37話 暴走
「……むぅ。お腹いっぱいです」
朝食後、まりもは自室のベットで寝転がっていた。
下腹部をさすりながら、仰向けで天井をぼんやりと眺める。
「……藍那さんめ。あれは反則なのですよ」
わりと少食なまりもだが、今日の朝食は許容範囲をだいぶ超えて食べてしまった。
その理由は一時的にお付きのメイドとなっている藍那の手腕による。
まさかの「あ~ん」を本職のメイドである藍那にしてもらえるとは思ってもいなかった。
もっとも秋葉原にいるメイドさんたちとて、「あ~ん」などはしてくれないだろうが。
その「あ~ん」を本職のメイドである藍那がしてくれたのだ。衝動に突き動かされてしまうのも無理はない。
実際そのときのまりもの記憶は曖昧だった。無我夢中でサンドイッチを咀嚼し続けていたのだ。記憶などあろうわけもない。
ただ曖昧な記憶の中でも、藍那によるさまざまな、とても魅力的な「あ~ん」の数々はすでにまりもの脳内の保存領域にインプットされているため、忘れることはない。忘れるわけがない。
「普段クールな藍那さんの「あ~ん」とか、据え膳なのですよ!」
ベッドの上でゴロゴロと回転しながら、悶えるまりも。すでに腕の中には普段使いの枕がある。その枕をこれでもかと抱き締めつつ、沸き起こる衝動に任せて回転していくまりも。
実際に据え膳を食らったわけなのだから、間違っているわけではない。だが、まりもの性別を考えるととたんにおかしなことになってしまうのだが、いまのまりもにはそんな些細なことを考えている余裕は皆無である。
「あー!もう!どうしてボクは女の子なんですかぁ!」
ついには自身の性別に対してディスり始めたまりも。どうしてその結論に達したのかは、あえて語るまい。いろんな衝動に駆られすぎた結果であり、単純に暴走しているだけなのだ。
だが、どんなにディスったところでまりもの性別が変わるわけではない。やりようがないわけではないが、仮に性別を変えたところで、まりもが考えている通りに行く保証はない。
むしろ、いままでの特権的なあれこれを失う可能性が高い。
その特権と性別チェンジは果たして等価交換となるのか。
「う、うぅ~!痛し痒しです!」
まりもはたまらず叫びながら、またベッドを回転し始めた。
「……仮にお嬢様が若様になられたら、少なくとも藍那は近づくことはありませんが?」
ベッドを回転し始めるまりもを横目に、まりもの部屋のサイドテーブルに備え付けの椅子に脚を組んで腰掛けながら、藍那は優雅なティータイムを楽しんでいた。片手にはブックカバーで覆われたB5サイズの本がある。その本を藍那は片手でぺらりぺらりと捲っていく。
藍那は最初からまりもの部屋にいたため、まりもの思春期な言動はすべて見聞きしていた。
当然そのことはまりもとてわかっていた。わかっていたうえでのあの言動だった。まりもの若干アレなところは、ゲームの中だけではなく、リアルであっても変わらない。
「むぅぅぅ!ボクがこんなになったのは、全部藍那さんのせいなのに!そう、藍那さんが、藍那さんがぁぁぁぁぁーっ!」
「ふふふ、簡単に染められちゃいましたからね。当時のお嬢様はうぶでかわいらしかったですね。ふふふふふ」
「くぅ!そ、その妖しきれいな笑顔はやめてください!ドキドキするのです!」
「まりもお嬢様は本当に童貞丸出しですねぇ。見た目はかわいらしい女の子なのに」
ふふふ、と口元を妖しく歪める藍那。そんな藍那の姿にまりもの頬はほんのりと紅く染まっていく。そのまりもの反応を見て、ぺろりと赤い舌を覗かせながら唇をゆっくりと舐め取っていく藍那。うっすらと普段は閉じられているまぶたが開き、どこか熱を帯びた茶色の瞳がまりもを見つめていた。その熱にまりもの頬はより一層に赤々と染まっていく。
「ふふ」
短く笑いながら藍那は、椅子から立ち上がった。手にあった本はサイドテーブルの上に置かれ、湯気を立てるティーカップには目もくれず、その視線の先にあるのは、ベッドの上にいる「獲物」だけ。
「あ、藍那さん?」
「ふふ」
藍那は笑う。まりもがなにを言っても笑うだけである。
まりもはゆっくりとベッドの上で後ずさる。だが、すぐに壁にぶつかった。壁を背負う形になり、慌てて前を見やるとすでに藍那はまりものベットの上に乗っていた。
ぎしりとスプリングが軋む音がわずかに聞こえた。藍那の胸元は少し緩められており、メイド服に隠れた真っ白な首筋が露になっていた。その首筋にほんの一瞬目を奪われるまりも。
だがその一瞬は致命的な隙を藍那に見せることになった。そしてその隙を藍那は見逃さず、まりもにと腕を伸ばし、そして──。
「ぁ」
──ドサッという音とスプリングが軋む音が響いた。スプリングの軋む音はしばらく続いたが、すぐにやんだ。
だが、そのときにはまりもは危機的状況にあった。
「ふふふ、どうしました、お嬢様?」
まりもの上に跨がりながら、藍那は笑っていた。体格の差があり、まりもではどうあっても藍那をはね飛ばすことはできない。かといって抜け出そうにもまりもが動くたびに藍那は体重を移動させて、まりもが抜け出せないように拘束していた。
「ぅぅ~」
「唸ったところで現実は変わりませんよ?」
藍那はそっとまりもの顎をクイっと上げた。まりもの頬が紅潮した。藍那の目が鋭く細められ、ゆっくりとまりもの唇めがけて顔を近づけていき、あとわずかで触れあうというところで──。
「~っ!もう、本当に狐ちゃんはかわいいんだからぁぁぁぁぁーっ!」
──藍那はそれまでの攻め攻めなキャラを捨てて、まりもをガバっと抱き締めていた。藍那に抱き締められたまりもは「がふっ!」と妙な声を上げながら、壁に連続で頭をぶつけていく。
しかし藍那は止まらない。
「あー、あー、あー!もう!なんですぐに言ってくれないんですかぁぁぁ!狐ちゃんがお嬢様だと言うことをなんで黙っているんですか!水臭いですよぉ!お嬢様をオタクの道に引きずり込んだのは私なのに!つまりは私はお嬢様のオタクのお師匠様なのにぃ!なんで言ってくれないんですかぁぁぁぁーっ!」
「あ、藍那さん!い、痛いです!落ち着いて!落ち着いてくださ──」
「落ち着いていーまーすー!ただリアル狐ちゃんの匂いを堪能しているだけでーす!スーハースーハースー!」
「き、気持ち悪いのですよぉ、宝石職人さん!」
「あーん!そういうイケずなところもかわいいんだからぁぁぁぁぁーっ!それに、そんな職業名じゃなく、ちゃんと「アイナ」と呼んでよぉぉぉぉぉーっ!」
「わかった、わかりましたから、落ち着いてぇぇぇぇぇぇ!」
「落ち着いていーまーすー!」
それまでの雰囲気はどこへやら。藍那はそれまでのクールキャラを投げ捨てたかのように甘ったるい声を出して暴走していく。
すでに本人が言っている通りだが、生産板における「通りすがりの宝石職人」ことアイナは、玉森家メイド隊の副長である藍那のアバターだったのだ。藍那がまりもを「通りすがりの狐」だと知ったのはつい先日のことだった。
なろうはいちはち禁はダメなのです←