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35話 飛翔

 ただ歩くだけ。


 ただそれだけだというのに、ひどく消耗させられていた。


(こんなのは、うちのじいさんの修行以来だな)


 歩くだけでいい。


 ただ、目の前を歩くだけでいい。


 それが修行の内容だと言われたとき、テンゼンはリアルで「は?」と聞き返したことがあった。


 テンゼンの祖父はそんなテンゼンに苦笑いしながらも、もう一度同じ内容を口にした。


 どうしてそんなことをするのかは、当時はさっぱりとわからなかった。


 わからないまま、祖父の前をただ歩いた。


 そのただ歩くだけで、とんでもなく消耗させられたのだ。


 いま考えても、いまだにその理由はわからない。


 歩くという行為は、よほど特殊な事情でもない限り、誰でもできること。その誰でもできるはずのことが、そのときだけひどく困難なことにさせられたのだ。


 ちょうどテンゼンが10歳くらいの頃だったが、あれから10年近い時間が経ったものの、いまだに祖父の意図は完全に理解できていないが、あれがなにかしらの大切なものを伝えるためのものであったということはわかることはできた。


 ただ、その大切ななにかがなんであるのかは、いまだにわからない。もっと時間が経てばわかるのかもしれないが、少なくとも教えてくれる祖父はもうまともに言葉を喋ってはくれないので、自分で答えにたどり着くしかなかった。


 そんな思い出に浸りそうになるほど、現状はテンゼンにとっても辛いことであった。


 体に辛いわけではない。


 むしろ体に負担が掛かるというのであれば、いままでの方がよっぽど負担が掛かっていた。

 いまは体への負担という意味であれば、大したことはない。ただ歩いているだけ。それも鍛えているテンゼンにとって、数百メートルの道のりというのは、あってないようなものだ。全速力で走れというのであればまだしも、ただゆっくり歩くだけであれば負担なんてあるはずもなかった。


 だが、それはあくまでも肉体的な負担である。精神的な負担はとてもでないが、あってないようなものだとは言えない。それこそ気絶してしまいかねないほどの重圧感にテンゼンは晒されていた。


(ったく、なんだよ、この馬鹿げたトラップは。すごろくであれば、当たり前にあるトラップだけどさ、それをわざわざ再現するとか頭おかしいだろ)


 すごろくで当たり前にあるトラップ。ゴール手前でスタートに戻されるというのは、鬼畜にもほどがあった。


 実際のすごろくでそのマスに止まったときの絶望感は半端なものではない。が、すごろくであれば、そのトラップはゴール手前に1マスあるだけだ。逆に言えば、その1マスに止まらなければなんの問題もない。


 しかし今回のレースでは、ゴールまでの残り数百メートル全体がその1マスになっているようなものだ。すごろくで言えば、ゴールまでの数十マスがすべて振りだしに戻らされるという鬼畜仕様というべきか。ぶっちゃけて言えば「ゴールさせる気ないだろう」としか言いようがないもの。もっと言えば、ゲームとして成立しないものだ。


 もっともすごろくと違うのは、踏めば確実に振り出しへと戻らさせるわけではないということ。低確率で発動するトラップであるため、運悪く発動しなければ、なんの問題もなくゴールできる。


 ただし、歩幅によって確率が上昇するため、あまり大きく踏み出すと罠が発動する確率が上昇してしまう。


 かといって慎重に歩いて行ったら、制限時間に引っかかることになる。


 迅速に行動しつつも、慎重に進んでいくという矛盾した行動をしなければならないのが、現在テンゼンたちが攻略真っ最中の最終トラップである「振りだしに戻る」だった。


 テンゼンたちはちょうど攻略の中ほど。ようやく残り半分が見えてきたところだった。あともう半分でゴールであるが、テンゼンにとってはやっと半分としか言いようがない。距離自体は300メートル。現在地点から考えるに、ようやく100メートル以上を進むことができた。

 残りは200メートルを切り、もうじき半分。たったそれだけの距離を進むだけで、とんでもない疲労感にテンゼンは襲われている。


 それはテンゼンだけではなく、ローズやレンも同じことだろう。


(正直、さっき無理矢理進もうとした奴みたいに、走りきってしまいたいけれど、それをしたら間違いなく失格になるだろうな。後続連中はほぼリタイア確定のようだし、事実上この3人での決勝戦ってところか)


 後続のプレイヤーたちは誰もトラップゾーンに足を踏み入れようとしていない。それは少し前に暴走したプレイヤーが、無慈悲に発動したトラップにより振り出しに戻らされたのを実際に見てしまったがゆえだろう。


 もしテンゼンが彼らの立場だったら、二の足を踏むのもわからなくはない。疑似レースを繰り返して、確実な攻略法がないということを理解しているのであればなおさらだろう。かといっていまさら足の引っ張り合いなどする気もないのかもしれない。


 トップであるテンゼンたち3人だけがこのレースを完全クリアーできそうな位置にいるのだ。まだ彼らもクリアーできそうな場所にいるのであれば、妨害を仕掛けてくるだろうが、すでにその意思もないのであれば、もう足を引っ張ろうという意思もないのかもしれない。


 むしろ、自分たちの分までゴールしてくれという雰囲気になりつつあった。


 託そうという相手に対して、妨害を仕掛けようという相手はいない。


 託せる相手が3人いるのであれば、対抗相手に仕掛けようものだろうが、その対抗相手がいつ託せる相手になるかどうかはわからない。


 できることは3人揃って見守っていくことだけなのだろう。


 そんなプレイヤーたちの意思を感じながらも、テンゼンは足を踏み出す。特にこれといった変化はない。それはローズとレンも同じだった。いまのままであれば、3人揃ってゴールは可能だろう。


 が、テンゼンにとってはもう時間的余裕はほとんどなかった。


 もともとゲスト参加だったのだから、制限時間は基準値である5分にされていた。いまのところ残り時間はまだ2分以上はある。


 だが、残り2分で残りの距離をこの調子で進めるかどうかは自信がなかった。


 疑似レースを繰り返して、5分を安定して切れる程度には練習したつもりだったが、本番となるといろいろと勝手が違っていた。


 疑似レースにはなかった緊張感。その緊張感が精神を削っている。そのことをテンゼンははっきりと理解していた。


 理解しているが、理解したところでプラスに働くことはない。


 いまできるのはただ天に祈りを捧げることだけ。


 祈りながら、一歩ずつ進むことしかテンゼンにはできなかった。


 それはローズもレンも同じだと思っていた。


 だが、そのテンゼンの予想はあっさりと覆された。

 

 不意にレンが立ち止まったのだ。


 いきなりのことにテンゼンは「え?」と思わず口に出していた。


「第11ランナー、いきなり立ち止まりました。これはどういうこと──え?」


 実況も怪訝そうな声を出していたが、その声は不意に止まった。無理もない。それだけありえない光景だった。


 テンゼンたちの目の前に突如として氷の塊が、宙に浮かぶ氷の塊が現れたのだ。その塊に向かってレンは飛び立った。その姿にテンゼンはただ目を奪われたのだった。

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