0話~神谷空の日常~
黒板に机と椅子。大学の広い講堂に暇そうに頬杖をついて、窓の外を眺める学生がいた。頭の先からつま先まで黒で統一された青年の名を神谷空という。自然に伸ばされた艶のある黒髪と新品同様の衣服は彼の育ちの良さを表している。釣り眼気味の澄んだ黒目は何を見るでもなく宙に彷徨う。講義を聞き流しながら、頭の中で教科書の内容と照らし合わせ、パズルのように組み立てる。新学期始まって早々に流し読みをして、覚えた内容に次々と新たな知識が足されていく。
「おい。そこの学生。教科書はどうした? ノートも広げないで」
教壇に立つ教員がマイクを使って誰かを注意している。
「おい、そこの君だ。どうしたんだ?」
そこでやっと自分が注意されているんだと気付いた。
それもそうだ。彼はずば抜けて記憶力が高い。それ故に邪魔になる筆記用具や教科書を持ち込んでいなかったのだが、それを教員が知る由は無い。
「おい、何を笑っているんだ!」
教員が何も知らない事を知り、思わず笑っていたようだ。
「先生、申し訳ありません。今日は急いでいて家に置いて来てしまったのです」
何度か注意が為されるうちに静まり返っていた講堂内は彼の低い声を良く通した。明瞭にして簡潔、さらには人の良さそうな笑み。気勢を制された教員は「次回は気を付けるように」と言い、授業を再開した。
「面倒だ」
それは注意された事と彼に集められた視線の事だ。彼は自他共に認める程容姿が整っていた。非の打ちようがない美しさ。雪を連想させるようなシミ一つない肌に、男性的な低くそれでいて暖かくも、冷たくも感じられる声。そして、細く引き締まった身体。欧米の留学生と混じっても負ける事のない高長身。加えて全てを見透かすような瞳は彼に神秘的な雰囲気を与えた。
そこから生まれる笑みを作られたものとは知らずに男女関係なく惹き付けられた。
そんな彼が他人の目を引かないはずは無いのだ。教員との問答のすぐ後ならば尚更だ。
流石に鬱陶しく感じ、視線の方へ目を向けるとあからさまに顔を逸らされる。彼をじっと見るのは女性が多く、決まって頬は朱に染まっているのだ。
作り物の様なまでの美は人々を魅了した。
それこそが彼に面倒と感じさせるのを助長する。もちろん、この容姿に生まれついて二十年。慣れてはいる、だからと言って無視したり、不快に思わずにいたりする事は出来ない。いや、二十年も経ち、自我や考えというものがはっきりしてきたからこそ余計に鬱陶しく感じられるのだ。
チャイムとともに席を立ち、後ろを見向きもせずに立ち去る。途中何人かに声を掛けられたが「急いでいるので」と嘘をついた。
それを繰り返して彼の一日を終えるのだ。
ある週末の昼下がり、珍しく彼はレストランに来ていた。実家から離れて一人暮らしをしているおかげで家事全般をこなす事が出来る。そして、十分過ぎる仕送りのおかげでバイトをする必要もない。
なら、なぜこのような所へ来ているのか? それは一重にある人物と会うためである。
どうやらまだ待ち人は来ていないようだ。椅子に座って、紅茶を頼む。足を組んで飲む姿は様になっている。給仕に来た店員の足を止めるほどだ。彼が「何か?」と声をかけると「何でもありません。すみませんでした!」と勢い良く頭を下げて奥に入って行った。
店員の「いらっしゃいませ!」という声に入り口を見ると目的の人物が入ってきたところだった。手招きをするとがっかりした表情を見せる店員が印象的だった。
「まあ、座れ」
向かい側に長い茶色の髪の毛先を遊ばせている女性が席に着いた。
「で、今日は何の用だ?」
早速本題を切り出す彼に彼女は苦笑し、話し始めた。
余談だが、彼女もまた類稀な美貌の持ち主で店に同席していた記者が思わず芸能人のスキャンダルか、とカメラを構えたほどであったという。つくづく絵になる二人である。
今日の一件の後、問題を解決した後一人自宅でベッドで寝転んでいた。特に喋る相手もいないため、いつもの愛想笑いはなりを潜めている。しかし、無表情にも関わらず心なしか機嫌が良さそうだ。本棚に置いてある書籍を無造作に一冊手に取り、パラパラと読み進める。それもかなりの速さで一冊読み終えると一度欠伸をかいて、その日は眠りに就いた。
彼の目覚めは早い。そのため、自由な、暇とも言える時間が生まれる。起きるとすぐに身支度を整え、お気に入りの場所に出かける。外にいる者はジョギング中であったりやペットと散歩したりなどとこの時間帯ばかりは都会の喧騒は存在しない。彼は朝日が昇るこの瞬間が好きだった。朝日が昇るのを見ると、塀に囲まれ、砂利の敷き詰められた場所にたどり着いた。
迷う事無くその中に入っていく。
「今日も早いねえ」
畳の上を箒で掃く老人を無視し、目当ての物を手に取る。老人は彼の様子に気分を悪くしたような様子は無い。これが彼らの間では普通なのだ。もちろん、最初からこうだったというわけではないが、ある程度親密になると彼の態度は素っ気ないものとなる傾向がある。
手に取ったのは白いフレームのサングラスの様な物。仮想現実を装着者に見せる道具だ。それを装着すると彼の目の前には仮想の人間が現れるようになっている。ここは半仮想道場。入会金と年間一定の額を払う事で利用できる。ここではサングラスに内蔵されたメモリーに記録されたデータを元に武道の稽古が出来るというものだ。
様々な技術が発展した現代。いつからか車は空を飛ぶようになり、人々は宇宙へ旅行する事も可能になった。娯楽においてはVR技術を使った市販のゲーム機はファンタジー世界に自分が存在しているかの様な感覚を抱かせた。それゆえに人から人への口伝や伝承、伝統が失われつつある事柄を国は文化財保護と銘打ち推し進めてきた。それがコンピューターなどへの伝統芸能、技術の電子情報化だ。
彼は一般人にあまり関わりのない国の政策を存分に使いこなしている数少ない内の一人だ。勉学はすぐに覚え、理解してしまうが、こと武術に関しては違った。もちろん、彼の天才的な理解力はここでも十全に発揮され、人よりも圧倒的に上達が早かった。それは彼が大学に入学し、東京に来てから、一か月で記録された剣術、柔術、空手、その他様々な武術を修めてしまったのだから。それを近くで見ていたこの老人は目を丸くして驚いたが、目の前で実際に行われている事なので納得せざるを得ない。
しかし、それならばなぜ修め終えた武術を習いにここに来ているのか?
否、習いに来ているのではない。創りに来ているのだ。動きを細部まで模倣し、磨き上げるのに一年。二年時に上がってからは専ら多種多様な武術を組み合わせた自分だけの武術を創り出そうとしていた。
そのような行為を出来る者を人は天才と呼ぶのだ。いくら彼が否定しても、そのような評価を下す。彼が不本意でも、不愉快でも関係なくだ。しかし、一度始めてしまったからには最後までここに通い詰めるつもりだった。
流れを確認し、拳や仮想世界で作られた剣を振るう。実際に身体を動かせる事がゲームとは違うところだろう。
「時間だな」
三時間近く体を動かしていたにもかかわらず、息が乱れる様子も汗を欠いている様子もない。多少はあるが、表面上分からないのは動きの中で休むための間を巧く作っているのと身体能力の高さ故だ。
「お疲れ」
そう言って老人は彼に飲み物を勧めた。
それに軽く頭を下げ飲み干す彼を見ながら老人はしみじみと思った。
今の世の中これほどまでに自分を卑下し、努力し、磨き上げる若者がいるだろうか、と。
老人は知っていた。誰がどう見ても完璧な手順、動作を行っているのにもかかわらず、満足そうな表情見せないのを。そして、老人は結局彼がその表情を浮かべるのを見る事は無かった。その前に彼はこの世界から居なくなってしまう。
旅立つまで後一日。
その日の彼は無性に機嫌が悪かった。
昔の事が夢に出てきて、あまり寝付けなかったからだ。
気を遣う相手が傍に居ない為、不機嫌そうな表情を隠そうともせずに渋谷のスクランブル交差点を歩いていた。
ふとした拍子に空を見上げる。今日も太陽が輝き照らしている。あまりの眩しさに目を細める。そして、ふらつく足取り。立ち眩みだ。
道行く人と肩がぶつかる。相手は触れ合ったスーツの部分を神経質そうに払いながら、苛立たしげな表情を浮かべていたが、彼の表情を見た瞬間目を逸らした。真っ青な顔に人形に整った顔立ちの青年がカッと目を開けて睨み返したのだから。
ここまでされる程、社会人の男に非があるわけではないが、生憎今日の彼の機嫌は最悪であった為、我慢してもらうほかない。普段の彼であれば爽やかな笑みを浮かべ謝るのだから、本当に運がなかったとしか言いようがない。
道中にそのような事があった彼は大学に着いた後も不機嫌そうにしていた。
彼の様子がいつもと違う事を周囲の人たちは敏感に感じ取っていた。彼の理解者がここにいたのなら「空君は機嫌がオーラというか、雰囲気に出るよね」と言うだろう。
そのおかげでいつもの不躾な視線は少なかった。
今日一日の講義を終えた彼は夜、自分の部屋があるマンションの屋上に来ていた。
ひゅうひゅうと風が吹いている。この時期は暖かいとは言え、陽が落ちれば流石に冷え込む。
それを気にすることなく、風呂上がりの火照った体を冷やすためにやってきていた。否、それは建前で本当の理由は昨日見た夢が脳裏から離れないためだ。もちろん、それを決して認めようとしなかったが。
記憶能力が非常に――この場合は非情が正しいかもしれない――優れている彼は幼き日の記憶を忘れる事が出来ないでいた。
彼はここから見える風景があまり好きではなかった。人によっては暗闇に浮かぶ電光が綺麗に輝いて見えると思うかもしれない。それはこのマンションの売りがここから見える都会の風景になっていることが裏付けている。自分の美的感覚がおかしいのかもしれないと自嘲する。
だが、どうあっても好きになれそうにない。それはこの風景が作り物だと知っているからだ。
まるで自分のようだ。そう思い笑みがこぼれた。
「騒がしいな。少しは静かにできないのか?」
嘆息交じりに独白する彼の横顔は愁いを帯びていた。
「それにしてもつまらないな」
今度は舌打ち交じりに回想する。
今までの人生は天賦の才に、優れた容姿をもってしても良い事ばかりではなかった。寧ろ悪い事が多かったように思える。
彼は幼い頃から妬みや恨みを多々受けてきた。幼少期にそのような思い出があれば、性格が捻くれるのも仕方ないだろう。
容姿が優れ過ぎているせいで、男の友達は少なく、女子は女子で彼を巡っての牽制をし合っていて、居心地が悪いことこの上ない。
彼の才能は誰もが羨み、幼少期はそれを隠す術を知らなかった為、ひけらかしていた。そのせいで要らぬやっかみを受けた。それに類稀なる記憶能力と理解力は周囲の大人たちに気味悪がられた。子供の頃に見るべきでない人の裏側、嫌な面を見てしまったせいで変に成熟してしまい、それが気味の悪さを助長した。その頃からだ、彼が人前で怒ったり泣いたりと、感情を爆発させる事をしなくなったのは。
今では家族の前や親しい者に対しても無表情。それでも少しは救いがあった。心の底から笑ったり、怒ったりできるのは一人は出来たのだから。だが、それすらも信じきる事は出来ない。それは恐怖心があるからだ。彼は何に恐怖するのか? これを聞いた者がいたのならば、せっかく頼れそうな人物が出来たのだから、その人物を頼ればいいと。しかし、そんな言葉に彼は決して首を縦に振る事は無いだろう。何が彼の行動を制限しているのか。自覚し、理解しているからこそ行う事は出来ない。だからこそ待つ。その人物が彼の殻を無理やりにでも壊してくれる事を。
このような事を考えていたら、日付が変わっていた。寒さに少し体を震える。部屋に戻ろうと身体を翻すと、屋上の扉前に奇妙な扉が一つ存在していた。
黒と白で塗られたゴスロリの服を想起させるかのような扉だ。木で作られたようで、取っ手を引けば開くようになっている。
彼は日常に非日常が入り込んだように感じ、好奇心をおおいにそそられた。
「面白い」
ニヤリと笑うと、その手をかけた。あまりの出来ごとに彼の頭の中からは唯一の理解者になりかけていた人物の事が抜け落ちていた。
扉を開けると、そこには闇が広がっていた。しかし、その先には微かに見える光。一旦閉めて扉の裏側を確認する。黒と白の板があるだけで何もない。
文化史で習った某アニメの便利な道具が脳裏に過ったが、それは足を止めるよりも進ませた。
現代の技術ではこのような物は作る事は出来ないだろう。
ホログラム?
違う。それなら手の感触までは誤魔化せない。
では、今話題のVR技術を応用した何か?
それも違う。何かを媒体にする事無くここまでの精度の物を再現するのは不可能だ。
しかし、このように反証するまでもなくこの扉この世界で作られた物ではない事を確信していた。
だからこそ、冷静に落ち着いて状況を分析した。
「まあ、人間遅かれ早かれ死ぬしな」
最後は諦念で以って、扉を開き歩を進めた。
扉の奥、光のあたる場所で真っ先に見たのは青く広がる大空だった。