93話 夕空の下で佇んで
遅くなりました←汗
今回はテンゼン視点となります。
日が暮れていた。
(──丸一日経ったか)
店売りの刀を肩に預けながら、テンゼンはぼんやりと空を見上げていた。
タマモが一時的に下山してから丸一日が経った。だが、まだタマモからの連絡はなく、氷結王は人に擬態したまま、連絡を待ち続けているようだ。
(いや、もう竜の姿ではいられないのかな)
単純にエネルギー効率がいいというだけではなく、命を繋ぐためには竜の姿ではいられなくなったと言うことなのだろう、とテンゼンは判断していた。
氷結王はタマモを送ってからというもののあぐらの体勢のままでいる。一歩たりとも動かない。いや、動こうとしていない。タマモを転移させる分の力をどうにか維持させようとしているのだろう。
しかしそれはそこまでしないともう力を維持できないと、力の大半を失ってしまっていると言っているようなものだった。
「……限界、か」
洞窟の中でまぶたを閉じている姿を見ていると、動きもせず、まぶたを開くこともしないまま、暗がりの中にいる氷結王の姿を見ていると、幽鬼が不意にぼうっと現れたように思えてならないのだ。
氷結王が死んだわけではないのだろうが、いつそうなってもおかしくはないのだ。むしろすでに死んでいたとしてもおかしくはない。
「……タマモさん、まだなのか?」
テンゼンは焦っていた。氷結王は動こうとしていない。つまりはまだタマモからの連絡がないということだった。
氷結王はまだ生きている。生きてくれているが、その限界が近いのは明らかなのだ。一分でも一秒でも早く連絡をしてほしい。
(どんなものでも食べてくれれば命は繋げる。でもフロ爺は一切食べていないんだ)
タマモが山に来る少し前までは、果物を1日でひとつかふたつは食べていた。その程度では焼け石に水だろうが、栄養補給はできていたのだ。
しかしいまやそれさえもない。
久しぶりに食べたのが、タマモが1日前に作った寿司だった。
その寿司でわずかに生き長らえたが、それももう限界だ。いまに倒れても不思議ではない。むしろまだ倒れずに生きていることが奇跡といってもいい。
「早く、早く連絡を」
テンゼンは親指の爪を噛んでいた。普段冷静であるテンゼンがひどく焦っていた。焦るテンゼンは実の家族であるレンでさえも早々見ないものだった。
逆に言えば、テンゼンにとって氷結王がどれほどの存在であるのかを証明していた。
ゆえにテンゼンは早く連絡が、タマモからの連絡があることを祈っていた。
だが、その祈りは届かない。
──ドン。
軽い音が不意に聞こえた。
テンゼンが視線を向けると、氷結王が横になるように倒れていた。
「フロ爺!?」
テンゼンはたまらず駆け寄ると、氷結王を抱き抱えた。
「……っ!あんた、こんなに軽く」
抱き抱えて初めてわかったことだが、氷結王はとても軽かった。
さすがに子供のようにとまでは言わないが、老人の姿になっているとは言え、その体重はひどく軽かった。着流しで隠していた手足は、もう骨と皮だけになっていた。
「竜の姿ですでにあばらが浮き出ていたんだから、人の姿ならこうなっても当然か……ちくしょう!」
テンゼンは地面を殴り付けた。だが、自傷したところで解決することではなかった。それでも殴らずにはいられなかった。
「無理やりでも食わせておけばっ!」
無理やりでも氷結王の口の中に食料をねじ込ませて、食べさせおけばよかった。そんな後悔にテンゼンは駆られていた。
しかしどんなに後悔したところで結果は変わらない。変わるわけがない。
「……すまぬな、テンゼン。タマモにはそなたから謝っておいてくれ。もうあの子を転移させる力さえも我にはないようでな」
氷結王は笑っていた。少しずつ体を震わせて笑っていた。
「待てよ!そんなこと僕に頼むな!自分から謝れよ、くそ爺!」
「……その罵声が聞けなくなるのは残念じゃな。タマモと会えなくなるのも、のぅ」
「ダメだ!生きろ!タマモさんはもうすぐ、もうすぐ帰ってくるんだから!」
テンゼンは叫んだ。涙を流しながら叫んだ。だが、氷結王はただ笑うだけである。その姿にテンゼンは亡くなった祖母の姿と重ねていた。
「死ぬな。死ぬなよ、くそ爺!」
テンゼンは叫んだ。泣きじゃくりながら叫んだ。叫びながらテンゼンはタマモを呼んだ。声が届かないことを承知の上で叫んでいた。
「早く、早く!」
テンゼンは叫んだ。だが、その声に対しての返答はいつまで経っても聞こえなかった。
それでもテンゼンは必死になって叫んでいた。叫ぶことしかテンゼンにできることはなかった。そんなテンゼンを見て氷結王は穏やかに笑った。
「よい。もうよい。……間に合わぬことが宿命であったのだろう。母上もそう仰っていた。「こうなる宿命だったのだ」と。「ゆえに恨まないでほしい」と最期に笑いながら仰っていた。だからもうよい。もうよいのだ、テンゼンよ」
「いいわけがあるか!僕はまだあんたに勝ったことがないんだ!勝ち逃げなんてするな!僕に負けてから死ね!」
無茶苦茶なことを言っているというのはテンゼンとて理解していた。結局のところ死ぬというのであれば、今でも後でも変わらない。
だが、テンゼンが勝てるようになるまでには、まだ時間はかかる。その間だけでもいい。少しだけでも長く生きていて欲しかった。いなくなった祖父を想わせる氷結王になにがなんでも生きて欲しかった。
だというのにぶっきらぼうな言い方しかできない自身をテンゼンは呪っていた。だが、どんなに呪おうと現実は変わらない。変わってはくれない。
「……テンゼン。いや、種族は違えど、我が愛しき孫よ。最期の最期まで楽しく過ごせたのはそなたのお陰だ。感謝しているぞ。感謝ついでに頼みがある」
氷結王が震える手を向けていた。テンゼンはその手を握った。握りながらその手に泣きつくことしかできなかった。
泣きつきながらも必死にタマモを呼び続けていた。だが、タマモの声は聞こえない。聞こえるのは氷結王の荒い呼吸と、その合間に発せられる虫の羽音のように小さな声だけだった。
「この霊山を頼む。どうかこの山に住まう者たちを導いて──」
氷結王のまぶたが閉ざされようとした、そのときだった。
「──はん。まだ死ぬのは早くありませぬか?ドラ助兄上」
不意にテンゼンの耳に聞き覚えのない声が聞こえた。顔を上げるとそこには、真っ白な髪と立ち耳とやはり真っ白な5本の尻尾を持った着崩した巫女服を着た女性がいた。
「……おぉ、ふーこか。久しいのぅ」
「ふーこ?」
女性を「ふーこ」と呼び、嬉しそうに笑う氷結王。女性の登場で少しだけ持ち直したのだろうが、いつまでも続くとは思えない。女性はそそくさとテンゼンから引ったくるように自身の腕で氷結王を抱き抱えると、しかめっ面になった。
「やはり極度の栄養失調ですか。あれほどちゃんと食べろと言ったでしょうに」
「……すまぬな。なにを食べても美味くなくてのぅ」
「まぁ、無理もないですがね。姉君がお母上を斬られたのを見たうえに、その血をあなたは浴びたのです。……血の味がこびりついても無理はない」
「……すまぬ」
「謝ることではありますまい」
「だが、母上はそなたにとっては」
「……もう終わったことです。相手にもされておりませんでしたからね」
「それでもすまぬ」
氷結王は謝った。謝ることではないと女性は言っていた。だが、氷結王はそれでも謝っていた。
「死に水を取りに来てくれたのがそなたでよかった」
氷結王は安らかそうな顔をしてまぶたを閉じようとした。が、女性はなぜかパンと氷結王の横っ面を叩いた。女性の思わぬ行動にテンゼンは凍りついた。しかし女性は気にすることなく呆れた様子で続けた。
「だーかーらー、死ぬのは早いと言っているでしょうに。栄養失調であるのであれば、食べられればよい」
「だが、我は」
「あなたにも食べられるものを用意したんですよ、眷属様がね」
「なに?」
女性が洞窟の外を見やる。テンゼンも外を見やった。そこには夕陽を背に浴びるタマモがいた。その手にナプキンを被せられた皿を手にしている。
「タマモさん!」
テンゼンはとっさに駆け寄ろうとした。が、なぜか体が動かなくなった。
「……そのままじっとしておれ、小僧」
女性が睨みつけていた。縦に裂けた瞳孔でテンゼンを睨みつけていた。その目にテンゼンは久方ぶりの恐怖を感じた。
だが、女性はテンゼンを無視して氷結王を抱えてタマモのもとへと向かった。
タマモは夕空の下で正座をしていた。やや俯きがちだが、背筋をぴんと伸ばしたその姿勢はとても美しかった。なによりもうっすらと開かれた目が、強い意思の光を灯した瞳がなによりも美しかった。
「お待たせいたしました。こちらが氷結王様のお求めの「タマモ印のいなり寿司」となります」
タマモは皿を包むナプキンを取った。そこには薄茶色に染まったいなり寿司が鎮座していたのだった。




