事を切り上げて、おまえと一緒に過ごすという風にしようとは思う。それが本当におまえの望みであれば、それを叶えることをおまえへの贈り物にしよう」
本当の望み。
兄の言葉を受けて、アンリは一瞬考え込むが、やはり欲しいものというものはなにひとつ思いつかなかった。
ただ、してほしいことという意味であれば、話は変わる。変わるが果たしてそれを言ってもいいのだろうかとアンリには判断が着かなかった。
「……ふむ、なにか思いついたようだな?」
「え?」
「これでも30年近くおまえの兄をしているのだ。おまえがどういうことを考えているかくらい、すぐにわかるさ。そうだなぁ。欲しいものはないが、してほしいことはある。そういうところかな?」
兄が顔を向ける。兄は笑っていた。その笑顔を眺めながらアンリは静かに、だが、たしかに頷いた。
「そうか。では、なにをしてほしいのだ?」
「……アンリは、おそとにいってみたいです」
「おそと?」
「はい。いえのそとではなく、さとのそとにでてみたいです」
「……ふむ。里の外か。上界に出てみたいのか?」
「はい。リィンねえさまは、なんどか、おおババ様につれていってもらっているとおっしゃっていたのです。おそとには、さとのなかにはないものや、さとにはいないひとたちがいっぱいいるっておっしゃっておられたのです」
「それを見たいのか?」
「……はい。だめ、ですか?」
恐る恐るとアンリは尋ねた。兄は少しだけ口ごもった。里の外に出る。それがどういう意味を持っているのかは、当時のアンリでもわかっていた。それでもなお里の外である上界への興味は尽きなかった。たとえ、それが里の掟で基本的に禁じられているということであったとしても。里にはないもの、里にはいない人々や見ることのない光景を目にしたいという好奇心は日に日に募っていたのだ。
「……そう、だなぁ。父上と母上にも相談しようか。そのうえで大ババ様のご許可をいただけたら、ということになるが」
「ほんとう、ですか?」
「あぁ、本当だよ。ただ、いつまでもというわけにはいかぬ。せいぜい数時間という程度になるが、それでもよいか?」
「はい。たとえ、ほんの少しでもいいのです」
「そうか。わかった。では、帰ったら、まずは父上と母上に相談しよう。おふたりが頷かれたら、今度は大ババ様だ。ただし、大ババ様はもちろん、父上と母上も肯んじなければ、この話はなしになるが、いいだろうか?」
「はい、もちろんです!」
アンリは若干鼻息を荒くして頷いた。そんなアンリに兄は苦笑いしつつも、その目はどこか真剣味を帯びていた。が、そのことにアンリは気づくことなく、「わがままをいってよかった」と少しだけはしゃいでいた。そんなアンリの姿に、兄はいつものように笑ってくれた。笑う兄の先には、長く伸びた影法師が見えた。淡い緋色の世界にあって、黒く伸びる影法師。その影法師にわずかな胸騒ぎのようなものを感じはしたが、アンリはあえて気にすることなく、そう遠くない誕生日に心を躍らせていた。……そのわがままが、アンリの幸せを壊すことになるなんて思いもせずに、ただただ無邪気に笑い続けるのだった。




