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40話 望みを叶えてあげればいい

 夕日が差していた。


 決して変わることのない空の色。紅に染まる世界。「はじまりの街アルト」のいつもの光景だった。


 アンリは「フィオーレ」の本拠地の軒下で、ひとりぼんやりと空を眺めていた。傍らには寝そべっているクーがいる。寝ているわけではないのだろうが、その体は静かに上下していて、本当に寝てしまっているかのように見える。


「……起きておられますか、クー様?」


 恐る恐ると話しかけると、クーは「きゅ?」と鳴きながらまぶたをうっすらと開く。その目はとても眠そうなもので、寝落ちしそうだったのだろう。悪いことをしてしまっただろうかとアンリは申し訳なくなっていた。


「お眠りしかけていたのですか?」


「きゅ」


 クーは静かに首を振った。クーは普段「きゅ」としか鳴かない。それはほかのクロウラーも同じである。が、クーは他のクロウラーとは違う存在である。クロウラーよりもはるかに上位の存在であるのだが、そのことをタマモたちは知らない。クー自身、タマモたちにはあえて知らせていないようであるので、アンリがそのことを口にすることもない。


「その、お聞きしたいことがあるので、いつも通りではなく」


『こちらでいいのか?』


「あ、はい。お願い致します」


 クーは念話で話しかけてくれた。通常のクロウラーではできないことである。それもそのはず、クーの正体は虫系モンスターの王と謳われるエンシェントバタフライの幼虫であるエンシェントクロウラーだった。羽化のための蛹となるまでに千年近い年月を要するも、その実力は上位ドラゴンと遜色ないという破格の存在だ。もっともそれは羽化を果たしたエンシェントバタフライであり、いまの姿ではせいぜい下位ドラゴンくらいだ。それでも相当の強者であることには変わらない。


 時折、「こんなにも愛らしいお姿なのに、下位のドラゴン並みなんて」と思うこともあるが、その実力の片鱗をクーは普段見せることがない。あくまでも陽気なマスコットという立場を崩さずにいるのだ。ゆえにアンリも一定の敬意を示しはするが、タマモたち「フィオーレ」の面々同様にクーと接している。具体的にはヒナギクがしているような抱っこに膝枕をさせてもらっている。クー曰く「全体的なボリュームに欠けるが、これはこれで」ということらしいが、それをタマモたちに言ったら、かなり問題になりそうな気がするので、あえてなにも言わないことにした。


 いまクーは隣で寝そべっているが、その距離はだいぶ近めであるが、抱っこもすれば膝枕もしているのだ。距離が近いなんていまさらなことであるし、別に嫌なことでもないのだ。問題などなにもない。


『それで話とは?』


 少しだるそうな感じでクーは顔を上げる。話は聞いてくれるつもりのようだが、だるいものはだるいのだろう。やはり申し訳なく思いつつも、アンリは思いきって打ち明けた。


「アンリはどういう風にしていればよいのでしょうか?」


『……質問の意味がわからん、と言いたいところだが、あえて答えるか。そのままでよい』


 若干呆れたようにクーは告げた。その一言にアンリの表情は曇った。


「そのままでいいのでしょうか」


『よい。タマモたちもいまさら畏まられたいとは思っておらんだろうに。まぁ、そなたは普段から畏まっているのでいつも通りと言えば、いつも通りなのだろうがね』


 クーはため息交じりに言う。口調からして同じことを何度も言っているのだろうというのがわかる。それはアンリもまた同じだ。同じことを何度も問うては答えられているのだろう。その表情は曇るだけである。


『このやりとりももう何度目だ? 明日が当日ではあるが、明日の本番直前までやらされるのかな?』


 やれやれとクーは呆れた。呆れながらもちゃんと答えてはいる。そのことにアンリは感謝しながら「申し訳ないです」と謝った。


『謝れと言ったわけではないよ。ただ意味のないやりとりだと言ったまでのこと』


「意味はあるかと」


『いいや、ないな。そなた自身すでに腹は決まっておろう? だが、どこかで意気地がないから、不安を消したくて同じことを毎日聞いてくる。これも毎日言っているので、そろそろ私としてはいい加減にしてほしいところだが、どうせ明日も言わされるのだろうな』


 面倒なことだと言いたげにクーはじっとアンリを見上げる。その視線を浴びてアンリは体を縮ませることしかできないでいた。


『……責めているわけじゃない。だが、そろそろ自信を持ってもいいのではないかな? 別にそなたが祝われるに相応しくないと陰口を叩かれているわけでもなかろう? それに祝われる側が申し訳なさそうにしていたら、祝う側も祝いづらくなるものじゃないかな?』


「それはそうかもですが」


『第一、タマモたちはそなたを祝いたいから頑張ってきたのだ。言ってしまえば、彼女らは彼女らの欲を満たすために頑張っているということだ。欲というにはささやかであるし、微笑ましいものだが、その頑張りに免じて報いてあげてもいいのではないかな?』


「そういう考え方もありますが」


『むしろそう考えた方がそなたにとっては気楽であろう? なにかと窮屈に考えてしまいがちなのだ。ならば、相手の望みを叶えてあげるという考えの方が楽であろう?』


「旦那様たちの望みを叶える」


『うむ。彼女たちはそなたを祝えて笑顔となり、そなたは彼女たちの望みを叶えられて笑顔となる。どちらも損はしない。どうだ?』


「……そう、ですね。そういう考えもありですか。いえ、素敵ですね」


『うむ。なら問題はないな?』


「はい。毎日すみませんでした」


『いや、気にしなくていい。むしろありがたいのだ』


「ありがたいですか?」


『ああ。実は眠気がすごくてな。そろそろ羽化の時期というところなのだろう』


「では、ついに?」


『予定ではそうなるのだろう。あくまでも予定では。実際になれるかはわからない。仮になれたとしても、どのくらい時間が掛かるかもわからぬ。もしかしたら1年後かもしれぬし、10年、100年、それこそ1000年掛かったとしてもおかしくはない。すでに私を産み落とした親はおらぬ。いたとしてもどこにいるかもわかっておらぬのだ。話を聞くこともできない』


「それは」


 クーの言葉を否定することはできなかった。


 羽化する蛹になるまでに1000年も掛かる種族である。羽化するまで同じくらい時間が掛かったとしてもおかしくはないのだ。むしろそれだけ時間が掛かるからこそ、エンシェントバタフライは数が少ないと考える方が妥当であろう。


『私が見た未来は、もしかしたら羽化にとても時間が掛かってしまうということがゆえんなのかもしれない。……そうだとしてもいくらか頷けないこともあるにはあるが、そういう考えもありだとは思う』


「きっとそうですよ、クー様」


『そうだな。そうであってほしいものだ。だが、いまは私のことよりもそなたのことだ。蛹となるのは別に今日明日というわけではない。私もそなたの誕生日には参加するつもりだから、いつものように抱いておいてもらえると助かるな』


「はい、もちろんです」


『うむ、迷惑を掛けるが、よろしく頼む』


「いいえ、こちらこそです。今日まで散々お相手をしてくださったのですから、そのお礼として」


『そうか。そういうことにしておこうか』


 クーは笑った。その笑顔につられてアンリもまた笑った。そうしてひとしきり笑い合ってると、本拠地のドアが開く音が聞こえた。振り返れば、タマモたちがあくびを搔きながら外に出てきた。


『さて、今日もいつものように過ごそうか』


「はい、クー様」


 クーの言葉に頷いてから、アンリはタマモたちの元へと向かって「おはようございます」と声を掛けるのだった。

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