Signify 後編
あれは、高校に入学した年の秋のこと。登校した私を迎えたのは友達だったはずの人たちの嘲笑だった。
きっかけなんて何もなかった。ただ、今日も昨日と一緒の楽しい一日が始まることに胸を躍らせていただけ。
おはよう!いつもみたいに大きな声で挨拶する。友達は笑顔でおはようと返してくれはくれなかった。誰ひとりとして、私と目を合わせようともしなかった。それが、悪夢の始まり。
いじめは、日々エスカレートしていった。机の表面は、もう原型をとどめてはいなかったし、体中にたくさんの痣ができた。飲まされた雑巾の水の味も、縛られたときの締め付けられる痛みも全て覚えている。
ただ、それでも私は学校に通い続けた。先生にも親にも相談しようとしなかった。自分から言うのは負けのような気がして嫌だった。誰かに気づいて欲しかった。それが、いけなかったのだろうか。
屋上に呼び出された私が見たのは、元・友達の下卑た笑い。当然のような顔で金を奪おうとするそいつに、私は抵抗し、数人がかりで屋上の柵に押し付けられた。
柵に衝撃がはしる。ばきり、という嫌な音が聞こえたかと思ったら、私の体は宙に浮いていた。遥か下に、地面が広がっている。
必死に屋上の縁に掴まる私を見て、あいつらは心底楽しそうに嗤い合っていた。
下から目撃されたことによって私は助けられたが、私の頭からあいつらの嗤いが消えることはなかった。そして、こんなことになっても教師は、学校はいじめから目をそらし続けた。
私は、怖くなった。人間の残酷さに、恐怖した。死ぬことに、恐怖した。だから、助けを求めたはずだったのに。
両親が喧嘩をしている声が部屋にまで響き渡る。けれど、私はそんなことどうでもよかった。さっき聞いたことが、信じられなかった。
―舞が、虐められてるなんて・・・・どうしてっ――!
―どうしても何もっ、あいつがそう言っているんだろう!
―そうだけどっ・・・・・・ぁぁああああ!! あなたのせいよ!
―なんでそうなるんだ、お前が育て方を間違ったんじゃないのか?!
―知らないわよっっ! それよりも、ご近所さんにどう思われているか・・・・あぁ。
―ちっ。・・・・出かけてくる。この話はもう終わりにしよう
―また、あの女のところに行くのね?
―・・・・・・?!
―気づいてないとでも思ったの?
―・・・・行ってくる。
―好きにすればいいじゃない―っ! 私だって舞がいなければ・・・・・・
私は薄く開いたドアをそのままに逃げ出した。部屋に戻って布団に潜る。なんて事ない。二人にとって私という存在は、既に余計なものに成り下がっていたのだ。信じたくなかったけど、どうしようもなかった。
心に浮かんでいた、あれほどの死への恐怖は微塵も残っていなかった。
気づけば、頬が濡れていた。涙なんてあの日から一度も流していなかったのに。手で拭っても拭っても、涙は止まることがなかった。
うつむく私を、彼女はじっと見つめている。沈黙が部屋を埋め尽くす。
「ひとつ、聞いてもらってもいいかい。私の話を」
私は、小さく頷いた。そうして彼女は語りだす。
「私の家はね、ちょっとした新聞社をやっていたんだ。夫が社長。社員は私とバイトの数人。小さな会社ではあったけど、そこそこ有名ではあったんだよ。
「夫は、記者一筋でねぇ・・・・確か『新聞は命だ 記事には魂を込めよ』とかなんとかいって、新聞を作り続けたんだよ。私のことは、結婚しようって言ったくせしてほったらかしで。何度一人の夜を嘆いたことか。
「結局、夫は風邪をこじらせて肺炎でぽっくり逝ってしまってね。最期の瞬間まで新聞のことしか考えてなかった人だったよ。
「私と夫は、普段の生活じゃあとことん馬が合わなくて・・・・、何度喧嘩になったことか。それでもね、夫が死んだとき私は何か大切なものが自分の中から消えてしまったような気がしたんだよ。
――あぁ、あんな人でも私にとって意味があったんだと思ってね。
「そして、その時私は思ったんだよ。私が生きていた意味はあったんだろうか、とね。
仕事上ではなくて、夫が私を必要としてくれたことは結局一度だけ。子供もいない。
そう気づいて、私は一人立ち尽くした。私は、自分の生きている意味を見いだせなくなってしまったのよ」
彼女は、ゆっくりと微笑んだ。ひどく悲しげに。
「私も・・・・私も一緒です」
「いいえ」
鋭い声で否定される。見ると、彼女は厳しい顔つきで私を見つめていた。
「あなたには、ちゃんと意味があるわ。ほら・・・・」
「なにを・・・・」
その時、確かに私は聞いた。
――・・・・・・い!
―――舞!!
「あっ?!」
「ほらね。あなたのことを呼んでいる声が聞こえるでしょう?」
「で、でもっ・・・・」
「お行きなさい。」
気づけば、彼女の姿が消えかかっていた。彼女だけではない、テーブルも、ティーカップも全てが霞がかっている。
「さよなら・・・・・・もう二度とここには来ないようにね」
「あのっ・・・・最後に名前を教えてください―!」
「名前? ・・・・**** **よ」
**** **頭の中でくり返す。忘れないように。
「バイバイ、舞ちゃん――」
目を開けると、そこにはよく知っている顔が並んでいた。
「「舞っ!!」」
二人とも目の下が真っ黒で、なんだかやつれていた。自分の手を見てみる。真っ白い包帯が幾重にも巻かれた手首。
あれは、一体なんだったのだろうか。
「また、来てるわよあの子。」
「あぁ、西村さんの? 毎日毎日飽きないわねぇ・・・・」
私は、一週間もの間眠り続けていたらしい。発見が早く奇跡的に一命を取り留めたのだという。
そして、私は今ある人の元へ来ていた。
彼女の手は、骨と皮ばかりで、あれほど楽しげな笑顔を浮かべていた顔は、見る影もなくやつれている。
わずかに上下する胸と、かすかな脈だけが彼女が生きていることを証明していた。
私は、彼女の手をしっかりと握りしめ一心に祈り続けた。
「・・・・ん・・・・」
「キヌさん?!」
瞼が震え・・・・ずっと閉じたままだった、両目がうっすらと開いた。
「ま・・・・ぃ・・・・ちゃん?」
「そうだよ、舞だよ! 看護婦さん―! 目が覚めたんです、早く来てください―――!」
「ど・・・・うし・・・・て?」
「言いたいことがあって」
私は、ずっと伝えたかったことを言葉にする。
私の言葉を聞いて、彼女は目を見開き――艶やかに微笑んだ。