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60話 特別な時間の終わりに

 日付が変わろうとしていた。


 与えられた特別な時間が終わろうとしている。


 それでもなお、タマモはまだ戻ってきていなかった。


 アンリの誕生日会は終わろうとしていた。


 この日のために用意した食事は──アンリの母親の味を再現した玉子焼きは、アンリは絶賛してくれた。なにも大きなリアクションを取ったり、大きな声でどういう風な食材を使っているかを伝えたりしているわけではなかった。ただ、泣きながら「おいしいです」と言ってくれただけのこと。


 だが、たったそれだけのことであっても、用意したヒナギクにしてみれば、これ以上とない賛辞だった。


 アンリは泣きながら玉子焼きを食べ、そんなアンリを兄であるアントンは頭を撫でていた。頭を撫でながらもアントンの目にも光るものがあったのだが、そのことを指摘する無粋なまねは誰もしなかった。そのときだけ、誕生日会の会場は兄妹だけの世界になっていた。


 アンリへの誕生日プレゼントはタマモ以外はすでに渡している。やはりアンリは喜んでくれた。


 ただ、いきなり余興として剣舞があるとはヒナギク自身思ってもいなかったのだが。


 その剣舞を演じたのは、狐の面を付けた狐耳と狐の尻尾をした小柄な女性だった。一言二言しかその女性は喋らなかった。なにせいきなりアンリの実家に訪れたのだ。


「……眷属様に頼まれて参りました。アンリ殿のために舞ってくれということでした」


 その女性はそう言ってアンリの誕生日に参加していたメンバーを家の外に連れ出すと、その場で剣舞を演じてくれた。


 小さな体はときに回転し、ときには空に飛び上がった。月明かりに照らされながら闇夜を舞う姿はとても美しかった。美しくあるのに、舞いと供に放たれる斬撃は凄まじいの一言に尽きた。なにせその斬撃はなにもないはずの空間に放たれているというのに、びりびりと空気を震わせるほどの衝撃を放っていた。見えないなにかをひとつひとつ確実に断っているとヒナギクには感じられたほどだ。


 それでいて舞いとして成立もしているという、柔と剛が両立した見事なものであった。その姿に誰よりも目を奪われていたのはレンだった。


 レンは「どこかで見た気がする」とだけ言って、その演者を目で追いかけていた。その視線はとても鋭く、だが一方でとても穏やかであった。その視線を浴びて演者である女性は口元にわずかな笑みを浮かべていた。その笑みはヒナギクもどこかで見た記憶があった。


 演者の女性は一通り舞い終わると、静かに一礼をして「それではこれにて。眷属様には「お約束は果たしました」とお伝えください」と言って、踵を返して近くの角を曲がってしまった。


 レンとヒナギクは慌てて追いかけたが、すでに女性の姿はどこにもなかった。ただ月明かりだけが通りを照らしていて、まるで幻を見ていたような感覚に陥った。


 そんな不思議な一幕もあったが、アンリの誕生日会は滞りなく進んでいった。ただひとりアンリが最も祝って欲しいであろうタマモがいないということを除けば。


 しかしタマモがいないことは、アンリ自身が背を押した結果である。


 当初はどうにかごまかそうと思っていたのだが、タマモの心ここにあらずという様子を見て、アンリは「気になることがあるのでしたら、そちらを優先してください」と笑ったのだ。

 タマモは最初遠慮していたが、アンリはタマモの手を握ると続けたのだ。


「アンリのことは気になさらずに。旦那様には旦那様しかできないことがあります。そのことをなさってください」


 アンリは少しだけ寂しそうではあったが、タマモの気持ちを優先していたのだ。その言葉にその笑顔にタマモは「……少しだけ席を外します」と言って、大ババ様とともに転移していった。


 タマモを見送るアンリは、背をぴんと伸ばしてから静かにお辞儀をしていた。良妻という言葉はアンリのためにあるようなものだなとヒナギクは心の底から思った。それはヒナギクだけではなく、レンやアントンも同じだった。


「……あんなにも甘えん坊だったのに、少しそばを離れた間で成長したものだ」


 アントンはアンリの後ろ姿を見て嬉しそうに、だが少し寂しそうに笑った。その寂しそうに笑う姿はアンリと重なって見えて、血のつながりをたしかに感じ取れた。


 それから時間はあっという間に過ぎた。


 運営に与えられた特別な時間は、もうじき終わろうとしている。


 それでもまだタマモは戻ってこない。


 アンリはじっと家の戸をじっと眺めたままでいる。


「アンリちゃん。さすがにタマちゃんは」


「もう少しだけ」


「でも」


「アンリは大丈夫ですから」


 にこりとアンリは笑う。大丈夫とは言っても、ログイン限界まであとわずかである。これ以上待ったところでタマモが戻ってくる保証はない。


 とはいえ、このまま戻ってこないと決まったわけでもない。


 だが、それでももう時間はない。


 いくらなんでもタマモももうログアウトしているだろう。


 それでもアンリはじっとタマモを待っている。


 タマモを待ち続けていた。


 その姿は尊いと思うし、データだけの存在とは思えないほどに、ヒナギクたちと変わらない、生身を持った存在であるように思えてならない。


 とはいえ、限界は限界なのだ。


 すでにヒナギクも若干の眠気が襲っていた。


 それが「EKO」のログイン限界の形である。


 あと数分、長くても5分ほどで強制的にログアウトとなるのだ。


 さすがにもう間に合わないだろう。


 ヒナギクもレンもそう思うが、それをアンリに遠回しに伝えているが、それでもなおアンリは待っている。待ち続けている。その姿はどこまでも健気であった。


「……もう少しだけ付き合ってくだされ、おふたりとも」


 アントンは苦笑いしながら言う。付き合うもなにもヒナギクもレンもここまで来たら、最後まで付き合うつもりではあるが、システム上の限界は精神論で越えられるものではない。それでもアンリのためであれば、と思っていた。そのときだった。


「夜分遅く失礼致します」


 不意に戸が叩かれ、女性の声が聞こえてくる。それも聞き覚えのある女性のものだが、アンリとアントンは知らないのか、首を傾げている。首を傾げながらもアンリは戸を開くと、そこには糸目の女性が、きれいな青い髪と青い毛並みの耳と尻尾を持った女性が、「水の妖狐の里」の里長であるエリセが立っていた。


「え、水の里長様?」


 エリセの姿を見て、アンリが驚いていた。それはアントンも同じなのか、あんぐりと大きな口を開けて驚いている。


「アンリさん、ですね? だ──ごほん、眷属様がお待ちですので、こちらへ」


 そう言ってエリセはアンリの手を取った。アンリはタマモの名前を聞いて二つ返事で頷き、エリセとともに家を出て行く。ふたりの後をヒナギクとレンも慌てて追いかけた。アントンは家に残るつもりのようで、追いかけてくる様子はなかった。


 ふたりを追いかけながら、ヒナギクはタマモとエリセの話し合いは無事に終わったということはわかった。わかったのだが──。


「ねぇ、エリセさん、さっき「だ」って言わなかった?」


「……言っていたね」


「あの後、なんて続けるつもりだったのかな?」


「……なんとなく予想がつくんだけどね」


「奇遇だね、私も予想がついちゃったよ」


「だよねぇ」


 レン共々エリセが言いかけた言葉の続きがなんであるのかは簡単に予想が付いてしまった。そして思った。


「どれだけ誑すつもりだ、あのロリは」


 どう考えてもエリセが言おうとしていたことは、アンリがタマモに対して呼ぶものであることは間違いない。というか、それ以外に「だ」が付く言葉をふたりは知らない。まさか「駄狐ロリ変態野郎」と言うわけもないだろう。


 となれば、ありえるのはひとつだけであろう。


「なんでハーレム作るのかねぇ」


「さぁ?」


「タマちゃんがそんなふしだらだとは思っていなかったよ」


 やれやれとレンが肩を竦めながら言うが、ヒナギクは不思議と「こいつもそのうちハーレム作りそうだなぁ」と思ってしまった。なお余談だが、この数年後にレンは自身の発言を後悔するような状況に追い込まれることになるのだが、このときのレンがそのことを知るよしもない。


 そうしてふたりの後を追いかけていくと、不意にふたりの姿が消えた。ふたりが曲がった角を同じように曲がったときには、すでにふたりの姿はなかったのだ。が、ふたりの代わりにひとりの女性が、大ババ様がひとり佇んでいるのが見えた。


「おお、そなたらも来たか」


 大ババ様は笑っていた。笑いながら親指でみずからの背後を指差している。指差した方を見やると、そこは墓地の入り口だった。里の共同の墓地のようだった。


「色気もなにもないが、まぁ、報告するには相応しいであろうさ」


 含むように笑う大ババ様を見やりつつ、視線を向けるとそこにはエリセにもたれ掛かりながらもまぶたを閉じたタマモとそんなタマモに抱きつくアンリがいたのだった。

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