50話 水の長との出会い
一瞬の浮遊感があった。
ひゅっという一瞬だけ足下の地面が消えた感覚。一秒にも満たない、わずかな時間だけ、自分たちが大地を踏みしめていなかったという感覚。ほんの一瞬だけの感覚なのに、妙な心細さをタマモたちは感じた。
「着きましたぞ」
大ババ様の声が聞こえる。いつのまかに目を閉じていたようで、タマモたちの視界は黒に塗りつぶされている。塗りつぶされた視界をゆっくりと開き、差し込まれていく光を捉えていく。
まぶたを開くとそこは「風の妖狐の里」によく似た農村の入り口だった。入り口と言っても、柵のようなものがあるわけでも、立て札があるわけでもなく、そこから民家があるというだけのことだが、たしかにそこから村という領域の中であることは間違いない。
振り返っても鬱蒼とした木々とその木々に囲われた細い曲がりくねった道があるだけで、そこを見て村の入り口と言うには無理がある。
ただそれだけでは、「風の妖狐の里」の前に移動しただけではないかと思えるが、明らかに「風の妖狐の里」ではなかった。
その村は「風の妖狐の里」によく似ている。民家の造り自体は「風の妖狐の里」と同じだ。藁葺き屋根と漆喰の壁という、古民家然としたもの。農村の民家である。
しかし「風の妖狐の里」との明らかな違いがあった。それは──。
「おこしやす、眷属様とそのお仲間の方々。歓迎いたしますぅ」
──その村に住まう住民の姿だった。「風の妖狐の里」の住民は、基本的に髪も耳も尻尾もすべてが緑系の色をしている。現にタマモの世話役であるアンリは黒みがかっているものの、その髪と毛並みは緑系の色をしている。大ババ様は高齢であるからか、その髪と毛並みは銀髪になっているものの、曾孫にあたるリィンの色はきれいな緑色をしていることから、おそらくは大ババ様も若い頃は緑の髪と毛並みをしていたのだろう。他の住民も色の濃淡はあれど、基本的には緑系の色である。
そんな「風の妖狐の里」の住民とは違い、その村の住民は色がだいぶ違う。いま目の前にいる女性、タマモたちに声を掛けた女性の色は青い髪と青い毛並みの耳と尻尾を持っていた。尻尾の数は4本と大ババ様よりもひとつ少ないが、「風の妖狐の里」ではだいたいの住人が2本ないし3本だったことを踏まえると、尻尾の数は多いと言える。
「あ、どうもです」
声を掛けてきた女性にタマモは頭を下げてお辞儀をした。すると女性は「お若いのに偉いですなぁ」と頬を綻ばせる。なんとなく口調に覚えがあるような気もしなくはないのだが、「声が違うなぁ」とタマモは思った。思いながらも「誰の声と?」と首を傾げていた。首を傾げながらも、タマモはじっと女性を眺めた。
その女性は髪と耳と尻尾の色は青。その時点で「風の妖狐の里」では見たことのない色だったし、その女性自体見覚えがなかったし、仮に見たことがあったとしても確実に覚えているだろうと思うほどに特徴的だった。
女性は色白な肌をしていた。と言っても見えているのはごく一部だけ。女性も巫女服を着ているのだが、アンリやリィンのような丈の短いものではない。かといって大ババ様のような胸元が全開になっているようなものでもない。丈はきちんと足首辺りにまであり、胸元はきちんと覆われている。せいぜい肩から二の腕までが露出しているくらいだ。それ以外にこれといった露出は見えない。そのわずかに見える肌ははっとするほど白くきれいなものである。その色白の肌に合うようにその顔は非常に整っており、10人いたら10人とも振り返りそうなほどに美人さんである。その表情は穏やかな笑みを浮かべている。が、目がだいぶ細いのだ。それこそ氷結王の眷属であるスライムのシュトロームのようにほとんど線と言っていいほどに糸目であった。
(「風の妖狐の里」にこんな人がいたら、確実に目にとまっているでしょうし、覚えているはずですから、初対面ですよね)
美人さんに関しての記憶力は誰にも負けないという自負がタマモにはある。その自慢の記憶の中に目の前の女性は登録されていないことを踏まえると、まず間違いなく初対面であり、同時にこんな美人さんがいれば噂で聞いているはず。しかしそんな噂を聞いたことがないということは、この女性が「風の妖狐の里」の住民でもない。なによりも髪と毛並みの色がまるで違うのだから、「風の妖狐の里」の住民であるわけがなかった。その色からして「水の妖狐の里」の住民というところだろうとタマモは推測した。
「リーゼ様もおこしやす。歓迎いたしますえ」
女性はニコニコと笑いながら言う。が、口にした固有名が誰のことなのかがよくわからなかった。
「リーゼ?」
聞き覚えのない名前にまるで聞き覚えのないタマモはレンとヒナギクを見やる。レンはふるふると首を振り、ヒナギクは落ち着かないようなのか、しきりに周囲を見渡していたが、タマモの視線に気づいたことでやはり首を振っていた。
ヒナギクの反応に「どうしたんだろう」と思ったが、よく考えてみればタマモとレンは氷結王と焦炎王にアルトへと送られたときに経験していたため、転移がどういうものであるのかを理解していたが、転移の経験が初めてだったヒナギクにとっては、一瞬で場所が変化するというのは落ち着きをなくすには十分すぎることだったということはうかがい知れることである。
(あとでケアをしてあげたほうがよさそうですね)
ヒナギクのことを考えれば、後で少しケアをしてあげるべきだろうが、いまはそれよりも目の前の女性の方を優先するべきだ。特に謎の女性のリーゼとは誰のことなのかを──。
「うむ。先日ぶりじゃな、水の長よ。元気にしておったかの?」
「はい、それはもう。リーゼ様もお元気そうでなにより」
ふふふと女性は笑いながら大ババ様と会話を始めた。その会話の中で女性がこの里の長であることがわかった。やはり里の名前は「水の妖狐の里」であるようだ。が、それ以上に女性が大ババ様をリーゼと呼んだことにタマモは驚いた。
「大ババ様はリーゼってお名前なのですか?」
「うん? 言うておりませんでしたかのぅ?」
「聞いていないのです」
「そうでしたかのぅ?」
大ババ様は頬をぽりぽりと搔いたが、タマモは一度も大ババ様の名前を聞いた覚えはない。せいぜいあるとすれば、氷結王が大ババ様を「ふーこ」と呼んでいたことくらいである。里の中でも基本的に「大ババ様」と呼ばれていたので、「リーゼ」という本名については初耳であった。
「まぁ、リーゼ様は基本的にうちの里でも「大ババ様」と呼ばれておいでですからねぇ。あぁ、うちの里だけじゃないですねぇ。ほかの里でもそうでしたなぁ」
「考えてみれば、我の名をちゃんと呼ぶのはそなたくらいじゃったなぁ。他の者は大抵「大ババ様」じゃし。ついついと名乗っておらなんだ。失礼致しましたなぁ、眷属サマ」
大ババ様は苦笑いしつつも、お辞儀をしていた。苦笑いしているが、申し訳なさはあるのかもしれない。普段の大ババ様からは感じられないものであった。
「あ、別にお気になさらずに」
「そうですか? ならいいのじゃが」
ちゃんと名乗っていなかったことに若干の負い目があるのだろうか、大ババ様はいつも以上に下手に出ているようだ。なんだか珍しいなと思うタマモたちだった。
「あぁ、そうです。リーゼ様に釣られそうになりましたが、名乗るのを忘れるところでした。うち、いえ、私はこの「水の妖狐の里」を納めさせていただいております、エリセと申します。以後よろしゅうおたのもうします。眷属様」
「ご丁寧にどうもなのです。ボクは」
「金毛の妖狐様であらせられるタマモ様ですねぇ。お隣の方々は男性がレン様で、女性がヒナギク様でよろしかったですな?」
水の長ことエリセはタマモが名乗る前にタマモの名前とレンとヒナギクの名前を口にした。大ババ様が事前に紹介していたということなのだろうと思っていたが、大ババ様が若干呆れ顔をしていた。
「これ、水の長よ。盗み見するのはいかんぞ?」
「あぁ、これは失礼を。普段はしないように気をつけておるんですけどねぇ」
大ババ様に言われて、エリセは頬を搔いていた。ふたりのやりとりがよくわからないタマモたちは揃って首を傾げたが、タマモはその身長ゆえかエリセの様子がさきほどと少し異なっていることに気づけた。
(目がうっすらと開いているのです)
エリセの背丈はヒナギクと同じくらいだが、タマモよりも長身である。自然と下から覗き込むような形に見上げることになるのだが、その視線ゆえにさきほどまでとは違い、閉じられていたまぶたがうっすらと開いているのが見えたのだ。が、そのまぶたはすぐに閉じられた。どうしてまぶたを閉じるのかがよくわからなかった。エリセの瞳はとてもきれいな青であり、まるで空や海のような色をしていた。そんな瞳を隠すのはもったいないと思うのだが、なんだか口説いているように思えるのであえて言うのはやめておいたのだ。
そんなタマモの心情を理解することなく、大ババ様と当のエリセは申し訳なそうにしていた。
「まぁ、いろいろと事情がありましてのぅ。いまは聞かぬ方がよいでしょうな」
「そういうことにしておいてもらえるとありがたいです。よろしゅうでしょうか、タマモ様方」
いまは話せないということなのか、それとも話す気がないということなのかは判断がつかなかったが、あまり時間がないということも事実だった。
「わかりました。では」
「ええ、案内いたしますね。我が里「水の妖狐の里」を」
エリセは一転して笑顔になると、里の中へと入っていく。その後を追いかけながらタマモたちも「水の妖狐の里」へと入っていくのだった。
ちょい役の予定なのに、がっつり絡んできそうなエリセさんでした←




