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5・バイオウィンガー

 システマーこと山内霧亜、そして『カゲロウ』こと水口影子と話をしてから何日かが過ぎていた。あれからミートスパを平らげた『カゲロウ』は始終ニコニコした調子で、最後まで機嫌を損なうことなく帰っていった。大して有力な情報が得られなかったことも付け加えておく。結局、改造された本人でありながら大したことは覚えていない。頭の中身をいじくられた可能性があるのだから、記憶くらいは消されていて当然なのかもしれない。

 ここにきて問題となっているのは、キリコがあれ以来ぷっつりとぼくの前から姿を消していることだ。自分の部屋にはさすがにちょくちょく戻っているようだが、こちらから連絡しても研究室に全く足を運んでこない。机の引き出しに用意したミルクココアとビスケットが使われる機会のないまま眠っている。

 ぼくは携帯電話を開いてみた。キリコが最後に送ってきた「楽しそうね」という一言だけのメールが一番最後になっている。思わずため息がもれてしまう。この調子ではかなり怒っているな、と思う。多分、ぼくと談笑している相手が『カゲロウ』であることにも気付いていたのだろう。自分が倒したはずの敵と話をしていたのだから手ひどい裏切りを食らったように感じたのかもしれない。そう考えてしまうと、全部話すしかないだろう。システマーの正体については言わずにおきたいのであるが、もし万一あの場にキリコがいた理由にシステマーが関わっていたら、話がややこしくなる。

 だが、もし仮にシステマーが本当にキリコを呼んでぼくをいじめようとしたのだとしても、自分が山内霧亜であるというところまで話すだろうか。それはない。断言できる。それを言う必要などない。

 それを差し引いても面倒くさい話だとは思うが、それ以外の部分はやらなければいけない。天才でなくてもそれはわかるだろうし、ぼくは天才である。数日過ぎても一度もぼくの前に姿を見せないのだから、もはや躊躇している場合ではない。隠していたことも含めてキリコに言わなければ。ぼくはPCを立ち上げて、長い文章を打った。謝罪の文章ではあるが、あまり自分を卑下することもしないし、ありのままに事実を淡々と連ねるだけだ。キリコだって決してバカではない。わかってくれる部分もあるだろう。

 全てを白状した文章が出来上がったので、自分の携帯電話に転送し、それをキリコに送る。あとはキリコ次第だ。これで彼女が戻ってこないようならば、メタルスーツは当初の予定通りぼくが着るしかない。

 メールを送ってから三時間、何の音沙汰もない。キリコからの連絡は絶えたままだ。焦っても仕方がないし、ぼくにできることはないだろう。戻ってきてくれるのならば事情を話し、謝ることになるだろう。それで彼女がぼくを見限るというのであれば、仕方がない。

 ぼくはメタルスーツの修理をするために椅子から立ち上がり、研究室の隅に置いてあるそれを引っ張り出す。ブレードの修理が最優先になるが、もっとも厄介な故障でもある。折れたものを溶接するだけなら簡単なのだが、それではあの切れ味がでない。システマーの剣と同様に電磁カートリッジで熱を発するように改造すれば問題はなくなるが、その場合加熱回数が制限される。そこでぼくは一先ずの応急処置として分厚い刃を持たせ、重量で叩き潰すような剣に変えることにした。キリコが得意とする剣道にはますます向かない剣になるが、仕方がない。あくまでも応急処置だ。

 脇腹部分の損傷と半壊したヘルメットは、そのままでも使えないことはない。修理するのは後回しだ。飛行ユニットはもともと外部取り付けの形なので、爆発はしたが取替えがきく。したがってバラバラに吹っ飛んだユニットを組み集めて修理する必要はない。それに、ぼくの頭の中にはシステマーが作った飛行ユニットの原理がある。あれを参考にして作り直すのもいい。もちろん、ぼくの頭ではシステマーの天才的な発想と技術に追いつかないのであれをまるまる再現することは無理だ。だが、今よりもずっといいものになるだろう。

 しなければならないことは多い。その日もたちまちのうちに過ぎ去ってしまった。

 キリコからの連絡はない。


 大きくなったらぼくはきっと科学者になるのだと思っていた。幼い頃の話だ。今はどうなのか、と訊かれてもそれは答えられない。今は目の前の難題を解決するだけで一杯一杯になっている。夢なんて考えられない。強いて言うなら夢はない。

「私夢なんかないなぁ」

 彼女もそう言っていた気がする。科学者になるんだ、と語るぼくの隣で「なれっこないよ」と言い、夢なんてないほうがいいと冷めた目をする彼女。

「そんなこと言って、なりたいものないの。ねぇ、ないの?」

 ぼくは彼女に近づいて、夢なんてないという彼女の夢を訊き出そうとする。なりたいものが誰にでもきっとある。ぼくはそう思っていた。

「じゃあ、そうだね。お嫁さんになれたらいいなあ、好きな人と結婚して、その人の帰りをご飯作って待つの。それくらいなら私にもきっとなれる」

「ぼくも科学者になれるようにがんばるから」

「きっと無理だよ」

「どうして?」

 ぼくは理由を訊ねる。なりたいものになるように頑張るのに、なれないと決め付ける彼女は確信があるようだった。それを訊いておかなくてはならない。

「あのね、六郎。科学者になりたいのは君だけじゃなくて他にもいっぱいいっぱいいるんだよ。ね、それでね、君が科学者になりたかったらそういう人たちの中でも一番えらくならないとダメなんだよ。クラスで一番勉強が出来る人たちがたくさんいるその中でもまた一番にならなくちゃいけないの。ね、そんなの無理でしょう」

「無理でもなりたいの。どうしたらなれるのかな?」

「無理だよ。六郎が天才なら別だけど」

「じゃあ、ぼくは天才になる!」

 ぼくは何の気なしにそう言った。天才でなければなれないというのなら、天才になればいい。

「ちょ、ちょっと六郎。天才って言うのはなりたくてなるものじゃ」

「ぼくは今日から、天才になるから! 天才になって、科学者になるんだ!」


 ハッ、としてぼくは顔を上げた。また夢を見ていたようだ。

 見慣れた研究室の中だ。もちろん、彼女はいない。どうやらまた設計図を描きながら寝てしまったらしい。時計は午後六時を指している。

 ダメだ、眠い。起き上がろうとしたが全く力が入らないのである。ぼくはなんとかベッドまで歩いて、そこへ倒れこんだ。そしてあっけなく眠りに落ちる。

 途端、何かけたたましい音がぼくの耳に突き刺さった。携帯電話だ。

 何かどきどきと胸がふるえた。予想通り、キリコからの着信である。ぼくはそれを開き、自分の耳に押し当てた。なお、この地下室は当初圏外だったが、いちいちフロントから内線で呼んでもらうのが面倒になったので圏外ではなくしておいた。少々違法な手段をとっているが、メタルスーツに実弾を込めているぼくだ。今さら気にしない。

「……はい」

 ぼくは少し重い声を出した。相手が誰かはわかっている。

『六郎、今から学校に来れる? 剣道場においで。ちょっと話があるから』

 キリコの声である。ぼくは承諾した。

「わかった、行くよ」

『……結構』

 すぐに通話は切れた。ぼくは久しぶりの制服を着て、歩いて外へ出る。学校に行くのに車は使えない。時刻は既に夜の八時になろうとしていた。


 暗い夜道をぼくは歩いていく。急ぎはしない。足取りは重い。

 何を言われるのか、わからないからだ。キリコと色々な話をしてきたが、彼女からしてみればあれは裏切りだったのだろう。弁解するつもりはあまりないし、もうすでに全てをメールで送りつけてしまった。今さら嘘も吐けない。

 空を見上げて、ため息を吐いた。月の明るさに見とれそうだった。足が止まる。ぼくは何をしに学校へ行くのだろうか。

 少しだけ思い悩み、歩き出そうとしたとき、後ろから誰かが声をかけてきた。

「辻井くん。今から学校へ行っても十二時間も遅刻だよ」

 どきりとした。振り返れば、そこにいたのは『カゲロウ』だ。左手を白布で吊った格好もそのままに、あの日見たままの姿である。細い目をますます細めて笑っていた。

「君か。あれ以来キリコが部屋に戻ってこなくてね。今ようやく、話がしたいっていうメールをくれたところだ。何を言われるかわからないけど、これから話し合いだよ」

「ん、予想外に深刻だったんだね」

 事情を話すと、彼女は口元に手をやって少しだけ笑みを強めた。どこかに空虚な印象を持つ笑みである。

「やっぱりあのとき、追いかけておけばよかったんじゃない。辻井くん」

「そうかもしれないね。まぁとにかく行ってくるよ」

「付き合おうか。私も行って一緒に説明してあげる」

 存外に嬉しい申し出である。だが、『カゲロウ』を同行していくと余計に話がややこしくなりそうだ。ぼくはそれを断ろうとした。しかし彼女も引き下がらない。

「遠慮しないでいいよ。私、辻井くんのこと好きだから」

「だけど、今のところ何に対して彼女が怒っているのかもイマイチわからないんだ。それに多分、二人っきりで話がしたいからわざわざ学校に呼んだのだと思う」

「それって怖いね。山内さんは本当に強いじゃない。もしかして辻井くんを袋叩きにするつもりで夜の学校に呼び出したのかもしれないよ? 私がついていって、守ってあげる」

 どちらかというと姉が幼い弟に申し出るような態度で、『カゲロウ』はぼくにそう言ってきた。ぼくは残念ながらうまくそれを断る話術をもたない。

「後ろからこっそり見ててあげる。それもダメなら窓から見てるよ。危なくなったら出て行くから」

「わかった。それじゃ、頼むよ」

 もうこのあたりが譲歩の限界だろう。ぼくは承知し、『カゲロウ』こと水口影子と連れ立って学校へ向かった。

「お任せ、お任せ。私だって強いから大丈夫。山内さんに襲われたって守ってあげる」

 ぼくは苦笑で答えて、学校へと向かった。

 一人で歩いているよりは、『カゲロウ』が隣にいるほうが気が紛れた。話しながら歩いていると、すぐに学校が見えてくる。もちろん、校舎は既に闇に包まれている。月明かりの下で、わずかに輪郭をにじませる校舎へと、ぼくは歩んだ。

「剣道場で待ってるって言ってたよ。すまないけど、一人で行ってみる」

「わかってるよ。私は外から、窓越しに見てるね。危険を感じたら呼ぶのよ」

 ぼくの言葉に『カゲロウ』は素直に応じてくれた。彼女は校舎に入らず、体育館裏へと歩いていく。

 『カゲロウ』を見送り、ぼくは校舎に入った。そのまま体育館へと向かう。体育館は二階がバスケットコート、一階が柔剣道場となっている。

 灯りの落ちている剣道場に入った。

 月明かりで青白く照らされている剣道場の真ん中に、袴姿の女の子が座っていた。ぼくに気付くと立ち上がり、こちらを見据えてくる。もちろん、キリコだ。

「来たよ」

「いらっしゃい」

 剣道着は白く、袴は黒かった。窓からの月明かりはキリコの身体を細く、青く見せている。

 ぼくを見る目は、剣呑ではない。真剣な表情であるが、敵対心は感じない。

「おいで、話があるから」

「うん」

 ぼくは靴を脱ぎ、上がろうとしたがそれを制される。

「入る前に、そこで一礼して。道場にあがるときは、そうするものだから」

「わかった」

 その言葉に従って一礼し、ぼくは剣道場に入った。壁には紺色の布がかけてあり、そこには白く「一」の字が書かれている。どういう意味でこれを飾っているのかは知らない。

「それはね、どこかの偉い先生が寄贈してくださったんだよ。いろんな意味がこめられているんだってさ」

「例えば?」

 ぼくはキリコに訊ねた。すぐに彼女は答える。

「みんなの心を一つにするということ、それから初心を忘れないこと、一つ一つの動作を確実にすること、一を積み重ねることが万になるってこと、どれも大事なことでしょう」

「なるほど」

「座っていいよ、六郎。お茶でもだそうか」

「熱くしてほしいな」

 ぼくは寒かったので、お茶を出してくれるというのはありがたかった。外にいる『カゲロウ』には申し訳ない気持ちがあったが、仕方がない。ぼくは道場の端のほうにあぐらをかいて座った。

 キリコは一度更衣室に引っ込み、ポットと湯飲み、急須をもって戻ってくる。それをぼくの前に置き、自分は竹刀をもって立ち上がった。

「話をするんじゃないの?」

「するよ。けど、まだ私、落ち着けてないの。ごめんね」

 ぼくから離れて、キリコは竹刀を構えた。素振りを二度して、ぴたりと動きを止める。

「それで落ち着けるわけかい」

 キリコは答えない。真剣な目をしたまま虚空を見つめて、竹刀を構えている。

 しばらく動かなかったが、突然竹刀を左腰に納めて、一礼した。竹刀は左手に持ったままだ。

 ぼくの正面に戻ってきて、竹刀を置き、キリコが座る。剣道着と袴をつけた彼女は、美しかった。研ぎ澄まされた刃物のようだ。ぼくは急須からお茶を入れて、一口飲んだ。ここはキリコから話を切り出すまで待ったほうがいいと思ったからである。

「あれからずっと、ここで竹刀を振ってたよ」

 そう話を切り出したのは、十五秒ほどしてからだと思う。しかし、待っている間の十五秒はぼくにはその数倍にも長く感じられた。

「そうかい」

 ぼくは答えた。

「メール見たよ。別に私は怒ってるわけでもなかったんだけど。気持ちの整理が、つかなくて」

「どのあたりについてかな。ぼくがシステマーと話をしていたことか、『カゲロウ』が生きていたことか」

「それはちょっとわからないけど。あの喫茶店で六郎がいるのを見てから、なんだかすごくイライラしてきて、止まらなかった。会ったらきっと、六郎を殴っちゃうと思ったから。今まで戻らなかった」

 落ち着くだけの準備が要るということか。ぼくは思う。しかし、あのとき追いかけていたら殴られていたのかと思うと、残っていて正解だったらしい。

「どうしてそんなにイライラしたのか、まだわからないけど。うん、やっぱり竹刀を振ってるといいね。何もかも忘れられる」

「そう……、落ち着けたのなら、何よりだと思う」

「私、六郎がシステマーと、『カゲロウ』と話をしているところを見たとき、なんだかよくわからないけどぐっと息が詰まって、落ち着けなくなった。別に六郎が誰と話をしててもいいのにさ。なんでだろう……、私が怪我したりして戦ってるのに、六郎がのんきにしてるのが気に入らなかったのかな。メタルスーツを着るって言い出したの、私なのに」

「相手がシステマーだったからじゃないか。必死になって戦った相手と、ぼくが通じていると思ったから」

「違うと思うよ」

 正座し、姿勢を崩さぬままにキリコはぼくを正面から見た。月明かりだけが彼女を照らしている。彼女の後ろにある小さな窓をよく見ると、『カゲロウ』がこちらをのぞいていた。うまくいっているみたいだね、と言わんばかりに笑顔である。

「ごめんね、六郎。こんなとこまで呼び出してさ。ここならなんとか、うまく落ち着いて話せるかと思ったから」

「いや、構わないよ」

 そう答えたが、キリコはその瞬間にぼくの視線に気がついた。自分から少しずれたぼくの目線にだ。振り返るキリコ。

 ほんの一瞬で、『カゲロウ』とキリコの目が合った。

「あなた!」

 キリコの顔が強張る。置いていた竹刀を掴み、キリコは立ち上がった。突然の激昂だった。しかし、『カゲロウ』は見つかってしまったか、という以上のものは何もない。窓を開けて、そこからのそのそと身を乗り出した。

「はろ、はろー」

 そんな挨拶を飛ばして、にこっと笑い、手を挙げる。『カゲロウ』はそうやってから剣道場に入ってきて、着地を決めた。

 キリコは竹刀を握り締めて立ち上がったにもかかわらず、打ちかからなかった。ぼくに背を向けてしまったのでその表情は見えないが、彼女は何も言わないで右手を顔にやり、うなだれるように肩を落とした。

「お邪魔しちゃったかな」

 『カゲロウ』は細い目で笑う。自分の存在がどういうものであるか、全く気にしていないようだ。

「何をしに、来たのかな。靴も脱がずに入ってきて」

 キリコが訊ねた。

「辻井くんから聞いてない? 私は別に今、山内さんたちと戦おうとは思ってないんだけど」

「それは知っているけど、それでもあなたがここに来る理由なんてないじゃない」

「理由がなくっちゃ、ここに来ちゃだめなのかな。外は寒いからね。お茶頂戴よ、山内さん」

「待って、近づかないで。それ以上……」

 何気なく一歩踏み出した『カゲロウ』を警戒するように、キリコは竹刀を構えた。

「……わかったよ」

 その理由がわからないほど、『カゲロウ』も愚かではない。彼女は今のところ、いつまたあのように理性を失って殺戮にはしるかわからない存在なのだ。完全に気を許すわけにはいかないのだろう。

「それじゃ、これをあげる」

 『カゲロウ』が何かカードのようなものを放り投げた。キリコがそれを受け取る。電卓のようにボタンがついているが、何に使うものなのだろうか。

「これは?」

「システマーからもらった装置だよ。もし私が狂ったら、それを握りつぶして欲しいんだ。それだけで、システマーが駆けつけてくれる」

 そう言いながら同じものを取り出し、ぼくに見せてくる。なるほどと思った。理性が吹き飛ぶ間際でも、このように薄いものを握りつぶすくらいのことは可能なのだろう。それを察したらすぐさまシステマーが駆けつけ、『カゲロウ』を取り押さえるというのだ。

「…………信用できない」

 しかし、キリコはそれを投げ返した。無理もない話である。ぼくも夏子さんを『誘いに乗った』連中に奪われた。キリコも姉をうしなっている。そう簡単に、この『カゲロウ』を信用する気にはなれないだろう。ぼくはシステマーとともに、強引に話をさせられたおかげで『カゲロウ』をいくぶんか信用する気になっているが、キリコはそうはいかない。

 彼らと直接戦ったということもあるだろう。

「悪いけど、出て行って……」

「つれないなぁ、山内さん」

 カードをポケットに仕舞い、『カゲロウ』がため息を吐いた。

「じゃあ、私辻井くんを送って帰るよ」

「六郎はまだ私と話しをしなきゃいけないから、連れて帰らないで」

 『カゲロウ』がぼくに近づいてくる。思わずぼくは立ち上がった。何をするつもりだろう。非常に嫌な予感がした。ぼくの真横まで来ると彼女は振り返り、訊ねた。

「……山内さん、気付いていないの?」

「何の話?」

 『カゲロウ』の言葉に応じるが、キリコはその意味を把握できない。

「ならいいよ。私、辻井くんを連れて行くから。もう話は済んだはずだよね、見てた限りじゃ」

「意味がわからない。どうして? あなた一体何をしようと……、早く、六郎から離れて!」

 しかし、『カゲロウ』はその言葉を無視し、ぼくの手をとった。同時に強く叫ぶ。

「辻井くん、走るよ!」

 その声が夜の校舎をつらぬく、と同時にぼくは引っ張られている。『カゲロウ』が逃げ出す。

 キリコが竹刀を握ったまま剣道着姿で追いかけてくる。

 何がどうなっているのか、ぼくにもわからない。

「六郎! そいつから離れられないの?」

「ごめん、山内さん。あとで返すから!」

 右手だけでぼくを引っ張り、走っていく『カゲロウ』。ぼくは靴を履いていないのに、廊下を走って足の裏が痛い。キリコは裸足のままで追いかけてくる。袴姿にもかかわらず平然と走りこんでくるあたりさすがだ。裾を踏んだりしないのだろうか。

 しかしいくらキリコの運動神経がすぐれているといっても、『カゲロウ』にかなうはずがない。差は開いていく。ぼくは異常な速度で走る『カゲロウ』についていけず、途中で情けなくもその背中におぶってもらった。さすがは改造戦士というべきか、『カゲロウ』はぼくをおぶっても全く速度を落とさず、たちまちのうちに校舎から飛び出し、校庭に出る。凄まじい速度だった。

「何があったっていうんだい」

 ぼくは背中から、『カゲロウ』に質問をした。

 校庭に出たところで彼女は一度足を止め、夜の校舎を振り返って見ている。しばらく見て、それからやっと小さな声でぼくの質問に答えた。

「まだ。これから起こるんだよ。だから、逃げなくちゃ。山内さんも死なすわけにはいかないでしょ」

「……ここで? 何かが起こる……君はそれを知っているのか?」

「いやーな人が来たんだよ。山内さんを校舎にいさせると怪我するから」

 『カゲロウ』はそう言い終わると再び走り始めた。キリコが校舎から飛び出してきて、ぼくたちの姿を見る。彼女は激昂し、ぼくたちを追ってやってくる。『カゲロウ』はキリコの姿を認めると、彼女がぼくたちの姿を見失わないように気をつけながら逃走を開始した。

 ぼくはそれをどこか他人事のように見ながら、先ほどの『カゲロウ』の言葉を整理する。

 誰かがここに来る。そう言っていた。新たな改造戦士である可能性が高い。もしそうであるのならば、今の状況はまずい。メタルスーツは修理中だし、そもそもここにはない。戦えるのは今現在、この『カゲロウ』だけなのだ。

「システマーを呼べないのかい」

 ぼくはそう思った。敵がやってくるのならば、システマーに加勢を頼むべきだ。

「ああ、でも……霧亜は霧亜で忙しそうだから、こんなことじゃ呼べないかな。それに、多分……システマーでもちょっと辛い相手だと思う。今は逃げるしかないね」

「システマーでも辛い相手だって? そんな敵を知っているって」

「知ってるから、逃げてるの。敵は無邪気な死神だよ」

 『カゲロウ』の声は苦笑交じりだったが、虚言とは思えなかった。


 無邪気な死神。そんな言葉を、本気で言っているのだろうか。

 しかし、システマーでも相手をするのが辛いというほどの敵だという。システマーの実力はぼくもよく知っている。それを上回る化け物だというのか。

「どういう相手なんだい、その死神というのは」

 ぼくは『カゲロウ』に訊ねた。

「うーん、なんていうか……あれに逆らっちゃダメだね、うん。とんでもなく強いよ」

 相変わらずニコニコしたままでそう言う。

「どうしてそれが来ることがわかる?」

「警告だよ、それ自身からの。彼は『バイオウィンガー』って名乗ってる。あちこちを無差別に襲ってる乱暴者だからね。空中から羽と腕をこすり合わせて警告音をだしてくる。『次はそこを襲うから、早くそこから離れておけ』ってね。校舎の中にいたらまずいよ」

「ぼくには何も聞こえなかった」

「多分、『私たち』にしか聞こえないんだと思う。『仲間』が巻き込まれないようにしたいだけなんだろうし」

 改造を受けた人間にしか聞こえない警告をだしておいて、それから攻撃をかけるわけか。

 学校から少し離れた位置にある公園にたどりつき、『カゲロウ』が足を止めた。

「このあたりなら、いいかな。多分まだ攻撃はかけてこないと思うけど、念のためにね。キリコと話し合うなら、この辺がいいと思うけど。彼女いい子だよね、あのスーツ着てないと私に勝てるわけないのに、あんなに頑張って走ってくるんだもの」

「そうかもしれないね」

 ぼくは曖昧に応じて、『カゲロウ』の背中から降りた。街灯がつけられているので、この公園は少し明るい。ぼくと『カゲロウ』はベンチに腰掛けて、キリコが追いついてくるのを待った。

 間もなく、息を切らせたキリコが公園の中に入って来る。ぼくたちが座っているベンチは街灯の真下にあって明るいのですぐに見つけられたのだろう。キリコは未だに剣道着姿のままで、竹刀を持っている。ぼくたちがベンチでのんきに座っているのを見たためか、さすがにそれを構えようとはしていない。ゆっくりと歩んで、近寄ってくる。

「こんなところに誘い込んで、何をしようっていうの」

「別に誘い込んではないけど。よく走ってきたね。なかなか速いよ」

「嬉しくないお褒めの言葉だね。何が目的?」

 当然だが、キリコの言葉には棘がある。『カゲロウ』の陽気な態度が気に食わないのかもしれない。

「…………あのね、山内さん。ストレートに訊いていい?」

「何の話かな。率直に言ってくれるならそれでいいよ」

「じゃ、訊くけど。辻井くんのこと、好きなの?」

 この質問にはぼくのほうが慌てた。

「友達としてならね。それが何か?」

「私は辻井くんのこと好きだよ。ずっと前から、今も。だから一緒にいたいんだよ。わかるでしょう」

 思わずぼくは身を引いた。ぞくっと背筋が凍る。この躁病のようなテンションの『カゲロウ』と一緒にいるのはたまらないと思ったからだ。

「それは勝手だけどね。常識的な誘い方にしてくれる? これじゃ誘拐だよ、それに私と話をしている途中だったでしょう!」

 キリコが言い返す。こちらはまともな言動で助かる。少々怒ってはいるが。

「それはそうだね。ごめん」

 あはは、と笑う『カゲロウ』。本名、水口影子。この女は落ち込むということがないのだろうか。

「六郎も、六郎だよ! なんであっさりついていっちゃうの、私真剣な話をしていたのに」

「ごっ、ごめん」

 そう言われて、ぼくは思わず謝った。

「でもねー、山内さん」

 『カゲロウ』が横から口を出してくる。多分あまりいいことは言わないだろうなと思ったが、予想通りだった。

「あなただったらあのスーツがないと、辻井くんを護れないよ。いや、自分の身だって護れない。私ならいつでも、彼を救える。私は自分の身を呈して、彼を助けるよ。あなたは? あなたはそれができるのかな?」

「何の話?」

 訝しげに問うキリコ。それに対して『カゲロウ』はさらに言葉を浴びせた。

「はっきり言うけど、あのスーツがなければあなたは何もできない。誰も護れないよ。己の身ひとつでさえも護れない。だったらねぇ、このあたりで身を引いたらどうかなって思うんだけど。いくらそうやって竹刀を振り回しても、私たちには勝てないよ。もうシステマーも、私もいるんだし、もう無茶苦茶やって、敵に挑むのはよしたら。あのスーツだって、私が着たらもっと効果があるんじゃない?」

 ぼくはぎょっとして『カゲロウ』を見た。ここまで言うとはちょっと思っていなかったからだ。

「一理、あるね」

 しかしキリコは冷静にそう言ってのけた。その言葉にもぼくはハッとした。かけるべき言葉が思いつかない。

「姉さんが殺されたから、目の前で夏子さんが死んだから、必死になって戦ってきたけど……。考えてみると確かにそうかもしれない」

「で、でもキリコ、君は……」

 なんとか言葉をかけようとぼくは勇気を奮ったが、その先の言葉が思いつかない。だめだ。途中で腰砕けになったぼくの言葉は勢いを失って、地面に落ちた。

「やめるの、グレイダーを」

 相変わらず『カゲロウ』は笑っている。なぜだかその笑顔に少し腹が立った。

「でも、私は憎いんだよ。敵が。その、『亡霊』って奴だって憎い! 何が一体、私の姉さんを殺したの、姉さんが何か悪いことをしたの? 夏子さんだってすごく優しそうな人だったのに」

「憎悪? 山内さんあなたはいままでその憎悪だけで戦ってたの。敵が憎たらしいから」

「いけないことなの、それは」

 ふと、キリコが顔を上げる。月明かりに照らされて肌が青白く見える。首筋のあたりに汗が浮いていた。少し息切れしているようだが、怒っているせいなのか走ったせいなのかはわからない。

 こんなときに不謹慎だが、磨きぬかれた刃物のように繊細な美しさを感じた。その顔に浮かぶ汗の一滴さえも。

 『カゲロウ』は口元に手をやり、やはり笑った。

「いいえ」

 首を振り、言葉を続ける。

「それでいいと私は思うけど」

 憎悪だけで戦い抜いているというキリコの言葉に、同意した。

「たとえそれが嫌悪であれ憎悪であれ、あなた自身の純粋な思いで戦っているということなのだから、それを否定することは私にはできそうにないね。ただ、どんなに志が立派でも、ポメラニアンがドーベルマンに挑むのを褒め称えることはできないという、そういう話。わかるでしょう」

「……私だって自分がポメラニアンだったらドーベルマンには逆らわないよ。でも、許せないことがあるのなら、ポメラニアンだって自分の牙を磨くよ、爪を研ぐよ。違う?」

「それはね、お話なら褒められる。いい教訓だってね。でも現実は違う。ドーベルマンに噛み殺されたら、それでもう終わりなんだよ。だから自分を大切にしなさいよ。そう思うのなら身をわきまえて」

「自分を大切にするのと、許せないことを許して生きるのとは違うと思う。あなたが想像してるドーベルマンがどんな怪物犬なのかはしらないけど、たとえ私が私の膝までの高さもないようなポメラニアンだったとしても、爪に毒を塗って、猛毒を飲み込んでから戦いに挑むくらいのことはするよ! それが生きるってことじゃないの?」

 キリコの言葉に、『カゲロウ』は肩をすくめた。そして笑った。笑う以外にこの表情が変化することはあるのだろうか。

「ご立派」

 拍手をする。キリコは眉を寄せて、額の汗をリストカバーで拭った。

「それだけ言えるのなら、すごいもんだと思う。それに今のあなたが私に勝てるとは思えないのに、走ってここまで追ってきたことは賞賛に値するよ。すごいっ、流石にきり……」

 言いかけて、思わず『カゲロウ』は咳払いをした。明らかに「霧亜の妹だ」と言いかけていた。

「山内さん流石だよ。でもね、私だって自分の意見を曲げようなんて思わないからね。それに、憎悪だけで戦っているのなら必ず限界がくるよ。間違っているとは思わないけど。『どうして戦っているのか』ちゃんと理由を見つけてね」

「……あなた、味方なの?」

 キリコが言う。『カゲロウ』は答えなかった。

「味方かどうかなんて、どうでもいいよ。でも、一つだけ忠告してあげる。明日学校には行かないほうがいいよ。これは私からの忠告というより警告。行ったら、死ぬよ。辻井くんにも言ったけどね」

「どういうこと……、何が起こるって?」

「辻井くんに言ったよ。彼から聞いて。それじゃ、私はもう帰るね。システマーが心配してるといけないから」

 『カゲロウ』はそう言うと、ぼくの耳に顔を寄せてきた。何をするのか、と思ったが小さく何か言ってきた。

「いい子だね、山内さん。お似合いだよ」

 何か重大なことかと思ったが、非常にどうでもいい言葉だった。ぼくはそう言い返した。するとまた言葉が返ってくる。

「私にもチャンスが欲しいよ……」

「何のことだい」

「またね」

 丁度キリコがぼくたちの会話を不審がってこちらに歩んでくるところだった。まさしく彼女の眼前で、『カゲロウ』がぼくの頬に軽くキスをした。鳥のような優しい感触だった。

 あっけにとられるぼくを尻目に、『カゲロウ』はすっと身を引いていく。キリコもあまりのことに固まっていた。ある程度距離をとったところで再びぱっと笑みを見せ、

「それじゃ」

 と一言残し、『カゲロウ』は飛び去っていった。


 翌日、キリコは学校へ出かけていった。

 当然、ぼくは『カゲロウ』に言われたことを散々に説明してある。にもかかわらず、彼女はぼくの制止を振り切って出かけてしまったのだ。理由はいくつかあるが、ここに残っていて学校の連中が死んでしまったりしたら気分が悪いというのが最大のものであるようだ。出かけていてもやはり死ぬ可能性はあるし、目の前で死んでしまうのをとめられないということもありうる。だが、それでも何もしないでいるよりは、ということで出かけたのだろう。

 ぼくはそれを止める手立てをもたなかった。このようなときに限って、頼りのメタルスーツは修理中なのだ。

 くそ!

 ぼくは憤慨した。どうにもならない。『カゲロウ』が嘘を吐いていることを祈るしかない。

 今日よ、何事もなく過ぎ去ってくれと祈るばかりなのだ。無力。

 夜通しでただ、メタルスーツの修理にあたった。修理を急いで、使えるようにしなければならない。ぼくにできるだけの速度で急いだ。しかし、まだ使えない。

 もう授業が始まった頃だ。しかし、まだ動かない。ぼくは涙目になっていた。完成させて、早く、早くキリコの元に届けなければならない! システマーも相手にするのが辛いという死神が、学校を襲うのだ。正直このメタルスーツでも戦えるかどうかというところだが、それでも生身のままのキリコでは到底、太刀打ちできないに決まっている。

「影子……」

 ぼくはふっ、と呟いていた。システマーと『カゲロウ』、あの二人が来てくれれば何とかなるのではないか。そう思ったからかもしれない。何の気負いもなく、ぼくのことが好きだと言ってくれた『カゲロウ』、水口影子。あの子がシステマーを連れて学校を護ってくれるということを期待する。

 いや、そのような不確定を期待してどうなるというのだろうか。システマーは忙しいと言っていたではないか。それにあの天才は敗北が確実なところに顔を出すだろうか。それでもぼくは期待を捨てきれない。自分のほうが限界に来ていたから、だろうか。

 おおよそ修理が終ったのは正午を過ぎたあたりだっただろうか。ぼくは一心不乱に作業を続けていたので、何も気付かなかった。修理の終ったメタルスーツを台車に乗せて、車に積まなければならない。パーツの一つ一つが重かったが、ぼくはなんとか台車に乗せていく。

 そのとき扉が開いたことに気がついて、ぼくは顔を上げた。

 振り返ると、両腕に血のついたキリコが立っていた。

「……修理、できた?」

 怖いくらいに落ち着いた声で、彼女はぼくにそう言う。ぼくは頷いたが、何があったのか、とは訊けなかった。訊いてはいけない気がした。テレビでも見ればすぐにわかるだろう。何が起こったのかは。

「みんな殺されたんだ……、護れなかった……」

 ぼくとしてはキリコが生きてここに戻ってきてくれたことが奇跡に等しく思える。電源を入れたテレビからは、臨時ニュースが流れてきている。

『月並高校を襲った襲撃者は、校庭で体育の授業をしていた生徒達を襲い、また校舎の中へも入り込み、授業をしていた生徒達をも襲いました』

 どうやらすでに危険な襲撃者は去ったらしく、リポーターは他の大勢の報道陣と共に校舎をカメラにとらえようとし、警察に妨害されている。ちらりと見えた校舎は激しく傷つき、赤い液体がところどころに見えていた。

 予想以上の出来事が起こったらしい。

 つまり、間に合わなかった。間に合わなかったのだ。キリコが無事でいてくれたことだけが救いだ。

「みんなは?」

 ぼくはあえて訊ねた。キリコはゆっくりと歩んで、ベッドに腰掛けた。

「草本先生も、死んじゃったよ。クラスみんな、死んだよ」

「君が助かったのはどうして?」

「……それ言うと、軽蔑されるかもしれないけど。怖くなって……なんだかぞっとした感じがして。それでなんだかお腹痛くなってさ、トイレ行ってた。それで助かったんだけど…………」

「ああ、なるほど」

 ぼくはできるだけ冷静にそう答えた。「みんな死んだ」というキリコの言葉に、恐怖を覚ええた。学校に行っていればぼくも死んでいたのだ。あの日ぼくにキリコと一緒に帰れ、と言った担任の草本先生も、キリコの他愛ない愚痴に付き合っていたあの付き合いのいい女の子も、みんな死んでしまったというのか。

「もっと怖かったのは、私……動けなかったことだよ。どうしてだろう。なんとかしようと思っていたのに。こういう事態になるだろうから、学校に行ったのに。動けなかった」

「当たり前だと思うよ」

「そうじゃなくって……」

 キリコは両手で顔を覆った。

「私、みんなを助けなくっちゃいけなかったのに。助けられたかもしれないのに!」

「いや、無理だったと思う……。どうすればよかったのかもなんて、わからない」

 システマーや『カゲロウ』も恐らくかなわないと思ったから、月並高校を救わなかったのだ。何をすればよかったのか、どうすればみんなを救えたのか、ぼくにもわからない。だが、キリコは無力感に苛まれている。

 そのとき、ぼくの携帯電話が鳴った。ぼくはすぐにそれをとった。

「……はい」

『はろ、はろー』

 間違いなくこの人は病気だろう、と思った。能天気な挨拶をしてくるのは、『カゲロウ』だ。

「どうしてそんなに元気にしていられる? ニュースを見てないのか!」

 ぼくは声を荒げた。キリコが見ていて痛ましいほど落ち込んでいるのに、『カゲロウ』は平然としているのだ。いまやあのクラスで生き残っているのは、ぼくとキリコ、それに『カゲロウ』の三人だけになったというのに。

『どうかな、これでも結構傷心モードなんだよ。それより、山内さんは逃げられた? 大丈夫だったかな?』

「どういうことだい」

『これでも友達思いだからね、気をまわしたんだよ。ギリギリまで残って、様子を見てたんだから』

「現場にいたのか! なら、どうして止めようとしなかったんだい!」

 ぼくは叫んでいた。『カゲロウ』が月並高校にいたというのなら、『死神』とも接触できたことになる。今ニュースでやっているような悲劇を、どうして回避してくれなかったのか。

『無理だからだよ、辻井くん。アマチュアのボクサーがプロレスラーに挑んで勝てると思ってるの? 私だって知り合いが殺されるの見てて気分がいいとはいえないよ。でも、私に出来ることはしたよ。辻井くんが悲しむといけないから、山内さんだけでも救ったよ』

「君が、キリコを? どうやって」

 ぼくはキリコを見た。彼女はカバンの中から水筒を取り出して、お茶を飲もうとしている。気分を落ち着けようとしているようだ。

『水筒の中に下剤を入れたの。なんとかタイミングばっちりだったけど』

 ぼくは急いでキリコから水筒を取り上げた。キリコはお茶を取り上げられたが、ぼくの行動に不思議そうな目を向けただけだった。怒る気力もないのだろう。

「……それは、どうもありがとう。って言っていいのかわからないけど」

『もっとほめてもいいよ。ただ、こっちも傷ついてるよ。傷心中。だから、このくらいで電話は切るね。これから泣くから」

「わかった……ありがとう」

 ぼくはそう言って通話を切った。水筒の中身を流しに捨てて、ぼくはお茶を入れる。

 しかし、そこでまた携帯電話が鳴った。

 今度は誰からだろうか、と思いながらとった。見覚えのない番号だった。少なくとも父親がぼくを心配して電話をかけてきた、ということではないらしい。

「もしもし」

『六郎くん、よく聞いて』

 この声は、システマーだ。どうせ何もかもを知っているのだろう。

「システマーですね」

『そう。大体事情は知ってる。キリコは無事だって言ってたけど、そこにいるの?』

「ええ、無事です。ここにいます」

『怪我してない?』

「大丈夫です。少し落ち込んでいるように見えますが、外傷はないと思います」

『そう……』

 システマーは安堵の息をついたらしい。ぼくは彼女の言葉を待った。

『私、学校を襲った奴を知っているの。今から、彼に挑むつもりよ』

「本気ですか」

 ぼくは耳を疑った。『カゲロウ』がシステマーでもきついと言った相手なのだ。それなのに、システマーは挑むという。

『彼、やりすぎたわね。さすがの私もちょっと怒ってる』

「あなたなら、この悲劇を止められたのでは?」

『……できたかもしれない』

 システマーはそれを認めた。だが、ぼくは責めようとは思わなかった。ぼくもまた、止められたかもしれない人間だからだ。情報を知っていたのだから、何とかできたかもしれない。そう思い始めるときりがない。

『けど、もうその話はやめて。悔やんでも仕方ない。死んだ人たちには本当に申し訳ないけれども、今生きている私たちは未来のことだけを考えなくちゃ。これ以上彼の被害を増やさないためにも、私、彼を討つ』

「大丈夫なのですか。『カゲロウ』はどう言っているのです。彼女はあなたでも相手をするのがつらいと言っていました」

『影子には相談してない。あの子には反対されるでしょうし。この際だからはっきり言うけど、私死ぬ覚悟だよ』

「……止めても無駄ですね?」

 ぼくは訊いた。

 天才であるシステマーでも、弱気になるのかもしれない。本当は止めて欲しかったのかもしれない。だが、ぼくはシステマーの口調から決意を汲み取っていた。

『無駄よ』

 即答だった。すっぱりと彼女は言い切ってしまう。

『私のバリアフレームも多少は強化しているし、ただやられるつもりもないけどね。敵の名前は“バイオウィンガー”。あなたや私と違って完全に有機物だけで改造されている戦士。影子に近いけど、桁違いの化け物よ。もし私が倒されたら、あなたたちに任せることになるけど、十分に気をつけて』

「そうならないように祈っています」

 ぼくはそう言った。そしてふと思い立ち、こう訊ねた。

「キリコと話しませんか」

『必要ないけど。あの子はもう、私の手から離れてる。それに声を聞いたら、行けなくなる』

「そうですか」

 それからシステマーは自分がいなくなったあとのことを二つ三つほどぼくに告げて、あとはテレビでも見て応援していてと言い残し、通話を終了してしまった。

 胸から何か重要な臓器が抜け落ちたような感覚が続く。ぼくは努めて無表情を保ちながら、テレビに目を向けた。

 これから何が起こるのか、考えたくなかったが、見なければならない。


「システマーが、学校を襲ってきた奴に挑むそうだ……」

 ぼくはキリコにそう言いながら、お茶を渡した。両手でそれを受け取ったキリコは、「そう」と小さく呟く。

「手伝いに行く?」

「…………場所がわかるなら」

 キリコは立ち上がった。ぬるいお茶を一気に飲み干し、ぼくにコップを押し返してくる。

「いや、場所はわからないが……ひとまず学校まで行ってみよう。システマーはテレビでも見て応援してくれと言っていた。今すぐにテレビで中継がされそうな場所は、学校くらいしかない」

「じゃあ、早く行かないと。システマーはあいつに勝てないんだよね?」

「キリコ、君も死ぬかもしれないぞ」

 ぼくはそう言って、彼女の両腕を見た。クラスメートの身体に触れたのか、その袖は血に濡れている。

「でも、何もしないで見ているなんてできない。六郎! みんな死んだのに、私が生きてることがもうおかしいんだよ」

「死ぬ気なら、出るなよ。それこそ無駄死にになる」

「なんで!」

 キリコがぼくの肩をつかんだ。焦っているのだろうか。ぼくはポケットからメモ帳を取り出し、キリコに見せた。

「これ、システマーがぼくにくれた。彼女の手帳だ。ここにある技術をメタルスーツに投入すればそれなりの強化ができる。それが完成するのを待ってからでも、遅くはないと思うけど」

「じゃあ、それまであいつが暴れまわっているのを、指をくわえてみていろっていうわけ」

「確実に勝つんだ、キリコ。あいつが憎たらしいのはぼくだって同じだ。けど、負ける戦いに挑むんじゃない」

 ぼくは別に、キリコが今手伝いに行くことを止めようとは思っていない。少しでも戦力があるほうがいい。『カゲロウ』にも助力を頼むつもりでいるし、キリコも手伝わせることに異論はない。

 しかし、ここでキリコが死んだら終わりだ。『カゲロウ』は戦いたくないと言っているし、あの姿はあれ以上強くなりようがない。その点メタルスーツは新たな技術と創意工夫でどんどんとグレードアップさせることができる。グレイダーは成長できるのだ。だがそれを着るキリコが死んでしまったのでは、おしまいだ。ぼくが着ることにはなるだろうが、彼女ほど使いこなせないだろう。

「君は、システマーが負けることがあっても生き残らなくちゃいけない。それを、忘れるなよ」

「……わかってる」

 キリコは少し考えてから、頷いた。彼女も決して、頭が悪いわけではない。

 ぼくも頷きを返し、彼女を促した。おおよそ、メタルスーツを台車に乗せる作業は終っている。これを車に運んで、学校へ行かなければならない。

 その前に、することが一つだけある。ぼくは携帯電話を取り出し、『カゲロウ』へ電話をかけた。


 ぼくの運転する車はすぐに学校へと着いた。何かを待ち構えている報道陣が未だに正門の前に詰め掛けていて、中には入れそうにない。それ以上に警察が周囲をウロウロしていて、学校付近への駐車をさせまいとしている。ぼくは報道陣とは何の関係もないのだが、ここはあきらめたほうがよさそうだ。

 最も近くにある広めの道路に路上駐車し、ぼくとキリコはカーテレビに注目する。情報が入ればすぐにそこに向かう、近ければメタルスーツの飛行ユニットで飛んで行ってもいい。システマーからもたらされた新技術の投入はとりあえず見送ったが、飛行時間は二十分から三十分に延長されている。そして、ショットガンも完成している。今回のグレードアップはそれだけだが、グレイダーは成長していく。ひきかえ、敵の『誘いに乗った』連中はすでに完成してしまっている強さだから、それ以上に強さがあがることはない。生物的に成長し、鍛えることはできるだろうが、改造で大きく能力のあがるグレイダーの成長値を上回ることはありえないだろう。

 ぼくはこのメタルスーツという兵器が今、彼らに対抗するという用途においては最強の兵器だと思っている。システマーの着ているバリアフレームには負けるかもしれないが、そのシステマーも今は味方だ。二人で協力すれば、勝てると思いたい。さらに不確定ではあるが『カゲロウ』も応援に来てくれるはずなのだ。うまくいけば、『バイオウィンガー』と名乗っているらしい最悪の敵も、この場で亡き者にできるだろう。

 『カゲロウ』については、電話をしてシステマーが挑むらしいと言ったところから会話がおかしくなってしまった。どうやら半狂乱になって取り乱しているようだったが、それゆえにこちらの話したことがしっかり伝わったかはかなりあやしい。『カゲロウ』にとってはそれほど、システマーが大切な存在なのであろう。しかし、大切な存在を護ろうと思うのであれば、彼女もきっと応援に来てくれるはずだ。

 同時にラジオもつけた。こちらは携帯型の小さなラジオで、ぼくがイヤホンで聞くことにする。テレビのほうは音声などなくても大体何が報道されているのかわかる。音声はラジオに任せよう。

「来ると思う? 間に合うと思う?」

 助手席に座っているキリコが訊ねてきた。ぼくは首を振ってこたえた。『カゲロウ』も来ない、決戦に間に合わない、と言っているわけではない。わからないのだ。

「それでもさ、こうして待っているだけっていうのは……。焦れるんだよ」

 キリコは腕を組んでいるが、指が腕に食い込むほどに力を込めている。確かに焦る気持ちは分かるのだが、ここはもう黙って待つより仕方がない。あるいは、『カゲロウ』から連絡が入る可能性もあるのだ。何よりどこで決戦が行われるのかわからなくては仕方がない。

 ぼくはそう言って落ち着くように促したが、彼女はそれくらいで落ち着いてくれるような性格ではない。ますます焦れて顔をゆがめて苛立たしげにテレビを見つめるキリコがかわいそうに思える。彼女はクラスメートたちを殺され、その死体をも先ほど見たばかりなのだ。信じたくなくても、信じなくてはならない友人達の死と、それを殺したものの存在。これらはどうにかなってしまってもおかしくないほど、彼女の精神に負担を強いているだろう。

 言うまでもないことだが、彼女にとってのクラスメートというのは、ぼくにとってもクラスメートである。ぼくがこのように彼女よりも冷静に落ち着いていられるのは、ただその死を実感していないからである。極力ぼくはクラスメートの顔を思い出さないようにしており、今そのことを考えないようにしているだけだ。逃避しているに過ぎないが、今はそのような問題と向き合っている暇がない。ぼくには他にすべきことがある。

 思考に沈んでいると、運転席の窓が叩かれた。駐車違反の取り締まりかと思ったが、違うようだ。

 ぼくはパワーウィンドウを開けた。そこからのぞいてきたのは誰かと思ったが、昨日も見た顔だった。ぼくよりも早く、助手席にいるキリコが声をあげた。

「あっ……、水口さん」

 確かにこの子は水口影子。『カゲロウ』だ。

 彼女は心底に焦った顔で、ぼくの目を覗き込んでいた。

「やっと見つけた! ねぇ、き……」

 そう言おうとして、彼女はすぐにキリコがいることに気がついた。そして言葉を言い換える。

「し、システマーの居場所を知らない?」

 霧亜と呼びたいのだろうが、キリコにそれを知られるわけにはいかないのだろう。とりあえず、質問に答える。

「わからない。ただ、テレビで応援していてくれと言っていたから、今カーテレビでチェックしているところだ。中継が入ったら即座にそこへ行くつもりで」

「そう……」

 『カゲロウ』は一息つくと、ドアを開いてぼくの車の後部座席に座り込んできた。

「君もここで待とうっていうのか?」

「そのつもりだよ。システマーが一人であんな化け物に挑んだって言うのに、私がのんきに指をくわえて見ていられますかって。辻井くん、何かわかったらすぐ言ってよ!」

 少し苛立っているような口調で『カゲロウ』がそう言い捨てる。焦っているのは誰しも同じらしい。僕自身でさえも全く冷静でいるかと言われるとハイとは答えられない。

 ぼくの車の中は異様な空気になっている。誰一人無駄口をたたかず、じっと待っている。ぼくも耳と目を集中し、一秒でも早くシステマーの居所をつかもうと必死になっていた。

 不意に、外が騒がしくなった。ぼくは慌てて車を動かそうとする。

 騒いでいるのは学校の正門前に待機していた報道陣だろう。何か動きがあったのか。しかし、こんなときに限ってエンジンがかからない。カーテレビは別電源で動かしているが、キーをひねってもエンジンに火が入らない!

 ぼくは苛立ち、ドアを開けて飛び出した。瞬間、襟首の辺りを掴まれて、引き戻される。

「待って!」

 キリコだった。『カゲロウ』もドアを開けて外に出てくる。

「あれ!」

 彼女は空を指差した。その先を目で追うと、空に何か浮いている。人間のかたちをしたものだ。あれは、システマーか、バイオウィンガーか。

「六郎、手伝って! スーツを着なきゃ」

「わかってる」

 トランクを開けて、メタルスーツを取り出しているキリコ。報道陣からは車は死角になるし、見えたとしても空に気を取られていて、ぼくたちには気付かないだろう。ぼくは彼女がスーツを着込むのを手伝う必要がある。

「私は先に行くよ、すぐ追ってきて」

 『カゲロウ』が偽装を解いて空へ飛び上がった。一直線に空に浮かぶ人へと接近していく。

「くっ、先に着ておけばよかった」

「それは目立つから、やめておいて正解だった。今はとにかく急げ!」

 もはやキリコにこれを着せる作業も慣れてきつつあるが、とにかく二人がかりでメタルスーツを着込ませる。準備ができたと同時にキリコは飛行ユニットに火を入れた。

「じゃあ行ってくる」

「死なないでくれよ」

 ぼくの言葉が聞こえたのかどうか、キリコもたちどころに空に舞い上がり、空に浮かぶ人へと近づいていく。

 ぼくは一度車へと戻り、ダッシュボードを開けた。中からインカムを取り出して装着する。すぐに何か言い争う声が聞こえてくる。

『バイオウィンガー! システマーをどうしたの!』

 この声は『カゲロウ』のものだ。

『システマーは撃墜したよ、あっけなかった。やっぱり機械に頼っちゃだめだね。前からそう言っていたのに、あの子は言うことを聞かないから……』

 答えるように聞こえてきた声は、男のものだった。無理に胸から声をだしているような、不自然な高さがある。

『システマーを撃墜したぁ?』

『聞こえなかった?』

 ぼくは車から降りて空を見上げた。オペラグラスを取り出してみると、『カゲロウ』と言い争う緑色の体表を持った人間型の姿、その背後にキリコが見える。

 突然、『カゲロウ』がバイオウィンガーらしきものに飛び掛った。なるほどウィンガーというだけあって、緑色の体表の姿からは皮膜の翼が伸びているようにみえる。まるでコウモリだ。しかし、コウモリと違う点はその翼が腕ではなく、背中から伸びているという点だ。これにより、飛びながら両腕が使えるのだろう。

『嘘だ!』

 二人は激しく争っているようだ。

 『カゲロウ』が必死になって打ちかかり、ウィンガーがそれを防御している。ここぞとばかり、キリコもそこへ飛びかかっていく。いい判断だとぼくは思う。

『山内さん!』

 『カゲロウ』は手出しをされたくないのか、そんな声をあげる。しかし、一対一では分が悪い。

 ブレードを引き抜き、敵の背中から打ち込むキリコ。卑怯ではあるが、そのようなことは言っていられない。何よりも、彼は憎き敵なのだ。

 しかしウィンガーはさっと振り向き、右手でキリコのブレードを止めた。同時に左手で『カゲロウ』を殴り飛ばしながら。

『斬れない!?』

 瞬間的に、キリコは下がった。敵の外骨格にブレードが通用しないのだ。確かに以前の特殊加工したブレードは折れたので、今はただ肉厚なだけの刃になっているが、それでも傷つかないとは。

『あまーい、あまいね! このバイオウインガーの身体を甘く見てもらっちゃあ困るね! 言っておくけど貫通弾でもない限り、銃弾だって弾く自信があるよ』

『試して欲しいんだね?』

 ブレードを仕舞い、キリコは背中に手を回した。『カノン』を使うつもりか。確かに『カノン』は貫通力を重視した設計になっている。それならウィンガーの外骨格もつらぬけるかもしれない。

『余所見してるんじゃないよ!』

 瞬間、『カゲロウ』が戻ってきてウィンガーに組み付いた。うまい手だ。彼の動きを封じておいて、そこにキリコが『カノン』を撃ち込めば勝機はある。ぼくは叫ぶように指示を出した。

「キリコ、今だ撃てッ!」

『言われなくても!』

 大急ぎで背中から『カノン』を引っ張り出す。狙いをつけて、トリガーを引き込むまで数秒もかかるまい。

 しかし、ウィンガーはその数秒の間に『カゲロウ』をはね飛ばした。背中の羽の動きだけで張り飛ばしたようなものだ。信じられないほどの筋力。『カゲロウ』とて、決して弱い部類に入る改造戦士ではないはずなのに。

「くそ……キリコ、何とかして奴の動きを止めないといかんぞ。『カノン』以外の武器では奴を貫けん」

『そんなこと簡単に言わないでよ……わかってるんだから』

 キリコは『カノン』を構えたまま、ウィンガーと向き合っている。『カゲロウ』は相手にもされなくなり、無視をくらっていた。そこが逆に狙い目でもあるが、キリコから働きかけては無意味になる。

『そろそろ本気出そうかな』

 ウィンガーが両腕を開いた。その先には長く伸びた爪がある。まるでカマキリのカマのような形であるが、違う点がある。カマキリのものは獲物をとらえるために逃がさぬよう、ギザギザがついているが、それがない。そして何より、異常に肉厚で鈍く輝いている。

「来るぞ……」

 ぼくは少し怖かった。あれは恐らく、ブレードとコンセプトが同じ武器だ。鋭利な刃を持つのではなく、重量と力で叩き切ることを目的にされた刃だ。しかも、それを操るのは羽だけで『カゲロウ』を張り飛ばすほどの筋力を持ったウィンガーである。

 ウィンガーは不意に、少しだけ高度をあげた。

『来る!』

 キリコはそれに反応した。よく動けたと思う。左手に『カノン』を持ちかえて、右手で素早くブレードを抜いてきた。身体の前にそれを持って、防御に使う。同時に、ウィンガーは滑空するようにキリコに向かって突進してきたのだ。

 ウィンガーはカマを振るった。勢いをつけた鋭い振りだ。

 がん、と何かがはね飛ばされるような音が響いて、キリコが吹っ飛ぶ。縦に回転しながらその場から吹き飛ばされていく。

「キ……」

 ぼくは言葉を飲んだ。生きているのかと言いかけたが、グレイダーはその瞬間に足の裏からの噴射を利用し、姿勢を立て直す。同時に何か構えた。『カノン』ではない。ショットガンだ。キリコは素早く狙いをつけ、トリガーを引いた。

 ショットガンはウィンガーに当たったらしく、キリコに追撃をかけようとしていた彼は少しひるむ。

『てぇっ!』

 そこへ、何かが落下してきてウィンガーの頭頂部に直撃した。これは散々無視されて機嫌の悪い『カゲロウ』であるらしい。高い位置へまわっておき、チャンスが来るのを待っていたのだろう。

 さすがにこの不意打ちは効いたらしく、ウィンガーは真下に向かって落っこちていく。彼らの真下にあるのは何だったのか、と見ればぼくの母校だ。ウィンガーは体育館に激突し、激しく埃を巻き上げた。屋根を突き破ったかもしれない。

『まずいっ……体育館にはみんながいるんだよ!』

 大慌てでキリコが体育館へ向かう。ほとんど落っこちるようにして飛び、巻き上げられた埃の中へ進んでいく。どうやらこの騒ぎによって、大勢の生徒が体育館に一時待機をさせられていたらしい。大変なことだ。

「キリコ、あいつを誘い出さなくては! 中で戦うとそれこそ被害が大きくなる!」

『わかってるよ! わかってる!』

 焦った声で応じ、キリコは体育館の屋根にとりついた。ウィンガーは激しく屋根に叩きつけられたが、あれくらいで死ぬとは思えない。

 そのとき、何か赤いものが散ったのが見えた。

 ぼくはそれが何なのか考えたくなかった。体育館の屋根の上で、何かがはじけた。

『あ……』

 キリコの呻くような声が聞こえた。巻き上がった埃が沈んで、ようやくそれが見えるようになった頃、やっと『カゲロウ』が追いついてきた。

『どう? 思い知った?』

 ウィンガーの声が聞こえてくる。まだヘルメットは破壊されていないらしい。

『ばかっ、思い知らないよ。正義は勝つんだから』

 気丈なキリコの声も聞こえてくる。どうやら、まだ生きていたらしい。ぼくは安堵したが、ウィンガーを排除しなければ真に安心はできない。

 ウィンガーの一撃をキリコが食らったように見えたが、飛び散ったのは血ではなくて関節部に使っているオイルだったらしい。どこが壊れたのかはわからないが、メタルスーツならいくらでも修理できる。しかし、キリコが怪我をしてしまったら元に戻らない可能性もあるのだ。

『じゃあ、この爪の露と消えるのかな』

『それはあんただ!』

 どこからか気の強い声が聞こえてきた。ウィンガーもキリコも『カゲロウ』も、その声に空を見上げた。ぼくもつられて彼らの上を見たが、そこにはシステマーがいた。

 いつか『カゲロウ』を狙撃したものと同じ、バズーカ砲のようなものを抱えているではないか。そう思う間もなく、そいつは火を噴く。

 ぱっ、と体育館の屋根が輝き、直後、爆炎が吹き上がった。

「何を考えてる、中にいる人間のことは知らぬと言うのか」

 ぼくは焦ってそう言ったが、爆発からはじき出されるようにウィンガーが飛び上がる。いや、飛び上がったのではなくて爆風に吹き飛ばされたのかもしれない。

 それを見逃さず、誰かが彼に飛び掛った。キリコだ!

『ハードストライクカノン!』

 『カノン』を抜き放ち、その砲身でつらぬくようにウィンガーをとらえる。吹き飛んだウィンガーの身体の上に乗り、地面に向かって砲身を突き込んでいる。

『グランドフレイム!』

 キリコがトリガーを引き込む。『カノン』は設計されたとおり、火を噴いた。空中でゼロ距離からの射撃。これはいかにウィンガーが素早くともかわせるはずがない。

 体育館からはずれ、弾丸を叩き込まれたウィンガーの身体は斜め下に吹っ飛んでいく。たちまちグラウンドの端に突き刺さり、土煙を吹き上げる。キリコはそれを追うように、着弾点の近くに降りたつ。彼女はまだ『カノン』を仕舞いこまない。

『ははは……、なかなか、やるね』

 ウィンガーの声が聞こえた。あれを食らってまだ意識があるのか、とぼくが驚嘆する間もなく、キリコが『カノン』を撃った。今度はゼロ距離ではないが、衝撃を殺すものは何もない。倒れた状態で弾丸を打ち込まれたのだから、避けることもできないはずだ。

 体育館の屋根から、『カゲロウ』とシステマーも下りてくる。よく見るとシステマーはあちこちを損傷しており、右肩からはひどく出血しているのが見えた。

 報道陣はカメラを彼らに向けている。この距離はまずい! 近すぎる。キリコの顔が割れる可能性があった。今、メタルスーツのメットはバイザーが半分割れているのだ。

 だが、そのようなことを言っている場合でもない。今はウィンガーが始末されたかどうかを確かめなければならない。

『わははは! あまいよ!』

 何が起きたのかわからなかった。

 そんな声が聞こえた瞬間、並んでいた三人のうち、システマーだけが消えてしまった。

「何が起こった!?」

『上だよ!』

 ぼくの疑問にキリコが答える。その言葉に体育館の屋根を見ると、システマーを抱きかかえたウィンガーがいた。

『こいつはもらっていくよ。あんたら二人は、あとのお楽しみにしておいてやるから、精々楽しませてくれよ』

 ウィンガーはそう言ってけらけらと笑う。まるきり、悪役のセリフだ。しかし、システマーをさらってどうしようというのだ! いや、それよりも彼女がもし殺されてしまったら、今度こそキリコは姉をうしなうことになる!

『そんなこと……』

 キリコよりも早く、『カゲロウ』が飛び上がってウィンガーに攻撃をしかけた。しかし、ウィンガーは抱えていたシステマーを盾にするように彼女に突きつける。

 なんて卑怯な、と思う間もなく、動きを止めてしまった『カゲロウ』はあっさりとウィンガーの爪に薙ぎ払われた。

 ウィンガーの腹部には穴が開いている。人間の拳くらいの大きさはありそうな穴だ。完全に貫通している。にもかかわらず、平然と彼は動いている。どういう構造になっているのか、わからない。今わかることは、『カノン』の一撃は彼の外骨格を貫通はしたが、大してダメージは与えられていないということだけだ。

『死に急がないでほしいな……またねぇ、お二人さん……』

 ウィンガーはそのままふわりと羽を広げて空に浮き、くるりと振り返って飛び去ってしまった。キリコはそれを追わない。ウィンガーに薙ぎ払われた『カゲロウ』を抱いている。

「……キリコ、大丈夫か?」

 ぼくは声をかけてみる。体育館の中からも、正門の外にいる報道陣からも、今彼女は注目を浴びているはずだ。早く身を隠してしまわなければ何を言われるかわからない。

『あいつ……、あいつがみんなを殺したんだ。六郎、今ここであいつを倒せなかったのは、失敗だよ……』

 そう言ってうつむいてしまったキリコは、しばらく動かない。インカムのボリュームを上げてみると、「みんなごめん」と彼女がしきりに呟いているのが聞こえたが、聞いてよいものではないと判断し、元通りにしておいた。

「キリコ、報道陣が詰め掛けている。そこから離れたほうがいい。真っ直ぐここに戻ってこないで、一先ずどこかにかくれて、やり過ごしてから戻ってきてくれ」

『わかってるよ』

 気丈にも、そう答えたキリコの声は少し不機嫌そうなだけの、いつもの声であった。

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