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28話 できること

 吐き出す息が白かった。


 すぐ目の前の空間が、透明から白へと変色する様を、アンリはぼんやりと眺めていた。


「……この調子だと、すぐに雪も降ってしまいそうですね」


 誰に言うわけでもなく、アンリはひとりごちる。


「フィオーレ」本拠地であるコテージの軒先に一人腰掛けて、アンリは両手をゆっくりと擦り合わせていく。


 寒さですっかりとかじかみ、水切れもあるが、もういまさらなことである。長年、家事をたしなんできたのだ。この程度であれば、とっくに慣れてしまっている。だからいまさらなことである。


 辛くないわけではないが、それを含めても慣れている。耐える方法もわかっている。最初は辛くて、何度も泣いたものだが、そのたびに兄が軟膏を塗ってくれた。軟膏を塗られると余計に痛かったが、兄は「我慢しろ」と笑いながら言っていた。


 こんなにも痛いのに、なんでお兄様は笑っているんだろうと幼い頃は唸ったものだ。その軟膏もいまやひとりで塗れる。現にいまもアンリは軟膏を塗るために手を擦り合わせていた。

 痛みはある。


 だが、塗らないと痛みがより増してしまうのだから、この痛みも我慢するしかない。


「……うん、これで大丈夫ですね」


 手は相変わらず赤く、ところどころ切れているが、軟膏を塗ったおかげで少しはましになるだろう。沁みなくはないが、それでも耐えられないわけではない。


 手を再び擦り合わせながら、アンリはもう一度空を見上げる。


 空は夕暮れに染まっているが、アルトではいつも通りの光景だった。


 最初にアルトに訪れたときはさすがに驚いたが、もうすっかりと慣れてしまっている。なんかんやでアルトに訪れるようになって、十何年も経っている。あっという間のことだったとは思う。


 それはいまも、アルトで生活するようになってからも同じことである。


 むしろ、アルトに訪れるようになった日々よりも、アルトで生活するようになったいまの方が濃い時間を過ごしているようにアンリには思えてならない。


 里で過ごしていた日々も幸せではあったが、どこか無為な日々ではあった。


 ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。なにも変わらないようでゆっくりと変化していく日々。その日々に慣れてしまっていたし、それはこの先も変わらないのだろうと思っていたのだ。


 だが、その日々があっさりと覆ることになるとは予想もしていなかった。


「……旦那様にお会いしてから、こんなにも変わるなんて思いもしませんでした」


 タマモと出会ってからの日々は、無為だった日々に、白黒のような世界に色をつけてくれた。


 夕暮れに染まる空の鮮やかに気づいたのは、タマモと出会ってからだ。


 大地に芽吹く作物ひとつひとつの違いに気づけたのも、タマモに出会ってからだ。


 好きな人と過ごす日々がこんなにも、心を温めてくれることを知ったのもタマモに出会ってからだ。


 ほんの数ヶ月。アンリが生きてきた年月に比べると、何百分の一にしかすぎない日々が、こんなにも濃い時間になるとは思ってもいなかったし、その日々がいまは愛おしかった。


「……旦那様たちは大丈夫でしょうか」


 その愛おしい日々が、いまは少しだけ心苦しい時間でもあった。


 タマモたち「フィオーレ」の面々は、クリスマスとアンリの誕生日パーティーを並行して準備している。


 アンリとしては、別に誕生日など祝って貰わなくてもいいのだ。そもそも誕生日など今回を逃しても、あっという間に訪れるのだから、今回くらいは見逃してもいいとは思っている。

 だが、タマモたちにとってはそうではないようなのか、どうしても祝うと言って聞かない。

 その結果、タマモたちは日に日に憔悴している。


 そんなに大変であれば、自分の誕生日は無視していいと言ったこともあるが、当のタマモに断固として拒否された。


「初めての誕生日なんです。ならしっかりとやってあげないといけないのですよ」


 タマモは鼻息荒くしつつ言った。言われた意味はすぐに理解できないことだったが、要はタマモたちと知り合って初めての誕生日ということだ。その誕生日は今回しかない。だからこそタマモたちは頑張っているということだろう。


「……ああ言われると、アンリもなにも言えなくなるのに」


 タマモたちが疲れていく様を見るのは辛い。しかし、その想いを無碍にすることもまた辛いのだ。


 アンリにできることは、ただ見守ることだけと決まった瞬間だった。


 アンリとしては、無理をしてほしくない。それはいまも変わらない。


 だが、タマモたち、特にタマモはアンリの手を両手で包み込んで言ったのだ。


「無理をしているわけじゃないです。アンリさんだって、無理をしてこういう手になったわけじゃないでしょう?」


 荒れた手をタマモは慈しむように撫でてくれた。アンリ自身は汚いと思う手を、タマモはまるで宝物に触れるかのように優しく撫でてくれた。それがアンリには嬉しかった。嬉しくて堪らなかった。


「だからボクたちも無理はしていないのです。すべては大切な人のためなのですよ。だから気にしないでほしいのです」


 タマモははっきりと大切な人のため、と言ってくれた。それがアンリのことなのは、誰に言われるわけでもなく理解できた。


「アンリさんは、ただ楽しみにしてくれればいいのです。精一杯頑張りますからね」


 タマモは笑った。その言葉にアンリはまたなにも言えなくなってしまった。


 あれからタマモたちはまだ頑張っていた。


 クリスマス当日はもう間もなくだ。


 その日に向けてタマモたちは頑張ってくれている。その姿をただ見守ることしかできないことが、アンリには心苦しかった。


「……アンリにもできることはないでしょうか?」


 ただ祝われるだけなのはやはり心苦しい。


 なにか、タマモたちにしてあげられることはないだろうか。


 軒下に座りながら、アンリは自身にできることがないかを考えるが、うまく思いつかなかった。


「あら、アンリ、どうしたの?」


 なにかないかと思考を巡らせていると、不意に声を掛けられた。視線を向けるとそこには姉貴分であるリィンが、人間の姿に化けたリィンが不思議そうに首を傾げて立っていた。

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