青木の一日 ~「白の自販機」スピンオフ~
よろしくお願いします!!
何も見えない暗がりの中で、ふっと目を覚ます。当然暗がりの中なのだから、自分の体を目にすることもできない。寒くもないし、暑くもない、体にあった適温というイメージ。立って一歩を踏み出してみても風を感じることはない。ここはどこだ。そんな疑問もあるが、正直どうでもいいような気もする。
奥の方に誰かがいるのが見えた。制服を着ている。あれは・・・うちのか?近づいていくにつれて、そいつの姿はどんどんと見覚えのあるものに変わる。まっすぐな黒髪、低い身長、その割にはしゃんと伸ばした背筋。体が熱くなったのと同時に、目も冴えてくる。
そうだ、あいつだ。俺はあいつを知っている。最初に見たあの歯を食いしばって泣く姿も、最後に向けてきたあの気持ち悪い笑みも、全部覚えているぞ。動かす足が速くなる。
俺の手が奴の肩に届いた瞬間、奴が振り向きざまに微笑むのを見た。そう、これはあの時の気味悪い笑み、ではない。頬がこけ、目玉も失われた、白骨化したアイツ。暗い中で奴の白さだけが映えて見える。俺を見る目の奥には何も映ってはいなかった。
「僕は新たな世界を作るんだよ」
俺は奴から手を離してしまった。
「はっ」
大きな息を吐いて、目をかっ開く。鳴りやまない心臓の音を聞きながら、自分の汗が額を滑り落ちるのを感じた。真冬に、こんなにも汗をかくとは。みえるのは、自宅の天井、いくつかひびの入った黄ばんだ壁だ。寝転がったままの状態で、ほとんど使われていない目覚まし時計に目をやると、時計の針は七時十一分を示していた。以前なら十時くらいまで一度も起きずに寝続けていたのに、最近は六時、七時台には自然と目が覚めるようになっていた。
「クソがっ」
右足に手を添えながら体を起こす。部屋に差し込む朝の陽ざしで、目が開けづらくウザったい。散らかった漫画や雑誌を足にぶつけながら、自分の部屋を出る。
居間へと入るが、そこには無造作に置かれた洗濯物と机に置かれたカップ麺のゴミがあるだけで、人の気配は感じられない。これはいつものことで特に気兼ねすることはない。台所の水道をひねり、流れる水をそのまま口に含む。ついでに顔も雑に洗った。ひどく冷たくて、脳が一瞬で目覚めた。
見もしないテレビをつけて、机の前の椅子に座った。ちょうど視線の先にゴミ箱があり、そこにグシャグシャにされ、つっこまれた書類が見えた。そこには“細川未来 失踪”という言葉が刻まれていた。
一週間前俺がまだ入院していた時、学校の教師どもが見舞いという名目で俺の病室に来た。おどおどした二人の教師は、俺となるべく視線を合わせないように話しているようだった。まずハゲた年配の教師が切り出してきて、心にもない「大丈夫か」という声を浴びせてきた。その後「お前も大変だったな」「ゆっくり休めよ」と続く。俺が無視して黙っていると、年配教師は建前を作るのはあきらめたようで、言葉を発するのをやめた。少しの沈黙が続き、再び年配教師が口を開く。
「細川くんの行方は知らないか?」
反射的に「あぁ?」という声が自分からこぼれる。
「そんなの知りませーん。けーさつにも散々そう言ったの聞いてなかったのかよ」
すると年配教師の後ろに控えていた若い体育会系の教師が飛び出してくる。
「なんだ、その態度は!」
若い教師のその面に苛立ち、彼の胸倉をつかんで叫ぶ。
「知らねえって言っただけだろうが。あいつの居場所なんてな、逆に俺が知りたいくらいなんだよ。この怪我の分、殴り返してやりてぇくらいだ」
胸倉をつかまれた若い教師は一瞬ひるんだように見えたが、ひくことはなく続けた。年配教師の方が慌てて止めに入るが、彼の勢いに敵わないらしい。
「何だと⁉細川がな、お前みたいなやつ相手にするわけないだろう!その怪我だって、お前が嘘ついてるんじゃないのか」
「水島先生、落ち着いてください」
「はぁ⁉てめぇ俺を嘘つき呼ばわりすんのかよ。いい度胸してんじゃねぇか」
「お前ならあり得ることだろう!」
「ちょっ、何やってるんですか!おい、誰か!」
偶然病室の前を通りがかった医師が止めに入る。その後二、三人が加わり、俺と若い教師は静められた。医師は「まだ意識が戻って浅いんですから、刺激するような発言は控えてください」と、去り際教師たちに耳打ちしていった。年配教師は「すまない、私たちが悪かった」と汗をかいた頭を深く下げた。若い教師の方も「悪かった、俺が熱くなりすぎた」と、何かまだ言いたげな表情のまま謝った。年配教師が持つ黒いカバンに目をやる。
「細川の調査報告書、警察から預かってんでしょ。見せてくださいよ」
年配教師も若い教師も一瞬戸惑ったように顔を見合わせてから、ゆっくりとカバンの中から透明なクリアファイルを取り出した。中には“細川未来 失踪報告書”と書かれたを表紙に、奴を最後に見た人物や行きそうな場所などが百件近く並べられていた。その中には俺の自宅の住所もあった。これは俺が“細川と親しい人物”の欄に加えられてるからか。笑える。
「あいつは俺を殴った後に、学校の奴に会ってる訳すか」
「あぁ、いつもと同じ様子で、失踪するような雰囲気もなかったそうだ。ただ細川が使っていた駅前のロッカーには大きなキャスターが入っていたそうだが」
「へー用意周到ですね」
俺の言葉に若い教師は口ごもり、うつむいた。
しかしおかしい。普通なら“同級生を殺しかけ、怖くなり逃亡”というパターンはありそうだが、これから新しい社会を作るとか言ってた奴が達成目前で逃げるだろうか。監視カメラの位置、死体処理まで計算・準備してきた奴が。だいたいあいつの目には恐怖なんて感情、微塵も感じられなかった。むしろ俺を殴っていた時、あいつは何回か笑っていた気がする。まるで殺しを楽しんでいるように。
チッと舌打ちをする。ぜってぇ許さねぇ。
年配教師は俺からクリアファイルを受け取って、カバンの中から新しく一枚の紙を出した。“未来君を見つけたら、ここに↓“と書かれた矢印の示す方には地元警察の電話番号が明記されていた。そしてその下には入学式の時の細川の写真。小さく笑った色白の男の子。今より血色はよくないが、穏やかな顔をしていた。
教師達は「早く学校に復帰しろよ」とだけ言い残し、そそくさと病室を後にした。
居間に朝の報道番組のアナウンサーの声だけが響く。もう一度寝ようかとも考えたが、動く気力も起きない。この右足を引きずるのも面倒だ。ボーッとテレビ画面を見つめていると、インターホンの音が聞こえた。またか。ドアの前に立っている人物の顔が浮かび、玄関の方を一瞥しただけで、出る気も失せた。そもそも出たくない。このまま相手が去るのを待とうと、テレビを消し、息をひそめる。インターホンはその後何回か鳴り響く。
一分後そろそろ大丈夫かと思い、テレビをつけた瞬間、玄関のドアを力任せに叩く音が耳に入っていた。一瞬驚いて、すぐさま玄関へと向かう。
「おい、てめぇ、こらっ!朝からうるっせんだよ!」
「だったらとっとと出んかい!俺だって出勤前は忙しいんだよ」
そこにはマフラーをまいたスーツ姿の男が立っていた。なぜ朝っぱらからこんな奴の顔を見なくちゃならない。毎朝、両者苛立ったまま叫ぶのが日常茶飯事だ。
「なら、そのまま行けよ!いちいち俺の部屋寄ってくんじゃねぇ!」
とドアの隅に積み上げていたビールの缶を蹴る。向こうはそれを「うおっ」と声を上げながらよける。ビール缶は奴の後ろの柵に当たって、勢いを失い転がっていた。
「あっぶねーな。お前、何すんだよ!」
「うぜぇ。二度と来るな」
玄関の戸を閉めようとすると、突然ドアの隙間に入ってきた革靴がそれを阻む。
「痛いっ!お前、勢いよく閉めすぎなんだよ!」
奴が半泣きで、俺に訴えかける。なら、足をどけろ。俺はドアを閉める手を緩めない。
「ちょ、待てって、待てって。お前、今日学校は?」
「てめぇに関係ねーだろ」
「あ、その様子じゃ行かない感じだな?ちゃんと高校には行きなさいよぉ?もう怪我も治ってきてるんだろ」
「まだだな。痛くて出歩けねーな」
奴に視線を向けないまま、ドアを力任せに閉めようとする俺に奴は「ふ~ん」と言った。すると、奴が急にドアを俺のほうに押しやってから、再び自分のほうへ引いた。
「なっ」
よろけた俺は体制を整えようとするが、足が思い通りに動かない。柵を手でつかんだ、プラス奴が俺の服を引っ張って支え、何とか転倒は防げた。奴が鼻で笑う。
「大丈夫、その反射があれば学校行ってもやっていける」
奴の顔面めがけて、拳を振り下ろす。奴は焦ったようだったが、あと少しというところで受け止めた。
「あ、ぶねっ」
奴が声を漏らしたのも聞かず、連続で脇腹を二回打つ。今度は入った様で、奴は「ゴホッ」とむせだした。そのまま奴のすねに蹴りを入れるが、あまり威力がなかったようで、反動でこっちがよろけそうになる。
「くそっ」
この程度の動作で息が上がり始める。肩で息をしようとする体を強制的に抑え込む。奴はむせたままこっちを見つめる。恨めしそうな目で俺を見つめる。フッと笑いがこぼれる。
「失せろ」
脇腹を押さえながらたたずむ奴を後目に扉を閉める。鍵まで閉め、居間へ戻ろうとした時、軽くドアをたたく音が背後から聞こえた。
「また夕方来るから。ちゃんと学校行けよ」
俺は振り返ることもなく、暗い部屋へと入っていった。
居間の椅子に腰かけ、ため息をつく。毎度あのセリフを言って、あいつは毎日ここまで来る。全く暇な奴だ。初めて自己紹介された時、絹江高校の教師だとは言っていたが、絹江高校は俺の住む団地とは逆方向にあるじゃないか。凝りもしないで、よく毎日あんな戯言を吐けるもんだ。いつも俺に殴られて帰っていく。
「人の心配より、自分の心配しろよな」
あまりの馬鹿さに笑ってしまう。
あいつの名は確か英環、公人だっけな?英環は路地で意識を失っていた俺に声をかけた人物だった。なんでそんなところを通っていたかと聞くと、遅刻しそうで近道を通ったら、俺が倒れていたらしい。その後救急車を呼び、制服から判断して学校にも連絡したそうだ。後から医師に、英環が止血してくれたから命があったようなもの、礼を言っとけ、などと恩着せがましいことを言われた。冗談じゃない。それから俺は英環に付きまとわれているというのに。
英環は入院中、十五回も見舞にきた。三か月の入院だったから、一週間に一回のペースだ。英環は見舞のたびにフルーツやらお菓子やらを持ってきた(金欠の時はコーヒー一本)。来るなと言っても、当然のことながら聞く耳は全く持たなかった。その上入院中は、俺が動けないのをいいことに、ベッドから手の届かない範囲に居座り、自分の身の上話をしまくった。高校の校長がパワハラしてくるやら、三十代間近で彼女に降られたやら、この上なくどうでもいい話を延々と続けた。俺はほとんど無視していたが、気にしていないようだった。事件のことはニュース報道である程度知っているらしく、週刊誌で“イジメが関係か!?”などと騒がれている、俺と細川の関係性などについても触れてくることはなかった。
一度どうしてここまで絡んでくるのかとあきれながらも尋ねたことがあった。返ってきた答えは「青木、困ってそうだったから」だ。冗談じゃない、俺はお前に助けてもらうほど弱くなんかない。勝手に可哀想がるな。
「俺はお前なんていなくても一人で生きていける。善意を押し付けてくんじゃねえよ」
そうつぶやいた瞬間、頭上から突然声が降ってきた。
「本当に?あなたは他人の力なしで生きていくことができるのですか?」
驚いて、上に視線を向けるが、低い天井がひっそりと構えているだけだ。
「ここですよ」
突然自分の耳元で声がし、驚きのあまり椅子を倒しそうになった。「何すんだ、てめぇ!」と上げようとした声は最後まで言い切ることなく消えていった。そこには茶色い髪の女の子が宙に浮きながら、立っていた。カーテンの様な白い布を体に巻き付け、背中からは大きな羽・・・?
「は、お前何」
「あなたたちの世界で言うところの天使というものです。名前はユーン、お見知りおきを」
「天使?大丈夫か、お前、ハハハ」
久しぶりに声を上げて笑う。いきなりコスプレ女が登場したかと思うと、今度は天使だとか言い出してきた。あまりに現実離れした話だ。つか、コイツどっから入ってきた。
「はっはっは、今日はハロウィーンじゃねぇぞ、ガキ。とりあえず出てけ。お菓子が欲しいなら、よその家行けよ」
子供は俺に視線を向けたまま黙り込んだ。無表情のまましゃべらない。いい加減気味悪さに引っ張る出してやろうかと考え始めた時、子供が両手をゆっくりと頭上に掲げた。
「これで少なくとも人間でないと信じてもらえますか?」
「うあ、うわああ」
自分の体が宙に浮いているのを認識した瞬間、頭の血がサッと引くのがわかった。重力の影響を受けず宙ぶらりんになった体の感覚が何ともリアルだ。
「お、下ろせ!」
情けない声で、俺が叫んだ瞬間、天使は手の力を抜き、そのまま下に下げた。同時に俺の体も椅子へと投げ出された。
天使は「あぁ、ごめんなさい」と心にも思ってなさそうな無表情でつぶやく。
俺は重い右足を引きずりながら、天使から後ずさりし、距離を取ろうとした。背中は既に汗びっしょりだ。俺は未知の存在に対してただひたすらに恐怖を感じていた。俺の様子を疑問に思ったのか、天使が俺の後をついて来ようと飛んでくる。
「来るなっ!出てけよ!」
俺はその辺にあった雑誌を天使に向かって投げつける。しかし、天使はそれをいとも簡単によけ、俺との距離を詰めにくる。天使との距離、一メートルのところで天使が止まった。
「・・・私、あなたに危害加えない。約束します。怖がらないでください」
「怖がらないでって言う方が無理だろうが、いきなり化け物みたいなもん見せられて」
震えそうな声でかろうじて会話する。
「本当です!あなたが怖がるようなことは何もしません」
天使は首を振りながら、子供らしからぬ落ち着いた口調で言う。しかしまだ納得できず、天使をにらみつけるような視線を向けていた俺に気づいたのか、あごに手を当て「ん~」と少しの間考え込む。
「じゃあまぁとりあえず私の話を聞いてください。その後あなたがどうするのかは、あなたの自由なので。あなたが出て行けというのなら出て行きますし」
「今すぐ出てけって」
「・・・それは無理です。とにかくいったん話を聞いてくださいよ。あなたのクラスメートの細川未来さんにも関係していることなので」
突然出てきた聞き覚えのある単語に目を張る。
「細川が?」
「はい、彼は悪魔と契約を結んで天界では有名、ってあなたは何も知らないんでしたね。これは失敬、失敬」
天使は頭をさすりながら、ペコペコと頭を下げる。
「え~っと、どこから話せばいいんだっけな。そう、じゃあまずはあなたが一番興味を示しそうな細川未来さんの話から」
俺の反応をうかがうように天使が話し出す。このユーンという天使のことは信用ならないが、あの憎たらしい細川の情報がもらえるなら何でもいい。早く、早く、あいつをぶちのめしてやる。天使が大げさに咳ばらいをして、語り始める。
――――まず、細川未来さんは悪魔としてはならない契約を結んでしまいました。それは直接的なエネルギーの交換です。具体的にエネルギーというと、人間の喜びや恋慕、憎悪、嫉妬なんて感情などもそれに値します。ただし、今回細川未来さんは悪魔に騙されたという形で結んでしまったのだけれど。実は天界で、一人の悪魔が逃げ出してですね、そいつが密かにエネルギーを貯めるために、自動販売機なるものを設置したんですよ。あ、あなたも自販機の入口への鍵となるコインを持ってますよね?――――
天使が一度話を中断して問いかけてくる。
「黒いコインです。百円玉くらいの。確かあなたが殴られた後、握りしめていたと聞いていますが」
「あぁ、あれならたぶん財布の中だ。ジュースでも買おうとしてたんだけど、入院中は動けなくて結局そのまま」
「いや、それでよかったです。そのコインは次のターゲットにするために、悪魔が置いていったものと思われます。もしもっと早くあなたがそのコインを使っていれば、私今あなたと話せていません」
急に背筋が寒くなる。「どういう意味だ」と問おうとしたら先に、「まあそれはおいおい説明します」と制されてしまった。
――――で、この自販機というのは元々上の連中が、神様の命で実験として作ってたらしくてですなぁ。まあ本当の使用法はどんな風なのかは聞いていませんが、悪魔は神様の自販機をうまい具合に利用したんです。悪魔の動機ですか?そりゃ神様と同等の力を得ようとしたんでしょうなぁ、しかしそいつは神様の足元にも及ばなかった。当然ですなあ。
まあこっちの事情は今どうでもいいことですよ。その悪魔は自動販売機で人が求める能力をドリンクに込めて売った。そしたら人間がホイホイと虫のように引っかかってきて、それを飲んだ。そしてその悪魔はドリンクを飲んだ人間を監視して、己のエネルギーになりそうな感情を増幅させ、一定のラインまで貯まったらそれを奪いに行った。これが事件の全体像です。まあこれはあくまで人に聞いた話。現在も奴は逃亡中ですがねぇ――――
「なんか色々とぶっ飛んだ話だな」
「あーそちらからすればそうかもしれませんね。私たちもこういう機械を利用して反乱を起こした奴を見るのは初めてです」
「ってことは今までも何回かあるのかよ。神様のくせにだらしねーな」
そう言って笑ってやるが、天使は何でもないように無表情を保った。
「まあ神様は天使も悪魔も完璧な存在として作ってないですからね。もちろんあの方なら、自我を持たせないこともできるのでしょうが、きっと言いますよ、“それは楽しくない”って。あの方はただ自分の庭で遊んでいるだけなのです。人間の世界で言う絶対王政みたいなものです」
「絶対王政?」
「一六から一八世紀頃に封建制国家から近代国家への過渡期に、ヨーロッパに現れた政治体制。国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を支柱とし、弱体化した貴族階級と資本の本源的蓄積期にあるため未発達な市民階級を押さえ、無制約の権力を振るった。『百科事典マイペディア』よりです」
あまりの堅苦しい言葉に頭が痛くなる。
「もっと簡潔に言えよ!」
「要は圧倒的な力を持った個人が周りを力で制圧することです」
天使の要約したという内容でも若干頭に入りにくかったが、だいたいの雰囲気はつかめた。そしてある疑問がわいてくる。
「それ、何気に問題発言なんじゃねーの?」
「どうしてですか?ただの事実を言っているだけですよ。それに、あの方に対しての忠誠心もありますし。別に私はあの方を憎んだりしている訳ではありません」
天使はしれっと答える。
「あっそ、まあどうでもいいや。お前らの世界のことなんて知らねぇ」
「そうですね。あなたには関係のないことですもんね」
そこまで話し終わると天使はふうっと息をついた。
「で、おい、大事なとこ話してねーぞ。細川の居場所はどこなんだよ」
俺が一番知りたいことだ。実際今までの前フリの内容なんて別に知りたくもない。
「あ、すいません、忘れてましたぁ。え~っとですね、細川未来さんは既にこの世には存在しません」
天使は「またまた失敗」という風に頭をたたく。
「死んだ?」
「あ、はい。彼は悪魔に食べられてしまいました」
胸を突然誰かに突き刺されたみたいに、俺は身動きが取れなくなった。
あいつが死んだ?
細川未来がこの世からいなくなった?
それは。
「ざまあみろだな」
黙り込んだ俺を見て瞬きをしていた天使に向かって言い放った。自然と口角が上がり始める。
「散々新しい世界を作るとか言ってた奴が、悪魔に食われて死んだだと?だっせぇ」
声をあげて、腹を抱えて、笑う。数秒間、天使はしゃべらないまま室内に俺の笑い声だけが響いた。
「っはぁ~、おもしれぇ。世の中、こんな風にできてるんだな。全く夢も希望もねぇな」
「そうですか。あなたと細川未来さんがどういう関係だったのかは知りませんが、よっぽど嫌ってたんですね」
「フンッ、あいつはただの遊び仲間さ。好いちゃいないが、楽しむ分には楽しめたけどな」
天使はジッと俺の顔を見つめて笑った。
「いい顔してますね。あなたも悪魔に付け入られそうな顔です」
「そうか。まあ俺はあいつみたいなヘマはしないけどな」
天使は再びフフッと小さな声をあげて笑った。
天使の笑顔は間近で見ると、何か引き付けられ様な魅力があった。しかし次に顔を上げた時には無表情に戻っていた。
「では、私がここに来た理由を説明しますね」
「おう」
すると、天使が俺の右足を指差した。訳が分からず、動揺する俺に天使は言う。
「あなたのこの怪我は自販機によるもの、つまりは細川未来さんによって負わされたものですよね?」
「あぁ、そうだ」
俺の返答を確認するかのように天使がうなずく。
「天界では現在、悪魔の犯した業によって、精神的および身体的に負傷を受けた方にお詫びとして、願いを一つだけかなえて差し上げるというサービスを行っております。あなた様もその保障に当てはまるので、何か願い事がありましたら何なりとお申し付けください」
そうして天使は深々と頭を下げた。
「ほう、それは面白そうだな。願いっていうのは何でもいいのか?」
「はい。億万長者にしてほしいでも、アイドルに会いたいでも、もちろんその右足を直してほしいでも。ただし、一つだけできないのは、この事件に関わった者をよみがえらせるということです。あなたの場合は細川未来さんをよみがえらせることはできません」
一瞬頭によぎったそれを見透かしたかのように天使が付け加える。
「そうか、それは残念だな。俺の手であいつをぶん殴ってやりたかったのに」
「はい、悪魔に関わった人間は神様に咎人とみなされ、二度とこちらには戻ってくることはできません。ついでにいうと、天界や私に関する情報も願いがかなえ終わったらあなたの頭から消去します」
「何だよ、それ。じゃあ何であんなに長ったらしく説明したんだよ」
「いや、どうせ消すなら何話しても一緒かなぁと思いまして、とりあえず全部話しちゃいました」
案外適当だな、この天使。ふとあることに気づく。
「じゃあ細川の死はどういう風に処理されるんだ?」
「ううん、いい質問ですね。確かに悪魔に食べられたなんて死因じゃ通らないですもんねぇ。彼の死はあなたの願いがかなえ終わった後、そうですねぇ、事故死とでもしときましょうか。細川未来さんが作っていた世界とやらも初めからなかったことにして、あなたの怪我も路地で殴られたではなく、階段で転んだくらいにしといていいですか?」
「適当だな。まあ何でもいいけど」
「えへへ。あ、でも彼とあなたのその遊んだ(・・・)記憶は消えませんから、安心してください」
こいつ、俺たちの関係性わかっているのか。視線を向けると、天使は「ん?」と首を傾げた。
「わかった。願い、ちょっと待て」
「今日決めてくださらなくて結構です。また明日訪問します。じっくり考えてくださいね」
そう言い残して天使は消えた。ドアが開いた音もしなかったから、おそらくどこかの壁をすりぬけるか、ワープでもしたのだろう。天使ならそのぐらいするさ。
椅子に座りなおして、ため息をつく。暖房をいれていなかったせいか、室内でも吐いた息は白く曇った。すぐに立ち上がって自室へと向かう。
ジーンズとシャツを着て、昼食でも取ろうと台所に設置された冷蔵庫の中身を見る。コンビニおにぎりの鮭とシーチキンが二、三個居座っていたのでそれと、麦茶を出して食べた。テレビでは昼のサスペンスドラマが放送されており、ちょうどオープニングの歌が流れているところだった。何となくそれが終わるまで見続けていると、時刻は三時を過ぎていた。
「たぶんあれじゃ晩飯足りねぇな。買いに行くか」
肘をつき、エンディングを眺めながら、冷蔵庫の中身を思い出す。棚に余っているカップ麺でいいかとも思ったが、昨日もそれだったことを思い返す。出歩くのは面倒くさいが、仕方ない。近所のスーパーまで買い出しに出かけることにした。
「さみっ」
コートを着て、外に出ると、冷たい風が頬を刺すように通り過ぎた。ポケットに手を突っ込み、早歩きでスーパーへと向かう。と言っても以前なら五分で着くところ十五分かかった。スーパーの中では暖房のありがたみを実感した。手早くかごを取り、野菜と簡単に煮込んでしまえるカレールーを入れる。カップ麺とおにぎりも追加し、レジを済ませた。
外に出ると、あたりは日が沈みかけ、オレンジ色に染まっていた。寄り道することもなく。まっすぐ家への道を進む。寄り道すると、帰りが遅くなってしまうからだ。そうなると、あたりがよく見えず、地面に落ちているものにつまづくというのを既に経験している。
途中で高校生男女二人とすれ違った。しゃべりあいながら、下校途中のようだった。道に広がって歩き、通路をふさぐ。舌打ちをこぼす。
「邪魔だな」
彼らの横を通る時に、わざと聞こえるぐらいの声でそうつぶやく。
「はぁ?」
男子一人がこっちに怪訝そうな顔をしてふり向いた。
「おい、お前なんか文句あんなら面と向かって言って来いよ」
そいつが俺の肩をつかんで、振り返らせる。久々の喧嘩だな。
「そーだな。口じゃあなくて、力づくでどかせたらよかったんだな」
「何だと、てめぇ!」
「ちょっとやめなよ」
女が男の腕を引っ張って止めようとする。
「何だよ、コイツから言ってきたんだろうが」
「広がってたウチらも悪かったんだしさぁ。それにほら・・・」
女の方が俺の足元に目線をチラッと落として、男の耳元で何かささやく。
すると、男の方も少し驚いたような表情を見せて、俺を見る。何だ、それは。男が鼻で笑う。
「しゃーねぇ、障がい(・・)者さんを傷つけたら怒られるもんな。障がい者には優しくしないと。よかったな。ほら、どうぞ、お通りください」
男はわざと腰を低くして、道を開ける。女の方はその様子に「ちょっと!」と彼の腕をたたいた。口角は上がっていないが、目元が緩んだ男。
チッ。再び舌打ちをする。と同時に、彼の顔面に拳をヒットさせる。男はそれをよけることなく受けたが、倒れることはなかった。よろけた男に女が近づき「大丈夫⁉」と声をかける。
「てめぇ、こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
「誰がそんなこと頼んだ」
鼻血を出した男が突進してきて、あっけなく転倒する。肘を思い切り地面にぶつけた。
「くそっ」
そのまま男が馬乗りになってきて、顔面を二発殴られる。女が「やめて!」と男の腕を引っ張るが、男はそれを振り払って腕を振り下ろそうとする。その隙を突いて、男の脇腹に一発いれ、男を押しのける。が、自分が立ち上がるよりも相手が体制を整えるほうが早く、顔面に蹴りを入れられる。
「がっは」
ちくしょう。何でもっと速く動けない。抵抗もできすに、数発男の攻撃を受ける。
「そこっ!何やってるんだ、お前ら!」
角から年老いた男性が出てきて、俺たちを指差して叫ぶ。
「ちょっ、やばいって。あきひろ、早く行こう」
もう一度殴りかかろうとする男を、女が止めながら言う。「あ⁉」と男は興奮した様子で返したが、すぐさま状況に気がつき、女と共に走り去った。最後に「覚えとけよ!」とやけに決まりきった捨て台詞を残していった。馬鹿が、と思うが、自分がやられている方なので、苛立ちの方が大きかった。
「大丈夫か、君?」
男性がうずくまった俺に話しかける。
「待ってろ。すぐそこの医者を呼んでくるから」
と言って、男性は走って再び角を曲がっていった。足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。右足だけでなく、体がさらに重くなったような気がする。投げ出されたレジ袋を拾い上げ、できる限り急いでその場を去った。
口の中は血の味がする。どうやら内側から切ってしまったようだ。舌で口内を触りながら、帰り道を一人歩く。辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
蛍光灯に照らされた道を選んで歩いていると、ゴミ置き場で猫がうずくまっているのを見かけた。
猫は小柄で、まだ子供の様だった。よくよく見てみると、体は泥だらけで、前足を怪我して血が出ていた。体もやせ細り、ぐったりしている。そういえば以前ここで小学生が固まって遊んでいたのを見たことがある。あの時は気にしたこともなかったが、彼らは大声でゲラゲラと騒ぎ、ゴミの方へ蹴りをいれていた気がする。
「そうか。お前、あいつらに」
言葉を最後まで発することはなかった。猫は俺をじっと見つめて、動かない。猫の前にしゃがみこんで、レジ袋の中を探る。確かあれを買ってたはず。
「ほれ、ソーセージ」
猫の前に袋を剥がした魚肉ソーセージを、小さくちぎって出す。猫はソーセージに近づくが、俺を見るとビクッとおびえたように後退する。
「人間が怖くなってんのか」
俺が立ち上がると猫は「にゃー」と声をあげ、また後ろに下がった。
「これ、全部やるよ。食いたくなったらまあ食べろ」
ソーセージを猫より少し遠めに置き、帰路へと踵を返す。数歩歩くと、背後で「にゃー」という声がした。振り返らずに、足を進めた。
団地の階段を息切れしながら三階までのぼり、一旦膝に両手をつき、深呼吸する。
「あ!」
聞き覚えのある声が聞こえた。嫌な予感を覚えつつ、顔を上げると、俺の家のドアの前であのクソ教師が立っていた。
「お前、帰ってくんの、おっそいよ!俺、寒いじゃんか!」
「だったら帰れ!」
疲れて帰ってきたのに、また声を荒げる羽目になった。
「どこで何してたんだよ。制服じゃないところを見ると、学校でもなさそうだし」
「てめぇ、こんな時間に人ん家の前に居座りやがって、ストーカーか」
「いや、男が男のストーカーしてるとか絵的に気持ち悪すぎるだろうが」
「絵関係なくてもキモイわ!さっさと帰れ!」
若干キレ気味に俺が答えると、向こうも怒ったように返してくる。怒りたいのはこっちだ、バカ。
「だっていつもは出てくれるのに、今日は一切返答なかったからさ。なんか事故にでもあったのかと思って」
「別にいつも出てるわけじゃねぇだろ。変な言い方すんな」
「いや、でも、インターホン鳴らし続けたら、内側からドアに物投げつけるとか何かしら反応してくれんじゃん?」
舌打ちをする。くそ、無視しとけばよかった。黙った俺の様子を見て、英環が勝ち誇ったように笑みを作る。が、すぐに真顔になって、俺の顔を指差す。
「あれ、お前ここ赤くない?痣みたいな。朝こんな怪我してなかったじゃん」
英環は「あ、ここも」と続ける。面倒くさいやつに捕まったな。
「関係ないだろ」
と英環の手を払う。
「お前、喧嘩してきたのか」
英環があきれた表情で尋ねてくる。
「悪いか?俺が何しようと勝手だろ」
英環の横を通り抜け、さっさと玄関の鍵を開ける。
「おい、待てって。お前、無理すんじゃねぇって言ってるだろ」
英環に捕まれた腕を振りほどいて、奴をにらむ。
「無理?何でお前にそんなこと決められなくちゃならない。俺は自分の力でやっていける」
「あぁ?そうできなかったから、殴られてきたんじゃないのか。ガキが独り立ちしてるなんて、ほざいてるんじゃないよ」
正論を向けられて、一瞬言葉に詰まる。
「ストーカーが偉そうなこと言ってんじゃねぇよ」
論点をずらし、反抗する。そんな自分に苛立つが、奴の言葉にも腹が立つ。視線を先にそらし、ドアを開く。ふうっと英環のため息が背後で聞こえた。
次の瞬間、グーと低音が腹の中で響いた。その音に反応して、英環が問いかける。
「お前、まだ飯食ってなかったのか」
「あぁ、だから早く飯食いに行くんだよ。話しかけんじゃねぇ」
「飯ってそれか?」
英環が野菜やルーやらが入ったレジ袋を指差す。話しかけるなと言った言葉はどうやら耳に入っていないようだ。
「今からそれ作るの面倒だろ。俺の晩飯いるか?」
そう言ってカバンからピンクの風呂敷に包まれた弁当箱を取り出す。なぜこの時間帯にそんなもの持ってる。俺の疑問に答えるかのように、英環が付け足す。
「これ、俺の彼女の手作り弁当。いっつも晩飯作ってくれてるんだけど、今日は遅くなるかもって言ったら弁当くれた」
「いらねぇよ。カップ麺あるし」
「それじゃあ、栄養バランス悪いだろ。案外いけるぜ、これ」
「ノロケかよ」
「ノロケだ。最近より戻したばっかなんだから、ラブラブだぜ?そんな二人の時間を割いて、俺はここに来てるんだからな」
自信気にそう言う英環に呆れを通り越して、疲れてくる。
「あぁもういいや。もらっとく」
「それでよし」
弁当を受け取ると、英環が満足そうにニッと笑った。そしてふと思う。細川の死、こいつには言っとくべきなのかもな。だが、同時にためらいの感情も沸き起こる。考え込んだ俺の顔を英環は不思議そうにのぞき込む。
「・・・家寄ってかねぇか」
「え⁉こわっ」
英環が目を丸く開いてから、心底おびえたように俺を見る。こういう反応するだろうと思った。
「何⁉なんか変なものでも食べた⁉」
「別に、嫌なら来るな。とっとと帰れ」
「おま、自分から誘っといてそんなこと言う?」
英環が驚き半分、呆れ半分でそうつぶやく。それから頬をかきながら「じゃあ、お邪魔するよ」と答えて、少し笑った。
自分の部屋の電気をつけて、テーブルの上にもらった弁当を置く。部屋の温度はマイナス十度。部屋にエアコンがないので、二人ともコートを着たまま過ごす。俺が風呂敷を開きだすと、英環は座らずに尋ねてくる。
「なあ、あったかいお茶でももらっていい?自分でついでくるからさ」
「あぁ、台所廊下出て左。お茶っ葉はあるかわかんねぇけど、あるなら棚の中」
「おけ」と返事をして、英環が出て行く。その間俺は黙々と箸を進める。五分後、湯呑を二つ持った英環がゆっくりと部屋に戻ってきた。
「ほい」「おう」
湯呑を渡しながら「礼はなしかよ~」と英環が冗談まじりで笑って言った。受け取ったお茶はいい温度で、手の平から体の芯まで温まった。
「あれ、そういえばお前、お母さんは?」
英環は今来た廊下の方を見つめた。俺はご飯を口に運びながら答える。
「いない。まあ月一くらいで帰ってくるんじゃねぇの」
「え、でも、お前の補助をお母さんがするっていう約束で退院してきたんだろ?」
「そうだっけ?忘れた。どうせあの女は今も男のところだろ」
それを聞いて、英環は短く「そうか」とつぶやいた。
「で、話って何?」
俺が食べ終わるのを待って、切り出してきた。最後のひとかけらでむせそうになったが、お茶で流し込んで制す。何となく緊張する。
「報道されてた俺のクラスメート、実は死んでたらしい」
すると英環は一瞬目を見開きこっちを見てから「ふーん」と言って、「それは残念だったな」と続けた。数秒の沈黙。時計の針が傾く音が規則正しく響く。
「話はそれだけなのか?」
英環が俺に視線を向けてきた。俺は目線をそらし「それだけだ」と答える。
「ふ~ん」
英環はなお俺から視線をそらさなかった。
「お前さ、今すごく困った顔してるよ?」
「・・・またそれかよ」
「他にまだ言いたいことあるんじゃないの?今なら無料で聞いてやるから、言ってみな」
「普段金取るのかよ」
「そりゃー、英環先生の拘束時間量は高いですからぁ」
英環がおどけて話す。張りつめた空気がほんの少し楽になった。ごくりと喉の奥を鳴らす。
「なあ、酒いれていい?」
英環が持っていた湯呑を滑らしかけた。
「お前、教師の前で問題発言だぞ!」
「別にみんな年齢制限守らずに飲んでるよ。逆に守ってるやついんの?」
「いるよ、いっぱい!あっ、てことは朝のあの缶もお前が・・・」
はぁ~という大きなため息をつきながら、英環が頭を抱える。そこまで悩むことか?若干戸惑いの色を隠せない。
「あのね、若いうちから酒飲んでると内臓ボロボロになっちゃうよ?」
「そんなの承知の上だ。てか、たったの五年でそこまで差が出るとも思えねぇし」
「それはそうだけど、こういうのは規則を守るってことに意味があるんだから。二十歳になった瞬間に酒を煽るのがいいんだろうが」
俺は首をかしげる。別に変わらないだろ。
「もう、お前はもっと自分の体を大事にしなさい」
こいつ、たまに教師らしいこと言う。おそらく今日の喧嘩のことも含めて言っているのだろう。だが、説教はもう聞き飽きた。
「体を大事にねぇ。そんなこと今まで言われたこともねぇや」
「あん?」
「だって俺強いし。・・・過去形だろうけど」
英環は黙って俺を見つめた。
「俺、細川に最後にやられた時の、あいつのあの顔がずっと頭から離れないんだ」
気持ち悪いあの笑みと、確かな殺意を持った表情。あれを目にした瞬間に動けなくなった。まるで己の弱さを認めさせられたかのように。
「あいつには今まで色々してきて、おびえた顔も、泣いた顔も全部見てきて。俺は笑ってたんだ。でも、最後あいつに殴られてる時勝てねぇと思った」
俺の方が強かったはずなのに。イジメられ役の細川未来のくせに。初めてあいつに恐怖を感じた。
「悔しかった。絶対仕返ししてやるとも思った。でもあいつが死んだって聞いた時・・・、もう手遅れだっていう脱力感と怒りと、ほんの少し安心したような気がする」
それが何に対するものなのかは明確じゃない。もうあいつの顔を見ないで済むっていうのと、あともう一つ。
「俺、あいついじめてる時、最後に見たあいつと同じ顔してたんだろな」
自分がまた弱い者を見下す目になるのを恐れていたのかもしれない。「ははっ」と笑い出す。
「今さら何言ってんだよなぁ。だっせぇ、ははっ」
英環はなお黙り込んでいた。幻滅しただろうか、そんな考えが一瞬でも頭によぎって、自嘲の笑みを浮かべる。自分のしてきたことを後悔するなんて、精神までも弱くなっているらしい。
「細川君は最後どんな気持ちでお前を殴ってたんだろうな」
憎しみ、苛立ち、憎悪。そんなのいくらでも思いつく。
「お前は細川君をイジメてる時どんな感情だったの?」
「・・・軽い気持ち。家とか学校での些細な苛立ちとか発散するために、してた。別に気持ちとかはそんななくて。ただ楽しかったから、暇つぶしみたいなもん」
「でも、それが細川君に積み重なって、彼の復讐心に火をつけてしまった」
細川の顔が思い浮かんだ。泣いてる顔、やめてと叫ぶ声。今も俺の中に残ってるのか。
「もしお前が、細川君がお前に感じていた恐怖を知らずに、細川君に会っていたら、彼に何の躊躇もなく仕返ししていたんだろうな。そして彼もやり返しにきていたら。復讐の連鎖は止まらない」
「あいつが死んだってこと聞いてから、なんか突っ張ってた悔しさとか復讐心が薄れて、過去のことを思い返すようになった。だからたぶんあいつが死ななきゃ、自分の醜さとかに気づくこともなかった」
「そうか」
静かな時間が流れる。響くのは時計の音だけ。俺は湯呑を手に取り、お茶を飲み干した。お茶は冷たくなって、苦みが映えた。
「俺がイジメてなけりゃ、あいつは死ななかったんだと思う」
「あぁ、それも事実だろう。でも今さら彼の死を惜しんでも、自分の過ちを後悔しても、もうどうにもならないんだ。過ぎた時間は取り戻せない。だとしたら、お前に今できることはその過去も後悔も忘れずに生きていくことだけだ」
罪を背負って生きていくか。生きる。そんな言葉ちゃんと認識したのは初めての様な気がするな。でも、今の俺にそんなことできるだろうか。
「安心しな。もしお前が忘れそうになってたら、俺がぶん殴ってやるから」
「教師が人殴る宣言していいのかよ・・・」
「お前の場合別腹だ。あと日常の中での不安とか、逆に楽しみなこととかも誰かに吐き出せ!話を聞く、もしくは聞いてもらうっていうのはそれだけで自分のためになる。特にお前はもっと他人に頼れ!」
英環が大きな声で怒鳴る。驚いた様子の俺をじっと見つめて、今度は落ち着いたトーンで話し始める。
「いいか、人に頼るっていうのは弱さの象徴じゃない。それは自分の力で成長しようとする証なんだ」
「はっ、いきなり恥ずかしいこと言い出すな」
「うるさい、ツッコむな。だが、案外他人に頼らない、一匹狼気取りの奴の方が打たれ弱かったりするんだ。そういう奴は自分一人が苦しんでたり、誰にも相手にされないと思い込んで、生きてく気力を失くしやすい」
「随分具体的だな」
「教師してるといろんな子供が見えてくるんだよ。親や友人に頼れなくて、いやむしろそいつらがストレスの対象になって、悩む羊たちがよぉ」
「表現きもい」
俺の言葉に苛立ったように、英環がこっちを見てきて、俺の首に腕を回す。そして思い切り締めてくる。「いてぇわ、バカ!」と叫ぶ俺の声も聞かず、続ける。
「そういう奴らって自分からは絶対頼ってこないから、周りがみてやらないとと思うんだよ。少なくとも俺たちは!お前も一回一回生意気なんだ、ボケ!」
「ボケ!」と言い放つのと同時に、俺の頭をはたいて、腕を放す。チッと舌打ちをして、やられた首の筋をさする。くそぅ、ちょっと本気でやりよって。
「じゃ、まあ俺は帰るわ」
そう言って英環が立ち上がり、俺の頭に手を置こうとする。それをたたき払うと、「猫みたいだな」と言って笑われた。
英環が帰ったあと、暖房はついていない部屋は廊下よりも少し暖かかった。湯呑を洗いながら、細川のことを思い出す。そのまま色々考えた。学校のこと、周りとの人間関係のこと、これからのこと。すべてにちゃんとした答えは出なかった。でもそれでもいいと思った。また時間をかけて、どうにか形にしていこう。その日はいつもより眠りにつくのが早かった。
「さてさて、青木さん願い事は見つかりましたか?」
昨日と同じ時間帯に、天使が現れた。俺は黙ってうなずいた。すると天使は満足そうに「では、何なりとお申し付けください」と腰を折った。
「俺が昨日見つけた猫の傷を治して、飼い主を見つけてやってくれ」
俺の回答に、天使は目を見張る。
「それだけでいいのですか?」
恐る恐る尋ねてくる天使に、即答で「ああ」と答えた。
「なんでもいいのですよ?金でも、なーんでも。マジですかい」
「しつこい」
「わ、わかりました。えーっと、傷の手当と飼い主ですか?これ願い二つになっているような気もしますが、まあこれくらいならいいでしょう」
そう言い終えてから、天使は両手を上にあげて、目を閉じた。その体制のまま十秒くらい固まって、ゆっくりと瞼を起こした。特に俺の周囲では何も起こらなかった。
「はい、願いは聞き届けられました。すぐに元気な姿になるでしょう」
「呪文とか唱えたりしないんだな」
「それは人間が作りだした創造でしょう?一緒にしないでいただきたい」
となぜかキレ気味に天使が言うので、苦笑しながらも「わかったよ」とつぶやいた。
「では、これにて私の任務は完了です。最後にあなたの記憶を消すことになります。ちなみに未来さんの死因はやはり車にはねられ、交通事故ということにさせていただきます」
「おー、わかった」
細川の死因がどうであれ、あいつに俺がしたことも、あいつにされたことも変わらないし、忘れないさ。
「では、私が消え去ると同時にあなたの記憶も消えますので。・・・最後に別れの言葉でもありますか?」
「え、あー、じゃあ元気で。・・・ムーンだっけ?」
「ユーンです!あとユーンの発音は{yune}ですから、きちんと発音してくださいね」
「お、おぉ。またな、ゆ、ゆ~ん?」
天使は心底嫌そうな顔をしながら、「まあいいでしょう」とふてくされたように言った。何だよ、天使なのに発音英語なのかよ。案外こいつ、面倒くせぇな。言葉にしそうになったのを、門前で飲み込む。天使にツッコむとロクなことにならない気がする。
「では、さらばです。また逢う日はないともいますが」
「おう。せいぜい俺が死んだときに神様のところまで連れてってくれよ」
すると天使は笑って「人間が神様に会うなんてめったにありませんが、覚えていたら頼んでみましょう」と言った。俺もつられて、少し笑う。
「じゃっ」
天使がそう手を振った次の瞬間、奴の姿が見えなくなった。辺りは何もなかったように、ひっそりと静まり返って、居間の椅子にただ一人俺は座っていた。
夕方部屋を出て、町に出てみると、やはりまだ冬の風がビュンビュンと吹いていた。寒さをこらえながら、近くのコンビニまで走る。そこで肉まんを一つ買って、公園のベンチに座ってそれを頬張った。寒いところで食べる暖かい肉まんは最高に上手い。
「にゃー」という声が道端から聞こえた。声の方に目をやると、小さな子猫が俺を見つめて、鳴いていた。
「お、どうした、お前。迷子か?」
子猫に手を伸ばすと、猫は再び「にゃ~」と鳴いて、顔を俺の手にすり寄せてきた。
「おーい、ミルク~!今日は外で出ちゃダメって言っただろー?」
マフラーを巻いた男性がそう叫びながら、公園に走ってくる。
ボトッと肉まんの最後の一口を落としてしまう。真冬の公園に、子猫の「にゃー」という鳴き声が響いた。
{Fin}
自分的に青木君が可愛くなりました。でも以前の自販機の設定をつなげていくのには悩みました。ところどころ辻褄が合わないところが出てきて、そこの設定を消去したり、新しく付け加えたり。書くまでにある程度時間が必要でしたね。他にも悩んだところは青木のキャラっす。なぜか英環先生が絡むと、青木にコメディー要素が入ってしまうという不思議。キャラ同士が先走りそうで、手綱握っとくのに必死でした。
以上!読んでいただき、ありがとうございましたっっ‼