Ex-23 鬼として、母として。
いまでも覚えている。
あの子が、エリセが産まれたときのことは、いまでも鮮明に覚えていた。……あれほどまでに憎悪と殺意、そして愛おしさを感じたことはなかったからだ。
「なんてことだ。我が一族にこのような忌み子が産まれようとは」
そう言ったのは、種なしだった。
名前はあったが、もう忘れた。なにせ婚姻してからずっと心の中では「種なし」と蔑んでいたからだ。
表向きは「旦那様」と言って貞淑な妻を演じてはいたし、閨では従順な女として振る舞った。
だが、心の中では「種なし」とずっと蔑み、罵倒していた。
本当に種なしだったからだ。
なにせ、夕餉の後に湯浴みを終えてから、日付が変わるまでの間ずっとまぐわっても。それを連日続けても相手を身ごもらせることができないほどだった。
性欲は人並み以上にあったが、肝心の種がなかった。
本人も自身の種がないことを自覚はしていたのだろうが、高貴な血筋たる自分が子供を作るための種がないという事実を認めることができなかったのだろう。……なんとも馬鹿らしいことではあるが、高貴な血筋とやらは自身が劣等的な存在であることを認められないのだろう。
次世代を作るという自分たちが劣等種と蔑む者たちでもできることができないというのは、高貴な血筋とやらではあってはならないという意味のない自負でもあったのかもしれないが、いまやどうでもいいことだ。
その高貴な血筋はもう絶滅確定だからだ。
種なしの一族はもういなくなる。正確には純粋なる一族の者はいなくなるのだ。
エリセとシオンは一応あれの子ではあるが、その血は半分しか流れていない。そのことを揶揄して種なしたちは、あの子たちを「混ざり物」と呼んではいた。子ではあるし、一族の一員として認めてはいても蔑んではいたのだ。
半分だけでも子は子だろうとエリスは思うものの、種なしたちにとってはそれ自体を認めたがらなかった。認めたがらなかったが、純血の子供はいなかった。いるのは一族の者ではない自分との間に産まれたふたりだけだった。
種なしには弟がふたりいた。種なしの親たちはたまたま兄弟がおらず、その分子供を3人産んだのだが、その子供たちは種なしを除いて、子宝に恵まれなかった。
子宝に恵まれないまま、上の弟は死んだ。下の弟ももう虫の息になっている。……エリスの手によってだ。
種なしの弟ども相手に恨みがあるわけではない。だが、種なしの弟であったことは覆しようのない事実だ。だから死んで貰った。
エリスの憎悪と殺意は種なしの一族に、純血の一族にのみ向けられている。エリセとシオンは愛おしい娘と息子以外を滅ぼすことがエリスの生きる理由になっていた。
その理由が種なしが言い放った一言。産まれたばかりのエリセに向かって言い放った一言だ。
忌み子。
種なしは産まれたばかりのエリセを見て、あんなにも愛らしい子を見て忌々しそうに顔を歪めて言い放ったのだ。
種なしは「鑑定」を使ってエリセの力を測ったのだ。
その結果は一言で言えば、異常だった。
妖狐族はもともと魔力が高い。獣人はもともと身体能力に秀でてはいるが、その分魔力が低く、魔法の適性がない者が多いのだが、妖狐は例外的に魔力が高い。それこそ魔力の高いエルフを始めたとした妖精族と遜色ないほどに。
いわば、妖狐族は獣人と妖精族の中間、いいとこ取りの存在なのだが、その妖狐族の中でもエリセの魔力の資質は異常すぎた。
すべての魔法属性において最上級の資質を持った上で相手の思考を読む心眼持ちだったのだ。その心眼も相手の思考を読むだけではなく、相手の過去さえもわかってしまうという過去視の力も持っていた。心眼というよりも魔眼と言ってもいいほどの力をエリセは持って産まれた。
高貴な血筋の一族の者としてこれ以上となく相応しい力の持ち主と言ってもいいほどだった。
そのエリセを種なしたちは「忌み子」と言った。
それは実に単純な理由だった。
エリセが純血ではなかったからだ。
エリセが純血であれば、種なしたちは挙ってエリセの誕生を喜んだだろう。
自分たちの血が、高貴な血筋にはたしかな力があるのだと喜んだことだろう。
しかしエリセは純血ではなかった。
母であるエリスは種なしたち曰く劣等種の一族の出。その一族の血が混ざって産まれた者は劣等でなければならない。間違っても自分たちよりもはるかに強い力を持って産まれることなどあってはならなかった。
そのあってはならなかったことがあってしまった。
それが種なしたちがエリセを忌み子として扱った理由である。
たったひとつ。純血であるかないかという、くだらない理由でエリセは忌み子として忌み嫌われたうえに殺され掛かったのだ。それも実の父親の手によってだ。
そんな相手を恨まないことなんてできるわけがなかった。
種なしが刃物を持って来たと同時にエリスは、エリセを産んで消耗した体に鞭を打ち、自分の身を盾にするようにエリセを庇った。その間種なしは何度も罵声を浴びせかけたが、エリスは聞かなかった。聞く気はなかった。たとえ後ろから刺され、斬りつけられたとしてもエリセを守り抜くと決めていた。
種なしが手に持った刃物でエリスに斬りかかることはおろか、刺すことは実際にはなかった。そうなる前に大ババ様と呼ばれるリーゼが種なしを物理的に一蹴したのだ。
その際、種なしはエリセを忌み子だとリーゼに向かって言ったが、その言葉にエリスは耐えきれなくなり、それまで決して刃向かうことをしなかった種なしたちに向かって怒声を浴びせかけた。そのときの種なしたちの顔はいまでも覚えている。正確には種なしたちの瞳に映った鬼のように怒り狂った自身の姿を覚えている。
あれからもうどれほどの時間が経っただろうか。
腕の中に収まるほどだったエリセは、いまやエリスと変わらないほどに大きくなった。見た目は若い頃の自分にそっくりだ。いや、若い頃の自分よりもはるかに美しい。……若干頑固なところは自分によく似ている気がするが、それも些事である。
エリセにはいままで苦労を掛けさせ続けた。
エリス付きの使用人と種なしの間に産まれた子として、私生児だが嫡子ということにしたのだ。
本当なら実の子として育せたかった。
実父である種なしの分まで、母親である自分が愛情を込めて育てたかった。
けれど、エリスには種なしの一族を滅ぼすという目的ができてしまった。この憎悪と殺意は自分だけのもの。エリセにまでその害を及ぼさせたくなかった。それはエリセの弟であるシオンに対しても同じ。
エリセもシオンもあの種なしの子とは思えないほどに優しい子だ。
特にエリセは、あれほど忌み嫌われて育ったというのに、その性根の優しさは決して変わらなかった。シオンに里長としての教育を施す様は、厳しくもあるがそれ以上に優しく穏やかなものだった。腹違いの弟に、跡継ぎとしての席を奪った相手に向けるような者ではなかった。年の離れた弟を溺愛する姉としてエリセはシオンと接してくれていた。シオンもそんなエリセを母である自分以上に慕ってくれている。
そんなふたりの姿を見て、エリセを私生児にすると決めたことは間違いではなかったと思った。
エリセは優しすぎるのだ。
私生児として育ち、一族からは忌み子として、同じ里の者からは化け物として扱われてきたというのに、エリセは誰よりも人の痛みがわかる子になってくれた。
そんなエリセがもし自分が産まれたことで、母であるエリスが父の種なしの一族を滅ぼそうとしていると知ったら、どう思っていたことだろうか。エリセはエリセ自身が産まれてきたことを呪うだろう。優しい母が自分のせいで鬼になった。そんな事実をエリセはきっと耐えきれなくなる。耐えきれなくなった結果、行き着く先は想像に難くない。
もともとエリセになんのしがらみも与えないために、こんなくそったれな一族とは無縁に生きて貰うためにエリセを私生児にすることにした。
だが、いまではそこにエリセが優しすぎるからという理由も含まれることになった。
その優しく美しいエリセは、いま良人を後ろから抱きしめて眠っていた。エリセほどの器量よしであれば、いくらでも良人は見つかると思っていた。
だが、その良人がまさか種なしどもが固執していた「金毛の妖狐」だとはなんの因果だろうか。エリスとしては「ざまぁ見ろ」と言いたくなることではあり、膝を叩いて喝采したいほどに痛快極まりないことだ。
その人柄も問題はない。
エリセをぞんざいに扱った自分に対して、怒りを覚え、あんな堂々とした啖呵を切ったのだ。エリセの嫁入り先としてこれ以上となく相応しい相手だと言える。なによりもきっとあの子であれば、エリセを幸せにしてくれることだろう。
エリセはとても幸せそうに眠っている。
いままでそんな寝顔をあの子が浮かべたことは、知る限り赤子のときくらいだろう。
それだけあの子が安心できる場所をあの「金毛の妖狐」は早くも用意してくれている。
ならばもう後顧の憂いはない。
種なしの一族を殺すために服薬し続けた毒は、種なしたちを追い詰めてくれた。だが、追い詰めたのは種なしたちだけじゃない。エリス自身にも牙を剥いている。
リーゼが心配をしてくれているが、その心配はもう意味のないものだ。
エリスの体はもう限界になっていた。
医者に余命宣告をされてしまうほどに。
医者は保って数年と言った。
保たなければ半年とも。
種なしの末の弟はもう死に掛けている。余命はあと一月というところ。つまり種なしの一族の落陽は眺めることはできる。そこでエリスの人生は終わりを告げる。
本音を言えば、シオンが成人するまで生きたかったし、エリセが子を産み、母になるところを見たかった。
だが、そのエリセを殺そうとした一族を滅ぼすことは、エリス自身が決めたことだ。
この殺意も憎悪もすべてエリスだけのもの。
それらのために生きると決めたときから、エリスはもう母ではなくなった。
だからこういう終わりも仕方のないことである。
それでも、それでもせめて。言いたいことはあった。
面と向かって言うことはできないけれど、伝えることはできないけれど、いまなら言える。エリセが眠ったいまだからこそ言えることがあるのだ。
「幸せにおなり、エリセ」
青白い月の下で、良人とともに眠る愛おしい娘を眺めながら、エリスは静かに呟いた。
夜鳴きする鳥の声が響く。
その声はまるで自分の人生の終わりを告げているかのようだとエリスは思った。そう思いながらもエリスはいつまでもエリセとその良人の姿を見つめていた。しっかりとまぶたの裏にまで焼き付くようにただただ眺め続けた。




