56話 その声に胸を高鳴らせて
金毛の妖狐。
妖狐の始祖にあたる「神獣」の眷属であり、妖狐族全体の長と言われる者たちで、妖狐は金毛の妖狐に対して「眷属様」と呼び慕うことが決められている。あくまでも妖狐側にとってだが。
長としての教育を施される最中で、一般教養として金毛の妖狐に関しても教わったが、その教養によれば、金毛の妖狐は誰もが穏やかな性格をしており、へりくだられるのがあまり好きではないようだ。だが、その力は妖狐とは比べようもないほどに高く、一説には「神獣」のかつての姿なのではないかということ。そのかつての姿を模して主神エルドが作られたのが金毛の妖狐たちなのではないかと。「眷属」とされつつも、実際のところは「神獣」になにかが起きたときのために用意された存在──次代の「神獣」候補というべき存在なのではないかと言われていた。
本当に次代の「神獣」候補であるのかは誰にもわからない。なにせ「神獣」自体がこの世界からはいなくなってしまっているし、その眷属である金毛の妖狐もまた消えてしまった。現在の妖狐族全体の長老である大ババ様ことリーゼは「眷属様方は別の時空にと旅立たれてしまった」と言っていた。その言葉の意味はいまひとつ理解できないものだったが、この世界に金毛の妖狐は誰ひとりとて残っていない。それが妖狐族にとっての常識だったのだ。
その常識があっさりと覆ることになるとは、教育を受けている最中のエリセは考えてもいなかった。
「──クリスマスというものを妖狐それぞれの里で行うことになった」
いまから一ヶ月ほど前に、ふらりとリーゼが「水の妖狐の里」に訪れて言ったのは、よくわからないことだった。
「くりすます、ですか?」
教育中も、臨時の長となってからも初めて聞く言葉だった。
反芻すると、リーゼは「うむ」と開いた胸元から覗く胸を張りながら頷いた。
「上界では有名な祭りでの。年の終わりに開かれるものでな。ちょうど一ヶ月後ほどじゃな」
「はぁ。そんなものが。そのくりすますというものをこの里でも?」
「うむ。火や土の里でもやって貰うつもりでいる」
「そうですか。でも、またなんで急に?}
「実はのぅ。眷属サマ方の頼みでな」
「……眷属様?」
リーゼが口にした名称に、エリセはまた反芻した。反芻しながらも意味を理解しきることができずにいた。
「……あのぅ、リーゼ様」
「うむ?」
「眷属様っていうと?」
「そなたも知っているであろう? 金毛の妖狐様のことじゃ」
「……それはわかっています。でも、えっと眷属様はもうこの世界にはおられないのでは?」
妖狐族の常識として語られていたこと。その常識を唐突に覆そうとするリーゼにエリセは困惑しながらも聞き返した。するとリーゼは「あぁ、そのことか」と苦笑いしていた。
「実はの、いまから数ヶ月ほど前から、眷属様がひとりだけ戻られたのじゃよ」
「……は?」
「その方はまだ幼い子なんじゃが、なかなかに見所があってのぉ。我の施した試練を歴代最短記録で、ほんの1分ほどで突破されたのじゃ」
「リーゼ様の試練を?」
「うむ」
リーゼは嬉しそうに頷いたが、言われたエリセとしては耳を疑うしかなかった。
それぞれの里の長が施す試練は、それぞれの里で異なっている。共通しているのは幻術を用いて対象者を一定の空間内に隔離するということのみ。突破方法はそれぞれの里で異なっていた。
例えばこの水の里であれば、いくつも流れる小川の中で、正解、いや本物の小川を見つけそれを辿るというものだ。その判断方法は人によって様々だが、本物は煮沸すれば飲み水として利用できるうえに、透明度は高く、その音は清らかであり、住まう魚はとても異生き生きと泳いでいる。それらの情報を知っていれば、判断するのは容易であるが、知らない者にとってはなかなかに難しいが、最悪手当たり次第に調べていけば、いつかは突破できるものである。それは先代の父、いや、水の里ができてからずっと変わることのない試練であり、エリセもまた同じ内容の試練を受験者に行わせていた。
だが、リーゼの試練は水の里のものとはだいぶ難易度が違う。それどころか、残りの火と土の里ともはるかに難易度が違っていて、4つの里の中で最高難易度とされている。他の里の試練の平均が数十分ほどであるのに対して、リーゼの試練の平均突破時間は1時間を優に越える。
エリセ自身一度試しに受けてみたのだが、1時間を切ることはできなかった。それはほかの2つの里の長も同じだったが、土の里の長は「性悪婆の本領が発揮されている」とリーゼの試練をけなしていたが、当のリーゼはどこ吹く風であった。
そんな最高難易度の試練をたったの1分で突破した。4つの里の試練の中でも最低難易度と言われている水の里の試練でも、そこまで早い突破者は存在していないというのに、最高難易度と言われるリーゼの試練を圧倒的な最短記録で突破した。
なるほど、たしかに妖狐族の長と謳われる存在なだけはあるとエリセは思った。思ったのだが、ふと気に掛かることもあった。
「……あの、リーゼ様」
「うむ?」
「さきほど幼いと仰っておいででしたけど、その眷属様はおいくつなので?」
「……そういえば、我も年齢は知らんな。だが、見た目は人間の10歳くらいかの?」
「そんなに幼い子なのですか?」
幼いとリーゼが言っていたが、まさかそんなに幼い子だとは。妖狐で言えば、産まれて6、70年くらいであろうか。そんな年齢の子がリーゼの、いや、4つの試練を通しても歴代最短記録の持ち主だとは。
「そのうえ狐火の簡易的なやり方も一度見聞きしただけでできるようになったし、氷結王様や焦炎王様からの覚えもある。おふたりの術技を継承してもいる」
「……えっと、冗談でしょうか?」
「いや、これが事実なんじゃよ。信じられんことではあるがの」
リーゼはやれやれと肩を竦めていたが、言われたエリセにしてみれば信じられないことである。
試練の歴代最短記録保持者だけでも耳を疑うことである。そこにまさかの四竜王のふたりからの覚えと手ほどきを受けていると言われれば、もう耳を疑うどころか、新手の冗談としか思えないことであった。
しかしリーゼは事実だと言い切った。リーゼはわりと嘘つきであり、冗談を口にすることも多い。
だが、今回のような冗談や嘘を吐いたことはエリセの知る限り一度もなかった。となれば信じられないことではあるのだが、事実だということだろうか。
「……天才というのは本当にいるんですねぇ」
「そうじゃな。その眷属様と眷属様のお仲間に頼まれてのぅ。我としては彼の方が眷属様でなくても気に入っておるのでな。手助けしてもいいと思っている」
「その手助けに私も協力しろということですか?」
「うむ。頼めるかの?」
「……そうですなぁ。まぁ、内容次第ですが」
「内容自体はささやかなものじゃよ。単純に子供たちに贈り物をするというだけのことじゃ」
「贈り物ですか?」
「うむ」
そう言ってリーゼが口にした内容は非常にささやかなものであり、心温まるような素敵なものであった。エリセは二つ返事で頷き、その内容をリーゼとともに里の住人たちに対して説明した。エリセだけであったら渋るものもいただろうが、長老であるリーゼもいたおかげで誰もが協力的になってくれた。なによりも当の子供たちがおとぎ話の中の存在であった眷属様からの贈り物をもらえることに喜んでいたということが大きかった。
その後、リーゼは他の2つの里でも協力を仰ぎ、4つの里すべてが眷属であるタマモの頼みを聞き入れることになった。
そのタマモとは今日初めて会った。
リーゼからはとてもかわいらしい見目をしていると言われていたが、その見目は本当にかわいらしいもので、庇護欲をこれでもかくすぐってくれた。もっと言えば、抱きしめて頬ずりとかしたいと思った。
だが、エリセの衝動と反してタマモは粛々とプレゼントを配っていた。その姿は伝承に聞く金毛の妖狐そのものだった。一種の神聖視さえもエリセはしていたので、沸き起こる衝動をどうにか堪えていた。
その最中で自身の特殊な力の片鱗を、住人さえからも疎まれていることを知られてしまい、動揺の結果、失礼な言動をしてしまった。
「……失敗したなぁ」
あんな態度をしていたエリセにタマモが会いに来てくれることはないだろう。
なんて失態を侵してしまったのか。エリセは心の底から反省していた。だが、いくら反省してもその気持ちを向けるべき存在はもう──。
「こんばんは、エリセさん」
「……え?」
──会うことはないと思っていた。その人の声が不意に聞こえた。エリセが顔を上げると薄闇の向こうから先ほども着ていた赤い衣裳を身に付けたタマモが立っていた。
「お話しに来ましたよ」
タマモはにこやかに笑いながら言った。その言葉に、その表情にエリセの胸は自然と高鳴っていった。




