53話 拒絶と笑顔とキスと
「──今回はありがとうございました」
里の入り口前でエリセが深々と頭を下げた。
女の子の妖狐とその祖母の妖狐が立ち去った後、エリセは口を閉ざしていた。タマモが声を掛けても「気にしないでください」と薄く笑うだけで、事情を話そうとはしなかった。
眷属様と上位の存在として扱われるタマモにも、なしのつぶてなのだからレンやヒナギクならどうなるかなんて考えるまでもないことであった。
事情を知っているであろう大ババ様も語らなかった。エリセ自身が語るつもりがないのであれば、大ババ様も語る気がないということなのだろう。結局里の中央から入り口にまで戻る間、会話らしい会話が成立することもなく、タマモたちは里の入り口にまで戻ってきていた。
タマモたちが里から出てすぐにエリセは腰を九十度にまで曲げてお辞儀をした。最敬礼と呼ばれるものの中で、心からの謝罪のときに用いるものである。
それだけ今回のことでエリセは責任を感じているということ。その責任がなんに対してなのかは考えるまでもないことである。
それでもエリセは事情を話そうとしない。事情を話すことはないが、心からの謝罪をしている。事情もわからずに謝罪だけをされても、どう応えていいのかわからない。タマモたちはそう思ったが、それを口にするべきなのかがわからなかった。
女の子の祖母はこの里で、それなりに長く生きてきたのだろう。それこそエリセよりは長く生きているはずだ。
その祖母がエリセを「化け物」と言ったのだ。つまりエリセの事情をあの祖母は知っている。いや、祖母だけじゃない。この里に住まう者は誰もがエリセの事情を知っている。里長であるエリセを敬うことなく、逆に虐げる事情を知っている。だが、その事情をエリセはタマモたちに伝えないでいる。どうして伝えないのか。どうして黙っているのか。タマモたちにはエリセの考えがわからなかった。
「あの、エリセさん」
「今回は本当にお世話になりました。また機会があれば、遊びに来てください。今度は我が家にお招き致しますので」
「そのうちにまた来ます。でも、それよりも」
「では、そのときになにか美味しいものをご用意いたしますね。あぁ、そうだ。タマモ様はなにがお好きですか? ちゃんとご用意いたしますゆえ」
エリセは頭を上げて、ニコニコと笑っている。無理に繕っているようにしか見えない笑顔だった。それでも気にすることなくエリセは笑っている。笑い続けている。その笑顔にタマモは耐えきれなくなった。
「エリセさん、事情をちゃんと話して」
「……聞いてどうなさるのです?」
それまでの笑顔が消えた。いや、表情という表情がすべて抜け落ちていた。まるでそれまでの笑顔が仮面であったかのように。いまの表情こそがエリセの本当の顔であるかのように。その表情はとても自然だった。エリセ自身とその表情はとても自然に溶け込んでいた。
「エリセ、さん?」
「うちの事情を知って、タマモ様はなにかしてくださるので? なにもできませんよ。タマモ様だけじゃない。うちの現状をどうにかすることなんて誰もできひん。興味本位であれば聞かへんどぉくれやす」
エリセの目が薄らと開いた。青い瞳にはなんの光も宿ってはいない。胸が苦しくなるほどに、エリセの目は、いや、エリセ自身が闇に囚われているようだった。
「……エリセ、落ち着け」
大ババ様が声を掛けると、エリセは薄らと開いていたまぶたを慌てて閉じた。胸元に手を置き、大きく深呼吸を続けていく。
やがてエリセはそれまで通りの笑顔を、仮面のような笑顔を浮かべると「失礼いたしました」ともう一度頭を下げた。
「……次もしお越しくださるのであれば、きちんとおもてなしをいたします。それで今日の無礼をお許しいただければと」
「もし来なかったら?」
「……そのときは、私から謝罪をしにいきますゆえ。それでどうか」
エリセは再度頭を下げた。少し前までの感情を露わにしたのとは違い、自身を必死に抑え込もうとしている。その証拠にエリセの手は、下の方で重ねられたエリセの手のうち、下になっている左手からは血が滴り落ちていた。それだけの激情をがエリセの中にあるということ。みずからの手に爪を食い込ませるほどの激情を抑え込もうとしていた。
「……わかりました。また来ますね」
「左様ですか。それでは」
「でも、その前にです」
タマモはエリセのそばに歩み寄ると、エリセの手をおもむろに取った。想像もしていなかったことだったのか、エリセは「……へ?」と素っ頓狂な声を上げた。整った顔立ちのエリセがぽかんと口を開けて呆ける様に、タマモは「かわいいな」と思いながら、インベントリから包帯と傷薬を取り出し、エリセの傷ついた左手に傷薬を使い、その上から包帯で巻くという治療をした。
「……少し沁みると思うのですが、こういうのはきちんとやっておくべきなのです」
「……は、はぁ」
「エリセさんはもっと体を大事にしてください。少なくともボクはエリセさんが傷つくのを見るのは嫌です」
「……」
思いもしなかったのか、エリセはまた口を開けてぽかんとしていた。そんなエリセを見てタマモは笑った。笑いながら治療したばかりのエリセの左手を両手で包み込む。
「今度はエリセさん用のお土産を持ってくるのです。だからそのときまでお元気にです」
「……えっと」
エリセはなんて応えればいいのかわからないようで、若干戸惑っているようだった。が、タマモはそんなエリセの様子に気を止めることもなく、エリセの左手の甲に、包帯で隠れていない部分にとキスをした。
本当に想像もしていなかったことだったのか、エリセの体は一瞬硬直した。だが、すぐにされたことを理解すると、みるみるうちにその肌は赤くなっていき、りんごの皮やトマトを思い浮かべるほどに真っ赤に染まりきった。
「……タマちゃんって本当にああいうところだよね」
「……重ね重ね言うけど、あんたも人のこと言えないんだけど?」
タマモの所業にレンは苦々しそうに言うが、ヒナギクはそれ以上に苦々しい顔でレンを見やる。その後は異口同音を口にし合った。
「……まぁ、うちの里だけというのはたしかに不公平であるが、里長をというのはどうかのぅ」
タマモの所業に大ババ様はなにやら思案しているようだが、その声がタマモとエリセに届くことはない。特にエリセは混乱の渦の中にあるのか、「え、あ、え」と言葉にならない声を漏らすのみである。そんなエリセにタマモはくすりとおかしそうに笑うと、優しく微笑みかけた。
「次お会いするときまでお元気にです、エリセさん」
「あ、は、はい。タマモ様も、どうかお元気で」
エリセはまぶたをうっすらと開けて頷いた。その反応はとてもかわいらしくて、タマモはまた笑った。その笑顔にエリセの顔はより赤らんでいく。
その後、「これ以上はエリセを先に介抱しないといけないので」と大ババ様に言われ、タマモは首を傾げた。大ババ様の言った意味がよくわからなかったのだ。そんなタマモに大ババ様は言葉を失い、レンとヒナギクは「……うちのタマちゃんがすいません」とエリセに謝り、エリセは「お、お気になさらずに」と動揺しつつも会釈していた。
そんななんとも締まらないやりとりを経て、タマモたちは大ババ様の転移で次の里へと向かったのだった。




