3話 出会いとぐるぐるぱんち
まぶたを開くと、見慣れた木目の天井が見えた。
現実の自室ではなく、ゲーム内での自室の天井だった。
クーたち虫系モンスターズたちと一緒に建てた本拠地のコテージ。
それまですべて与えられてきたまりもにとって、一からすべてを自分の手で成すというのは初めてのことだった。
雑木林を切り開き、切り開いた土地を均し、基礎を構築し、コテージを少しずつ形成していく。
途中からはクーたちに任せることになってしまったけれど、クーたちと一緒に建てたという想いはたしかにある。
それは本拠地の隣にある畑も同じ。
クーたちに本拠地を任せる代わりに、タマモは畑を耕していた。
畑を耕すのも初めてだった。
校外学習などで畑に行き、収穫を経験したことはある。
だが、その畑を作るというのは初めてだった。
最初はまるでうまくいかなかった。
最初に植えたキャベベなど最低品質のものしかできなかった。
それでもたしかに自分ひとりで作り上げたものだった。いや、自分とクーで作り上げたものだ。
それまでクーはただ雑木林の伐採で出た大量の枝葉を消費してくれる存在でしかなかった。いまのように友人という関係ではなかった。
だが、作り上げたキャベベを食べさせたことで、友人となった。それからタマモのゲームライフは一気に変わった。
最低なステータスで、まともに経験値も稼げないというひどいハンディキャップを背負わされていたが、クーのおかげで所持金には困らなくなったのだ。戦闘もできない、経験値も稼げない、お金もないというないない尽くしから、ひとつだけとはいえ開放されたのだ。そのうえヒナギク、レンという最高の仲間を得たのだ。
すべてはクーがいてくれたからこそだ。
クーがいなければ、もしかしたら早々にゲームを辞めていたかもしれないとタマモは思っていた。
最初どんなに楽しかったとしても、なかなか思い通りにいかないと人というものは徐々に飽き始めてしまう。たとえ、始めるまでどんなに楽しみにしていたとしてもだ。理想と現実のギャップの前に心が折れてしまうものだ。それはタマモとて例外ではなかっただろう。
だが、少なくともクーがいたおかげで、心が折れることはなかった。折れかかったとしても、無理矢理奮起させられることもあった。
そのおかげで予想外のものも手に入れることができた。
「んみぃ~」
隣からなんとも言えない声が聞こえてきた。
顔を向ければそこには幸せそうな笑顔で眠るアンリがいた。
ログインの際、時折アンリはタマモの眠るベッドで一緒に横になっていることがあった。ここ最近はその頻度が非常に高く、ほぼ毎日タマモのベッドに入り込んで来ていた。
理由はとても簡単。アンリにライバルができたからだ。
そのライバルの名前はエリセ。
アンリと同じく妖狐族の女性だ。同じ妖狐族であっても部族が異なり、アンリは風の妖狐の一族で、エリセは水の妖狐の一族だ。
ただアンリとは違い、エリセは水の妖狐の一族の長の家に産まれ、ほんの少し前まで水の妖狐の里の長をしていた才女だ。なおかつ10人中10人が確実に振り返るほどの、はんなり系な美人さん。アンリも美人さんではあるが、同じ美人さんでも系統が異なる。アンリは健気な妹系タイプ。エリセは包容力のあるお姉さん系。どちらもタマモにとってはドストライクである。
そのドストライクな美人さんふたりを事実上侍らしているのだから、闇討ちに遭っても文句は言えないと常々タマモは思っているが、いまのところ闇討ちに遭いそうな雰囲気はないが、警戒は怠らないようにしようと思ってはいる。
そのエリセは現在里帰り中であるため不在だ。エリセがいないと若干寂しくはあるのだが、エリセがいるとアンリがふくれっ面になることが多い。
エリセは一言で言えば、アンリの上位互換とでも言うべき女性である。もっと言えば、アンリにとっての理想の女性像そのもののようだ。その理想の姿を体現する存在が自分と同じくタマモの世話役になったのだ。嫉妬したり、対抗心を燃やしたりするのは当然のことだろう。
そのエリセにしてみれば、アンリは取るに足らないとまでは言わないが、子供扱いできる存在でしかないようにタマモには見えていた。
以前アンリがぐるぐるパンチをエリセにお見舞いしようとしたことがあったのだが、エリセはアンリの攻撃を片腕を伸ばすことですべて空振りさせてしまった。それでもアンリは必死に「うー」と唸りながらぐるぐるパンチをお見舞いし続けていたが、すべて空を切っていたのは言うまでもないことである。
そのときのエリセは微笑ましいものを見るかのような、とても穏やかな目をしていた。あれは誰がどう見てもアンリの完敗であった。そもそもアンリがぐるぐるパンチを出したのはエリセが自分こそがタマモの正妻だと言い募ったからのようである。アンリは自分が正妻じゃないと嫌だと言い募り、最終的には暴力(というにはかわいらしすぎる方法)に出たのだが、文字通りに一捻りされてしまったのだ。
その話を聞いたとき、「なにをやっているんでしょう、この人たち」とタマモが思ったのは言うまでもないが、ヒナギクとレンには「そんな幸せそうな顔でそんなことを言われても説得力がない」と言われてしまった。
自分ではどんな表情をしているのかはわからなかったが、ヒナギクたちが言うような顔をしていたとは思えなかった。
しかしふたりがそんな意味のない嘘を吐くわけもないので、おそらくは本当のことなのだろう。本当にタマモは満ち足りた顔でアンリとエリセというこの世界で得た大切な存在を見ていたのだろう。
エリセとは出会ってからまだ十日足らず。アンリとてせいぜい2ヶ月かそこらだ。
それでもふたりがタマモにとっていなくてはならない存在であることには変わりない。
たとえいずれ別れることになったとしても、それまではできる限り一緒にいたいとタマモは思えるようになっていた。別れの訪れは怖いけれど、それは誰にだって言えることだ。ヒナギクとレンとはいま仲良くやれているけれど、このゲームがサービス終了すればそれまでということだってありえるかもしれない。
いや、それよりも早く喧嘩別れすることだってありえるのだ。
いまが満ち足りていても、将来もずっと同じだとは限らない。
そして将来どうなるのかは誰にもわからない。
だからこそ、いまのうちにやれることはやっておく。
「あのときにこうしておけばよかった」という後悔をできるだけ少なくする方法だった。そしていまにおいて、それはなんなのかと言えば──。
「……誰も見ていないですよね?」
きょろきょろと辺りを見回してから、タマモは眠るアンリに手を伸ばし、その額に掛かる前髪を少し掻き上げると、そのまま口づけた。
(なんでこんなことをしているんですかね、ホクは?)
自分でもよくわからない衝動だった。
その衝動に気づいたら駆られていた。
あえて言うとすれば、なんとなく人肌が恋しくなったのだろう。
目の前にいるアンリが恋しくなった。
(エリセさんがいたら、まずいことになっていたかもですねぇ)
現在エリセは里帰り中。帰ってくるのは三が日以降ということ。
であれば、エリセに見られる心配は──。
「はぁ、ずっこいどすなぁ。アンリちゃんばっかり。うちもちょうだいしたいどすなぁ」
──心配はない、はずだった。
だが、なぜかいま聞こえてくるはずのないエリセの声が聞こえてきた。
恐る恐ると声の聞こえた方を見やると、そこにはいないはずのエリセがなぜか立っていた。それも頬をいくらか膨らまして、いかにも「私は不満です」と言うかのように不満を露わにしてだ。
「えっと、エリセさん、なんで」
「理由どすか? そらこの子が──」
「この子?」
エリセが後ろを見やりながら言うので、タマモもエリセの背後を見やると、エリセの後ろに小さな人影があった。それもエリセに抱きつく形で隠れている小さな人影がある。その人影はよく見ると頭の上に青色の立ち耳があった。エリセのものによく似ていた。
「ほら、あんたが挨拶したいと言うさかい連れて来たんやさかい、ちゃんと挨拶なさい」
その人影に向かってエリセは若干口調を崩していた。とても親しげにその人影にエリセは声を掛けると、「……はい」とその人影もといその子供の妖狐は頷き、そしてエリセの後ろからちょこんと顔を出した。
「……初めまして、シオンどす。よろしゅうおたのもうします。えっと、なんて呼んだらよろしいどすか? 義兄様? 義姉様?」
子供の妖狐ことシオンは、エリセによく似ていた。似ているが、エリセとは違い、だいぶ引っ込み思案な子のようだ。それでいておかしな呼び方をしてきたが、以前エリセが言っていたことを思い出す限り、このシオンという子がエリセにとってどんな存在であるのかを踏まえれば、そのおかしな呼び方の意味もわかるというものだった。
「……呼びやすい風にしてくれればいいですよ、シオンくん。エリセさんの弟さんですよね?」
「はい、姉様の弟どす。今回はその、姉様が嫁がれる方に挨拶しいひん思たさかい、それで」
「なるほど。わざわざ遠いところありがとうございますね。ボクはタマモです。エリセさんにお世話をして貰っています」
「はい、知っています。姉様がさんざんお話してくれたさかい」
そう言って、シオンはエリセの服をぎゅっと掴んだ。服を掴みながらタマモを見やる目はいくらか剣呑である。その仕草と眼光に、タマモは「おや?」と思ったが、すぐに理由は察することができた。というよりも見れば誰だってわかることである。
「エリセさんは大切にしますから、安心してくださいね」
「……絶対やさかい。嘘吐いたら絶対に許さへん」
「はい、もちろん。シオンくんの大好きなお姉さんを泣かせたりはしませんよ」
ニコニコと笑いながらタマモは言った。
シオンにとってエリセは大好きな姉なのだろう。それこそ初めて訪れた場所でもくっついて離れなければ、強気に出られるくらいには、シオンにとってエリセはなくてはらない存在ということなのだろう。その大好きな姉をかっさらっていくタマモに、挨拶兼釘を刺しに来たというのがシオンの目的なのだ。
そのことはエリセも気づいていたのか、「この子はもう」とため息を吐く始末。だが、当のシオンはタマモをじっと睨むばかり。そんなシオンにエリセは頭を押さえてため息を吐いているが、そのやりとりはどこか穏やかで微笑ましいものだとタマモには思えた。
「約束しますよ。エリセさんは必ず幸せに──」
「……旦那様の浮気者」
「……ほえ?」
シオンと約束を交わそうとしたのだが、不意にひどくドスの利いた声が聞こえてきた。タマモが恐る恐ると視線を逸らすと、そこには剣呑な目を、瞳孔を縦に割けたアンリとこんにちはだった。さぁーと血の気が引いていく音をタマモははっきりと耳にした。
「あ、アンリさん。これは」
「言い訳は卑怯です! 旦那様のばかぁぁぁ!」
アンリはさっとタマモの上に乗っかると以前のようにぐるぐるパンチを連続で放ってきた。ぽかぽかぽかと非常に軽いパンチではあるものの、それでも痛いものは痛いのである。それも逃げられないように上に乗っかられた状態では余計にだ。
「あ、アンリさん、落ち着いて」
「アンリは落ち着いていますぅ! 旦那様のばかぁぁぁ!」
落ち着いているとアンリは言うが、本当に落ち着いている人は他人を殴ることはしないと言いたいところだが、下手なことを言えば、アンリの怒りが余計に爆発しかねないので、タマモはなにも言い返すことができなかった。
「お、落ち着いてください、アンリさん!」
「うー、旦那様のバカバカバカバカバカばかぁぁぁ!」
なにを言ってもアンリは落ち着いてくれそうにはなかった。
かといって、助け船を出してくれそうなエリセはと言うと──。
「ええ、シオン。あんたが姉様を大切に思ってくれているのはわかるけどね」
「でも、姉様」
「でももなにもあらへんの。旦那様がお優しい人だからってあないなことはもう言ったらあかんよ?」
「……むぅ」
「もう本当にこの子は」
エリセはシオンに言い聞かせるので精一杯のようで、タマモを助ける余裕はないようだった。
どうしてこうなったのだろうと思うタマモ。
しかしその疑問に答えてくれる人物はいなかった。
その後タマモはアンリが落ち着きを取り戻すまで、延々とぐるぐるパンチをお見舞いされ続けることになるのだった。




