59話 新しい日々に胸を高鳴らせて
差し伸べられた手。
それは自身の手よりもはるかに小さい手。
それは里の子供たちとなんら変わらない大きさの手。
でも、それは不思議なことに大きく見える手だった。
目の前に差しだされた手をエリセは気づいたら掴んでいた。
「エリセさん」
タマモは嬉しそうに笑っている。花が咲くというのはこういうことを言うのだろうかと思ってしまうほどに、タマモの笑顔はぱぁと輝いて見えた。
その笑顔に少し心臓が跳ねた。
どくん、どくんといままでになく大きな鼓動が聞こえてくる。
頬に熱が溜まっていくのが自分でもわかってしまう。
ふぅと小さくため息を吐きながら、溜まっていく熱を放出させようとするも、どうしても熱は鎮まらなかった。
「どうしましたか、エリセさん?」
タマモが顔を近づけてくる。
日の出の光に似た黄金の瞳に射貫かれてしまう。たったそれだけのことであるのに、胸の鼓動が高鳴っていく。
(……二百歳以上も下の子相手に、なんでときめいてんの、うちは)
タマモの見た目の年齢を考えると、エリセとの年齢差は二百歳以上ある。もはや弟妹というレベルではなく、エリセ自身が産んだ娘くらいの年齢差と言ってもいいくらいだ。実際、エリセと同年代の女性の妖狐の中では、タマモくらいの見た目の子供がいる者もいる。
むしろ、エリセのように子供どころか結婚もしていない妖狐は珍しいと言っていいほどである。
だいたい妖狐族は100歳前後で結婚する。
中には200歳近くで結婚する者もいるが、そこまで多くはない。
200歳を越えても未婚の者はほぼいない。
それどころか、エリセのように恋愛さえしていない者など珍しいを通り越して、絶滅危惧と言っていいレベルである。
自身が絶滅危惧なレベルの妖狐であることは言われずとも理解している。
それでも酸いも甘いもな恋愛とは無縁だろうなと思っていた。
だというのに、この数百年の人生で一度もなかった胸の高鳴りを、エリセは初めて感じていた。
どうしたらいいのか、さっぱりとわからなかった。
なにかしらの指南書でもあればいいのだが、そんな指南書など知らないし、あるとも思えない。
となると、エリセの力のみで現状をどうにかしないといけないのだ。
(……どうすればええの?)
エリセの力のみで現状を打破する。一口に言うものの、実際にはどうすればいいのかはさっぱりである。
やはり指南書が欲しい。
それこそいますぐにでも。
その指南書を熟読したうえで、タマモに対応したいのだが、そんな時間も余裕さえもいまのエリセには存在しない。
そもそもなんでいきなり手を掴んでいるのかもわからない。
いきなり手を掴むなんて、いくらなんでもまずい。
そう、まずいのだ。
エリセにとって手を掴むというのは──。
「……ご、ごめんなさい、タマモ様。いきなりハレンチなことを」
「……んぁ?」
──あまりにもハレンチなことであった。
手を掴む。いや、この場合は手を握るということになるが、手を握り合うというのはつまりはそういう仲であるということ。具体的には恋人ということ。そして恋人ということは閨をともにする間柄ということでもある。つまり手を握るということはあなたと閨を供にしたいと言っても過言ではないということになる。あくまでもエリセ的には。
ゆえにタマモの手を握ったということは、エリセみずからタマモと閨を供にしたいと言ったも同然ということである。あくまでもエリセ的には。
「い、嫌やわぁ。こんないきなりハレンチなことを。はしたない」
「……あの?」
「手握ることなんてしたことないし、その先も当然ないっていうのに。なんでこないなこと、うー」
握っていた手を離してエリセはその場で蹲った。蹲らないとどうしようもなかった。恥ずかしすぎてどうしようもなかった。
「……えっと、エリセさん?」
タマモはかなり困惑した様子でエリセを眺めている。エリセの発言の意味がわからないようだが、それはエリセの台詞でもある。こんなにもハレンチなことをしたというのにも関わらず、なんでそんな平然としていられるのかがエリセにはまるでわからない。
「タマモ様は意外と、その、ふしだらな日々をお過ごしなのですか?」
「……はい?」
「だって手を握られたのに、平然としていますし。いや、そもそも手を差し伸べてきたってことは、タマモ様はやっぱりうちの体目的で」
「いやいやいや、なんでそうなるのですか!?」
「だって手を握らせるってことは、「エリセさん、ボクはあなたと閨をともにしたいのです、へっへっへっへ」ってことでしょう!?」
「意味わかんねーのですよ!? というか、最後の「へっへっへっへ」ってエロ親父みたいだからやめてください! しかもボクの口調で言ったら、ボクがエロ親父みたいだからやめてほしいのですよ!」
「でも、うちに手を握らせようと促すってことは、タマモ様はそういうことをしたくてたまらないということで──」
「だから、なんでそうなるんですか!? 発想が独特すぎて理解できないんですけど!?」
「そ、そんなことないです! うちはまともです! まともじゃないのはタマモ様です! こんなハレンチなことを当たり前だと思うような日々をタマモ様が過ごされるということです!」
「だから意味わかんねーのですよぉ!」
タマモが叫ぶ。もはや絶叫と言っていいレベルだった。だが、叫びながらもタマモはどこか楽しそうだ。その表情を見ているとエリセも不思議と楽しくなっていく。言い合いだったはずなのに、お互いの表情は柔らかくなっていく。
「……あの、タマモ様」
「なんですか?」
「……その、いろいろとご迷惑をおかけすると思いますし、いつもおそばにいられるわけでもないと思います。一応うちはいまのところ里長なので、ずっと里を留守していられるわけではないです。弟に里長としての教育をしないといけませんし」
「弟さんいるんですか?」
「はい。まだ小さい子なので、あの子がある程度大きくなるまでは里長の仕事ができるようになるまで、うちは代理で里長をしていますから」
「そういうことですか」
「なので、あの子に教育しに行く日は一緒にはいられませんので、だから」
「わかりました。なにからなにまでエリセさんを拘束するつもりはボクにはありません。でも、そのうちエリセさんの弟さんも会いたいですね」
「え、あ、そ、そうですね。ちゃんと紹介しないといけませんね。将来の義姉様ですよって」
「……ん?」
「あの子にお会いするのは、うちからあの子に「うちの旦那様になる人や」って言ってからになりますけど、よろしいですか?」
「……んん?」
「あ、奥様にも一応挨拶をしておかんとまずいですね。立場上は、あの人はうちの母親になりますし。……妾の子ですが、結納のことは話しておかんとまずいでしょうし」
「……んんん?」
今後のことを話していると、タマモが妙な声を上げ始めた。どうしたのだろうとエリセが首を傾げているとタマモはさっきよりも困惑した顔をしていた。
「あ、あの、エリセさん? えっと、いま仰っていたことは?」
「え? だって「一緒に暮らせ」ってことは、うちに世話役になれってことですよね? 妖狐族に世話役になれってことは、嫁に来いということですし」
エリセが言うと、タマモは体を一度震わせると「しまった」と顔に書いたかのように衝撃を受けていた。
「……考えてみればそうですよね。妖狐族の人にそんなことを言えば、そういうことになりますよね」
いま気づいたというように頭を抱え始めるタマモ。なにかしらの齟齬があるようだが、どういうことなのかはいまいちエリセにはわからなかった。
「えっと」
「あ、いや、別に嫌というわけではなくてですね。ただ、その世話役さんがもういるので、何人もいるというのはどうなのかなぁと」
「それがなにか?」
「……へ?」
「いや、金毛の妖狐様が何人もの世話役を抱えるのは当然のことですし。それこそ人によっては日替わりでその日の世話役を任せるということもあったとお聞きしておりますし。うち以外に世話役がいるのは別におかしなことではないかと」
「……そ、そうなんですか?」
「はぁ、そうお聞きしておりますけど」
タマモは衝撃を受けているようだが、エリセにしてみればなにが衝撃的なのかがよくわからなかった。
「とにかく、今後はうちも世話役としておそばに控えさせていただきます。よろしくお願い致しますね、タマモ様。あ、いえ、旦那様」
エリセは三つ指突いてタマモに頭を下げる。タマモは「ヨロシクオネガイシマス」となにか諦めような顔をしていたが、これから始まるだろう新しい生活にエリセの胸は高鳴り続けていた。
まぁ、いつものようにやらかすタマちゃんでした←




