119話 惨劇の始まり
「……ふぅ」
アッシリアは大きなため息を吐いた。
後ろから「うーうー」と唸るアオイの声が聞こえるが、いまはもうどうでもいいことだ。唸り声ではなく、アオイの行動に気を付けなければならなかった。
下手に気を抜くといまのアオイはなにをするのかわからないのだから、アオイ自身がなにを言おうとどうでもいいと思うのはある意味あたり前だった。ただこうして拘束するまでの犠牲を踏まえると、あまり笑えない状況ではあるのだが。
「……お疲れですかな、「明空」殿」
アオイのさらに後ろから声がかかる。いつもなら喧嘩を売ってくるようなことばかり言う相手ではあるが、今日ばかりは喧嘩を売っているのではなく、お互いの健闘をたたえ合うような響きがあった。そしてそれはアッシリア側も同じだった。
「あなたもね、「宵空」殿。本当に、本当にお疲れ様です」
「ええ、「明空」殿もお疲れ様でした」
しみじみとお互いの健闘をたたえ合うアッシリアと「宵空」──。ふたりの関係を知っている者がいれば、誰もが目を疑うことだろう。
普段のふたりはお互いに嫌い合っているため、いがみ合ってばかりなのだが、今回に限ってはお互いをたたえ合うしかなかった。それだけ暴走したアオイを止めるのが大変だったのだ。
「……私、今回ほど「蒼天」に加入したことを後悔したことはございませんぞ」
「……奇遇ですね、「宵空」殿。私もどうして加入するようなことになっちゃったかなと何度も思いました」
「ああ、そうでしょうなぁ」
「ええ、そうですよねぇ」
はぁとお互いにため息を吐きつつ、アッシリアと「宵空」は「蒼天」に加入したことを後悔しているとお互いに言いあった。
普段であれば、そんなことは言わない。そもそもお互いの意見が一致すること自体が珍しいというか、今回が初めてだった。
それだけ普段のアッシリアと「宵空」の仲は悪い。お互いに「蒼天」どころか、同じ「三空」の一員として数えられていることが気に食わなかった。
とはいえ今回に限っては、「この人がいてくれたよかった」とお互いに思い合っていた。むしろどちらかがいなかったら、アオイの暴走を止めることはできなかっただろうな、と思うほどだったのだ。それほどの激戦だった。
「……正直な話を言っていいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「なぜ私たちは試合前なのに、激戦をしなければならなかったのでしょうか?」
「……それは考えたらダメです、「宵空」殿」
「デスヨネェ」
普段丁寧な物言いの「宵空」の声が裏返っていた。それだけ暴走していたアオイが危険極まりない存在だったという、なによりもの証拠だろう。
「……ところでどうしますか、試合は」
「……「姫」の目標は優勝ですから」
「ですな。では、そろそろ私も戦いましょうか」
「宵空」の言葉にアッシリアは思わず振り返っていた。いままで「宵空」は特に戦おうとしていなかったのだ。というよりも戦うに値する相手がいなかったようだった。その「宵空」が今回は戦うと言い出したのだから、驚かずにはいられない。
もっともその理由は明らかだった。
「……「宵空」殿は本当にPKKがお嫌いですね」
「まぁ、そうですなぁ。あまり好きではありません。私はただ面白おかしくプレイをしたいだけだというのに、彼ら彼女らと来たら」
やれやれと肩を竦める「宵空」だが、PKKが「宵空」を目の敵にするのは「宵空」自身によるものが大きいのだ。もっともそのことを指摘したところで「宵空」は知らぬ存ぜぬと言うだけだろうが。
「それにそろそろ彼らにも伝えるべきでしょう」
「なにをです?」
「あなた方が信奉する「聖女」はすでに我らが仲間であるということをですよ」
「え?」
「宵空」はそのひと言だけ口にして前に出て行く。思わぬ言葉にアッシリアは言葉を失っていた。だが、そんなアッシリアを見て「宵空」は喉の奥を鳴らすようにして笑って舞台にひとりで上がっていく。
「ゆえに我らが仲間を奪おうとするのであれば、容赦をする必要はないということです」
にやりと口元を大きく歪めて笑う「宵空」にアッシリアはなにを言えばいいのかわからなくなった。ただひとつだけ言っておきたいこともある。
「……あまり無体をなさらぬように」
「ふふふ、承知しました」
「宵空」は笑って頷いた。しかしその笑顔は相変わらず妖しかった。
「……これは惨劇になるかしらね」
反対側にいるのは「神槍」のオルタ。神業と思えるような精密な槍を放つ槍士。だが、そのオルタとて「宵空」には敵わないだろう。
「運が悪かったわね、オルタ」
かつての仲間を見やりながら、アッシリアは小さくため息を吐いた。そうして惨劇となる試合は始まった。