痩せる薬
この小説は完全なフィクションです
『あと二キロだけ痩せたい方、モニター募集』
それは非常に小さな広告だった。新聞の三行広告。キャッチフレーズの後には携帯電話の番号だけ。
(インターネットがこれだけ普及してるのに……)
怪しいと思いながらも、その番号を携帯電話に登録したのは、キャッチフレーズが気に入ったからだ。
世の中にはダイエットの広告が氾濫している。
(その割にはデブが多い)
私は休憩室から商店街を歩く人を見下ろしていた。太腿のような二の腕をさらけ出し、化粧だけは完璧な若い女。脚を組まなくてもパンツが見えそうもないミニを履いた女子高生。ベルトが見えないくらい腹の迫り出したサラリーマン。
(暑苦しいのよ)心の中で悪態をついた。
デブは嫌いだ。病気や薬の副作用で痩せない人は仕方ない。だが健康な癖に摂生できない人間なんて。アメリカでは肥満と喫煙が就職や昇給に大きく関わることは、有名な話だ。
だいたい、あの広告はなんだろう。
『二十キロ痩せて彼氏ができました』
『十五キロ痩せて洋服がサイズダウン』
(そんなに痩せなきゃならなくなる前に気付かないのかしら)
何十キロも日頃の不摂生と暴飲暴食で金をかけて増やし、また高額を支払って痩せる。無駄もいいところだ。
どれくらいの人が成功するのだろう。
(一旦痩せた人の一年後の追跡調査が見てみたい)
トイレで手を洗いながら鏡をみた。
顎にも頬にも弛みはない。すっきりとした鎖骨が両方に伸びている。ウエストも文句なく括れ、手足にも余分な肉はない。
努力の賜物だった。仕事の打ち上げで飲みに行く機会も多いから、ほとんどお米は食べない。ジムに通う時間はないから、エスカレーターは使わない。毎日半身浴で長風呂、サプリメントも欠かさず、一日二千キロカロリー以内の食事を心掛けている。なのに……
「はあ」
「先輩、なんの溜息ですか?」
いつのまにか隣にいた後輩に声をかけられる。トイレだというのに、口には、棒のついた飴が突っ込まれていて、しゃべる度に不快な甘い匂いがする。
「あと二キロ痩せたいのよ」
「ええっ!どこ痩せるんですか?なんですか?!」
「夏休みの終わりに友達の結婚式でハワイにいくから」
「先輩充分ですよ。どうやってその体型維持してるか、教えてくださいよ……」
甘い匂いを撒き散らしながらギャアギャアと騒いでいる後輩を捨て置いてトイレをでた。
(まずそのキャンディーやめてから聞きにきなさい)
私はそっと非常階段へでて、あの広告にあった番号に電話をかけた。
(ここ……?)
明らかに半分は使われていないであろう雑居ビルの三階へ呼び出された。
(電話もぶっきらぼうだったもんな)
広告を見たと告げると、身長と体重を聞かれ、この場所に今日来られるかを女性の声で聞かれた。
「では七時に伺います」
「お待ちしています」電話を切った後に、名前も電話番号も聞かれていない事に気付いた。
とにかく三階まで上がる。ドアは一つしかなく、錆びていたが、中からエステティックサロンを思わせるようないい匂いがしたのでノックし、ドアを開けた。
「あの……」
声をかけると、パーテーションの奥から、それは見事なプロポーションの女性が現れた。眼鏡をかけ、白衣をきて、にこやかに笑っている。
「お待ちしておりました。百五十八の四十四の方ですね?」いきなり身長と体重を言われこっくりと頷いた。
殺風景な部屋だったが、ソファーはふかふかでガラスのテーブルが置いてあった。そしてソファーが沈みこむような見事な巨体が一つ、そこにあった。
俯いた彼女はテーブルの端、一点を見るようにして、一切こちらを見ない。
「こんばんは」
私が声をかけてもわずかに顔を動かしただけ。ハンカチで口元を隠すようにしている。額には流れる汗。
(感じ悪い。それにみっともないわ……)
私は白衣の女性に促されて、隣のソファーに座った。
「さて」
女性は私を向き説明を始めた。
「今回はモニターご応募、ありがとうございます。今回の実験内容は食生活のチェックと、植物性サプリメントによる痩身となります。期間は一週間。こちらの目標三十キロ減のAさんと、二キロ減目標のBさんとの対比もさせていただきます」
立て板に水を流すように話し、
「Bさん」と言いながら私を手で示した。
「サプリメントは三種類。もちろん人体への悪影響はない事が立証されております。毎日、こちらへ来て、食事表の提出、体重測定をしていただきます。条件といたしましては、時間通りのサプリメントの摂取、一日一食はこちらから食事のメニューを提示させていただく、毎日……これはだいたい時間が同じであれば多少のズレは構いません。お越しいただくこととなりますが、いかがでしょう」
女性はAさんを一切無視し、私にだけ話かける。
「はい、その三つは守れます」
「では、ご協力いただけますか?」
「あの、いくつか質問をよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「一週間で痩せますか?」
「ええ。今のところ二キロ減の方は百パーセント成功されています」
「費用は一切かからないのですか?」
「二キロ減目標の方からは一切いただきません」
「効果は持続しますか?」
質問の度にAさんがぴくりと動く。白衣の女性は全くAさんを見る事なく話続けた。
「もちろんです。一週間後にお電話いただきますが、『食事がおいしくなった』『もう一度モニターをやりたい』と皆様おっしゃられるほど、ご好評いただいております」
「あなたもご使用になられたのですか?」
Aさんの体が今までより大きく動いて白衣の女性もAさんの方を見た。一瞬だったが嫌悪に満ちた視線だった。
「もちろん被験いたしました」
「実際のサプリメントを見せていただけますか?」
「ええ、お持ちします」
三種類、六粒ずつのサプリメントと一日分の食事表を渡された。食事表には『パスタ』と今日指定の一食が書き込まれている。サプリメントを朝昼晩に二粒ずつ飲み、一日の食事を書き込む。
サプリメントは、代謝を上げるものと整腸作用のあるもの、それから真っ黒のものの三種で、この真っ黒の粒が『画期的』なサプリメントだという。
「ダイエットをしている、食事を摂生している記憶を潜在意識に記録する、とでもいいましょうか」
白衣の女性はいっていた。成分は企業秘密ではあるが植物性ということだ。少し苦いような匂いがするが、飲みにくい程ではない。
相変わらず名前も電話番号も聞かれなかったが、モニターを引き受けるのを決めたのは、Aさんを見た時の目だった。
(あの人もデブが嫌いなんだ……)親近感がわいた。
仕事帰り、あのビルへ行った。白衣の女性に笑顔で迎えられ、中へ進むとAさんは先に来ていて、ソファーを大いに沈ませて座っていた。さらに奥に連れていかれ、体重を測定した。
ソファーに戻ってからは食事のチェックをされた。
「優秀ですね」
「ありがとうございます」
「お腹の調子はいかがですか?」
「少しゆるいですが、気になる程ではありません」
「そうですか。水分は控えないでくださいね」
「はい」
「では明日の食事表です」指定の一食は『うな重』。
「あの……」
「ダイエット中に『うな重』ですか?」
「ええ。お二人の対比の為です。カロリーコントロールは量や他の食事でしてください」
「はあ……」そしてまた一日分のサプリメントを渡され、帰路についた。
三日目、四日目、五日目、六日目も全く同じように繰り返された。指定の食事は『カレー』『プリン』『ハンバーグ』『親子丼』と重いものが多いが、体重は順調に落ちている。
それにひきかえ、Aさんは全く変わる様子がない。いや、会う度に太っている。いつも私がつく前からいて、ソファーを沈めている。私が話をされていても、時々動く程度。挨拶もしない。
(あんな失礼な人と対比対象にされるなんて……)嫌悪感が走った。
最終日、それまでのようにあの部屋へ行き、体重測定を済ませてソファーへ座った。
「相変わらず食事も完璧。潜在意識への記憶もできているようです。目標も達成ですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「普段……被験者になる前から気をつけていらっしゃった事を教えていただけますか?」
「え?」
「いえね……ご覧のとおり、今回Aさんは三十キロの減量に失敗しました。それどころか増えてしまいました。モニタリングも終了です。せめてAさんにも何か得るものを、と思いまして……教えていただけませんか?」
Aさんはちらりとこちらを見て会釈のように頷いた。ハンカチで汗を拭いたり、口元に当てたりしている。私は少し気の毒になり、少しでも歩く事や食事の摂生を心掛けている事を話した。
Aさんは肩を震わせているようだった。
「ありがとうございました。それでは一週間後にこの番号にお電話ください。一週間後しかつながらないようになっていますので、ご注意ください。そしてこれは、食事表のコピーになります。記念にどうぞ」
封筒に入った食事表のコピーを渡され、私はビルを後にした。
「ちょっと買い過ぎたかな」
帰りに買い物をしてきた。明日から長い夏休みだ。ハワイに行くまで予定を入れず、のんびり過ごす。
「まあ、一週間分ならいいか」
知らず知らずのうちにダイエットのストレスをためていたのかも知れない。久しぶりにカツ丼でも食べようと買い物していたら色んなものが欲しくなりつい買ってしまった。
大盛りのレンジアップご飯をどんぶりによそい、買ってきたカツを卵でとじて上にのせた。
「おいしい……」
一番初めの説明を思い出す。食事がおいしく感じられるといっていた。
そういえば、『二キロ減目標は無料』といっていた。Aさんは、お金を払ったんだろうか。
(払った上に太っていたら最悪よね……)
貰った食事表を見てみた。一週間頑張った結果が残っている。
「……何、これ!?」
私の食事表に続いてAさんの食事表まで入っていた。
レポート状になっている欄には細かい文字でびっしりと食べ物の名前が書かれている。
『カツ丼、カルボナーラ、豚骨ラーメン、チョコバー二本、白桃罐詰、コーラ二リットル、ハンバーガー二個、フライドチキン四ピース、スイートコーン二本、焼き飯、ステーキ三百グラム二枚、大盛りライス……』読み進めて気持ち悪くなった。それでもまだ半日分だ。
(これじゃあ痩せないわよね……)
よくこれだけ入るものだ。それにこれだけ食べて、眠れば一日終わってしまう。
(もしかしたら眠る時間もないかも……)
後輩がつねに食べているキャンディーの甘ったるい匂いを思い出し、不快に感じる。
(痩せなくて当たり前)
Aさんに同情した自分がばかばかしくなった。
体の重さで、目が覚めた。胃が重い。胸やけがする。
(寝る前にカツ丼はまずかったかな……)
お腹を摩りながら、水でも飲もうと冷蔵庫を開けた。
「あれ?」
昨日大量に買ったはずの食材がない。ごみ箱にも残骸らしきものもなく、財布の中にレシートもない。
(疲れてるのかな……)
確かにハードだった。なるべく同じ時間にあのビルにつけるように、仕事を片付けていた。結構気合いを入れて頑張っていた。
買い物をした痕跡も見つからないということは、疲れて夢か現実か、混ざっているのかも知れない。
(とりあえずゆっくり休もう)
録り貯めたDVDを見ようと思いていたのに、睡魔に負けて眠ってしまった。十二時間近く眠っていたのか。
(なんだかまた胸やけがする……)それなのにやけに空腹感がある。
(買い物に行こう)
だるい。体が重い。友達の結婚式に穴を開けるわけにはいかない。
(療養しよう)
もう出掛けないでいいように、大量に買い物をする。店員が怪訝な顔をしている。
(いつも少ないもんなあ……)
両手に買い物袋を提げ、マンションに帰った。
翌日。
また胸やけで目が覚める。冷蔵庫はほぼからっぽに近い。だがごみもないし、レシートもない。
(無意識に捨てに行ってる?)
マンションの集積所に確かめに行こうと、玄関の姿見の前で愕然とした。
三日前、あのビルで見た自分ではなかった。緩んだ頬には吹き出物が出ていて、顎も二重になっている。剥き出しの二の腕にはセルライトが浮いている。Tシャツの胸の下は、腹の肉が布を押し上げている。太腿から見えたはずの向こうの景色は遮断され、膝をつけても踵は離れている。
「……!!」吸い込むように声にならない悲鳴をあげて、脱衣所に駆け込む。
三日で十五キロも太っていた。愕然とする。
(もしかして、無意識に食べてた?!)
あの番号にかけてみたが、
『現在使われておりません……』とアナウンスが流れる。一週間後にかけろといわれた番号は通話中なのか着信拒否なのか、
『ツー、ツー……』と虚しい音が繰り返されていた。
残る手掛かりはあのビル。私はとるものもとりあえず、あの雑居ビルへ向かった。
予想通り、扉はかたく閉ざされ、いい匂いもしない。人の気配もない。
しばらく扉の前に立ち尽くしていたが、仕方なく家に向かった。
電車の中で、痩せた女に嫌悪感たっぷりの視線を送られた。Tシャツは汗の染みができ、顔からもだらだらと汗が流れている。酸っぱいような渋いような臭いがする。
マンションの最寄駅でドアが開いて、逃げるように飛び降りた。
「すげぇデブ……」すれ違った男の声が追い掛けて来る。
エスカレーターに乗り、早足で昇りはじめた。が、ほんの何歩かしか続かなかった。体がいうことをきかない。エスカレーターを昇り切った時、私の中で何かが弾けた。
半泣きになりながら、スーパーで買い物をする。買いたくないのに、籠に商品を入れる手がとまらない。店員にも嫌悪の色がある眼差しで見られる。
マンションに帰ってからは、ひたすら食べつけた。
食べてはいけない……
そう思っているのに、手が、口が止まらない。お腹もいっぱいで、苦しいのに……おいしい。
(これじゃあ結婚式にいけない……)泣きながら食べ続けた。
食べ物がなくなったのは夜中で、私は無意識にごみを片付けていた。大量のごみ袋をマンションの集積所に出した瞬間、不安に襲われた。
(食べるものがない……)
私はスーパーへ向かって歩きだした。
「くくく……」
約束の一週間がたち、藁にもすがる思いで電話した。体が重い。結婚式は欠席するしかない。エコノミーのシートにはこの体は窮屈だろう。それどころか出国すらできないかも知れない。パスポートの写真とは別人になってしまったんだから……
電話の向こうでは忍び笑い。
「あなたがきちんと自己管理できる人でよかったわ。おかげで元の体型に戻れたもの……くくく」
「あなたは……Aさん?」
「そうよ。あなたの『記憶』をもらったの。どう?かわりにあげた私の『記憶』は?初めて会った時、鼻持ちならない態度だったから、がんばって食べてあげたんだけど、たりたかしら?……くくく」
あのサプリメント……『ダイエットをしている、食事を摂生している記憶を潜在意識に記録する』……私の記憶はAさんに、Aさんの記憶が私に記録されたという事か。
悪魔の忍び笑いは続けた。
「面白かったわ。今までやってきた階段を使う習慣や、半身浴、自慢げに話してたものねぇ。そんな体になるとは知らずに……くくく。笑いを堪えるの、大変だった。今私がかわりに実行させてもらってるわ。やっぱりいいわねぇ。階段を使っても息切れしないって。あ、残念だけど、食事の摂生はできないわよ。新たな『記憶』を植え付けるまで止まらないから。ただ一つ教えてあげるわ。あなたが新しい『記憶』を手にいれないと私もあなたの『記憶』から逃れられない。新しい『記憶』を断念すれば、私に一生ダイエット食を食べさせるつまらない人生っていう仕返しもできる。まぁ、一日一食は好きな物指定してきたから苦じゃないけど……。あなたには本当に感謝してるわ。上手にダイエットしてくれて……くくく。でもね、私も随分食費やあの薬にお金を使ったのよね。今度は私が白衣を着て、あなたからお金をいただく番よ」
頭の中をぐるぐる回る。
休憩室からみた女子高生やサラリーマン。キャンディーを食べ続ける後輩。
(私のせいじゃない)電車で一緒になった痩せた女。すれ違った男。痩せていた私。その蔑んだ目……
(私が摂生できてないわけじゃない)
私は黙ったまま、腹で半分見えなくなった太腿の肉割れを見ていた。もうそこが足なのかすらわからない。
あのビルでソファーを沈めていたAさんの顔が私のものにすりかわり、こちらを振り向く。
「さあ、三行広告を出すか、食べ続けるか、選びなさい……」
選択の余地はなかった。
太ってる人も多いけど、痩せすぎの人も多いなぁと思う今日この頃です。他人は関係なく、自分のベストを目指せば……と思いつつも、毎日体重計に乗っています。他人を批判する醜さと結局広告にとびついく愚かさを表現したかった作品です。




