86話 レンの涙
「俺はまだ戦えるんだ」
レンはベッドから体を起こしていた。
だが、上半身を起こすだけで体がふらついていた。どう見ても重傷だった。重度のステータス異常であることは間違いない。
それでもまだ戦おうとするのか。タマモにはその理由がわからない。
「レンさん、その体では無茶なのですよ」
「そうだよ、レン。その体じゃ」
「大丈夫。肉壁くらいにはなれるから」
「肉壁って」
戦えないというのはレン自身でもわかっていたのだろう。だが、まさか「肉壁になる」と言うとは思わなかった。そこまでして戦おうとするのかなんて考えてもいなかった。
だが、当のレンは当然のように「肉壁になる」と言いきったのだ。どうしてそこまでするのかがタマモにはわからなかった。
ボロボロになるまで戦ったところでなんの意味があるというのだろうか。そこまでして強くなってどうするというのか。タマモにはレンの考えがまるでわからなかった。
「ふざけないでよ!」
ヒナギクが叫んだ。わからなかったのはタマモだけではなく、ヒナギクもまた同じのようだった。
いや、ヒナギクだからこそ、と言うべきか。ヒナギクは怒っていた。
怒りながらも悔しそうな顔をしている。その表情を見て、レンの言おうとしていることをなんとなくは理解しているが、それでも止めずにはいられない複雑な感情を抱いているであろうことがわかった。
とは言え、だ。
ボロボロの状態の仲間を肉壁になどできるわけもない。
いや、していいわけがない。たとえ戦略的に有効な手段だったとしても。それ以外に有効な手段がなかったとしても、仲間の犠牲を前提にした試合などもってのほかだ。
「ヒナギクさんの言うとおりですよ。少なくともボクの目の黒いうちは、そんな犠牲を前提にした戦いなんて許しません! 「フィオーレ」のマスターとして、そんな戦いは許可できないのです!」
ヒナギク同様にタマモもまた声を大きくしていた。
久しぶりに、運営以外に対して怒鳴ってしまったなと思いつつ、タマモはレンの腕を取った。その腕はわずかにだが震えていた。
「腕が震えているのです。こんな状態で戦いに出せるわけがありません」
「……これは武者震いで」
「バカなことを言わないでください! ただ体が動かせないだけじゃないですか!」
武者震いということもたしかにあるかもしれない。
しかし実際は武者震いではなく、体が言うことを聞かないというだけのことであるのは、目に見えていたし、「鑑定」をした結果はひどいものだった。
レン LV8
HP 188
MP 188
STR 12(-6)
VIT 14(-7)
DEX 18(-9)
AGI 20(-10)
INT 11(-6)
MEN 13(-7)
LUC 10(-5)
ものの見事にステータスが半減していた。HPとMPが変わっていないことだけが救いだろう。それでもほ
とんどのステータスで現在のタマモよりも上回っているのがなんとも物悲しい。
だが、それはそれ。これはこれである。
タマモは現在の低ステータスに馴れているため、なんの問題もないが、レンはそうではない。
ステータスが一桁の経験などレンにはないはずだ。
どう考えてもまともに体を動かすことはできない。
たとえ肉壁になったところで、今日のような粘りを見せることはできない。あっさりと死亡判定となるのが関の山だ。
いくらなんでも無謀にもほどがある。そんなことはレンとてわかっているはずだ。
なのになぜそんな体で戦おうとするのだろか?
「……嫌なんだ」
「え?」
「もう大切な人がいなくなるなんて嫌なんだよ」
レンは泣いていた。泣きながら嫌だと言っていた。その姿は普段の強いレンとは正反対でとても脆いものだった。
「強くなれば、いまよりももっと強くなれば、兄ちゃんは許してくれるかもしれないんだ。見捨てられることなんてないはずなんだ」
「……レンさん」
レンはひどく怯えていた。
大切な人を失いたくないと泣きながら怯えていた。
その姿はただただ胸を痛ませる。
タマモはあたりまえのことを言っているだけだ。
しかしレンの慟哭にはそのあたりまえさえもねじ曲げさせるほどに深い悲しみがあった。
「まもるから、おれがぜったいにまもるから、だからだれもみすてないで。おれをひとりにしない、で」
不意にレンの呂律が怪しくなる。加えて開いていたまぶたがゆっくりと閉じられつつあった。明らかに様子がおかしいのだが、タマモには覚えはない。
可能性があるとすれば、それはヒナギクだけだ。
「……少し頭を冷やしなよ」
ヒナギクはレンに向かって掌を広げていた。その顔はいままで見たことがないほどに歪んでいた。とても辛そうな表情だった。
「「スリープ」を使ったの。レベルないしステータスが自分よりも低い相手にしか効果がないのだけど、いまのレンには有効だから」
ヒナギクは笑っていた。だが、その表情は悲しみに染まっていた。
「おねがいだよ。おれがぜったいにまもるから、なにがなんでもみんなをまもるから。だからおれをみすてない、で。ひとりはいや、だよ」
レンは目尻から涙をこぼしながら意識を手放した。静かな寝息が部屋の中で響いていく。
「……バカ。あんたはひとりじゃないって何度言えばわかるの? 私があんたをひとりにしたことがあるの?」
眠るレンに向かってヒナギクは言った。ヒナギクの頬を透明な一筋の線が伝っていくのをタマモは見ていることしかできなかった。




