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4・決裂

 警察は被害者の救助を最優先にしているものの、ぼくのことを見ていないとは思えない。となればキリコやシステマーと会話をし、彼らに武器さえ向けたぼくはこの事件の重要参考人である。警察につかまると色々と面倒なことになるのは目に見えている。ここは逃げの一手しかないだろう。

 しかしここは雑居ビルの最上階。階下にはたくさんの警察官がいる。何も考えずにここを降りていけば見事につかまる。それではキリコの救助が遅れるだろう。警察など相手にしている暇はない。ぼくはサングラスのフレームに触れた。あの重いメタルスーツだが、盗難されたときのために発信機を埋め込んである。このサングラスはその電波を読み取り、メタルスーツの現在地を知らせるものだ。左側のレンズにメタルスーツと自分の現在地が浮かび上がった。

 どうやらキリコはここから三百メートルもいかないところにいるらしい。生死まではわからないが、とにかくそこにいかなくてはならない。車は人の来そうにない裏通りに置いてあるが、下には警察が待ち受けている。彼らを回避するために、まず策を練る必要があった。ぼくは雑居ビルを見回し、奥へと逃げる。フロアの奥には一つ窓があった。ぼくはそこを開け、下を見た。三階だからおおよそ六メートルほどの高さがある。さすがにビルの裏側にまでは警官もいない。ここを降りれば安全だろう。車まではすぐだ。

 キリコのことを考えれば、迷っている場合ではない。だが三階だ。ひょいと飛び降りて綺麗に着地するというわけにもいかないだろう。運動神経抜群のキリコなら軽々と飛ぶかもしれないがぼくは生憎インドア派である。しかしここでぐずぐずしているわけにもいかない。ぼくは窓から身を乗り出し、地面を見た。六メートルという数字以上に高く見えるが、急ぐ必要がある。意を決して、山積みになっているゴミ袋めがけて飛び降りた。足の先が空気を切り裂く感覚、浮遊感に身が縮まる思いがした。

 ゴミの中にぼくの身体は落っこちる。さほど衝撃はなかった。顔を上げるとひどいにおいがする。ゴミ袋の中は幸いにして生ゴミのようなやわらかいものばかりだったらしく、ぼくの身体に故障はない。ぼくは起きだし、すぐさま自分の車に向かって走り出した。

 警察はうまく撒けたか、そんな確認もしない。余裕がない。ぼくは大急ぎでエンジンを始動させ、サングラスが示すところへ車を飛ばした。

 キリコの悪運に期待する。生きていてくれとぼくは願った。生きていさえすればなんだってできる。命あっての物種だ。

 発信機によると、山の中だ。市街地の中に放り出されるように盛り上がった山。そこは開発もされておらず、木々の生い茂るままに放置されている。ひとまず、民家に突っ込んだりしていなくて助かった。そうなれば確実に大騒ぎになっており、グレイダーがキリコであるということがばれてしまっていただろう。いや、そのようなことよりもまず、キリコの安否だ。はやく彼女が生きているか確認しなければならない。

 ぼくは焦っていた。山道の中に車を停め、キリコを探して藪の中へと入っていった。

 車のトランクから毛布を持ち出し、抱えている。サングラスに示される発信機の位置へ、ぼくは歩んでいく。ほどなく山の急斜面、落ち葉の溜まったところにキリコが倒れているのが目に入った。

 僥倖だ。かなり地面がやわらかい。落ち葉のおかげである。

 ぼくはキリコのところへたどり着くまでに何度も足をとられて転んだが、そのようなことは気にならない。この地面のやわらかさはクッションになりうる。しかも上には枝の出た落葉樹がたくさんある。キリコが生きている可能性は高い。

 キリコは落ち葉の中に半分埋もれかかっていた。

 壊れたバイザーの隙間から、血が流れているのが見えた。ぼくはまずキリコの上体を起こさせ、半壊したヘルメットをとった。それから彼女の首筋に手をあて、脈があるか確かめる。どうやら彼女の心臓はまだ動いており、自発呼吸もしているようだった。頑健だ、とぼくは思った。しかしキリコに意識はないようだった。ぼくは何度か彼女の頬を叩いたが、全く目が覚めそうにない。

 メタルスーツが重いので、このまま彼女を抱えて車に運ぶことはできない。脱がすしかなかった。脱がしたスーツはそのまま山の中に置いておき、あとで回収する。まずはキリコというかけがえのない命を救わねばならない。

 スーツを脱がし終わると、茶色のブレザーを着たいつものままのキリコがあらわれる。メタルスーツを脱がすときに不可抗力でキリコの体のあちこちを触ってしまったわけだが、骨はどこも折れている様子がなかった。骨折もせずにすんだのは奇跡的だ。メタルスーツの恩恵もあるだろうが、悪運が強いようである。とりあえずぼくは彼女の肩と膝元に手を入れて抱えあげる。だが、予想外に重い。

 お姫様抱っこの体勢だが、運動不足のぼくにスポーツマンのキリコを運ぶのは無理があるらしい。ぼくはお姫様抱っこをあきらめ、おんぶすることにした。キリコを背中にのせ、少しだけ脚を動かしてみる。今度は何とか歩けるようだ。落ち葉に足をとられないように注意しながら車までキリコを運ぶ。あとはパーツごとに分解したメタルスーツを少しずつ車に運び込むだけ。ひとつひとつのパーツもかなり重いのだが、ぼくは歯を食いしばり、なんとか回収作業を終えた。

 たったこれだけの作業だが、随分と身体にはこたえた。疲れすぎだ。ぼくは車の中で眠りたくなってしまったが、なんとか運転をしてホテルに戻る。

 研究室のベッドにキリコを寝かせたときには、すでに時刻は午後七時になっていた。当然、外は真っ暗だ。急いで回収に向かっていてよかったと思う。冬は日が短い。もたもたしていてこんなに暗くなってしまっていたなら、キリコの発見は遅れていただろう。

 さて、ぼくはやっと研究室に戻ってきた。半壊したヘルメットをはじめとして、破壊された燃料タンクなど修理しなければならないものもある。しかし、まずしなければならないのはキリコの治療だ。だがそもそもキリコが女性という点を考慮しなければならない。ぼくはキリコの服を脱がしたいのである。変な意味ではない。燃料タンクを破壊されたときに火傷を負っていないか、システマーに撃たれた箇所は平気なのか、そうしたところを確かめなければならない。

 しかし無断で彼女の服を脱がし、傷の治療をしたとしたらキリコはたぶんいやな思いをするだろう。それを気にするならぼくはキリコの覚醒を待たざるを得ない。

 メタルスーツの脇腹の辺りにひびが入り、外装が壊されていた。おそらく、そこをシステマーに撃たれたのだ。メタルスーツの装甲を破壊する威力のある銃をシステマーが持っているということだが、その対策も考える必要がある。

 背中側には破壊がみられないことから、おそらく銃弾は弾いている。盲貫銃創だと大変なことだが、銃弾が弾かれているのならとりあえず安心だ。しかし、このまま放っておいていいはずはない。申し訳ないと思いながら、ぼくはキリコに近づき、着衣を少しゆるめてやる。すると苦しそうだったキリコの表情がやわらいだ。とはいえ、体の中が心配である。

 レントゲンでも撮って、調べてみないといけない。もしかすると今眠っているのも気を失っているのではなくて、頭を強く打っていて、昏睡しているのではないか。色々、疑いだすときりがない。今のうちに病院に連れて行くべきか、迷った。

 しかしそこで、急激な眠気が襲ってきた。そこで思い出したが、昨日もほとんど寝ないで飛行ユニットを作っていたのだ。当然の帰結だ。だが寝ている場合ではない。怪我人であるキリコを検査してやらなくては。ぼくは左手に右手を当て、爪を立てて掻き毟った。なんとか痛みで目を覚まそうとしたぼくの努力はしかし空しく、いつの間にかまぶたは落ちていた。


 温かい感触に顔を上げた。右手に何か温かいものが触れている。

 まずその右手を確認してみると、そこに誰かの手が置かれている。その手をたどっていくと、茶色のブレザーを着たキリコの顔に行き当たった。意識が戻ったのか。

 キリコは上体だけを起こして、ぼくの手に触れていた。ぼくはそのベッドに横から突っ伏するような格好で眠っていたらしい。これはとんだ失態だ。ぼくは右手を引っ込めてキリコの顔を見つめた。血色は悪くない。

「お疲れ様、キリコ。どこか痛いところはないかい」

 寝起きで格好つかないが、ぼくはそう訊ねた。眠ってしまったことは失態だが、キリコの意識が戻ったのは嬉しいことだ。彼女を連れて病院に検査にいけばいい。

「おはよう六郎。あっちこっち打ちつけたみたいで痛いけど、骨が折れたりはしてないみたい」

 キリコは苦笑いを浮かべてそう言った。とりあえず故障はないようだ。しかし、かなり高い位置から落下したから、一応検査だけはしておいたほうがいい。

 そう思いながら時計を見てみると今現在、朝の六時だ。ぼくは驚いた。地下室だから窓がなく、外が見えないので全くわからないが、凄まじい時間の進み具合だ。どれほど深く眠っていたのか、さっぱりわからない。

「朝だね……ごめんね、ベッド使っちゃって」

「いいよ。それより、気分が悪いとかないかい。ご飯食べて、病院にいこう。一応検査しないといけない」

「病院……なんで?」

 キリコは本当にわからない、といった表情で訊いてきた。冗談ではない。あれだけの高さから落っこちているのだ、どこか気付かないところで手ひどいダメージを負っていないとも限らない。

「交通事故とかの話聞いたことない? そのときはなんともなくても、半年くらいたってから急に倒れたりすることだってあるんだよ。念のためさ」

「そうなんだ。学校はどうしよう」

 キリコは時計を見やる。現在、六時十一分。急ぐような時間ではない。

「制服、着替えなよ。ぼくもメタルスーツを修理しなきゃいけない。病院までは送るから」

 ぼくは洗面所に歩きながらそう言った。ゴミの山に突っ込んだことが思い出される。とりあえずシャワーを浴びたくなった。

「じゃあ、準備できたら呼びにきてよ、六郎。私まだ昨日の宿題できてないから。あと学校にも電話しなきゃいけないし」

「とりあえず仮病?」

「ちゃんと病院に行くって言うよ。そしたら昼からは授業出られるから」

 キリコは頭を掻き毟りながらベッドから降りる。しかし、昼から授業に出るつもりならばあまり着替える意味がないと思うが。下着だけでも替えておきたいのだろう。

 部屋から出て行くキリコを見届ける。それからぼくはタオルと着替えをとり、シャワーを浴びた。

 病院が開くまではまだ時間がある。レントゲン検査などが必要だから、かなり大きな病院でなければならない。このあたりでは月並市の市立病院くらいだろう。八時くらいにここを出ればいい。

 それまでにしなてくはならないことは特にないが、昨日の戦いについては反省点が多い。ぼくは色々と考えなければならないようだ。まず、システマーの銃がメタルスーツを傷つけたことは想定外と言っていい。かなり外装の防御力は高めたはずなのだ。警察が使っているニューナンブの銃くらいなら余裕で弾くだけの強度がある。それに傷をつけたシステマーの銃はライフル弾並の破壊力があると考えられる。キリコは平気そうな顔をしていたが、撃たれたとき、かなりの衝撃があったはずである。同時に、燃料タンクも撃たれているのだ。ここは最初から急所だと思ってはいたが、実際に撃たれてしまうとは。全体的にもう少し強度を高めておくべきだろう。タンクは尚更だ。重量が増えるのは仕方がない。

 しかし、仕方がないとは言っても重量によって小回りが利かなくなると致命的だ。重量をメタルフレームでサポートしきれるだけに留めておかなければ重戦車のままになってしまう。

 つまり、素早さを維持しつつも装甲を高めなければならないという難しい強化を迫られることになったわけである。しかも、攻撃面においても考えることはある。まず、アームバルカンだ。『蝶』にはそこそこの効果を発揮した武器だが、飛行ユニットの接続に伴って削除されてしまった。牽制にばら撒くことができなくなったので、ここは痛い。バルカンがなくなると両肩の一発武器を除くと飛び道具が『カノン』だけになってしまう。全て合わせても飛び道具が四発しかない。これでは苦戦するだろう。弾丸の数が多い武器を考える必要がある。バルカンのように手軽にばら撒ける武器がいい。飛行ユニットを使いながらアームバルカンを発射できるように改造しなければならない。それには操作系の増設が必要だ。つまり、時間がかかる。

 実際のところその改造をするより、新しく武器を作ったほうが早くできる。例えば、アサルトライフルのような武器を。

 いや、アームバルカンが復活したあとのことを考えると同じ系統の武器よりも、少し違う趣向の武器のほうが戦略の幅が広がっていいかもしれない。戦いの最中、正確に狙いをつけなくても発射できるような武器、広範囲を攻撃できる武器があればよいとは思わないだろうか。例えばショットガンのような武器が。

 ぼくはシャワーを浴びながらそんなことを考えていて、気がついたときには随分時間が経っていた。慌てて部屋に戻り、服を着込んで一階へのエレベーターに乗った。朝食を摂るためだ。

 まだ髪も濡れたまま、ぼくはタオルでごしごしと頭を拭きながら歩いていく。端の方のテーブルに、キリコが座っているのが見えた。相変わらず結構な量の朝食である。病院に行くのなら朝食は摂らないほうがいいのではないかと思ったが、キリコはそういうことを気にしないのだろうか。もっとも、血液検査までするとは思わないが。

 ぼくはトーストにハムとスクランブルエッグを乗せ、サラダとブラックコーヒーをとってキリコの前に座った。

「あ、六郎。どうしたの、二度寝でもしてた?」

 食事の手を止めたキリコにそう言われて、思わずぼくは時計を見た。七時半だ。一時間ほど経っている。確かに、二度寝したと思われても仕方がない。

「いや、少し考え事をしてた」

「そう。……システマーのこと?」

「うん、それもあるけど。多くはメタルスーツのことだよ、やっぱりバルカンがないと不便だろうなと思って」

 キリコはああ、と頷いた。それからバターを塗ったトーストをかじる。牛乳でそれを流し込み、口を開く。

「今後の改造案とかかな、それもまぁいいんだけどさ。六郎、システマーのことどう思ってるのさ」

「うん?」

 ぼくはあご先に指を当てた。システマーは敵である。ぼくの頭にはそれだけのことしかない。今までのことから考えて、何か思惑があって動いている可能性もあるが、ひとまずメタルスーツを着たキリコ、グレイダーを撃ったのだ。敵と考えて間違いない。彼女の事情を考えるのは、その後のことである。

 そうした考えを、キリコに話した。キリコは納得しない。

「なんだかね、おかしいよね。だって、私の名前も、六郎の名前も知ってたじゃない。どこで調べたのか知らないけど、そんなことをする必要ないじゃない。圧倒的な力を持ってるんだもの、情報なんか集めてないで、そのまま力で制圧しちゃえばいいのに」

「その通り。ぼくもそこは疑問に思う」

「それをただ、襲ってきたから敵だ! って割り切っていいものなのかな、って思うんだけど。私はね」

「キリコ」

 ぼくは自分の考えを語るキリコを止めた。少しだけ、気になることがあったからだ。

「何?」

「今気になったことがある。『最後にとんだ油断を……』ってちょっと言ってみてくれないか」

「何それ。どういう関係があるの、今の話と」

 苦い顔でキリコはそう言う。自分の話を聞いてもらえていなかったのか、と思っているのだろう。しかし、今その話を聞いていたからこそ思い当たったのだ。キリコの声が、システマーの声に似ているのだ。同一人物である、などということはもちろんありえないが、ドッペルゲンガーとかそういう奇天烈な話でもない。確か、以前キリコはこう言っていたはずだ。姉とは双子だと。

「頼む、一度だけでいい」

「う……。ちょっと待ってね」

 懇願するぼくの態度に断れなくなったのか、キリコはそう言って牛乳を飲んだ。のどを潤したのだろう。

「じゃあ、えっと。『最後にとんだ油断を……』」

「ありがとう」

 ぼくは素直に礼を言った。今の言葉で、確信した。間違いなく、システマーはキリコと同じ声だ。

「どういうこと、今ので何がわかったの」

 問うてくるキリコに、ぼくはキリコの最後の一撃がシステマーのメットを破損させたこと、そのあと彼女の声が女性のものになったことを伝えた。そして、キリコの声によく似た声だったということも。

「偶然でしょ?」

「たまたま似ている声の女性だった、ということが?」

「そっちのほうが可能性があるじゃない」

 それは確かである。だが、それではわざわざ声を変えていた理由に説明がつかないのだ。システマーがキリコの姉であるとしたならば、ぼくたちの名前を知っていた理由も、声を変えていた理由も、説明がついてしまう。

「お姉さんの名前は、なんだっけ?」

「山内……霧亜だけど」

「キリア?」

「そう、キリア。一文字違いなんだよ」

 システマーがそのキリアであるとしたら、なぜキリコを撃ったのか。斬りかかってきたのか。名乗ってこないのか。

 いくつかの疑問に答えは出るが、その代わりにわからないことは増える。

「この問題は、しばらく考えないほうがいいかもしれない」

「姉さんじゃないよ……六郎。姉さんは六郎と一緒でインドア派だから。自分でスーツ着て戦うなんてこと、できないよ」

「だといいな」

 ぼくはブラックコーヒーに口をつけ、一旦思考を打ち切った。今は、システマーのことを考えていても仕方がない。ぼくにはしなければならないことがたくさんある。まずはキリコを病院へ連れて行く。そのあとはメタルスーツの修理だ。


 月並市の街中にある市立病院は広い。総合病院であり、入院患者のための病棟もかなり大きい。ぼくとキリコはその病院のロビーにあるソファーに腰掛け、呼ばれるのを待っていた。すでに一通りの検査は終ったので、今は会計の順番待ちである。本人がどこも痛くないと言っていたので特に何もないだろうとは思ったが、用心に越したことはなかった。実際、医師の話でもその判断は間違いでないということであった。なお、今回幸いなことにキリコは打ち身程度で、入院の必要など全くないという。

「六郎、何読んでるの?」

 ロビーのマガジンラックにかけてあった本を読んでいたぼくに、キリコが声をかけてくる。大した内容の本ではない。日本史の人物百選、などと書いてある。卑弥呼から吉田茂あたりまでの日本史重要人物を軽く紹介してある本だ。

「読むかい」

「歴史は好きなんだけど、上杉謙信とか載ってないの」

 本を渡すと、キリコは目次を開いて登場人物一覧に目を走らせた。

「謙信が好き?」

「謙信だけじゃないけど……」

 残念ながらその本に上杉謙信は載っていなかったらしく、キリコは本を閉じた。武田信玄は載っていたと思ったが、なぜか謙信はもれていたらしい。キリコは本を差し出しながら、話題を振ってくる。

「戦国時代は好きかな、色々とドラマがあって」

「その中で一番すきなのが謙信だったわけかい」

「大名ならね。六郎は誰が好き?」

 そう問われて、ぼくは少し考える。戦国大名はかなり多いが、誰が一番好き、と訊かれると迷う。上杉謙信もかなり魅力のある戦国大名であるが、島津義久、三好長慶といった面々もぼくの心をとらえる。しかし、一番好き、という基準で選ぶのならやはり彼しかいないだろう。

「……今川氏真」

「今川義元の跡継いだ人だね、それ。確か遊んでて徳川さんに裏切られたんじゃなかったっけ」

 キリコはそう言った。それは確かに正解だ。今川氏真は当時最強の戦国大名の一人と目されていた今川義元の子である。その今川義元が織田信長に討たれたことで、今川家の頭目となったわけであるが、義元が死んだときに家臣団の大半も討ち死にしていたために家は既に傾いていたといえる。氏真は織田家を討てという諸将の言葉にも動かず、傾いた家を立てなおすため内政や外交に力を注いだ。が、行き過ぎた彼自身の政策もあって豪族たちの離反が広まり、最後には同盟していたはずの武田家に攻め滅ぼされている。

 しかし、彼はそこで討ち死にしたわけではない。忠臣、朝比奈泰朝の奮戦により生きながらえて、北条氏を頼り、徳川家を頼り、最後には京都に移り住んで天寿を全うした。彼は動乱の時代に大名になりながら、最後まで生き抜いたのだ。そこにぼくは心を動かされる。また和歌を千七百首近くも詠み、選外三十六歌仙に選ばれるなど文化人としての評価は高い。

 そうしたことをキリコに話すと、彼女は少し驚いたようだった。

「なんか、バカ息子の典型例だと思ってたけど、やっぱり氏真も頑張ってたんだね。ちょっと彼を誤解してたよ。それにしても、その朝比奈泰朝って人もすごいね、みんなが裏切っていくのに主君を守って戦ったんだ。天下に名高い武田と」

「うん、彼は忠臣だね」

 彼は下克上の時代にあって忠義をつらぬいた数少ない武将の一人だと思う。実は彼が戦ったのは武田ではなく徳川なのだが、それをいちいち言うのはやめておいた。氏真は武田に攻められて朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ込んだが、そこを徳川が包囲したわけである。落城まで一日もかかるまいと言われた小城で五ヶ月も奮戦し、主の命を救った朝比奈泰朝には泣かせられる。

「大名の氏真より、彼のほうが気になるね。他にそういう人はいなかったの? 私の知ってる限りじゃ、あの時代にそこまで忠義に篤く生きた人って、山中鹿之助くらいしか思いつかないけど」

「他にも名の知れた人はそこそこいると思うけど……、高橋紹運とか。ちょっと歴史に詳しい人なら片手に余るくらいの数はすぐに出るよ」

「片手に余るくらいね……六郎はどうなのさ。こないだ私の後ろに隠れてたけど」

 急に話を切り替えられて、ぼくは焦った。

 確かに、システマーに襲われたときだったか、キリコの後ろに隠れたことがある。だが徒手空拳の上、運動不足のぼくが矢面に立ったらたちどころに骸にされてしまう。メタルスーツを着込み、運動神経抜群のキリコの後ろに隠れることは至極当然のことだ。とはいえ、女の子の後ろに隠れることを後ろめたいと思わないわけではないが。

「それは義の話とはあまり関係がないんじゃないか?」

「関係あると思うよ。もし、私が銃で撃ちぬかれたりして倒れたら、六郎は助けに来てくれる?」

「なんとか助けようとはするだろうね。でも、敵の前に飛び出して君を庇うことはできそうにないな」

 正直なところを言った。しかし、キリコは気に入らないらしく、肩をすくめる。

「嘘でも『思わず飛び出しちゃうかも』とか言ってくれればいいのに」

「そういうのは彼氏とかに期待してくれ。ぼくは生憎、そういうキャラじゃないから」

「彼氏ね……、いたら期待してるよ。私そういう人、いたことないからわからないし」

「ああ、そう」

 ぼくはどういう反応をしていいのかわからず、曖昧に頷いた。話題を変えようと思う。

「キリコ、少し気になって調べたんだが。『モスキート』の言っていたことについてちょっと」

「『モスキート』の? 息子が社会に殺されたんだとか言ってたあれかな」

 夜な夜な人を襲って血を奪っていた『モスキート』。彼が言っていたが、彼は元々人間であり、世を恨んでいたから改造を受けて復讐をすることにしたのだという。ぼくはその言葉が気にかかり、調べてみたのである。

 結果、『モスキート』の正体について候補があがった。

「一ヶ月前の新聞に載っていた。いじめを苦にした中学生の自殺だって。被害者の父親が行方不明になったそうだ。警察は心労のためにどこかへ失踪したと思っているようだが……これが『モスキート』である可能性もあるな」

「そう……」

 ぼくはカバンからファイルを取り出した。中には当時の新聞をコピーしたものが入っている。それをキリコに渡す。

「かなりひどかったんだろうね、そのいじめって。『モスキート』が世間全体を恨むようになるくらいだから」

「『陰湿で、羞恥にまみれた』って言っていたからね。多分……相当なものだよ。その新聞はあまり詳しく書いていないけれど」

「なんていうか……『彼も被害者だったんだ』とは言いたくないんだけど、彼が世間を恨むのにも理由があるんだね」

 キリコはファイルを開き、中に目を通している。かなり真面目な顔で何かを考えているようだ。

「当然だよ。行動にはかならず理由が付随するものだし。なんとなく、で夜な夜な人を殺したりはしないさ」

「悲しかったんだろうね。心が痛みで歪むくらいに……世間に復讐したって、何にもならないのに」

 目を伏せてそう言ったキリコの声は、同情の色を帯びていた。ぼくは頷くだけにとどめたが、ただ言うべき言葉を思いつかないだけであった。

 敵に同情を寄せるキリコの性格が、果たしてこれから吉と出るのか凶と出るのかぼくにはわからない。

「山内さん、山内霧子さん」

 受付のナースがキリコを呼び出した。キリコは財布を持って、お金を払いに行く。

 ぼくは彼女の背中を複雑な気持ちで見送った。

 彼女に話していないことが少しばかりある。戦士になるには、あまりにも優しい性格をしているのだ。彼女のその優しさにつけこもうとする作戦を、敵が練ってくることは予想された。ぼくはその罠から、彼女を守らなくてはならないと考える。

 いくつかの嘘と、事実の秘匿によって。

「お金払ってきたよ。レシートもらってきたから検査代ちょうだい、これ労働災害じゃないの」

 戻ってきたキリコがそう言った。ぼくは苦笑し、財布からお札を何枚か抜いて彼女に渡す。

「労災というなら診断書と領収書添えて書類を出してくれ」

「ありがとう。さっきの話の続きだけどさ、戦国時代に限らなかったらもっとたくさんいるんじゃない、忠義の人」

「そこにこだわるね、キリコ。時代に限らないんだったら、日本史の中で一番好きな人物って誰なんだい。やっぱり上杉謙信なのかい」

 天才であるぼくは立ち上がりながらキリコと会話を続けた。彼女への後ろめたさから、少し明るく声を出すように努力しながら。これから車でキリコを学校まで送っていくつもりである。

「誰でもありっていうのなら、山本五十六さんとか」

「また評価の割れている人を出してくる……。日本軍の人たちの評価は大体真っ二つだからなあ」

「五十六さんがだめなら、上杉鷹山とか」

「あ、その人はいいね」

 車に乗り込んだところで、ぼくの好みに合致した人物が現れたので、ぼくは指鉄砲をキリコに向けた。

「鷹山はぼくの好きな人物の一人だ。米沢藩中興の祖といえる」

「六郎の好みがよくわからないんだけど。氏真と鷹山じゃ違いすぎない?」

「君こそ好みがバラバラだ。上杉謙信、朝比奈泰朝、山本五十六ではな……が、まぁ大体把握した」

 ぼくはキリコがシートベルトを締めたことを確認するとエンジンをかけた。

「私の好みを?」

「君、松永久秀って結構好きだろう」

「あぁ、弾正さん大好きだよ。よくわかるね」

 キリコは朗らかに笑ってみせた。ぼくは少し心が痛かった。


 それからぼくは車を走らせ、月並高校の校門まで彼女を送り届ける。車から降りて、校舎へ消えていくところまで見送っても、ぼくは運転席から月並高校をしばらく眺めていた。しばらく学校には入っていない。

 そういえば先日キリコが肩を撃ち、システマーが爆破したあの不登校の生徒。彼女はどうなっただろうか。自らの毒の中へ落ちた後、どうなったのか知れない。今朝の新聞にも、毒物の散布事件については触れられていたが、犯人の行方については全く触れられていなかった。

 考えなければいけないことは山ほどあるし、しなければならないことも多い。第一、ぼくは軍隊ではない。天才ではあるが、少々金持ちというだけの普通の人間だ。個人で管理できることなどたかがしれており、ぼくにしてもメタルスーツ一つだけでこの有様である。ブレードは折られメットは割れ、脇腹の外装を破壊されて燃料タンクを撃ちぬかれ、ぼくはそれらの故障を修理しなければならないのだった。しかしそれだけではすまない。メンタルに弱い部分があるあのキリコを、敵の戦略から守っていく必要がある。強い意志と勇気と、恐れない心をあわせもったキリコだが、他者に同情を向ける優しい心をもちすぎている。そこを突かれれば、彼女はきっと戦えなくなってしまうだろう。それを防ぐにはぼくが彼女に余計な情報を与えないようにしていくしかない。先ほどキリコに渡した『モスキート』の正体に関する新聞記事も、あれだけではない。実はどのようないじめがあったのか、父親はそのときどうしていたのか、学校側からの対応はどうだったのかといったことは全て調べ上げてここに持っている。その上で、ぼくはこの父親が『モスキート』であることはほぼ間違いないという確信をしているのだが、キリコにはそれは言っていない。簡単に言うなら、『モスキート』はあまりにもかわいそうだったのだ。それをキリコに話してしまうと、彼女はきっと悩むだろう。今は、彼女にぐじぐじと悩んでいてもらっては困るのだ。信じる道をまっすぐにすすんでもらうためにも、余計な情報は与えない。ぼくはそう決めたのだ。

 『蝶』の女や、『カゲロウ』についても少し調べてみたい。ひょっとすると何か共通点が見つかって、敵の正体に迫ることができるかもしれないからだ。

 しかし、そうやって考え事をしていると助手席のドアが突然、開いた。何かが滑り込むように、ごく自然に助手席に座る。少し長めの黒髪が綺麗な女性だった。

「何か、御用ですか」

 ぼくは懐に入れているレーザー・スライサーに手をかけた。

「お話がしたいと思ってね」

 ぼくの車に乱入してきた女は、前を見たままそう言った。その声は、キリコの声と同じだ。

「君、システマーか! 殺しに来たのか、ぼくを」

「待った。殺すつもりなら車の外から撃ってる。少し話を聞いて頂戴」

 ぼくはレーザー・スライサーを抜き放ちシステマーに向けた。だが、彼女は落ち着いた調子だった。撃たれることなどないと思っているようだ。

「ここじゃ人目につくと思わない? 六郎くん、車を出してくれるかな。どこか落ち着ける店にでも入りましょう」

 システマーはさらりとそう言い放ち、ぼくはレーザー・スライサーを仕舞った。彼女の言うことに従うわけではないが、キリコもおらずメタルスーツもない今、彼女を怒らせるのは得策ではない。それに、これは情報を得るチャンスでもあった。

 仕方がない、とぼくは自分に言い聞かせながらエンジンをかけた。システマーに言われるがまま、駅前に向けて車を出していく。

「六郎くん、運転上手だね」

 そんなところを褒められても嬉しくない。

「君……、山内霧亜さんだね」

「その通りだけど」

 システマーは自分の正体をあっさりと認めた。

「詳しくは後でゆっくり話すから。私ね、ミルクティーがないと生きていけないんだ」

「難儀なお体だ」

「あとホットケーキがないと頭が働かなくて、バターとはちみつもだけど」

「……どの店のですか?」

 ぼくは半分うんざりしながら、横目でシステマーを見やる。彼女はぼくの気持ちをも見通したような目で、微笑していた。

「あの店。裏が駐車場になってるはずだから、お願いね」

「わかりましたよ」

 どうしてこんなことになるのかと思いながら、ぼくは車を寄せていった。その店というのは、ファンシーな雰囲気の漂う喫茶店だ。ぼく一人ではとても入れそうにない。が、システマーと一緒なら問題ないだろう。しかしこんなところに入れても嬉しくない。心中で毒づきながらぼくは駐車場に入り、車を降りた。

 店に入ったシステマーは奥のほうの席に座り、宣言どおりにミルクティーとホットケーキを注文した。ぼくはブラックコーヒーだけですませる。車に乗り込んできたのが突然だったのであまりよく見ていなかったのだが、システマーは黒いタートルネックのセーターにクリーム色のコートを合わせており、違和感がない。確かに彼女は普通の人間であるらしい。

 髪型などが違うし、薄くだが化粧をしているのでいつもノーメイクのキリコとは雰囲気が違う。声が同じなのだから、一卵性の双子だと思うのだが、それでも全てが同じわけではないようだ。考えてみれば食生活や運動量で体型も変わるし、双子だからといって完全に同じ外見になるわけでもないのだろう。

「六郎くん、訊きたいことがあるんじゃないの?」

 システマーが話を切り出した。正体は山内霧亜ということだが、ぼくはシステマーという呼び名を変更するつもりはない。キリコにシステマーが姉であるということを、隠したほうがよいかもしれないからだ。

「訊きたいことね……」

 それは山ほどある。情報は欲しかった。だが、何か訊けばいいのか。システマーもぼくの訊きたいことはおおよそ知っているはずだ。箇条書きにして渡してやりたいくらいである。

 だが、ぼくは少し考えた後、こう訊ねていた。

「日本史の中で、好きな人物は誰です?」

「意外すぎる質問ね」

 システマーは眉を寄せたが、顔の下半分は笑っていた。意外な反応というのが面白かったのだろう。自分の予想外のことが起きると、慌てるよりも面白いと思う性格なのかもしれない。

「そうね、北条政子が好きかな」

「なるほど……世界史では?」

「私はね、中国史が好きなの。世界史って言われると中国に偏っちゃう。まぁ一番は耶律楚材かな」

 絶妙なところを突いてくる。ぼくは思わず指鉄砲をシステマーに向けそうになった。

 耶律楚材はチンギス・ハーンにつかえた人物である。草原の掟をそのまま都市部に持ち込み、相手の城も街も破壊しつくそうとする主君に対し、都市を運用する利益を説いて中国文化が破壊されてしまうことを防いだとされている。

「それとね、ナチス・ドイツも大好きだからね。語らせてもらえるならいくらでも話すけど」

「いや、それはまたの機会に。キリコとそういう、好きな人物の話をしていたところだったのでね」

「なるほど、興味深い話。六郎くん、あなたはじゃあ日本史で誰がお好み?」

 逆に、システマーに質問をされる。ぼくはキリコにしたのと同じ答えをした。

「今川氏真です」

「他には?」

「そうですね、足利義輝、東郷平八郎あたりですか」

「世界史では」

「ふむ……シモ・ヘイヘなどいかがですか」

 ぼくは色々思いついた中でもあえて、教科書などには書かれなさそうな人物を挙げた。もっとも、有名な人物ではあるからシステマーも知っているだろう。

 しかし、システマーはあまり反応を示さなかった。

「私とあまりかぶらないみたい。六郎くん、そろそろ本題に入りましょうか」

「そうしましょう」

「実は私は二ヶ月くらい前からこういう状況下になるということを予測していて、武器を作っていたんだけど」

 システマーは自分のことを話し出す。ぼくは傾聴する。

「きっかけは『カゲロウ』を発見したからだけど」

「カゲロウ……、あなたが撃った相手だ。どういうことです」

「聞きなさい。私はね、それ以前から武器を作っていた。時々夜にそれの動作テストをしていたけど、そのときに何か空を飛んでいるものを見つけてしまった。最初は虫かと思ったけど、人くらいに大きかった。つまり、『カゲロウ』だった。一ヶ月くらい前のことかな」

「知り合いだった?」

「いいえ。そのときにその人とは初めて会った。けど、話をしてみたら結構気が合ってね。友達になったわけ。それで『カゲロウ』からはかなりの情報を得ることができた」

「『誘いに乗った』方々の?」

「よくご存知で」

 システマーは笑った。

「いや、ただ『カゲロウ』が口を滑らせただけです。その意味は知りません」

「正直ね、六郎くん。『誘い』というのは、世の中の全てを私と一緒に破壊してしまいましょう、混乱させてしまいましょう。と、こういうお誘いのことなの」

「問題はその誘いをかけた『亡霊』ですね」

「ああ、『亡霊』もご存知で」

「名前だけです。この『亡霊』とは一体どういうものなのですか」

「それだけはわからない。ただ、今のところ私が知っているのは……一種の思念体のようなもので、実体のない存在じゃないかっていうこと。それと、凄まじいくらいのオーバーテクノロジーをもっていることくらいかな。『誘い』をかけて、その『誘いに乗った』人間を改造して、『カゲロウ』のような生物兵器に仕立て上げられるくらいのテクノロジーを」

 ぼくは唸った。『モスキート』も元々は人間だったと言っていたし、人間をあのような怪物に変貌させるだけの技術がどこにあるのかと思っていた。『亡霊』が一体なんなのかはいまだ不明だが、どうやらこの『亡霊』が元凶であることは間違いなさそうだ。

「あなたはそれを告げにぼくのところへいらっしゃったわけですか」

「いいえ」

 システマーは微笑んで首を振った。そこへ、ミルクティーとコーヒーが運ばれてくる。

「お待たせしました。どうぞ」

 ウェイトレスがホットケーキをシステマーの前に置いた。注文どおり、ホットケーキの上にはバターとはちみつがかかっている。普通シロップなのではないか、と思ったのだがどうやら本当にはちみつらしい。なお、ウェイトレスは髪の短い、溌剌とした印象の子であり、横目で見ただけだがかなり綺麗な顔立ちだった。

「失礼いたします、ごゆっくりどうぞ」

 一礼して立ち去る彼女を見送り、ぼくはシステマーに目を戻す。

「綺麗な子だったね、六郎くんはああいう子が好きなの」

「確かにかわいい子ですね。しかし、ぼくは顔だけを評価する気はありませんよ」

「キリコのことはどう思ってるのかな」

 そう問われると、言葉に詰まる。どう思っているわけでもない、といえば嘘にはなる。が、好きなのかといえばそれもまた少し違う気がする。

「彼女は、いい子です」

 ぼくはそれだけを言うことにした。

「そう。本当は、妹を連れて逃げていった男の子がどんな人なのか確かめにきたんだけどね」

「ご期待にそえなくて残念です」

「期待にはこたえてくれたと思うよ。キリコはいい子だよ。間違いないから」

「どういう意味です」

「さあね」

 ホットケーキを切り分けながら、システマーがとぼける。ぼくはコーヒーを一口飲んだ。今度はこちらから質問をぶつける番だろう。

「あなたの着ていたスーツについて、質問があります」

「私のスーツは、バリアフレームって名付けたの、よろしく。質問は受け付けるよ」

 システマーは情報の優位に頓着しないように答えた。

「飛行原理について解説を求む」

「どうぞ」

 システマーは懐から手帳を取り出し、ぼくに投げた。開いてみると、びっしりと書き込みがある。設計図だ。試作しては没を出し、試作しては廃棄し、次々と新しい案を試している。これを一ヶ月二ヶ月で作ったとは信じられない。記述がときどき飛んでおり、考えられない角度から問題を解決に導き、次々と工夫を重ねられている。しかも、おそらく『カゲロウ』と出会った日なのだろうか。ある時期から急激にその速度が増している。新しい創意工夫と理論、ぼくでさえもわからない配分、スピードで開発がすすんでいる。そして最終ページにおいて完成形の設計図が描かれ、手帳は役目を終えている。

 ぼくには到底、できないことだ。この発想の連続は、努力の積み重ねではできない。

 しかも、それをあっさりとぼくに手渡した。何の意図があるのかはわからないが、これは有効に利用させてもらうことにする。

 手帳をとるぼくの手は震えていた。

「……君は天才だね」

 思わず、そう言ってしまっていた。真の天才だ。ひらめき、物事の捉え方が常人とは別次元だ。

「それがわかるあなたも大したものだと思うけど。普通、高校生でその手帳を見ても、理解なんてできないはずだから」

「いやシステマー、あなたは別次元だろう」

「それはお褒めの言葉?」

 システマーは笑った。気がつけば彼女のミルクティーは空になっている。

「そう受け取っていただいて構わない。もう一つ、ブレードを切断した武器について」

「あれの原理はわかっておいででしょう」

 ぼくは頷いた。キリコと打ち合い、こちらのブレードを切断した剣。あれは加熱されており、その熱によって切れ味を増していいたのであろう。だが、原理だけがわかっても仕方がない。

「出力を考えても、あれだけの熱を剣に使うのはまずい。どこからエネルギーを調達しているのです」

「あれはね、電磁カートリッジを使ってる。だから一度だけしか加熱できない。そこが最大級の欠点だけど」

「するとやはり、鞘ですか」

「鞘よ」

 ぼくはシステマーの発想力に感嘆する。が、そんなぼくを見て、システマーは笑んでいる。嘲笑ではないだろうが、何がそんなにおかしいのか。

「いえね、六郎くん。私の考えにまともについてきてくれる同年代の人なんて、初めてだから。嬉しくて」

「とんでもない、ぼくの頭ではあなたの考えにはついていけない。お恥ずかしい限り」

「でも、あなたは理解しようとしてくれている。そして私の考えに感動してくれる。嬉しくないはずがないよ」


 ぼくと話をするシステマーの目は、確かに嬉しそうである。天才ゆえの孤独が少し解消されて嬉しいのかもしれない。しかし、生憎だがぼくとシステマーでは質が違いすぎる。ぼくは自分が無能、怠惰であるということを知っているから自分を追い込み、努力するように仕向けてきただけのことだ。しかしシステマーは違う。最初から発想力と実行力と転換力がありすぎる。電光石火の人間なのだ。

 高い山を登ろうというときにぼくは険しい山を登るための装備を買い込むが、彼女は山の方を低くする方法を考えているような、そういうタイプなのだ。

 ぼくはそうした考えをシステマーに話した。すると彼女はそれを笑う。

「そんな違いなんてどうでもいいじゃない。私が嬉しいのは、私の理論に感心してくれる同年代の子がいるってこと。それだけなんだから」

「そうですか……」

 ぼくは曖昧に頷いた。つまり、彼女の言葉をそのまま信じるのなら、ぼくはシステマーに好意を向けられているということだ。ならば訊いておかねばならないことがまだある。

「あと幾つか、訊きたいことが」

 システマーは頷く。

「ミルクティーのおかわり、よろしいかしら」

「どうぞ」

 彼女は微笑み、ウェイトレスを呼んだ。追加注文が終るのを見て、ぼくは質問をぶつける。

「遠まわしには訊きません。どうして、『カゲロウ』とキリコを撃ったのですか」

「『カゲロウ』を撃ったのは、余計なことを言いそうだったからよ。それに、あのまま戦っていても勝てなかったでしょうし」

「しかし、友人だったのでしょう」

「お友達だったことは確かね。色々情報をくれたし。でも、もう用済みだったから」

 ぼくはどきりとした。非情なセリフだったからだ。『カゲロウ』のほうではシステマーを信頼していたに違いないのに。

 テレビで観たシステマーと『カゲロウ』の戦闘も、多分バリアフレームのテストをしていただけに違いない。それほど仲が良かったのに、システマーは友人を爆破してしまったのだ。

 とはいえ、通りに毒を撒いてたくさんの人を殺めてしまった『カゲロウ』のことを、かわいそうとは思えなかったが。

 ぼくは質問を重ねた。

「では、キリコを撃ったのは」

「戦闘中だから仕方がないことじゃない」

 平然とした答えだった。

「それにちゃんと、死んだりしないように計算したから。別にどこも骨折ったりしなかったでしょう、キリコは」

「打ち身だけです。安心してください」

 システマーは軽く腕を組んだ。偉そうな態度であるが、事実彼女は偉い。

「我が妹ながら、頑丈ね。六郎君のつくったスーツも性能がいいんでしょうけど。あれは、どういう原理で作ったの?」

「メタルスーツです……、キリコの動きを金属フレームで感知して、補助させています」

 ぼくは簡単に説明した。設計図を描いてもいいが、この天才を相手にそこまでする必要はないだろう。

「そう。あれはなかなかすごい兵器だと思う。何しろ、私のバリアフレームを破壊したんだから」

「破壊したといっても、メットだけでしょう」

 苦笑する。スーツの性能だけならばシステマーが圧倒的だ。メットを破壊できたのも、キリコの執念があったからこそである。落下しながら『カノン』を撃ち、システマーのメットを壊したキリコ。狙撃の実力だとか、運がよかっただとか、そういう問題ではない。『カノン』もそこまで精度のいい飛び道具ではない。あれが命中したのはただ、キリコの執念による。

「でも、そのおかげで私の肉声があなたにばれた。だからこうして、あなたの目の前に出てきたんだよ」

「キリコには正体を教えないおつもりですか」

「…………そうね」

 システマーは運ばれてきたミルクティーをとり、悲しげな表情をみせた。

「最初から、兵器が完成したらあの子の前から姿を消すつもりだったから。あの子は正義感のある子でしょう、私がこんなことをしてるなんて知ったら、自分がバリアフレームを着るって言い出すに決まってるもの」

「それでセーラー服を血に染めて、ですか」

「まあ、そうね。でも、こんなに素敵な彼氏がまさか、似たような兵器を作ってるなんてことはそのとき、思いもしなかったけど」

「彼氏じゃありませんよ」

 ぼくはできるだけやんわりと否定した。

「今はそうでも、これからはわからないじゃない。六郎くんはそれとも他に彼女がいるのかな」

 システマーはよからぬ企みを秘めた笑みを浮かべてぼくを見つめる。少し困ったが、ぼくは沈黙を保った。返答する義務がないと思ったからだ。

「いないのね。霧子に不満がないんだったら、考えたほうがいいよ」

「システマー」

 ぼくは苦笑し、目の前にいる天才を呼んだ。

「お姉さんって呼んでもいいんだよ。義理のお姉さんになるし」

「いえ、システマー。あなたも女性ですね」

 ぼくの言いたいことがわかったのか、システマーは口元に手をやって、小さく笑った。

「霧亜、とは呼んでくれないのね」

「まだあなたを信用したわけではありませんから」

「じゃあ、どういう風になら呼んでくれるのかしら。何かあだ名の一つでも」

 目の前にいる天才は、ティーカップの中をスプーンでかき混ぜながらこちらを見る。

「あなたにあだ名を。この一連の会話からだけでですか」

「六郎くんならどういう名を私につけるのか、興味がないこともないけど」

「そうですね。ぼくなら、『エマ』でしょうね」

「どうして?」

「ぼくとキリコをくっつけようとなさるからです」

 システマーは、なるほどと頷いた。そこへ、つかつかと歩んできた人物がいる。ウェイトレスではない。ぼくは思わず、そこへやってきた人間の顔を見上げた。

 そして驚いた。

「君は」

「辻井くん、お久しぶり」

 『カゲロウ』だったからだ。

 死んでいなかったのか。確かに、システマーは『撃った』とは言ったが『殺した』とは言わなかった。

 どういう手段を使ったのか、『カゲロウ』らしい怪物の外見は消されて、不登校になっていた女子生徒の姿に戻っている。これはシステマーが戻してやったのだろうか。信じられない。

「六郎くん、そんなに不思議?」

「しかし、先ほどあなたは用済みだと」

 用済みだったからという理由で『カゲロウ』を撃ったのではなかったのか。ぼくは渋い顔になる。『カゲロウ』は気にもしていない様子で微笑み、システマーの隣に腰掛けた。確か『カノン』の一撃で左腕が千切れたはずだが、その左腕は白布で吊られているだけである。

 長い髪を二つのお下げにして、レザーコートを着ている。細い、糸のような目をした女の子。確かにこういう顔だった。不登校になる以前に見た、『カゲロウ』だ。

「いくら用済みでも友達を殺すほど薄情じゃないからね」

「そうねぇ、あれにはさすがにびっくりしたわ」

 『カゲロウ』が笑った。ぼくはついていけない。

「たくさんの人を殺した彼女を、助けることにためらいはなかったのですか。それよりシステマー……、あなたならあのような凶行にはしる前に彼女を救えたのでは」

 当然ともいえる質問をぶつけた。規格外にいるシステマーだが、人間の心があるのならこの考えはわかるはずだ。

「私は確かにシステマーだけど……」

 システマーの声が少し落ちた。

「六郎くん、私が何でもできるって思わないで欲しいな。あの毒物散布事件は、私にだって想定外だったんだから」

「どういう意味です」

 ぼくは訊ねた。

「『カゲロウ』がこうした行動を起こすことを、傍にいながら想定できなかったのですか。あなたが」

「できないこともなかったんでしょうけど、六郎くん。言っちゃあなんだけどあの事件を予測するのは、難しかったと思うよ。明日の朝、私の体温がどのくらいあるかぴったり予測するよりも難しい。それか、生卵とゆで卵を見分けるよりも難しいね」

「例えが微妙だね」

 『カゲロウ』が口を挟んだ。ぼくは笑う気になれない。

「そんなたとえ話はいいんです。どうして想定できなかったのですか。それに、『カゲロウ』を助けたのはどうしてですか」

「『カゲロウ』を助けたのは友達だからだよ。他に何か理由がいるの?」

 話がぐるぐる同じところを回っている。わざとそうしているのだろうか。ぼくは少し苛立ちながらも同じ質問を繰り返した。

「いくら友達でも、彼女はたくさんの人を殺したはずです。救うことにためらいはなかったのですか」

「なかったよ」

 断言した。しかも、即答である。これはもう、ぼくの理解の範疇をこえている。あまり深く聞かない方がいいかもしれない。

「では『カゲロウ』、あなたの意見を聞きたいのですが」

「辻井くん、私の名前覚えてないんだね」

「覚えてません」

 思い出そうとも思わないので、ぼくは簡単に答えた。『カゲロウ』は少し悲しい目を見せたが、すぐに元の顔に戻り、名を名乗った。

「水口影子だよ。前みたいに影子って呼んでいいから」

「女性をファーストネームで呼んだことはないと思う。少なくとも教室では」

 水口影子と名乗った『カゲロウ』だが、少し陽気に見える。キリコとアーケードの上で問答をしていた人物とは思えないほど明るい話し方だ。

「山内さんはキリコって呼んでるくせに。妬けちゃうじゃない。私も影子って呼んでってば」

 ぼくはちょっとたじろいだ。もてる気分を味わいたいと思ったことはぼくにもあるが、こういう状況下ではごめんこうむる。

「影子、落ち着いて」

 後ろからシステマーに取り押さえられ、『カゲロウ』は席に座りなおす。

「霧亜にそう呼ばれても」

 まだ何か言っているが、一先ず危機は去ったようだ。『カゲロウ』に話を振るのはやめよう。

「六郎くん、この状態の『カゲロウ』を見てて、あんな事件を起こしそうな感じに見えるかな。あなたなら予想できた?」

「無理ですね」

 そう問うてきたシステマーに、ぼくはほとんど間を置かずに返答した。躁病のような印象さえも受ける今の『カゲロウ』から、あのような事件を起こすような異常性は感じとれない。あのときの『カゲロウ』は陰鬱で、捻じ曲がった印象を受けた。だが、今の『カゲロウ』は溌剌として明るく、まるで違う。

「ですから、説明してください。どういうことなのですか」

「仮説よ。六郎くん。今から話すことはあくまでも仮説」

「わかりました」

 ようやく本題だ。システマーはもったいぶりすぎである。ぼくは座席に座りなおして聞く姿勢を整えた。

「この現象について、『カゲロウ』本人に話を訊いてみたら、こういう返事がきました。『急に気分が滅入って、何もかもが楽しくなくなって、この世の中が憎たらしくなって、気がついたらアーケードの上で毒を振りまいていた』という具合に」

 ぼくは『カゲロウ』が何らかの病にかかっていたのではないかと思った。発作的にこうしたことを起こすほどの鬱になるような病があることを知っているからだ。

「今、六郎くんは影子が病気なんじゃないかって思ったでしょう。私も最初はそれを考えたもの。あなたがそれを考えないはずがないわね」

「おっしゃるとおり」

 隠す意味がないので肯定する。するとシステマーが肩をすくめた。

「残念ながら、違ったわ。それと、大前提があるけれど。影子が『カゲロウ』になったとき、改造を受けたわけだけど、それをしたのは『亡霊』……、そのときのことを影子はほとんど覚えてない。どこでどういう手段で、こういう身体になったのか、何も覚えてない。ということは、全身麻酔で眠らされている間に改造は行われたわけで。そのときに頭の中をいじくられた可能性がないとはいえないんじゃないかな、と私は考えた」

「……何かが仕込まれた、と?」

 頭の中をいじくる。ぼくはどきりとした。ロボトミー手術のことがちらりと頭の隅をよぎったからだ。

「今の影子が改造を受ける以前の彼女と同じなのかどうか、私はわからない。だって、改造された後の影子しか、私は知らないんだからね。六郎くん、どうかな? 以前の彼女と比べておかしくなったところとかは見受けられるかな」

「生憎印象の薄い子でしたからね。キリコも名前を覚えていないと言っていました。そのくらいの子です。そのとき話していればこのように明るい話をしてくれていたのでしょうか」

「そうかもしれないですね、辻井くん。私は変ったとか、変わらないとか、自分じゃよくわからないけど」

 『カゲロウ』は目を閉じ、口元に微笑を浮かべたままそう言う。元気そうな様子だ。なぜそのように平気な顔をしていられるのだろうか。自分の頭の中をいじくられたとなれば、普通なら落ち着いてなどいられないはずだ。

 そこまで考えて、自分が思った『普通なら』という表現にハッとした。つまり、『カゲロウ』は普通ではないのだ。

「私も全部聞いたわけじゃないけど、影子はちょっと前にものすごく嫌な目にあったわけでね。それで心を塞いで、世の中全てを憎むようになったんだね。そうしたタイミングで『誘い』をかけられて、それに『乗って』しまった。それはいいとして、そのときの改造である程度思考を調整されたんじゃないかなって、私は考えているんだけど」

「ありえる話です」

 思考を全て壊し、従順な兵士にしてしまうことだってやれたことだろう。オーバーテクノロジーをもつ『亡霊』なら何ができても不思議ではない。しかしあえて、『カゲロウ』の意識を残し、このような状態にとどめる意味がわからない。突発的に殺戮を行うように調整されたのか。それとも何か別の狙いがあるのか。

「それで、今の『カゲロウ』は安全だと言い切れるのですか」

「暴れだしたら私が止めるわ。友達だもの」

 システマーは微笑んでぼくの質問に答えた。

「わ、さすが霧亜! 大好き!」

 その態度に『カゲロウ』が感激したらしく横から彼女に抱きつこうとしたが、暑苦しいという理由で押しのけられている。首から吊っている左腕が邪魔そうだ。

「今の段階で私が教えられることはこれで全部だけど、六郎くん」

「もう一つ、確認したいことが」

 話を切り上げようとするシステマーだが、ぼくはそれを制した。

「まだ何か? テーブルの下で構えてる武器を仕舞ってくれたら答えてあげる」

「いいでしょう」

 ぼくは確かにレーザー・スライサーをテーブルの下で『カゲロウ』に向けていた。この時点で彼女を信用しろと言われても無理な話だからだ。だが、情報を得るために仕方がない。ぼくはレーザー・スライサーを持っていた右手を上げて、システマーに見えるようにそれを内ポケットに入れた。

「よろしい。質問は何かな。スリーサイズ以外なら教えるよ」

「先ほどの会話から、あなたは私たちと敵対する理由はないと考えられます。なのに、なぜキリコに攻撃をくわえたのですか」

「好奇心かな」

 躊躇いなくシステマーが答える。

「私と同じような発想で武器をつくって、スーツを着込んで戦ってるのを見たら。ちょっと遊んでみたくなるじゃない」

 ぼくはシステマーの頭の中がどうなっているのか見てみたくなった。その考えが理解できないことはないのだが、自分も死ぬかもしれないし、妹を殺してしまうかもしれないという遊びを平然と行えるだけの、自信があるのだろうか。さすがは天才、というしかない。

「そうですか」

 ため息をつきたくなるが、なんとかこらえた。後頭部を掻き毟るぼくの前で、システマーは立ち上がった。千円札を二枚取り出して、ぼくに突きつけてくる。ここの支払いということだろう。ぼくはそれを素直に受け取った。

「あ、そうそう。影子がねぇ、久しぶりにクラスメートとお話がしたいんだってさ。六郎くん、私は帰るけど、二人でゆっくりお話していってね」

「は?」

 突然のことに、ぼくはそんな声を出してしまった。影子、というと『カゲロウ』のことである。

 システマーはぼくの隣にくると、声を細めてこう言った。

「それじゃ、キリコのことは頼んだからね。また会いましょう」

「待ってください。どうして『カゲロウ』がぼくに」

「さぁね」

 ぼくの意見など聞いていない、とばかりに彼女は離れた。それから足をそろえ、ぼくと『カゲロウ』に向けて手を振る。

「それじゃ、またね。影子、あんまり遅くならないようにするのよ」

 それが終ると、すたすたと歩いていってしまう。ぼくは追いかけることもできたが、目の前にいる『カゲロウ』が気になった。システマーに訊けるだけのことは訊き、答えももらっている。システマーを追いかけるよりも、この『カゲロウ』との会話によって何か情報が得られないだろうか、と思う。

 連絡先を訊いておけばよかったな、とは思ったが、とりあえずぼくと話をしたいという『カゲロウ』の顔を見る。

「水口さん、ぼくに何か話を?」

 とりあえず、そう訊ねた。不登校になる前、ぼくたちはとくに親しいという関係にはなかった。ぼくは科学部にいて放課後もずっと部室にこもって一人で研究をしていたし、そうでなければ図書室で文献をあさっていた。彼女との接点はほとんどない。そもそも席が真後ろだったキリコでさえも顔と名前が一致しないような有様だった。ぼくはあまり社交的とは言いがたい。

 そんなぼくに対して話がある、というのだから何事だろうかと思う。おそらくは先日の件だと思うが。

「うーん……えっとね。みんな元気かな? と思って」

「教室のみんなが」

「そう」

 不登校の間、学校にいるみんなは変わりないか、ということを訊いているのだろう。

「生憎だけど、ぼくはしばらく学校には行ってないからね。そういうことは、キリコに訊いたほうがいいよ。女の子のことは、女の子に訊いたほうがいいと思うし」

「それは残念。ね、何か頼んでいいかな? 私お腹すいてて」

「ご自由に。お金は?」

「ないの。おごって」

 ぼくは頷いた。そのくらいのお金は惜しまない。情報料だと思えば安いものだ。

「ミートスパと、クリームソーダかなぁ」

「わかった、いいよ」

 ウェイトレスを呼んで、『カゲロウ』の注文を追加してやった。ついでにぼくのコーヒーもおかわりを頼む。ウェイトレスはぼくを蔑むような目で一瞬見たが、なぜなのかはわからない。どこか暗く感じる営業スマイルをみせて、彼女は下がった。

「君はパフェとか、そういうのは頼まないの。ここの店はそういう甘いもので売ってるところなんだけど」

 何気なく、ぼくはそう訊いてみた。

「そういう、デザートって食べたことないから。おいしいものなの?」

「おいしいかどうかは人によるけど。甘いよ」

「霧亜は嫌いだって言ってたけどね。色がついてるのがまずそうなんだってさ、赤とか緑とか」

 なんともいえない感性だとぼくは思った。が、人工的なあの色合いが嫌いだというのならわからないわけでもない。

「こういう店に入ったのも何年ぶりだろう……。もう本当に小さい子供のときにお母さんと一緒に、買い物の帰りに寄ったきりだよ」

「そこで食べたのがミートスパ?」

「あたり。おいしかったんだから……まぁ子供は何食べてもおいしいと感じるのかもしれないけど。あのときパフェにしとけばねえ、こんなところでミートスパを頼まなくてすんだのに」

 『カゲロウ』は笑っていた。幼い頃のことを思い出しているのかもしれない。

 そろそろ本題に入らなくてはならないだろう。

「ところで水口さん、こっちからもちょっとお願いがあるのだけども」

「スリーサイズ以外なら、質問プリーズだよ」

 右手で『おいでおいで』の手招きをする。秘密などないといわんばかりである。スリーサイズだけは秘密だそうだがもちろんそんなところに興味はない。

「その姿は、どうやって?」

「これはねぇ、ただ偽装しているだけ。ちょっとだけ解こうか?」

 そう言うと、右手をテーブルに置いた。肘関節から先が、外骨格に包まれている。先ほどまで普通の手だったにもかかわらず、である。これはまぎれもなく、キリコと戦っていたときの『カゲロウ』の腕だ。

 さらに、ぼくの見ている前でその腕は音もなくクリームイエローの薄皮に包まれるように、元の人間の腕に戻った。

「これが『偽装』だよ。便利だよね。多分あの身体にされたときに、一緒に機能としてくっついてきたんだと思う。あの姿のままじゃ、生活に不便だからね」

「それだけでも十分に驚異的な技術だ」

 ぼくはため息を吐きたくなった。完璧な偽装だったからだ。電車で隣に座っていた女の子が、いきなり外骨格に包まれた化け物になり、そこらを薙ぎ払い、毒を振りまく。そういうことがありうるということが、今ここに実証された。対策はない。

「ちょっと……触ってみてもいいかな」

「えっ」

 ぼくは『カゲロウ』の腕に触れてみた。人間の肌の感触しかしない。少しだけ強く押してみると、弾力も体温も人間そのものだということがわかった。

 こうなるともう少し調べたくなる。

「もう少しだけ、ごめん」

 一言ことわりをいれて、ぼくは手を伸ばした。『カゲロウ』の顔へ向けてだ。彼女は驚いたのか少し身体をすくませたが、逃げはしなかった。我ながら少々大胆なことをしているとは思ったが、知識欲には勝てない。そのままぼくは右手で彼女の頬に触れる。なぜか少し温かかった。

「普通の肌の感触だね。ありがとう」

「そう……、あのさ、辻井くん。ちょっと訊いてもいいかなぁ……」

「何か?」

 ぼくは手を戻し、さりげなくその手を内ポケットに入れた。レーザー・スライサーを握るためだ。

「山内さんとどうして知り合ったの。どうして、彼女があなたの作ったスーツを着ていたの」

「気になるの?」

 思わずぼくは質問で返してしまった。そこはシステマーでさえも訊いてこなかったところだ。

「だって、何の接点もないんだもの。もしかして付き合って……付き合ってるの」

「そういうわけじゃないけど。偶然が重なってね。最初、集団下校しろってことでぼくとキリコが一緒に帰ることになったんだけど……そのとき『蝶』みたいなヤツに襲われて、ぼくの家に一緒に逃げ込んでね。そこにあったスーツを見たキリコが『自分が着る』って言い出したのさ」

 簡単に事情を説明すると、『カゲロウ』は小さく頷いた。深く突っ込んではこない。

「私、羨ましい……」

「誰がさ」

 少し沈んだ笑みを見せて、『カゲロウ』が言う。

「山内さんと、辻井くん。仲良さそうで……。仲良しさんっていいよね、本当に」

「言っていることがよくわからないんだけど」

「本当に仲のいい友達なんて、私霧亜しかいないんだよ。まともに喋ってくれた男の子なんて先生以外じゃ辻井くんだけだもの」

 女子集団の友好関係など、ぼくが把握しているはずもない。彼女は孤立していたのだろうか。そうは感じなかったが。

 そのあたりはキリコに訊いてみるしかないだろう。

 それよりもまとに喋ってくれたのがぼくだけというのは気にかかるセリフだ。ぼくが『カゲロウ』こと水口さんと話をしたことがあったのだろうか。どうも思い出せない。

「水口さん、ぼくが君と話をしたのって……いつだい。思い出せないのだけど」

「ああ、覚えてないと思うよ」

 ちょうど運ばれてきたクリームソーダをとり、『カゲロウ』はそう言った。

「放課後だったかなあ。それとも昼休みだったかな。確か図書室だよ……私、本を枕にして寝てたんだけど、起きたら目の前に辻井くんが座ってて」

「……あったかな、そんなこと」

「でね、起きた私になんて言ったと思う、辻井くん。自分で言ったことだけど」

「大体想像がつくけど。『読み終わった?』とかそんなとこじゃないかな」

 自分なら多分そう言うだろう。間違いない。

 『カゲロウ』は片方の眉を上げて、それからにっこり笑って小さく拍手をした。糸のような目が、ますます細くなる。

「大正解。枕にしてた本を、探してたんだろうね。『読み終わったら、ぼくに貸してくれ』なんていうんだもの。私誰も読みそうにない本を選んでたのに」

「そこで話をしたんだ?」

「司書さんにおこられるまでね、ちょっとの間だったけど。なんでこんな難しい本を読むのって訊いたら科学部だから、って言われたのよく覚えてる」

「覚えてもらえて光栄だね……」

 ぼくは苦笑した。『カゲロウ』も笑っている。

 こうして見ていれば普通の女の子なのに。あのとき、システマーが彼女を撃ったのは正解だったのではないかと思えてきた。傷を治療したのもきっとシステマーなのだろうから。

 そのとき、ぼくの携帯電話が鳴った。

「失礼」

 メールだ。携帯電話を開き、見てみると差出人はキリコ。何があったのだろうか。件名はなし、本文に一言『楽しそうね』と書いてある。

 思わず目の前の『カゲロウ』を見やると、彼女は無言で窓の外を指差している。そちらに目を向けると、店の外にキリコが立っていた。

「浮気がばれたみたいね」

 『カゲロウ』がそう言ったが、冗談じゃない。キリコはぼくが気付いたことに気付くと、大げさな動きでぼくから目をそらし、一目散に走り去っていった。どうやってここにいることがわかったのか、それ以前に授業はどうなったのか。

 いやそのようなことを考えている場合ではないのかもしれないが。

「追いかけなくていいの」

「……ああ、うん」

 ぼくは額に手をやり、席に座りなおした。

 これもシステマーがやった悪戯なのかもしれない。そう思いたい。

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