俺は結婚したいわけじゃない
これはあくまでも必要に迫られて、の事なのだ。
「いいか! 別にお前と結婚したくて結婚するんじゃないんだからなっ! あくまでこれは契約だ。お前が! 俺じゃなくてお前が! 結婚しないとばーさまの遺産を引き継げないっていうから、やってやるんだからな!!!」
結婚は何より最初が肝心だ、と、深刻な顔で父が言ってきたのは昨日のことだった。普段口うるさいことは何も言ってこない、影の薄い父がわざわざ息子を探し回って言うことなのだから余程のことだろう。確かに母との力関係を見ていると納得できる気がする。いや、何かもう絶対そうだ。間違いなく最初が肝心だ。
だからこれは譲れない一線なのだ。
俺がしたいんじゃない。
エイプリルのやつがしたいんだ。
「ふむ」
ずり落ちたメガネを片手で抑えつつ、彼女が向かうのは婚姻届。結婚許可証は既に取ってある。世間的に認められるのは式の後だろうが、これにサインをして提出すれば夫婦ということになる。
非常に重要な書類なので、穴が空くほど見て……いや、見ないでさっさとサインしろ。
「なるほど」
「納得したか」
「どうやらこのインク、固まってるみたいだ」
「書類を見てたんじゃないのか!!!!!!!!!!」
彼女は眉毛ひとつ動かさずに無表情でインク瓶を逆さにしてみせる。
「サインをするには必要だろう?」
た、確かに。
サインをするにはインクが必要だ。
女性である彼女が遺産を引き継ぐためには既婚者で無くてはならない。昨今の文明開化著しいこのご時世に何をと思うがそういう法律なんだから仕方がない。エイプリルのような進歩的な職業婦人には不便この上ないことであろう。
思えば彼女は初めて会った時から進歩的であった。
寄宿舎のそばにあったアンダーソン古書店の機械工学の棚、女性はおおよそ近寄らない場所で、出会った。同じ本に手をかけた人物が女性だと気がついた時は口から心臓が飛び出るくらい驚いたものだ。ましてやそれが上品なドレスに身を包んだ女性とは! 我々の出会いに寄与した運命の本のタイトル『現代工場における不可視エネルギーの重要性と超常現象に起因する運動エネルギーの相乗効果あるいは付加価値付与の方法理論』は今でも忘れられないし、一生忘れることがないであろう。
と、気がつけばエイプリルが部屋を見回していた。
「そういえばこの書斎……」
「しょ、しょさい?」
思わず出てしまった声は裏返っていたかもしれない。
まさか……いつか必ず入手するつもりで本棚の中央に展示ケースを準備してたのに気づいたのか!?
「コホン、この部屋がどうしたんだ? どこかおかしなところでも?」
咳払い一つで何とかバレないように返事をする。
「君、さてはインクの替えがどこにあるのかわからないんだろ?」
「……………………………………………いや、分かる」
「だってこの書斎、片付いてるんじゃなくて汚くなる余地が無いというか」
「うるさい!!! ほら、新しいインクだ!!」
机の引き出しからインク壺を出して見せ、そのまま彼女に投げてみせた。
マーロウインキ製造所、とデカデカと書かれた黄色いラベルをエイプリルは一瞥したと思えば勢い良く剥がす。剥がした後がベロベロじゃないか。ありえないほど思い切りが良い。メガネを掛けた人間は神経質と相場が決まっているだろ。くそう、さっきから常識が通じない。どうするんだこれ。どっちかって言うと俺はラベルの跡が残らないように剥がすポリシーなんだが、使い終わったインクこれ俺が使うのか!? 離婚原因になりかねないぞ。
気がつけばエイプリルがこちらを見ていた。インク壺は既に机の上。ラベルの剥がし方に後悔したわけじゃない。ブルーの瞳に見入りそうになるが今度はわかってる。
俺は彼女の方に手を伸ばすと……
「新しいペンだ!!!!!!!!!!」
と、トレイのスキマから羽ペンを取り出してみせた。
「すまない。それで……」
「今度は何だ!? 新しい布巾か!? ペーパーナイフか!?」
「いや、君は書斎は使わないけど、頑張りやさんだなあと思ってな。良い夫を持てるようで、私は幸せものだと伝えたかった」
「……撫でるのはよせ」
表情筋が壊れたかのようにめったに顔を変えないエイプリルが薄っすらと笑った気がした。それを見たら、なんだかもうすっかりと気分が良くなって、何もかも満たされた気になった。
父さん、あんたの息子はやっぱりあんたの息子だったよ。