7話 胃痛の始まり
開いた口が塞がらない。
現状はまさにそれだとアッシリアは思っていた。
むろん、本来の用途としては間違っている。「開いた口が塞がらない」の意味は、「呆れて驚いている」というものである。
ゆえに現状の用途としては間違っている。
間違っているのだが、ある意味では正しいとしか言い様がなかった。
なにせ、ヒナギクは実際に口を開けて固まっていた。目を何度も瞬かせながら、アッシリアを見つめているのだ。
「え、えっと、い、いまなんて?」
ヒナギクはしばらく放心状態になっていたが、ようやく回復したのか、恐る恐ると聞き返してきた。あくまでも雰囲気は恐る恐るというところだが、その目にあるのは喜びである。いまにも狂喜乱舞しそうなほどの輝きがその目には宿りつつある。「ぶっちゃけ怖い」とアッシリアは思いながらも、ヒナギクの要望に応えてあげることにした。
「……私はゲームでは本来「アリア」というネームにするの。本名を短くしたら「アリア」になるからね。その理由は親友兼幼なじみが──」
「──親友兼幼なじみである「姉様」がそう呼ぶから、ですよね?」
「……ええ、そうよ。希望ちゃん」
「じゃあ、やっぱり莉亜さんなんですね!」
ぱぁと目を輝かせながらヒナギクは言った。その様子に若干食傷気味になりつつも、アッシリアは「ええ」と頷いた。
「ぃやったぁぁぁー!」
アッシリアが頷くと同時に、ヒナギクは思いっきりタメを作ってから、喜んでいた。それこそ座っている椅子から飛び上がりそうなほどの喜びようである。
アッシリアからしてみれば「そこまで喜ぶ?」と思わずにはいられないのだが、ヒナギクのリアルの姿である「天海希望」の性格を踏まえれば、理解できなくもない。なにせ「天海希望」はアッシリアの親友である玉森まりもを「まりも姉様」と呼び慕う子であるのだ。
しかも「天海希望」と「まりも姉様」は子供の頃に一度会ったっきりである。だが、一度会っただけで「天海希望」は「まりも姉様」に心酔するようになってしまった。
アッシリアから言わせて貰えば、「あのなんちゃってロリに心酔されるような要素はかけらも存在しない」と言い切れるのだが、あのなんちゃってロリは外面だけはいい。そう、外面だけは凄まじいほどにいいのだ。
そのためか、「天海希望」のように心酔してしまう人物が後を絶たないのだ。その様は狂信者のようだとさえアッシリアには思えてならない。
その狂信者の先鋒たる人物が「天海希望」つまりは、目の前にいるヒナギクというわけだ。そしてその先鋒たるヒナギクがだ、「まりも姉様」とリアルで会えるかもしれないきっかけを探していたのは言うまでもない。
もっともヒナギクがその気になれば、「まりも姉様」と出会うことはわけないことだ。なにせ同じ東京都内に住んでいるのだ。お互いに会える日を決めれば、すぐにでも会えるわけだ。
が、その会える日はなかなか訪れない。その最大の理由はヒナギクが心酔する「まりも姉様」側にある。ヒナギクにも理由がないわけではないが、一番の理由は「まりも姉様」にあるとアッシリアは断言できる。
その理由は実に単純である。不意打ちで会いに来られると「まりも姉様」が困るからである。なにせ「まりも姉様」とヒナギクが慕う玉森まりもは、本来の玉森まりもではないのだ。
とはいえ、決して子供の頃に会った玉森まりもが影武者であったわけではない。そちらは正真正銘の玉森まりもである。そう、玉森まりもだが、本来の玉森まりもとしての姿ではなかった。
本来の玉森まりもとヒナギクが慕う「まりも姉様」はほぼ別人と言っていいレベルで、人格に乖離があるのだ。
ヒナギクが慕う「まりも姉様」はヒナギク曰く、その容姿は一声で言えば純情にして可憐。精巧な人形を想わせるほどに整った見目は、同じ人間とは想えないほど、まさに神々が作りたもうた美貌の持ち主である。その一声は天上の調べを思わせるほどに美しく、そのまなざしは女神のような穏やかであり、その心に宿るのはどんな悪人にも向けられるほどの慈愛に溢れており、まさに聖母のようである、と。もはやどこからツッコんでいいのかがわからないレベルに美化されすぎていた。いや、美化を通り越して神聖視さえしているレベルである。
ちなみにそのときのことを、「まりも姉様について」をヒナギクに尋ねたときのことをアッシリアはよく覚えていた。なにせ隣でその「まりも姉様」が凍り付いていたのだから。端から見れば、ニコニコと笑っていたように見えるだろうが、アッシリアからしてみればそれは笑顔を貼り付けているだけであった。笑顔を貼り付けながら、心の中では「も、もうやめてぇぇぇぇぇぇぇ!」と心の中で叫んでいるのがありありと理解できたものだ。
「偶像崇拝」という言葉があるが、ヒナギクから「まりも姉様」へと向けられる憧れはまさにそれである。
ただ問題なのは、その偶像たる「まりも姉様」は存在しないということ。実際の「まりも姉様」、いや、玉森まりもは一言で言えば引きこもり気味のオタニートである。加えて言えば、どうしようもないほどの乳好きである。純情可憐とはとてもではないが言えない性癖の持ち主だった。もっと言えば、ただのスケベ親父なのだが、その見た目が見た目ゆえに誰もが騙されてしまうというやっかい極まりない人物であるのだが、そのことをヒナギクは知らない。
いや、かつてまりも自身が演じたお嬢様キャラを素のまりもと勘違いし続けているのだ。ヒナギクも大概だが、まりももまりもだった。
早い段階で「あれは演じていただけ」と伝えればよかった。だが、それができずにずるずると引きずった結果、現在の神聖視に至ってしまったのである。
まりも自身が言えないのであれば、アッシリアから言おうとしたのだ。それが「まりも姉様について」を聞いた理由であったが、その語る様を見てアッシリアは即座に匙を投げたのだ。
「これはどうしようもない」と思ったからである。狂信者すぎて下手なことをすると、藪を突っつくことにしかならないと判断したがゆえにである。いわば危険を察知したからであった。
その危険察知能力が現在警戒反応をしていた。理由はただひとつである。
「あ、あの莉亜さん!」
「……ここでは「アッシリア」と呼んでくれないかしら?」
「あ、ごめんなさい! えっと、アッシリアさん!」
「……なにかしら?」
「まりも姉様はどちらに?」
ヒナギクはいかにも落ち着いた様子で尋ねてきたが、その目には隠しようのない興奮があった。そしてその様子を見て「ああ、やっぱり」とアッシリアは思った。
(子供の頃に会ったっきりの憧れの人がいたら、そりゃ会いたいでしょうねぇ。でもなぁ)
ヒナギクの事情を考えれば、そう思うのは当然であろう。そう、当然なのだ。当然なのだが、そんなことはすでにもう叶っているのだからどうしようもないのである。
なにせヒナギクは「まりも姉様」とゲーム中ですでに再会している。同じクランのメンバーである「タマモ」としてだが。
そう、ヒナギクは「タマモ」が「まりも姉様」であることに気づいていないのだ。そしてそれは「タマモ」自身も同じである。「ヒナギク」が「従妹の希望」だということに気づいていなかった。
ふたりが従姉妹同士であることに気づいているのは、現状アッシリアだけ。そしてその事実が非常にやっかいかつ面倒であることにもアッシリアは気づいていた。いや、気づいてしまった。
(……あぁ、本当に。なんだってこの世界は「こんなはずじゃなかった」ことばかりなのかしらね)
まりもの付き合いで見た某魔法少女アニメの名台詞を思い浮かべつつ、アッシリアは目をキラキラと輝かせて迫るヒナギクに顔を引きつらせながら、どうしたものかと頭を悩ませるのだった。




