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6・霧亜と影子

 研究室のたった一つしかないベッドには、『カゲロウ』が寝ている。彼女は気絶していたのでキリコが抱えたまま、ここまでつれて帰ってきたのだ。ウィンガーに薙ぎ払われて怪我をしていたものの、ここに戻ってくる頃には傷口はほとんどふさがっていた。さすがは改造戦士といったところである。

 ぼくはデスクに付属している椅子に腰掛け、キリコはベッドの端に腰掛けている。地下研究室にはその三人だけである。キリコは先ほどメタルスーツを脱いだところで身体についたオイルが気になったらしく、部屋に着替えに戻っていた。それが終って戻ってきたので、今は私服だ。ほとんどいつも制服のスカートだから、やや新鮮な姿である。なお、私服といっても上下ジャージというとんでもなくリラックスした格好であることを付け加えておこう。今から昼寝でもするのかと言いたくなる。

 しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。

「何か飲み物いれるよ。飲むだろう」

 ぼくはメタルスーツの修理にかかる前に、色々と確認しなければならないことがあった。話をする前に、コーヒーでもいれようと思う。キリコは特に怪我もしていないのか、ベッドに腰掛けたまま目を閉じている。

「私ミルクココアね」

「わかってるよ、ぬるめだろう」

 いつも通りの注文をするキリコ。たまには紅茶でも飲まないのだろうかと思う。そういえばどこかの誰かはミルクティーがないと生きていけないとか仰っていたような気がする。

 自分には熱いコーヒーを、キリコにはぬるめのミルクココアを入れて差し出す。キリコはそれをうけとりつつ、ビスケットをつまんでいた。

「さて、いいかな話をしても」

「いいよ」

 口の中にビスケットを詰めたままそう答える。ぼくはいくつか彼女に訊かなければならないことがあった。

「まず訊くけど、『カノン』は確かにウィンガーに当たったんだね?」

「間違いないね。二発目はわからないけど、空中で打ちこんだのはクリーンヒットしてたよ」

 穴があいてたのも、私が撃ったところだし。とキリコが言い加えた。

 ウィンガーの身体に穴があいていたのはぼくも見ている。となれば、『カノン』が彼の外骨格を貫通したのは間違いないらしい。何か性質の悪い詐術でダメージがないように見せかけているのではないかと思ったが、そうではないようだ。

「そうかい……。それじゃ、二度目に撃ったのは当たったかどうか確証がないのかい」

「地面に倒れたところに撃ち込んだんだから、普通避けられるわけないんだけど。私がはずしたのか、あいつが避けたのか、どっちかだね……だって穴は一つしかなかったんだから」

 それはぼくも見ている。確かにウィンガーの身体にあいた穴は一つだけだ。

「わかった。それと、ブレードはどうなった? 弾かれて落としたように見えたけど」

「ちゃんと持って帰ってきてるよ。ちょっと刃こぼれしたかもしれないけどね」

 キリコは下を向いたまま答える。よく平然としていられるものだ。気丈である。彼女は本当に、強い人間なのだ。いや、無理をしているだけなのはわかっているが、それができるだけでも大したものだと思う。

 ココアを飲んでいるキリコの顔を、ぼくはじっと見つめていた。それに気付いたキリコは見つめられているのが恥ずかしいのか、目を伏せて口元に手をやった。

「何、じろじろ見ないでよ」

「いやそういうつもりじゃなかった。ちょっと考え事をしていて」

 さすがに女性の顔をしげしげと見ているのは失礼だったかと、ぼくは適当な言い訳をしつつ目をそらす。そこでもう一つ訊くべきことがあったと思い出し、それを訊ねた。

「ところでキリコ、君はどういう扱いを受けて戻ってきたんだい」

「学校に?」

 ぼくは頷いた。

 キリコは襲撃事件があったあと、ほとんどすぐにここに戻ってきたと考えられる。怒り心頭にきて走ってきたのはわかるが、それを果たして学校側は認識しているのだろうか。

「いや、何も言ってないね。ただ走って戻ってきただけで。体育館に人があつまってるっていうのも、窓からそれが見えたからだよ」

「じゃあ、つまり……君がトイレにいて助かったということは、知らないのか」

「あ、そうかもしれないね。連絡したほうがいいね」

 ハッと気付いた表情になり、キリコはそう言った。

「待った」

 携帯電話を取り出そうとしたキリコを止める。ぼくはコーヒーを飲み干し、考えた。少しだけキリコの顔を見て、それからまた下を向いて考える。少しばかり過酷なことになりそうだ。

「キリコ……提案があるんだけど」

 ぼくはそう言って切り出す。キリコは聞くだけ聞くから話してみてと言う。それを了解し、ぼくが話し出す。

「最初に聞いておきたいけど、キリコ、君は進路が決まってるんだっけ?」

「前にも言ったけど、縁故就職で内定をもらってるよ」

「……融通が利くんだろう?」

 ぼくは念を押した。キリコがそれを訝しがる。

「どういうこと?」

「つまり、キリコ。君は幸いにも誰にも怪しまれずに死ぬことができる」

「全然幸いじゃないよ」

 苦い顔になり、ココアを飲み干す。しかし、ぼくが言いたいのはそういうことではない。本当に死ぬという意味ではないのだから。

「本当に死ねって言ってるわけじゃないよ。つまり、死んだことにしようってことさ。ウィンガーは大層暴れたんだろう? 君一人の死体くらい見つからなくても、何も問題にならなそうだ」

「……私の戸籍を殺すつもり?」

「行動の自由を手にしたいんだ」

 ぼくはそう言った。この作戦が実行されれば、対外的にクラスで生き残っているのはぼくだけということになる。しかし、事態の収拾に忙しい学校は今さらぼくのところにあれこれ言ってこないと思われるし、この事件以前から長期に渡って休んでいるぼくが一枚噛んでいるのではないかなどとは思いも寄らないだろう。ぼくより前から休んでいた水口影子に至ってはもはや問題にもならない。

 しかし、キリコは生き残っているとなると警察にかなりの時間を拘束されるだろう。場合によっては面倒ごとに巻き込まれる。キリコには悪いがもうこの際クラスメイトと一緒に殺されたことにして、完全に自由の身になったほうがいい。

 テレビのニュースでも、死体が発見されないせいか死亡ではなく、行方不明という扱いになっている生徒が何名かいた。そこにキリコも含まれていると考えられる。名乗り出なければそのまま行方不明で、もはや死んだものとしてくれるだろう。念のため、携帯電話は壊しておいたほうがいいかもしれないが。通話可能な状態だと知れたら、生存の可能性を探られてしまう。

 ぼくはその考えを、言葉を選びながらキリコに伝えた。キリコは黙って聴いていて、ぼくの話が終ってからも何も言わず、下を向いた。

 キリコはかなり考えているようだった。ずっと何も言わずに下を向いている。かと思うとミルクココアをおかわりし、それを飲み干してまたおかわりし、結局四杯くらい飲んで、ビスケットの袋も空にした。相当な悩み方だ。

 時間にして三十分はかかった。キリコは顔を上げて、ぼくを見て言った。

「私を殺していいよ」

「……わかった」

 重々しい響きのある言葉に、ぼくは努めて冷静に応じた。もしかしなくても、ぼくはとんでもないことをしようとしている。しかし、もう引き返せない。思えばこのメタルスーツを彼女に着せると決めたとき、そこからはもう一方通行だと思える。二度と、それ以前の世界には戻れない。

 だがこれはもう決定的だ。たとえ『誘いに乗った』連中が全て駆逐され尽くしたとしても、一度失った戸籍は戻らない。死んだ扱いになった彼女が歩む道は明るいものではないだろう。

 ぼくは手の平を上に向けて彼女に差し出した。わずかに震えているように見える動きのまま、キリコは無言で携帯電話を取り出しその上に置いた。ぼくは受け取ったそれを見る。

 両手でそれを掴んだ。心臓を冷たい手に包まれたような、ぞくぞくとした感覚に襲われる。ぼくは一体何をしようとしているのだろうか。これが本当に彼女のためになるのだろうかと躊躇した。

 ぼくはどうにもならなくなって、もう一度キリコの目を見た。その目が後悔していれば、ぼくは携帯電話を彼女に返しただろう。伏せたままにされていれば、いたたまれなくなって、行為を思いとどまっただろう。しかし、キリコは冷淡な目でぼくの手にあるものを見ていた。ぼくの目線に気付くと心配するなというように少しだけ寂しく笑ってみせ、構わないと言いたげに頷くのだった。

 彼女が望んだことだと思うことで、ぼくは罪悪感を殺した。非力な力を絞って、ぼくは両腕を握り締め、力を込めた。

 手の中でキリコの携帯電話はあっけなく破壊され、その機能を失った。

 一度は殺した罪悪感が、すぐに戻ってくる。

「ありがとう」

 キリコは立ち上がり、カップとビスケットの入っていた袋を片付ける。

「部屋に戻って、休んでるよ。何かあったら呼んで」

 気丈な声でそう言って、キリコは自分の部屋に戻っていった。本当は泣きたかったに違いない。

 ぼくは今、山内霧子を殺してしまった。

 ずしりと心に重いものがのしかかってくる。予想通り、やった傍から後悔している。ぼくはとんでもないことをやった。

 力なく、ぼくは椅子に座りなおした。ため息も出ない。

「辻井くん」

 ふと、背後から声が聞こえた。恐らく『カゲロウ』が目覚めたのだろう。

 この落ち込んでいるのに、と思いながらも振り返る。『カゲロウ』は偽装を復活させて、人間の姿になっていた。

「ごめんね、落ち込んでいるときに……。でも、マスコミ連中に山内さんが生きていると思われたら、正体がばれるものね。死んだことにしたほうが、メリットはあるね」

「……うん、まぁそれも理由の一つだね。けど……もっといい方法があるんじゃないかな、と今思ってる」

「ないと思うよ。辻井くん、最善のことをしたと思っていたほうがいいよ」

 さすがに少し落ち着いた声で話をしていた『カゲロウ』だが、異常に高い元来のテンションが徐々に顔を見せ始めている。ぼくは今、彼女の躁病のような異常なハイテンションに付き合う気分ではない。

「もう少し寝ててくれ!」

 わざと機嫌悪くそう声をたて、ぼくは苛立ち紛れに立ち上がり、メタルスーツの修理にとりかかった。とりかかろうとした。だが、立ち上がった途端に肩をおさえつけられ、椅子に座り直すように強要される。

「もう少し寝るのは、君だよ」

 起き上がった『カゲロウ』がぼくの両肩をしっかりと掴んで、立ち上がることを許さない。何をするつもりだろうか。

 ぼくは怒っている。不機嫌だ。八つ当たりなのはわかっているが、冷静でいられるはずがない。

「邪魔をするのかい?」

 無理やりに立ち上がろうと暴れる。だが、『カゲロウ』の力は強く、ぼくの力くらいではねのけられるものではなさそうだ。しかし、ぼくは諦めない。一気に膝に力を込めて、床を蹴って踏ん張った。しかし、それが丁度『カゲロウ』の気の緩んだ瞬間だったらしく、ぼくはあっさりと立ち上がることに成功し、勢い余って前に倒れこんだ。そこには『カゲロウ』が寝ていたベッドがある。

 『カゲロウ』は何も抵抗していないように見えた。ぼくの身体は、彼女の上にある。どういう因果か、ぼくは彼女を押し倒す形になったのだ。すぐにぼくは離れようとした。

「待って」

 しかし、倒れた『カゲロウ』がぼくを掴む。ぼくは構うつもりなどなかったが、今度は両腕でぼくを抱くような形になっている。これではいくら力を振り絞っても離れることはできない。そもそも改造戦士である彼女とでは力が違いすぎるのだが。

 抱き寄せられるように、ぼくの身体は『カゲロウ』から離れることを許されない。

「何をする気だい」

 ぼくは三十センチも離れていない場所にある、彼女の細い目を睨んだ。

「辻井くん、寝たほうがいいよ。自分で思っている以上に、君は疲れてる」

「そんなことわかってるよ。でも、ぼくがやらないで誰があのスーツを修理するんだい。修理できない間にウィンガーがここを襲撃してきたり、誰かを襲ったりしたら、また助けられないかもしれない。今は無理をしなきゃいけないときなんだ」

 『カゲロウ』の言葉に、ぼくは反論した。真正面からぶつけた。しかし、『カゲロウ』は腕を解かない。

「私、前に言わなかった?」

「何を」

「君を、好きだってこと。だから、君を守りたいんだよ。辻井くんが無理しているのは、見ていてつらい。休んでいいんだよ」

 ぼくが憎々しげに彼女を見下ろしていても、『カゲロウ』の目は変わらない。じっとぼくの目を見ている。ぼくは少し怒りを忘れて、どきりとした。何か甘いにおいがする。心地いいにおいだった。

「辻井くん。君は山内さんしか見てないんだね。もっと自分の身体も、大事にしてあげてよ」

 また少し抱き寄せられる。ぼくは全く抵抗できず、力を抜いた。倒れこむように『カゲロウ』に全体重を預ける。だが、彼女はびくともしないでぼくを抱えてこんだ。『カゲロウ』の両腕がぼくの背中にまわり、軽く力をこめられる。それが妙に気持ちよかった。

 しかしぼくはなんとか言葉を押し出した。こんなことをしている場合ではない、とまだどこかで思っていたからだ。

「システマーはどうする。君の親友じゃないのかい。助けに行かないと……それにはキリコの協力だって要るだろう」

「それは気にしてる。気にしてるけど、今はそのことを言わないで」

 そう言って背中をさすられると、もうぼくの中から怒りは消え去ってしまう。

 もう彼女の顔は見えない。ぼくは彼女になされるがままに、抵抗の一つもしないでいる。なぜだか、彼女に抱かれていることがぼくに安らぎをあたえているのだ。

「一日くらい休んでも大丈夫。それに、君が身体を壊したら元も子もないんだよ」

「しかし……」

 ぼくの反論はもう一言も出なかった。何もかもがうやむやになり、頭の中で言葉を作らない。

 甘いにおいに包まれるうちに、ぼくの意識は闇に落ちた。


 ぼくは夏子さんに甘えて、抱かれていた。夏子さんが泣き止まないぼくをあやしている。

 何度も何度も彼女に頭を撫でてもらって、彼女の微笑を見て、ぼくはようやく泣き止む。彼女がいなくなってしまったこと、明日からもう会えないということ、どれほど泣いても涙が止まらなかった。

 こうして泣き止んでも、ふとしたきっかけでまた泣き出す。そうしたことをぼくは繰り返していた。

 友達を失った悲しみを、夏子さんに全部ぶつけて、甘えていたのだ。子供だった。

 何度も何度も泣き、その度に相手をさせられる夏子さんも疲れてしまったのか、こう言い出した。

 いい子にしていれば、きっとまた会えますよ。

 それだけの嘘だった。小さな嘘だった。しかし、その言葉はぼくの中では絶対的に約束されたことになってしまう。

 ぼくがいい子であれば、必ず会えるという神様が約束したような、そんな気になっていたのだ。無理もない、何しろそのときのぼくにとって、夏子さんは全能の存在だったのだから。

 嘘を吐かない、約束を守る、女の子を傷つけない、およそぼくに考えられるだけの善行をしていこうとぼくは決めたのだ。あの子にまた会うためには、そうしていけばいいのだと思ったからだ。

 『ぼくは天才になって……科学者になる』その約束でさえも、ただの口約束でさえも、無視できない。

 ぼくはいい子になった。友達に再会するために善行を積み、約束を守った。

 別れた先で、その友達が今どうなっているかなんて、考える暇もなく、ただ再会だけを願っていたのだ。それなのにいくら善行を積んで待っていても、会えない。会えなかった。

 以前より頻度は減ったものの、そうした場合にはまた夏子さんに泣きついた。何度も頷き、ぼくを全肯定してくれる夏子さん。

 ぼくは彼女の胸で一体どれほど泣いたのだろう。そのあたたかさを忘れることはないだろう。

 しかし、そのあたたかさを存分に味わうぼくの横腹を誰かが強く蹴りつける。ぼくは呻いて、脇腹をおさえる。

「起きなさい、いつまで寝てるの!」

 何を言っているのかわからない。ぼくは痛みに耐えながらぼくを蹴りつけた犯人をにらむ。

 不機嫌そうに目を細めたキリコの顔が見えて、ぼくは眉をひそめる。夏子さんが目の前にいるのにどうしてキリコがこんなところに……と、そこまで考えたところで夢の世界はぼくを放逐してしまった。


 強い衝撃を身体に感じて、ぼくは目覚めた。

 誰かに蹴り上げられたような気さえする。ぼくは跳ね起きて、周囲を確認した。

「起きた?」

 ベッドの傍に、キリコが立っている。制服を着て、ベッドに脚をかけていた。ぼくを蹴り飛ばした犯人は彼女らしい。『カゲロウ』はどこにいったのかと探してみると、キリコの後ろにいてコーヒーを飲んでいる。ぼくの目線に気付いたのか、ウィンクをしてくる。

 彼女から目をそらしながら時計を見てみると、十時半であるらしい。午前か午後か、どちらだろう。ぼくは目の前にいるキリコにそれを訊ねた。途端、彼女は腕組みをして、あきれるようなため息をもらす。

「あのね……午前に決まってるでしょう! 六郎、君は一体何時間寝てるんだよ。早くスーツの修理をして、情報を集めなよ! もう朝食も下げられたんだから!」

「わ、わかった」

 翌日の午前十時半になっていたとは驚きだ。ぼくは顔を洗ってから、メタルスーツの修理にかかることにした。

 昨日寝てしまう前に、何か非常に心安らぐようなことがあった気がするのだが、よく覚えていない。『カゲロウ』を見てみるが、彼女は微笑むだけで何も教えてくれない。ぼくは観念し、故障箇所のチェックに入った。

 キリコは研究室にあるPCを何やらいじっている。ニュースでも見ているのか。『カゲロウ』は時々ぼくの方に目をやりながら新聞に目を通している。

 ぼくは作業を続けるしかない。破損したパーツを交換して組みなおしていく。『カノン』の弾丸も補充する。問題はブレードなのだが、これはまだ元の切れ味を取り戻すことはできない。システマーに折られたことがまだ響いているのだ。

 作業が終った頃には、時計の短針が半周していた。六時間も作業していたことになる。

 ふと見るとキリコがいなくなっていて、『カゲロウ』はベッドに腰掛けていた。キリコは部屋に戻ってトレーニングでもしているのだろう。ぼくは『カゲロウ』に作業が終ったことを告げた。

「辻井くん、集中力高いね! 昼ごはん食べようって言ってもおやつ用意したよって言っても、全然気付かなかった。そこのナグリの木殺し面でこめかみを叩いたら気づくんじゃないかってキリコが言ってたけど、一応それはしないでおいたよ。ほめて」

 立ち上がったぼくを座ったままで見上げ、『カゲロウ』は笑顔でそう言った。ぼくはそれらの言葉に途中で気付いてはいたけれども、あえて無視していたのである。だから別にそれについてはどうこう言うつもりはない。面倒ごとはさっさとすませるに限るのだ。しかし、昼食も摂っていないので随分お腹は減っている。買い置きしてあるビスケットをつまんでもいいが、夕食までの時間を考えると微妙だ。ひとまず手を洗って、コーヒーを入れようと思う。

 するとそれを察したのか、『カゲロウ』が立ち上がり、自分がやると言ってくれた。特に断る意味もないで頼むことにする。キリコに任せるとぬるいコーヒーが出てくるので任せられないが、『カゲロウ』なら問題ないだろう。

 ぼくはベッドに倒れこんだ。一休みしたかったのだ。

 しかし、そこで何か妙に甘いにおいに気付いた。つい今朝か昨夜、どこかで嗅いだことのあるようなにおいだ。

「何か……何だろう。甘いにおいがしないか?」

 ぼくはそう言った。

「ありゃま。辻井くんでもわかるの、このにおい。さすがぁ」

 『カゲロウ』が応じる。彼女は何か知っているらしい。ぼくは説明を求める。

「これね、フェロモンだと思う。別に意識してないんだけど、私の身体から勝手に出てる……気にしないでね。別に害はないから!」

「気にするよ」

 さらりと、とんでもないことを『カゲロウ』が口にした。気にするなと言われても無理だ。ぼくがあまり近寄らないでくれと彼女に言おうとしたとき、研究室のドアが開いた。キリコだ。

「六郎、テレビつけて。ウィンガーだよ」

 キリコがそう言って、研究室にあるテレビを見る。テレビは消してあったが、その言葉に電源を入れる。

 ちょうどキリコと同じチャンネルだったらしく、画面にウィンガーがうつされた。

 それだけなら昨日の騒動のこともあって別に珍しくもない。新聞にもキリコや『カゲロウ』とともにばっちり載ってしまっている。今さらテレビに出たところでなんということもない。

 しかし、この映像はぼくの目を引いた。ウィンガーが立っているのは十五階はあろうかという高層マンションの屋上だが、その隣にシステマーがいる。

「き……!」

 映像を見た瞬間『カゲロウ』が何か言いそうになって、慌てて口を塞いだ。確かに山内霧亜、システマーだ。

 洗脳されてウィンガーの下僕になったのか、あるいは人格を破壊されてしまったのか。どちらにしても、またそのどちらでもないにしても、あまりよくないことになっているのは間違いない。

「どう考えても、私たちを呼び出すための餌だね」

 キリコは腕を組んだ。確かにその通り。でなければこのように目立つ場所に姿を晒す意味はほとんどない。それも、これは生中継らしい。今現在もシステマーとウィンガーはこのマンションの屋上にいるということだ。警察が動くだろうが、空を飛べる『カゲロウ』とグレイダーにとっては警察の封鎖は大して苦にならない。実際、警察もなんとかしてこの二人の身柄を確保しようとしているのだが、どうやら警察が来るたびにこの二人は近くのビルの屋上にひょいひょいと飛び移り、逃げ回っているらしい。

「私は行くよ。別に死んでもいい」

 即座に『カゲロウ』が決断した。

「システマーは私の大切な友達だから、見逃せるわけがない」

「罠だよ」

 キリコが『カゲロウ』を引き止める。しかし、『カゲロウ』は応じない。

「そんなことわかってるよ。だけど行く。私が行かなくて、どうするのさ。システマーは誰も助けてくれない私を見出して友達になってくれた。私だって今、彼女を見捨てないで助けに行く」

「無駄死にする気?」

 咄嗟に、キリコが『カゲロウ』の腕をつかむ。見逃してはやれない。彼女も一応、ウィンガーの被害を免れた少ないクラスメートなのだ。

「放して!」

 『カゲロウ』は振り払った。メタルスーツを着ていないキリコはそれだけで吹き飛ばされて、壁に叩きつけられる。

「私……行ってくる! 辻井くん!」

「なっ、なんだ?」

 ぼくは慌ててその声に応じた。焦る気持ちはわかるが、今は動かないほうがいい。それを『カゲロウ』にどうやって納得させられるものかと少し考えていたが、いい方法が思いつかない。

「いい夢見れた? ……もし帰ってこれたら、もっといいことしてあげる」

 彼女は指鉄砲をつくってぼくに向け、ウィンクをしてから研究室を出て行った。指鉄砲はぼくの専売特許にしてもらいたかった。しかもそのセリフは一体何だというのか。ぼくに何をしたのだろう、気になってしまう。

 しかし、そんなことを言っている場合ではない。

「キリコ」

 ぼくはまず壁まで吹き飛ばされたキリコを起こした。衝撃で腰が抜けているようだが、特に外傷はないらしい。

「水口さんて激情家なんだね。スーツ着てないときは、あまり怒らせられないよ……」

「そうだね。気をつけよう」

 あのテンションもかなり危険だ。

 だが落ち着いて話をしていていい状況ではない。得策とは言い難いが、『カゲロウ』をキリコに追わせるしかない。幸いにして、メタルスーツの修理は先ほど終っている。


 鉄砲玉のような勢いで飛び出していった『カゲロウ』を追うために、ぼくは修理の終ったメタルスーツを車に積んでキリコとともに外に出た。メットのバイザーはまだ割れたままだが、これはもう直そうとすると非常に手間がかかるので放置するしかない。

「場所は?」

 キリコが訊ねてくる。ぼくはあのビルに大体の見覚えがあった。見当はついている。

「大体、わかってる。行こう」

 ぼくはアクセルを踏み込んだ。車は進む。空を飛ぶ『カゲロウ』より遅いスピードだが、仕方がない。焦る心にブレーキをかけ、焦れる心を押さえ込んだ。

「ところで六郎、出席日数とか大丈夫なの?」

 この非常時に、なぜかキリコが無関係なことを訊いてくる。緊張する心を抑えようというのだろうか。

「正直なところ計算していない。だが、別に退学になろうが留年しようが後悔はしないと思うよ。ぼくがメタルスーツを開発しなければ、そんなことを考えるどころじゃない世の中になってしまっていたかもしれないんだから」

「正義のためなら学校なんかってわけ」

「正義?」

 ぼくはキリコの返答に怪訝な表情を浮かべた。

「あのね、正義ってのは……」

 そういいながら、続く言葉が思い浮かばなかった。正義なんて存在しない、と言い切るか。あるいはテレビの中だけの思想に過ぎんと言うか。押し付けがましいものだと否定してみるか。

 つまりぼく自身は正義という言葉があまり好きでないと言っていい。

 しかしキリコはそんなぼくの心など察してはくれない。すぐさまこう言い返してきた。

「平和な世を乱し罪のない人々を殺傷する輩を、自らの危険を顧みず成敗に向かう。これすなわち、正義といわずになんというのさ」

「無謀」

 ぼくは赤信号に反応してブレーキを踏みながらそう言った。キリコは不満そうに眉を寄せ、こう言い返す。

「じゃ、今私たちがウィンガーを倒しにこうして向かっているのも無謀なの? 正義とは言わないわけ」

「言わないね。ぼくらの行為なら尚更。これはね、ただの憎悪なのさ。正義で動いているんじゃない」

「憎悪って人聞きの悪い言葉だよ。どうしてそういうこと言うのさ」

「事実だからさ。ぼくらは身近な人を彼らに殺されて、彼らを憎み、殺意さえ抱いているってわけだ。根本的にはそこなんだよ。いくら言葉で格好つけたってだめさ。どんな言い訳をしても結局は憎しみで動いている。根っこからそうなんだ」

「決め付けないほうがいいよ」

 キリコはシートベルトの上から腕を組み、ぼくの顔をにらんだ。

「ぼくの考えを押し付けようとは思わないよ。君が正義だと思っているなら、それでいい」

「なんだよ、それじゃ……まるで自分が正しいけど、私に理解させるのが面倒だから放置してるみたいじゃない。今はいいけど、あとで問答するなら付き合うから。そんなあやふやな態度、そんなんですまさないからね」

「問答したいの?」

 ぼくは訊ねた。こちらから回避したのに、わざわざ仕掛けてくるとは思わなかったからだ。天才であるぼくと勉強の苦手なキリコでは問答にもならないと思うのだが、それでも挑んでくるのだ。

「私にも矜持があるんだよ。特に、今自分がやってることに関することならね」

「わかった」

 ぼくは応じた。恐らくいい方向に動きそうだ。この問答はそう悪い結果を起こさないだろう。

 ただし、それは今目の前にある問題を片付けることができれば、の話だ。

 ウィンガーはとてつもない敵だ。彼をまず、何とかしなければならない。

 近くに例のマンションが見えてきた。警察車両もいくつか見える。ぼくは手近な路地の近くに車を寄せた。ここからはキリコに任せるしかないのだ。路地裏でメタルスーツを着込んだキリコは、すぐさま飛行ユニットを使って飛び出した。ぼくはその後、すぐに車を移動させた。警察車両が多いので、少し離れたほうがいいと判断したからだ。

 すぐにでもキリコの行方を追いたいのはやまやまだが、ぼくが警察に捕まると最悪だ。そこは対策をきっちりしなければならない。コインパーキングに車を入れて、近くにあるマンションの非常階段を駆け上がった。

 あちこちのマンションから野次馬が顔を出しているため、ぼくの行動もそれほど目立たない。皆、ウィンガーたちの姿に釘付けになっている。ぼくは誰も顔を出していない人気のないマンションを選んだので、周囲には誰もいない。インカムを装着して、通話をONに切り替えた。

『……水口さん、大丈夫?』

 まず聞えてきたのはキリコの声だった。

 どういう状況になっているのか、まず確認しなければならない。ぼくはオペラグラスを取り出してキリコたちがいる方向を見た。ここから肉眼では、ほとんど見えない。離れすぎている。

 屋上では、誰かが倒れているようだった。色から判断してシステマーだろう。傍に立っているのはウィンガー、少し離れて『カゲロウ』とキリコがいる。まだ戦闘には至っていないらしい。談判でもしているのだろうか。

 ぼくはそのあたりを把握するために耳をすませる。

『まぁなんとか大丈夫。けど、こいつ、バイオウィンガーじゃない』

『何のことかな』

 ウィンガーが首を傾げている。『カゲロウ』が彼を偽者だと言ってることへの返答だろう。

『本物はもっと凶悪だよ。違うね、あんたはあいつじゃない。でも、システマーは本物みたいだけど。誰?』

 『カゲロウ』がそうはっきり言うと、ウィンガーが笑う。ハハハ、と声を上げて彼は笑っていた。

『よくわかるね、わかるね! どうしてわかるのかな。不思議だ! あいつに唾でもつけていたのか?』

『誰だってわかるよ、あんた、臭いんだよ。うんこみたいな臭いがするんだよ、うんこ!』

 ぼくは幼すぎる物言いに、顔をしかめた。この様子を眺めている野次馬達も、まさか当事者達がこのような言い合いをしているとは思うまい。挑発なのだろうが、もう少し言葉を選んでもらいたい。同じことを思ったのか、キリコが小さくこう言った。

『小学生の口げんかみたい』

「同感だね」

 ぼくはそう応じておいた。

 しかしうんこと言われたウィンガーはたまらないらしく、口元をゆがめている。

『やれやれだ。レディはレディらしい言葉を話してもらいたいものだが。しかし、人をうんこ呼ばわりしてただですむと思うなよ。システマーは本物だ。もうすでに用が済んだからな。返却してやってもいい』

 用が済んだ。それはどういう意味なのか。ぼくは気にかかった。

『じゃあ、とにかく返してもらうからね』

『持っていくのか? ご自由に。しかし、代金はいただくよ』

 早く返せと言わんばかりの『カゲロウ』に対し、ウィンガーは冷淡に応じる。

『鉄拳でいいのなら、いくらでも払ってあげる。おつりはいらないよ』

『結構。なら、払いにおいで。当てられたらの話だが』

『言われなくても!』

 『カゲロウ』がウィンガーに向かっていく。偽者とはいえ、一人でどうにかなるのだろうか。

 瞬間、システマーが起き上がり、『カゲロウ』の攻撃を止めた。

『霧亜!』

 『カゲロウ』が叫んだ。起き上がったシステマーは、暗い目をしたままで呼びかけに応えない。

 システマーは躊躇なく『カゲロウ』を殴り飛ばす。背後に吹っ飛んだ『カゲロウ』は丁度背後に立っていたキリコに突っ込む形になってしまう。

『水口さん』

 キリコは吹っ飛んできた『カゲロウ』を受け止めた。『カゲロウ』が憎々しげにウィンガーを睨む。

『彼女をいじったわけ?』

『有体に言えばそうだな。折角だから、ちょっと暴れてもらおうと思ってね』

 どうやら、システマーは洗脳されたか、直接脳髄をいじくられたかして、敵になっているらしい。危険だ。

 あのシステマーがか!

 ぼくはミルクティーがないと生きていけないと言っていたあの女性を思い出した。彼女は二度と元に戻らないのか。ぼくはそれを思うと胃のあたりがぐるぐると傷むのを抑えられない。だが、このような短時間で永久に消えない洗脳処理や手術を施せるはずがない、と思う。恐らく深層意識に働きかける程度の催眠術で、簡単に思考を調整されているくらいが限界。それならば今、今彼女を捕獲することが出来れば、なんとか彼女を取り戻せるかもしれない。

 これはぼくの勝手な推理にすぎず、実際にはオーバーテクノロジーを持つ『亡霊』が短時間のうちにシステマーの脳髄をすっかり処理してしまっており、二度と帰らない可能性もある。そのようなことはわかっているが、それでもぼくは希望を捨てられなかった。キリコにぼくの考えを伝える。

「今この場でシステマーを捕獲できれば、彼女を取り戻せるかもしれない」

 確かに聞こえたはずだが、キリコはすぐにはぼくの言葉に返答しなかった。少ししてから小さな声で、できるだけ努力するよと返ってきたが風の音に消えそうなほど小さな声だった。

「どうした?」

『なんでもない』

 明らかになんでもないということはないだろう、という声でそう答える。キリコは何かに動揺しているようだった。今はとにかく、目の前の敵をなんとかすることだけを考えてもらいたい。

 ひとまず、敵はシステマーとウィンガーだ。ウィンガーはどうも偽者らしいが、とにかく敵であることは間違いない。これにぶつかるのはキリコと『カゲロウ』である。四人はマンションの屋上にいるが、下には警察がいる。恐らく、エレベーターか何かですぐに上がってくるだろう。このような都会の目立つ場所でぶつかろうという、その魂胆はなんなのだろうか。

『まず、邪魔者たちをどかそう』

 肩をすくめるウィンガーがそう言った。彼の言う邪魔者とは誰のことなのか。

『何をするつもり?』

 『カゲロウ』が訊ねるが、それには応じず、彼はシステマーの背中からバズーカ砲を抜いた。以前に何度も使ったことのある、使い捨てのものだろう。

『こうするのさ』

 彼はそれを多くの野次馬が集まっているマンションに向け、躊躇いもなく引き金を引いた。

 ぼくは呻く暇もなかった。小さな軽い破裂音とともに砲弾が発射され、マンションに着弾する。轟音と共に爆炎が吹き上がり、外壁の破片が飛んだ。一瞬にして、周囲はパニックに陥った。

 悲鳴と、人々の逃げ惑う喧騒が響き渡る。ウィンガーはそれからもう二、三発を野次馬の多いマンションに向けて撃ち込み、外壁を吹き飛ばした。どうやら使い捨てのものから何発か撃てる形式のものに改造していたらしい。

『うっ……あんた、何を!』

『じろじろ見られるのは好きじゃないからね。人間達にはお引取り願っただけだよ』

 悪びれずにウィンガーがそう言って、軽く手を振った。ぼくのいるマンションには砲弾が飛んでこなかったが、ぼくも少し肝を冷やした。あのバズーカの威力はマンションの外壁を完全に打ち崩すほどのものではないが、直撃した人間が助かるわけでもないし、強烈な轟音と爆風で威圧する効果は十分に望める。

 救急車が間もなくここに乗り付けてくるだろう。賢明な周辺の住人は戸を閉ざし家の中に引きこもるか、この場から少しでも遠くに避難しようと試みる。しかし警察はそうはいかない。今の騒ぎにますます態度を硬化させて、ウィンガーたちを拘束しようとしてくるだろう。

『警察だ! 武器を捨てろ!』

 屋上のドアが開いた。ウィンガーたちのいるところへ、警察官がなだれ込んでくる。空を飛べる上、バズーカを乱射するような相手を即射殺しなかっただけでも穏便な対応だ。

 しかしそれが今回は裏目になった。ウィンガーは何一つ躊躇わずに彼らに向けて砲弾を発射した。あのような至近距離から撃たれては!

 ぼくはぞっとした。発射の瞬間キリコはウィンガーに飛びかかろうとしたが、システマーに妨害されている。警察官達はどうなったのか、想像もしたくない。屋上から爆炎が吹き上がり、何かが飛び上がる。ウィンガーはそれからやっと弾が切れたのかバズーカを捨て、システマーに命令を下した。

『そこの二人を片付けろ』

 途端、システマーがキリコに襲い掛かる。キリコは咄嗟に飛び上がり、飛行ユニットに火を入れた。隣のマンションに飛び移るつもりらしい。

 『カゲロウ』はというと、システマーをキリコに任せて、ウィンガーを睨んでいる。

『この、うんこ! いい加減にしてよ! 迷惑、迷惑だよ』

 相変わらずウィンガーを排泄物呼ばわりしつつ、両腕を握り締めて、怒っているようだ。

『それで、どうするつもりだ?』

 ウィンガーは口元に手をやって、笑った。『カゲロウ』のことは、あまり強いと思っていないようだ。

『まず私の大切な友達を、返してもらうからね。それからあんたは、もう、許さない』

『どうして許さない? システマーを壊したからか』

『どうして? そんなこともわからないの。もう、絶対許さない!』

 『カゲロウ』がウィンガーに向けて突っ込んでいった。ウィンガーはジャンプしてそれをかわし、空中で姿を変えた。恐らく、ウィンガーの姿は偽装だったのだ。緑色の体表が剥がれ落ち、黄色と黒のストライプを中心とした体表になる。背中からは透明な四枚の羽が生えていた。

 それを見上げて、『カゲロウ』が言う。

『蜂だ……、あなたは蜂なんだね』

『そうとも、最も進化した昆虫類。蜂だ、俺はその中でも、“アシナガバチ”を基にして改造を受けた。はかないだけが取り得のひらひらとした浮遊生物“カゲロウ”とは対極と言っていいほど、強い』

 自信があるらしく、ウィンガーの偽装を解いた『アシナガバチ』が軽い演説をしてみせた。そのようなことで怒りに燃える『カゲロウ』はたじろがなかったが、確かに戦力に差はあるようだった。まずそもそも『カゲロウ』の姿は戦闘向きではない。システマーが言っていた通り、改造戦士を生み出す目的が『世の中を混乱させること』にあるのならば、戦闘向きである必要性もそれほど高いわけではないのだが、この場合はそれが問題となる。圧倒的な戦力差だ。

 となれば、キリコに頼るしかない。そのキリコはといえば、システマーと向かい合っている。

 いかにシステマーとはいえ、ウィンガーによって倒されてからまだ間を置いていない。完全に傷が癒えているとは考えられないことだ。そこにつけいるスキはあるだろう。

「キリコ、相手は手負いのはずだ。なんとか早く勝負をつけて『カゲロウ』を手伝ってやれないか」

 ぼくはそう伝えてみた。キリコは無言で、背中からブレードを引き抜く。返答する暇がないのか、する気がないのか。

 システマーも応じるように腰から剣を抜いてくる。キリコはそこへ、先手必勝とばかりに襲い掛かった。打ち下ろしの一撃だ。システマーは素早く反応し、ステップを踏んで左へかわし、同時に剣を振ってくる。

 しかし、そんなものは所詮手打ちだ。体重も乗らないような剣をいちいち避けず、キリコは右肩でその剣を受ける。瞬間、左手で右肩のスイッチに触れた。そこにはレーザー砲の発射口がある。ゼロ距離からの発射。メタルスーツの右肩が輝き、エネルギーを放出する。見事にシステマーに直撃し、標的を熱に包んだ。燃えるものがあれば燃え上がるのだが、システマーの赤紫のスーツは耐熱処理を施されているらしく、燃え上がらない。だが、スーツが燃えなくとも中にいる人間はこの熱に耐えられるはずがない。ぼくはそう思ったのだが、システマーは何ら反応しない。レーザーの放出を受けながらも剣を引き、バックステップを踏みながら両腕をキリコに向けてくる。

 まるで熱を感じていないような動きだ。どうなっているのか、ぼくにもわからない。システマーの着ているスーツ、『バリアフレーム』がそれほど耐熱処理を完璧にしているのか、それとも痛覚を麻痺させるような処理を受けてしまっているのか。

 だが、今はそれを考えている暇などない。キリコはすぐさまブレードを自分の顔に近づけた。盾にするためだろう。予想通り、直後にシステマーの腕から破裂音が響き、弾丸の雨がキリコを襲った。割れているバイザーのあたりや口元に受けると危険なので、そこをブレードで防ぐ必要があるのだ。キリコは右手でブレードを持ちながら、左手を背中に回しショットガンを抜いた。左手で狙いをつけるのは難しいが、この至近距離ならば当たる可能性も低くない。それに散弾はそれほど丁寧に狙いをつけられなくとも問題ない。

 キリコがショットガンをシステマーに向けると同時に、システマーも足の裏を持ち上げてキリコに向けてきた。

 まさか、とぼくが思うと同時にシステマーの足が火を噴く。そのようなところに弾薬を仕込んでいるとは思わなかった。

 ぼくと同じように不意を突かれただろうキリコだが、それでも賢明な反応をしていた。出来うるだけ身体を低くしながらもブレードで顔を守り、左手の引き金を引いていた。結果、システマーから発射された砲弾にキリコの散弾が食い込み、両者の中間点で爆発が起こった。炸裂した破片が吹き飛び、爆風が両者を襲う。

 ぼくはインカムから流れてくる雑音に顔をしかめながら、唇を噛み締めた。キリコは無事なのか。

「キリコ」

 問いかけてみると、すぐに返答があった。

『大丈夫だよ』

 その声にぼくが安心した次の一瞬、また爆炎が吹き上がった。システマーがもう一発、足の砲弾を発射したらしい。今、話していたキリコが油断を突かれて食らってしまったのではないか、とぼくは心配になる。が、すぐにマンションのすぐ上の空間に飛行ユニットで浮いているキリコを見つけて安堵した。さすがにいい反応だ。ぼくなら今のでやられていたに違いない。


 システマーとキリコが戦い、その裏では『カゲロウ』と『アシナガバチ』が戦っている。ぼくの目は二つあるが、右目で片方を見て左目でもう片方を見るなどということはできない。仮にできたとしても脳がそれを認識できない。要するにどちらか一つの戦闘しか見れないわけである。となれば、自分が作ったメタルスーツを着て戦っているキリコの戦いに目が行ってしまう。ぼくのことを好きだと言ってくれた『カゲロウ』のことも気にならないわけではないのだが、キリコが加勢にくればそれで何とかなるだろう。それまで耐えてくれることを祈るだけだ。キリコの相手であるシステマーは手負いのはずであり、今のキリコでもなんとか倒せるはずだと期待する。

 しかし、今の小競り合いを見てもわかるとおり、システマーもそう簡単に倒されるつもりはないようだ。いったいどういう調整を受けたのはわからないが、とにかく彼女を確保して調べてみなければならない。彼女を取り戻せるかどうか、今が正念場だ。さりとて、だらだらと戦っていては『カゲロウ』を見捨てることになりかねない。つまりぼくは素早く、かつ、殺さずにシステマーに勝つという非常に過大な要求をしていることになるが、それを取り下げることもない。キリコはただ、戦うだけだ。命の危険を冒してシステマーとぶつかりあっている。仮にシステマーを確保できなくとも、素早く彼女を倒せなくとも、仕方がない。手負いとはいえシステマーはそれだけの敵なのだ。ぼくにできることは、こうしてただ要求を口にすることだけ。

「がんばれ……」

 小さくそう言うしかない。

『わかってるよ』

 キリコが応じてくれる。

 システマーは次の一手を繰り出そうと、空中に逃げたキリコを見ているが、キリコはシステマーがその一手を考えつく前にショットガンを撃った。牽制には十分な一撃だ。若干システマーはひるんだ。彼女の装甲をつらぬくことはできなくとも、そのくらいの効果はあった。その隙に、キリコは空中からブレードをもってシステマーに襲い掛かる。落下速度をプラスして振り下ろすブレードは当たれば一撃必倒の威力があるはずだ。

 しかし、システマーはその一撃を防いだ。素早く剣を抜いた彼女はそれを両腕で掲げ、キリコのブレードとかち合わせる。完璧な防御だ。だが、キリコは勢いを殺さない。そのまま振りぬいた。ばきんと何かがへし折れるような音が響き、硬いものが打ち付けられるような音が続く。

 赤い飛沫が飛んだ。折れたのはシステマーの剣だ!

 振りぬいたブレードによってシステマーのメットが砕け、彼女の頭部が傷ついたに違いない。ぼくはそう思った。

 しかし実際に傷ついたのは両者だった。折れた剣をそのまま突きこみ、自分の負傷も意に介さず、キリコの頭を狙ったのだ。下から振り上げられた剣は、割れていたメタルスーツのメットを直撃、前回の傷をなぞるようにキリコを傷つけている。

 屋上に着地したキリコは、素早く剣を振り上げる。一気に攻め込み、決めてしまうつもりのようだ。それに対し、システマーは背後に下がり、その攻撃をかわしていく。互いに今の攻防で負った傷のことは感じさせない動きである。

 今度空に逃げるのはシステマーのようだ。背後に下がり続けて後がなくなったシステマーは躊躇なく空に舞い上がった。追おうとするキリコだが、システマーと違って離陸にタイムラグがある。両者の距離は僅かに離れた。

 瞬間的に、システマーは背中に手を回して何かを取った。何か重火器が襲ってくる、そう思って間違いなかった。ぼくがそれを回避する方法を伝える暇も、思いつく暇もなく、予想通りシステマーはキリコに何かを放つ。それはぼくが扱っているようなレーザーだった。キリコはよく判断し、敵の攻撃を回避するためにかがんだのだが、それでも左肩に命中する。

 途端、キリコの左肩が爆発した。ぼくは絶句する。左肩にはミサイルが仕込んであったからだ! システマーのものがぼくが使っているものと同じようなレーザーだとしたら、強烈な熱を発生させるはずだ。ミサイルに引火したとしたら、至近距離に入るキリコは間違いなく重傷を負う。少なくとも左腕は千切れ、顔の半分は吹っ飛んでいる。

 どうしようもなく、まずい。ぼくは爆発を起こした地点を凝視する。どのような結果であれ、見なければならない。

「キリコ!」

 ぼくは呼びかけてみる。しかし、返ってくるのは空しい雑音だけだ。

 どうなったのか、わからない。キリコは爆発で吹っ飛んでしまったのか。システマーは今の爆発で勝ちを判断したらしく、屋上に戻って『カゲロウ』に目をやっている。

 つられて、ぼくも『カゲロウ』に目をやった。『アシナガバチ』と『カゲロウ』は空中で小競り合いをしている。

 『カゲロウ』は小技を繰り出して相手を牽制し、『アシナガバチ』はそれをくぐって、毒針を相手に刺そうとしているらしい。彼の毒針は両腕の指先にあるようだ。技量は拮抗して見えるが、当人達は上下の感覚もないのか空中でぐるぐると上下、左右を入れ替えながら戦っている。『アシナガバチ』としてはさっさと相手に取り付き、毒針を刺せばそれでおしまいなのだろうが、『カゲロウ』もそれはわかりきっているので手を出させないのだ。

 いつまでも踊るような動きで小競り合いを続けているが、痺れを切らしたのか、『アシナガバチ』は素早く相手に接近し、多少のダメージには厭わずに相手に組み付こうとする。これをやられたらおしまいだ。毒を受けると、戦いには致命的である。キリコが吹き飛ばされ、『カゲロウ』が倒されれば終わりだ。しかし『カゲロウ』は背後に逃げる。その先に、比較的高いマンションの外壁が見えた。

 そのまま背後に逃げていけば、そこへ追い詰められるのは必然だ。だが、『カゲロウ』は背中に目でもついているかのようにその外壁を察知し、接近するや、足を伸ばして壁を蹴りつける。その反動を利用して、追いかけてきていた『アシナガバチ』の頭上を越えようとしたのだろうが、それを見逃すほど敵も甘くなかったらしい。自分の頭の上を越えて反対側へまわろうとした彼女の足へ、素早く反応して毒針を打ち込んだのだ。だが、お返しとばかりにその瞬間、『カゲロウ』も『アシナガバチ』の顔面に何か液体をぶちまけた。その液体が何なのかはわからない。

 正体のわからない液体をかけられて、『アシナガバチ』はぼく以上に驚いているようだ。毒針を打ち込んだ『カゲロウ』に追撃を仕掛けることも出来ず、液体を払っている。その間に『カゲロウ』は、自分の右足首を切り捨てた。自切できるわけではないらしいが、右手を振るだけで簡単に切断してしまった。切り離した先が地面に落ちていくが、『カゲロウ』はそれを見届けることもせず、狼狽している『アシナガバチ』に体当たりを仕掛ける。不意を突いたらしく、一撃で彼はマンションの外壁に叩きつけられた。勝負は決まったようだ。すかさず追撃をかける『カゲロウ』は、敵の頭に抱きつくようにして組み付いた。両脚で敵の腕を封じ、完全に殺している。『アシナガバチ』がもがくが、どうにもならない。ここからでは『カゲロウ』が何をしているのかはわからないが、何らかの攻撃を仕掛けているらしい。もがいている『アシナガバチ』の足から、元気がなくなっていく。

 だが、システマーがそれを黙ってみてはいなかった。

 組み付かれている『アシナガバチ』を救うため、システマーが両腕を『カゲロウ』に向けながら突撃していく。両腕にはバルカン砲が装備されているらしく、連続して破裂音が響く。察知した『カゲロウ』が素早く『アシナガバチ』を盾にする。バルカン砲は当たらなかったが、両腕の自由を取り戻した『アシナガバチ』が『カゲロウ』を振り払う。

 これでは二対一になってしまう。キリコは本当に先ほどの爆発でやられてしまったのだろうか。もしまだ生きているのなら、この状況をなんとかしてもらいたい。しかし、あの爆発ではいかにメタルスーツといえども、無事ではすまない。

 『カゲロウ』は恐るべき俊敏さで距離をとるが、数の優位を確認した『アシナガバチ』とシステマーに攻められている。『アシナガバチ』はまだ衰弱してはおらず、戦う気力を残している。

「キリコ」

 ぼくはキリコを呼んだ。雑音しか届かないインカムが恨めしい。メタルスーツ自体はミサイルの暴発にも耐えられるかもしれない。だが、その衝撃が中にいるキリコを傷つけることは間違いないのだ。だがもし、生きているのなら。

 防戦一方になる『カゲロウ』を見て、ぼくは焦る。システマーの飛び道具と、『アシナガバチ』の毒針は確実に彼女を追い詰めていく。いけない、このままでは確実に彼女は負けるだろう。だが、このように離れた位置からぼくのような非力な者に、一体何ができるのかと思う。頼りはこの胸にあるレーザー・スライサーだけだ。これも、システマーの装甲には通用しない。それに、こんなハンドガン仕様のもので二百メートル近くも離れ、しかも飛び回る彼らを狙撃するのは無理な話だ。

 だから、ぼくが今頼りに出来るものはない。キリコ、キリコが生きているという希望にすがるだけのことしかできないのだ。

「キリコ!」

『わ、わかってるよ』

 雑音が鳴るインカムから、そんな声があった。

「キリコ?」

 ぼくは思わず訊きかえした。

『ちょっと黙ってて。あちこち痛いんだよ』

 つらそうな声でそんな返答があった。キリコは生きていた。だが、どこにいるのだろう。黙っていてくれと言われて、ぼくは口をつぐんだが、追い詰められていく『カゲロウ』をただ黙ってみているのは苦痛だ。毒針を食らうことは避けているが、システマーの銃弾は何発も食らっている。あのままではいずれ羽に穴をあけられて、いいように嬲り殺しにされる。それは、いけない。

「だが、キリコ。『カゲロウ』が危ない。なんとか立てないか」

『わかってるから。うるさいよ』

 キリコからの返答はつらそうであるが、気丈なものだ。焦るぼくは、彼女に無理をしてもらいたい。

「しかし、立つんだ! 死ぬぞ!」

『うるさいって、言ってるでしょう!』

 呻くような大声を出し、キリコは吼えた。

『少し、黙ってて!』

 瞬間、飛行ユニットが唸りをあげる。キリコが爆発を受けたマンションの屋上で、何かが光り輝くの見えた。

 ぼくは声も出せず、ただその光景を見守った。輝きが吹き上がり、飛び上がったかと思えば、一直線に『カゲロウ』たちのところへと突っ込んでいく。

『山内さ……、うわっ!』

 飛行ユニットは全開にされていた。トップスピードまで加速し、減速なしでの体当たりだった。

 あの光は、キリコに間違いない。『アシナガバチ』と『カゲロウ』の間に飛び込み、瞬きをするほどの間もなく、突き抜けた。その先にあるマンションの外壁に、足から着地する。片足が壁に埋まるように入り込み、そこに固定されていた。

「キリコ!」

『これでいいんでしょう』

 ごうごうと鳴る風の音とともに、キリコは怒ったようにそう言い捨て、『カノン』を引っ張りだした。そして狙いをつける。まさか、そのような場所から狙撃するつもりか。

『それでいいんだよ』

 キリコのしたいことを把握したのか、はじかれたように『カゲロウ』があっけにとられている『アシナガバチ』に掴みかかった。

『離せ!』

 焦った『アシナガバチ』がそんな声を出すが、『カゲロウ』も離さない。彼を押さえつけ、そこをキリコが撃ち殺すのだ。かわしようがない、完璧な策だ。

 だが、それを察知したシステマーが、即座に行動を起こした。両腕をキリコに向けたのだ。すぐさま、バルカン砲が放たれる。

 キリコは顔を『カノン』の砲身で防御したが、それ以外は何もせず、冷静に狙いを定める。バルカン砲では狙撃を止められないと判断したシステマーがキリコに向かって飛行する。直接叩いて、仕留めるしかないと思ったのだろう。

 瞬間、キリコは砲身をずらした。その砲口はシステマーに向けられる。最初からこれが狙いだった、というように、完全に落ち着いた動きだ。

 こちらに向かってやってくるシステマーを照準にとらえるのは難しいことではないのかもしれない。

『……システマー』

 システマーはまっすぐにキリコに向かってくるだけだ。砲口が自身を向いていることにも興味がないらしい。

『山内さん! やめて!』

 叫び声があがる。システマーが殺されることを懸念した『カゲロウ』が悲痛な声をもらしたのだ。だが、キリコは揺るがない。『カノン』は火を噴き、その弾丸はシステマーの頭部に命中した。金属同士の激しい接触に、『カノン』の発射音に負けないほどの残響が発生する。

 システマーは衝撃に吹っ飛んでいた。びりびりと何かが破れるような音が、僅かに聞こえた気もする。

 同時に、人間の頭部ほどの大きさのものが、空中に舞っていた。あれは、バリアフレームのメット部分。『カノン』の衝撃で、システマーから脱げたのだ。

『霧亜!』

 吹っ飛んでいくシステマーに、『カゲロウ』が駆けつける。もはや意識を失っているらしい彼女は、放っておけば地面に叩きつけられることだろう。救助に向かうのは正解だといえる。

 メットが脱げたシステマーは、少し長い髪を乱しながら重力に引かれていく。彼女を撃ったキリコは、呆然としていた。

『姉さん……』

 外壁から足も抜かず、『カノン』を構えたままだ。

「キリコ! 敵はまだ残っているぞ!」

 ぼくは慌てて叫んだ。さすがにキリコもその声で状況を思い出したらしい。すぐに足を引き抜き、『カノン』を背中に戻した。

「話は後だ、まずはあいつを倒さないと」

『そうだね、そうだね!』

 キリコの息は荒い。当然だ、無理をして戦っているのだ。ブレードを抜き、『アシナガバチ』と対峙する。

 システマーのことは『カゲロウ』に任せておけばいいだろう。キリコは、この『アシナガバチ』を倒せばいい。先ほど『カゲロウ』が何か彼に液体を振り掛けていたが、何かの毒である可能性もある。そうならば、その毒が彼を殺すまでの間、時間稼ぎをすればそれでよいということになる。

『六郎くん、さっきのを見ていたのなら残念だけどね、オキシドールをかぶったくらいじゃ人間は死なないよ』

 いつの間にかシステマーを抱えて戻ってきた『カゲロウ』がそんなことを言う。ぼくの思考を読んだかのようだ。それにしてもなぜオキシドール。恐らく、傷口や血と反応して泡立つ液体ということで、敵に動揺を与えるためのものだったのだろうが、本物の毒でも構わないような気がする。

『別にいいよ、私が殺すから』

 はっきりと口に出して“殺す”という表現を使ったことに少々驚くが、キリコはブレードを下げない。何かが吹っ切れた状態にあるようだ。

 だが、『アシナガバチ』は反転した。逃げるつもりだ。

 数の不利を見て取った彼は、背中を見せたのだ。退却するつもりらしい。これは、逃がすわけにいかないだろう。

『水口さん、逃がすわけにいかないよ』

『当然じゃない! あんなうんこ、放っておいたら臭いだけだもの』

 キリコと『カゲロウ』もぼくと同じ意見らしく、二人でそう言い合い、即座に敵を追った。

 しかし、必死に逃げる『アシナガバチ』もなかなかの速度を出している。キリコはともかく、システマーを抱いている『カゲロウ』ではなかなか追いつけない。ぼくの視界も限界だ。

「キリコ、羽を狙え!」

『言われなくとも!』

 キリコは追いすがりながらショットガンを引き抜き、『アシナガバチ』に向けて乱射した。そのうち何発かが相手の羽や外骨格を傷つけたらしく、明らかに揚力が低下する。それでも必死に羽ばたき、逃げようとしている『アシナガバチ』が少し哀れに見えたが、『カゲロウ』は全く容赦がなかった。

 スピードのでなくなった彼に向けて、システマーを抱えたまま追いつき、ほとんど真上から踏み潰すようなキックを放ったのだ。

 下に打ち下ろされる『アシナガバチ』、それを下から突き上げるのはキリコの『カノン』だった。真下に回りこんでいたキリコは、天をつらぬくように振り上げた『カノン』の砲口で『アシナガバチ』をとらえていた。その衝突の衝撃だけで、彼を殺すには十分だと思われたが、それでも足りないキリコは、容赦なく引き金を引く。

『ストライクカノン! ファイヤーワークス!』

 トドメのミサイルはなかったが、発射の衝撃だけで『アシナガバチ』は引き裂かれ、その身体を四散させていった。

 完全な勝利だ。これがウィンガーだったらこうもうまくいったかはわからないが、システマーを奪還するという作戦目的は見事に果たされたのだ。勝利だ。

「よくやった! お疲れ様だキリコ。傷は大丈夫か?」

 ぼくは浮かれた声を上げたが、キリコは乱れた息を整えているばかりで、返答をしてくれない。

『さ、戻ろうか山内さん……色々、お話したいこともあるからさ!』

 疲れたように肩を落としているキリコに、『カゲロウ』がそう声をかけたが、それにも答えなかった。このとき、キリコが何を見ていたのか、それはまるでわからない。遠すぎた。

 『カゲロウ』が抱きかかえている意識のないシステマーを見ていたのかもしれない。ミサイルの暴発で傷つき、無理をして動かした体の負担に、そのようなことを考えられなかったのかもしれない。

 不意にキリコは顔についていた血を拭い、何かから目をそらした。

『帰ろうか……六郎、車、こっちに回してもらえる?』

 ぼくは人目につかない場所へ車を移動させるためにマンションの階段を降りながら、そのキリコの言葉に曖昧な返事をした。

 山内霧亜が生きているということが、キリコにもわかったはずだ。ましてやそれが何度か敵として、また味方として現れたシステマーだということ。彼女はそれを今どう思っているのかということを、少し考えながら歩いていく。

 これからのことを考えると、頭が痛くなることばかりだった。ぼくは天才だが、こうした困難ばかりでは胃がもたない。

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