2・メタルシステマー
階段の下で泣いているキリコは、なかなか階段を上ってこない。ぼくはしばらくすれば彼女も泣き止み、目を腫らして階段を上ってきてくれるだろうと思っていた。しかし、彼女はいつまでたってもあらわれない。
しびれを切らして階段を下りてみると、そこにはしゃがみこんだまま下を向いているキリコがいる。呼びかけてみるが、返事がない。様子がおかしい。
よく耳をすませてみると、かすかな寝息が聞こえる。つまり、彼女は泣きつかれて眠ってしまったらしい。メタルスーツを着こんで生死をかけて戦ったという疲れもあるだろう。ぼくはメタルスーツを脱がせてやろうか迷ったが、結局彼女の身体に毛布をうちかけるだけにとどめた。ただし、メタルスーツの電源は落としたが。
パトカーのサイレンが近づいてくる。さて、警察に何と言おうかぼくは迷う。キリコがしたことは正当防衛的なところがあるのだが、ぼくが用意していたメタルスーツは明らかに凶器だ。銃弾だけでも十分にぼくを告訴することが可能である。
考えた結果、ぼくはメタルスーツの存在は世間、特に警察に対して秘匿することにした。ぼくが捕縛されるからという理由だけではない。これから先も、あのスーツを使って化け物たちと対峙しなければならないという状況が起こりえるからだ。そのときのために、こちらの最終兵器であるメタルスーツの情報を知る者は少ないほうがいい。
メタルスーツを着た謎の戦士は、どこからともなくやってきて、敵を倒した後飛び去った、ということにした。まるっきりテレビの中のアニメヒーローのようだが、化け物どもが堂々とうろついているような状況なのだ。これくらいはあり得る事だろう。
「なるほど、わかりました」
そのように説明したところ意外にもあっさりと、その作り話は信用された。警察の人たちは色々と周囲を調べながら、ぼくから情報を得ようとしている。ちなみに地下室への扉はしっかりと閉ざしてあり、キリコの姿は警察の目に入らないようにしてある。
「ところでそのヒーロー……らしき人物は何か名乗ったりなどはしていませんでしたか」
ぼくはそう問われて、ちょっと考えた。メタルスーツを着たキリコはヒーローらしく戦ってくれたが、何も名前を考えていなかった。これはぼくがメタルスーツを兵器として考えていたことに起因する。
「……そうですね……確か、グレイダーと名乗っていました。敵の生物と何か知り合いらしく言葉を交わし、そのように名乗りました。『グレイダー』と」
ふっ、と思いついた名前を、ぼくは告げた。メタルスーツは先ほどの戦闘だけでも改善の余地が多々見受けられた。プロトタイプなのだから当然といえば当然であるが、これから次々とグレードアップしていくであろう。そう、今から成長していく兵器なのだ。グレードアップしていく兵器、ヒーロー。『グレイダー』だ。
「ほう、名乗りを上げるとはめずらしい。『グレイダー』ですね。ありがとうございます」
グレイダーは警察にも認知されたヒーローとなった。ぼくは頷き、再び事務的な事情聴取を受けることになる。
それが終ったあと、ぼくはようやく変わり果てた夏子さんの身体に触れることが出来た。もう冷たくなっているその身体は、ぼくのこころを熱くさせる。ぼくの家族。ぼくのお姉さん、大切な人。
警察はまだ現場検証だなんだとそのあたりをウロウロしている。ぼくはもう寝ますといって地下に引き下がる。
地下室に下りると、グレイダーこと、メタルスーツを着たキリコがいた。もう目覚めていたらしく、ぼくがかけておいた毛布を羽織って、恨めしそうにぼくを見ている。
「六郎、なんで警察なんか来てるの」
「なんでって、誰かが通報したからだと思うよ。それより、その姿で警察の前に出ないで欲しいんだ。メタルスーツをもってると銃刀法違反とかもろもろの犯罪でぶちこまれるから。脱ぐの手伝うよ」
「……そうして。結構重たいし、きついから」
キリコは諦めたようにそう言った。一緒に研究室に入る。
一人では脱げないメタルスーツを脱ごうとするキリコを手伝い、重いスーツを片付ける。まだまだ改良の余地がある、これからグレードアップしていかなくてはならない。
「あぁ、重かった……。肩がこって」
「お疲れ様、キリコ。よくやってくれたよ」
「……」
ぼくはねぎらいの言葉をかけたのだが、キリコは苦笑にも見えない、苦い表情を作っただけだった。
「さっきの戦闘で、なにか欲しい追加機能とかはなかったかい。さっき説明したけれどもこのスーツはプロトタイプなんだ。改良できそうな点があれば取り入れていくけど」
「改良できそうな、欲しい追加機能?」
「うん。ただできることとできないことはあるけれども」
「一番欲しかったのは、空を飛ぶ機能」
突飛すぎる意見に、ぼくはふざけているのかと思った。メタルスーツで空を飛ぶ? 馬鹿げた話だ。こんなに重いものを、一体どうやって飛ばすのだ。敵の化け物のように生物兵器であるならともかく、重量のあるメタルスーツを羽で浮かすなど無理も甚だしい。
「飛んでどうするんだい。第一、この重いスーツが飛べると思う?」
「だって敵は飛んでるじゃない。空を飛べないと、敵を取り逃がす可能性が高いよ」
キリコはそう言った。確かにその点はぼくも考えていた。だからこそブレードだけでなく、わざわざ両腕にバルカン砲を取り付けたのだ。右肩のミサイルも誘導性能を持たせることを考えた。機動性の違いを飛び道具で補うためである。
「天才の六郎くんなら、ジェットエンジンでロボットアニメみたいにふわっ、と浮かせられるんじゃないの」
「……あれか」
天才と呼ばれて、ぼくは少し真面目に考えてみることにした。確かにエンジンと燃料の重量を考えてみても、ぼくの頭脳にかかればメタルスーツとキリコを浮かすことは無理なことではない。燃料タンクを敵に撃たれたら即死だが。しかしただ、浮かすだけでは全くダメだ。空中に吹っ飛ぶだけになる。それではただの大ジャンプに過ぎない。その状態で戦いたいというのなら姿勢制御をするための工夫が必要になるだろう。羽のような突起をあちこちにつけるなり、エネルギーを相殺させるためのノズルをつけるなりの工夫が。仮にそれらの装着ができたとして、それを制御するのはキリコ自身になる。空中での姿勢の制御は非常に難しいはずだ。ましてや、その状態で戦闘をするともなるとかなりの技術が必要となるであろう。一歩間違えれば、離陸するときのエネルギーをまるのまま使ってしまい、空中から地上へと音速にせまる勢いで落下することになり、地球と非常に激しいキスの後、代償として挽肉に変えられてしまう。
ぼくはそうした考えをキリコに伝えた。しかし、彼女は楽観的であるのか機動力が戦闘の要であると思っているのか、頑として飛行能力が必要であるという考え方を崩そうとしない。
「飛べなきゃだめだよ。機動力最重視。どんなに装甲が厚くっても、重戦車じゃ戦闘機にはおっつかない」
「……そうか」
頑固で困る。ぼくは仕方なしに空を飛ぶ方法を考えることにした。外付けユニットでなんとかするしかない。それにしてもそういうアニメのロボットたちはどういう原理で空を飛んでいるのだろうか。
「ところでキリコ、これからどうするんだい。困ってるんじゃないか?」
キリコの家が廃墟にされていたことを思い出し、ぼくは彼女に訊ねた。
「そうだね……色々ありすぎて考えてなかったけど、困るね。寝るところないと……」
彼女の表情は沈んだ。考えてなかったというよりも、考えないようにしていたのかもしれない。さすがに学生の身分で家をなくしたとなると色々ときついだろう。姉が唯一の家族、と言っていた気がするから、多分両親も既にいないのだろう。
「君さえよければ部屋をひとつ用意してあげられるけれども」
ぼくは提案をした。
見事なまでに屋敷は壊されているが、ぼくの家の金持ち加減を甘く見てはいけない。このような家くらいあちこちに持っているし、仮にこの家の金庫が全て盗まれたとしても大して痛くないくらいの金持ちなのだ。
「そう……? それは助かるけど、いいの」
「いいよ。父さんにさっき連絡したけど、一緒に逃げてる女の子がいる、と言ったら『できるだけのことをしてあげなさい』ということだったから」
「あ、ありがとう……。うん、それじゃお世話になるよ」
あっさりとキリコは決断したようだ。あまりお金も持っていなさそうだし、住む所を奪われたというのはかなり大きいのだろう。
「気にしないでほしい。ぼくはしばらく研究しに部屋にこもるけど、何か用事があったら呼び出していいよ。番号とアドレスくらい教えるから」
「家、まだ壊れてるよ? どうするつもり?」
確かにこの家はモスマンによってかなり破壊され、警察の現場検証もなにやら続いている有様だ。しかし、研究室を移転するのは面倒だし、ぼくはここに住み続けたい。
父さんが戻ったら家の改修をお願いしようと思う。それまでキリコはどうするかだが……。ぼくは研究室からの内線で使用人たちの部屋へ繋いだ。二階の客間は多分、無事のはずだから準備をしてもらおう。
しかし、ぼくの予想は甘かった。しばらくして戻ってきた父さんはこの家の現状を見るなり、即座にこの家の解体を決めた。保険でなんとかなるから、というのが父さんの言葉である。残念ながら、ぼくの研究室も移転が決まった。完全に建て直すまで三ヶ月かかるというので、ぼくらはその間ホテルに泊り込むか、という話になった。どうも父さんはキリコのことをぼくの恋人か何かだと思っているらしい。一緒に逃げてきた、というのでは勘違いしても無理はないのだが、ぼくとしてはそのほうがありがたいともいえる。説明が面倒だからだ。
しかし、ホテル泊まりでは研究がすすまないし、メタルスーツのグレードアップもはかれない。ぼくは研究施設の確保を父さんに願い出た。
結果、ぼくの研究施設は確保された。研究が続けられるのならどこだってよかったのだが、父さんが経営に携わった安ホテルの地下室を借り切ったらしい。防音も完璧で、電力もしっかり確保されている。天才であるぼくの研究が続けられるのも父さんのおかげだということを、忘れるわけにはいかないようだ。なお、例の勘違いのせいか、キリコがその安ホテルの一階の部屋を借り切ることになった。
そういうわけでぼくは研究施設の移転作業に追われ、キリコは廃墟となった家から着替えなどをホテルに運び込むことになった。引越し作業に追われるうちに、その日は暮れて行く。父さんはそれほど遠くないホテルを選んでくれたのだが、それでも荷物を運び込んで終る頃には既に真夜中に近かった。
父さんは忙しいらしく、すぐに仕事へ戻ってしまった。こんな夜中から仕事なんて、まったくどれだけ忙しいのか想像もつかない。もしかすると、変に気を回したのかもしれないが。
ぼくは運び込まれた段ボール箱を開け、研究の準備を整えている。夏子さんがいなくなった今、試験を受けるだけの気力はない。今のぼくの仕事は、メタルスーツの強化だ。全く眠くはない。
ようやく研究施設が稼動するだけの準備が出来た。壁にかけた時計を見ると午前3時になっている。
そのとき、ぼくの携帯電話が震えた。何かメールらしい。内容は簡潔で、「起きてる?」と五文字だけだ。差出人はキリコだろう。
ぼくは「起きてる」とだけ返した。一分も経たないうちに返信がくる。今度は少し長かった。「話がしたいんだけど」というものだ。話がしたいなら直接来ればいいのに。ぼくはそういう風に返信を送り、携帯電話をベッドの上に投げた。途端、がちゃりと研究室の扉が開いた。防音の扉はかなり重いはずなのに、苦にもしないで開いたその人物は、当然ながらキリコだった。ぼくを睨みつけながらドアを開いたまま、部屋の外で突っ立っている。
「……話があるんだけど」
どういうわけか彼女は頬を赤らめて、目尻に涙を浮かべている。そんな状態でこちらを睨みつけられても、何かわがままをいう年下の女の子という感じで、むしろ微笑ましい。が、彼女の顔は真剣なので笑えない。ぼくは設計図を書いていた手を止めて、部屋の隅に置いていたパイプ椅子をとって立てた。
「座るといいよ」
「ありがとう」
椅子をすすめると、キリコはぼくを睨むのをやめて、そこへ座った。素直なものだ。
「六郎、頼みがあるんだよ」
「うん」
青いパジャマの上からダッフルコートを着込んだ姿だが、キリコは椅子に座るなり足を組んだ。とても頼みごとをする態度には見えない。
「……その、メタルスーツ……私にくれない?」
「は?」
ぼくはいつぞや、ぼくが頼みごとをしたときのキリコのように答えた。ぼくが必死に研究し、やっとプロトタイプを完成したばかりのメタルスーツを譲与するわけにいかないのは当然だが、どうしてそんなことを言い出すのか。
「あげるわけにはいかないけど。どうしてそういうことを言い出すのさ。ぼくが今研究してるのはこれだよ?」
「じゃなくってさ。警察に言うわけにはいかないって、今日言ったじゃない、六郎。だったら、どうやってその研究の成果を発表するのさ? どうせ何も考えてなかったんでしょう」
言われてから、ぼくは気付いた。なるほどキリコの指摘は正しい。その言葉の『どうせ』という部分は至極気に入らないが、ここは見逃しておくとしよう。
「その指摘は癪だけど正しいね。それでさっきの提案とどういう関係があるのかな」
ぼくは立ち上がった。どうも話が込み入ってきそうだ。どうせキリコも今日の興奮が残っている上に昼間眠ってしまったので眠れないのだろうが、コーヒーでも入れてやろう。すでにぼくの机の上のポットはお湯を沸かしている。
「何してるの、六郎」
「コーヒーが欲しくなったんだ。キリコも飲むかい」
「私、ミルクココアね。コーヒー嫌いだから」
なんともお子様なことを言うキリコに苦笑しかけたが、ちゃんと注文に答えてココアを入れてやった。インスタントのココアを濃い目にいれて、ミルクで薄めてから差し出した。これで猫舌だ、なんて言い出したら笑いものなのだがと思っていると、
「あ、ぬるくていいね。私熱いの飲めないから、ちょうどよかった」
どこまでお子様なのかと思い、ぼくは悪いと思いながらも口元が歪むのをおさえられなかった。一方キリコはどうしてぼくが笑っているのかわからない様子で、不思議そうな顔をしながらも会話を続ける。
「ありがとう……で、六郎。折角グレードアップさせていっても、それを着る人がいないんじゃない。六郎が着るつもりだったの?」
「そのつもりだったけど」
ぼくはブラックコーヒーを口に運ぶ。当たり前だがメタルスーツはもともと僕自身が着るために作ったようなものだ。昼間のときはぼくのひざが震えていたばかりにキリコにメタルスーツを着せることになったが、やはりこれはぼくが着るべきなのだ。責任の所在から考えても、本来の用途から考えてもだ。
「今後も私が着る、というわけにはいかないの?」
「…………」
その申し出が来ないとは思っていなかったが、ぼくはすぐに返答しなかった。
少し考える必要がある。
メタルスーツはぼくの研究室にある。これからバラして改修予定だ。僕自身はほとんどこの研究室に住み込む予定だと言っていい。だからいざとなればすぐにメタルスーツを着ることができる。一人では脱げないという点は近く、着脱専用の器具を開発することでなんとかする方針だ。しかし、キリコは女性だし、ぼくと違って普通の学生だから学校に行かなければならない。部活動はすでに引退しているが、昼間はここにいないのだ。夕方にはここに戻ってきてホテルの一階にいることになるとはいえ、この空いた時間帯に『敵』が出たらどうするというのか。
しかし一方、いざ戦闘となったときにはメタルスーツの構造上、動きのサポートはしてくれるが戦闘技術についてのサポートはほとんどない。中身は戦闘のベテランであるに越したことはないのだ。餅は餅屋、ということは昼間の戦闘でわかっている。本来メタルスーツは誰でもがあいつと戦えるように、という考えで作られたものだ。しかし、人間の体が奇跡的なバランスで作られている以上、勝手に器具でそのバランスを壊すと、ろくなことにならない。つまり頭が金属フレームのサポートで増幅された動きについていけなくなるのだ。ぼく自身、まだ一度もメタルスーツを着たことがないのだが、オペラグラスでキリコの動きを見ているだけでも、それはよくわかる。慣れの問題なのかもしれないが、万が一にも負けるわけにはいかないのだ。負けても次のあるスポーツの試合ではない。負けてしまったら、即座に地獄落ちだ。
キリコが地獄落ちになっても痛くも痒くもない、というわけではないが、こうして考えて見るとキリコがメタルスーツを着てくれるのならそうしたほうがいいのではないかと思えてきた。ただ、いつ戦闘が必要な状況になるかもわからない、加えて『狙われているのがキリコかもしれない』という情報もあるのだから、彼女には常に、少なくともこのホテルの中にいてもらいたい。
そこでぼくは条件を持ち出すことにした。
「キリコが着てくれるのなら、歓迎だよ。でも、二つだけ条件を出していいだろうか」
「何か嫌な予感がするけど、聞いておくよ」
顔をしかめながらもキリコが頷く。ぼくは条件を提示した。
「なるべく早く学校から帰ってきて、このホテル内に待機しておいて欲しい。それと、常に繋がるような連絡方法が欲しい。授業中で携帯がOFFだった、なんていうのはナシだよ」
「わかった。連絡方法は……携帯ONは怖いからしたくないよ。そこは天才の六郎に、何か考えてもらいたいけど」
なんだかこの女、随分遠慮がなくなってきたように思う。ぼくの研究の邪魔にさえならなければ別にどうでもいいが。
「わかったよ……時代遅れだがポケベルをあげよう。連絡したら電気刺激を送るタイプのね。寝てても気付くだろう」
もっといい方法が考え付いたにもかかわらず、ぼくは肉体的な意味でちょっと痛い通信手段を提案した。キリコは起きている自信がないのか、もっといい方法が考え付かないのか、その提案を承知した。
「それとね、六郎。私メタルスーツを着て戦うじゃない。……心苦しくはあるんだけど、賃金は出ないの?」
「賃金?」
ちょっと図々しいとは思ったが、こちらからも条件を出しているので、一応聞くだけ聞いておくことにした。
「その……トレーニングしたいから、六郎君に宿題を頼みたいのです」
声のトーンを落とし、急に敬語になってキリコがそう言った時、ぼくは我慢できずに笑いそうになった。あまりにも緊張感が抜けたセリフだったからだ。そのくらい自分で何とかしろ、という言葉さえもぼくは思いつかなかった。なんてお子様だ、という思いのほうが強かったくらいである。
しかし大声をあげて笑うのだけはなんとかこらえ、肩で笑いながら机に突っ伏した。だめだった。あとからあとから笑いがこみあげてくる。賃金が宿題とは、なんたる労働者だろう。
「……私は、真剣なんだけどなぁ」
椅子の上で膝を抱えるように座りながら、ぬるいミルクココアを飲むキリコは、その体躯よりもずっと幼い印象をぼくに与えるのだった。
何日か経ってから、町内の集会所で葬儀が行われた。誰あろう、ぼくたちを逃がして死んでしまった夏子さんのものだ。
夏子さんの葬儀にはぼくも出席した。多くの人が参列し、焼香をしていく。ぼくも喪服を着て行き、長い間お世話になった夏子さんとの別れを惜しんだのだった。
ぼくにとってはやはり夏子さんはお姉さんでもあったし、響きが何となく悪いが第二の母親でもあった。むしろ母親よりもぼくにずっと優しく、そして身近な存在であったのだ。その彼女が死んで、悲しくないはずがない。出棺していく夏子さんの棺を見送りながら、ぼくは涙がでてくるのをおさえられなかった。ぼくのとなりにはなぜか自分も参列するといって出てきたキリコがいる。さすがに喪服を用意できなかったらしく制服だが、月並高校の制服は茶色のブレザーだからそれほど場違いではない。とはいえ目立つが。
「優しい人だったんだね」
キリコがそう言ったのが聞こえたが、ぼくは答えることができなかった。周囲を見てみると目を腫らしている人が多く見える。ぼく以外の人にとっても、やはり夏子さんは慕われた人だったのだ。会場を後にするときに振り返った。そのとき、ぼくはようやく夏子さんのフルネームを知ったのだった。
火葬場まで行く気力はなかった。
ぼくはホテルに戻り、地下の研究室に入る。キリコも自分の部屋に戻ってトレーニングでもしているのだろう。ぼくは事務机に座り、書きかけだった設計図を見つめた。しかし、やる気は全く湧いてこない。部屋の端に置いてあるメタルスーツを見やると、その下には作りかけの『カノン』や飛行ユニットが置いてある。だが、それらを触ろうとも思えない。
もう夏子さんはいないのだという、当たり前の事実がこころにのしかかってくる。ぼくは立ち上がって、ベッドに向かって倒れこんだ。何も考える気力が湧かない。一日寝ていようかとも思ったくらいだ。
そこで気がついたのだが、ぼくは夏子さんの写真を一枚も持っていない。夏子さんの写真。それどころか、ぼくは写真とかアルバムとか、まるっきり持っていないのだ。入学式、卒業式、ぼくが何かするときにカメラをもっているのは大体夏子さん。そして被写体はぼくだった。なんてことだ、ぼくは研究室の移転だけを考えていて、そういうものに全く関心を寄せなかった。
「六郎!」
後悔の念にとらわれているぼくの耳に、突き刺さるような声が飛んできた。研究室のドアを開けたのはキリコだろう。
「テレビ見た?! ニュース!」
「……何事だい」
制服のままのキリコが踏み込んできて、勝手に部屋のテレビをつける。ぼくは少々呆れたが、それだけ慌てているからには何か重大なことなのだろうと思って一応テレビに注目した。
どこかの市街地の中継のようであるが、空を映している。市街地ではなく、空を。天気予報かと思ったが、違うらしい。何か空に浮いている物体を映しているようだ。何か人の形をした……。
ぼくは目を見開いて、画面に食いついた。グレイダーそっくりの何かが空を飛んでいる!
「な……なんだこれはっ?」
しかも、もう空に浮いているものはそれだけではない。グレイダーもどきの他に、カゲロウのような羽を背中に生やした怪物が空に浮いており、両者は激しく争っているようであった。完全な空中戦だ。
「六郎が作ったんじゃなかったんだね、このスーツ。六郎に並ぶような天才さんがもう一人いて、空飛ぶメタルスーツを作っちゃったってことかな」
「ぼくに並ぶ天才? そうなのか?!」
ぼくは画面に顔を近づけてみたが、どうにも画像が遠い。グレイダーにかなり近いシルエットをしているのだが、この空飛ぶ何かが、一体なんであるのかはわからない。だが、『飛行機能を持ったメタルスーツ』に極めて近い何かを着込んだ人間であることは間違いないようだ。少なくともぼくの知らない、誰かであろうが。
「六郎、これって……味方、だよね?」
「えっ?」
問われて、ぼくは返答に困った。テレビでは謎の怪物に対抗しているヒーローらしきものとして紹介している。与太話と、インチキビデオ画像というような扱いを受けそうな感じがするが、こういうご時世だ。突飛なものであろうとも救いが欲しいのだろう。英雄は求められて、まつりあげられることで誕生するものだ。
「まぁ味方のはずだけど……」
ぼくは言葉を濁した。実際、どちらが味方なのかはわからないのだ。もしかするとカゲロウのほうが人間の味方だった可能性もあるし、ただ単に二人のナワバリ争いだった可能性もある。
「頭から全部、味方だって信用していかないほうがいいな。寝首をかかれることになるかもしれないから」
よって、ぼくはそんな風に言った。今の段階で敵味方をスッパリ決めることは不可能だ。キリコはふーんと納得した様子を見せたが、すぐさま次の質問をぼくにぶつけてきた。
「ところで、この人飛んでるけど。メタルスーツを飛ばすのって結局できそうなの?」
「できそう? 君がそうしてくれと頼んだんじゃないか。ちゃんと設計して、飛ばすように考えてあるさ」
作りかけの飛行ユニットを指差すと、キリコは目を見開いた。
「すごい! あんな重いものを本当に飛ばせるんだ!」
「まぁね……。でも、最初にも言ったけど空を飛ぶってことは本当に危険なんだよ。飛行機を飛ばすのに何人の人間が携わっているか知ってるかい? それでも落ちるときは落ちるんだから、そういうところは知っておいて欲しいな。君が敵に撃墜されて地面に落っこちていくのは見たくないから」
「わかってるよ。私だって死ぬのは嫌だし、危険なことはわかる。でも、それでも空に飛べないとあいつらに勝てない、それが私にはわかるんだよ」
「…………」
そう言われると、ぼくも反論できない。特に、今しがたテレビで見た空中戦は説得力がありすぎる。重戦車では戦闘機に太刀打ちできないというキリコの論は、全く正論だったわけである。
「これが完成したらキリコ、君にちょっと付き合ってもらうよ。飛行ユニットの操作は多分、すごくむずかしくなる。飛行機が飛ぶのとは違うからね。ましてや、君はその状態で敵と戦うんだ。自動車の免許を取るより遥かに難しいと思うけど、お付き合い宜しく」
「……ラジコンヘリを飛ばすより難しい?」
「うん」
ぼくは頷いた。とてつもないバランス感覚と、精密な動作が必要になるのは間違いない。もし少しでも操作を間違えば、地面に向かって真っ逆さまだ。そうならないためには訓練しかないのである。
「言い出したのは私だから、仕方ないね。それは付き合うよ」
キリコは頭を掻きながら、パイプ椅子を取り出してそこに座った。長居するつもりらしい。
「あとさ、これ。明日までなんだけど」
そう言いながらキリコは何か冊子をぼくに渡してきた。どうやら物理のワークブックのようだ。面倒くさい計算をしなくてはならないところばかりが残っている。
彼女の宿題をすることは引き受けているわけだが、どうもこういう面倒なところばかりを頼んでくる。専属のパイロットを一人雇っているその賃金がこのくらいですむなら安いものだが、できれば自分でやってもらえればと思う。言っても仕方のないことだが。ぼくはそのワークを机の上に置いた。
「やっておくよ」
「ありがと六郎、ミルクココアもらうね」
結局、それを頼みに来たのか。ぼくが引き受けるとキリコはぱっと明るい表情になり、勝手にカップをとってココアを作り始めた。しかしこの子はよほどココアが好きらしい。コーヒーがだめならば、紅茶でも飲めばいいのにと思ったりもする。
「ぼくにもコーヒーを入れてくれ」
ワークブックを開きながらそう言い、引き出しから電卓を取り出す。キリコの持ってきたワークブックと同じものをぼくも持っているはずなのだが、あまり覚えがない。キリコの持ってきたぬるいコーヒーを飲みつつ、面倒に思いながらもぼくは解答欄を埋めていく。コーヒーがやけにぬるいのはキリコが熱いものを飲めないからであり、悪意があってそうしているのではないのだろう。そのことを咎めるつもりはないが、今後彼女にコーヒーを頼むのはやめようと思った。なお、そのキリコはミルクココアを片手に、テレビを眺めているようだ。
「ね、六郎」
ワークブックが終ろうかという頃、また名前を呼ばれた。ぼくは解答欄を全部埋めてから振り返り、冷たくなったコーヒーを飲み干した。
「新聞ない? さっきニュースでやってたんだけど、深夜に何人にも人が襲われてるんだって」
「新聞? ないよ。それよりそっちのパソコンつけてニュースサイトをあさったほうがいいよ」
キリコの言っているニュースは、多分三面記事だろう。このホテルに泊まってからというもの、ロビーに出れば新聞が置いてあるので読み放題なのだが、この部屋にこもっているぼくは精々一面を流し読みするくらいであった。
パソコンの操作に四苦八苦しているキリコを見かねたぼくは彼女からマウスを譲り受け、ニュースサイトにアクセスした。新聞の縮小版などもチェックし、それらしいニュースを抽出する。確かにここ最近、深夜に人が襲われている。同じような事件が三度ほどあり、被害者は大量の血液を失った状態で発見されているようだ。失血死した人もいるらしい。
奇妙なのは現場に流れた血液がほとんどないことと、被害者に大きな傷がないこと。吸血鬼か、なんなのか。そんな印象を与える事件だ。深夜徘徊が危険だという一例でもあるが、妙な事件である。例の化け物が何かかかわっていそうなにおいがする。
「この犯人、ちょっと気になるよね。メタルスーツなら何とかなりそうじゃない?」
「ふーん……。確かにメタルスーツなら何とか……まだ飛行ユニットは完成してないけどいいのかい?」
ぼくはキリコがただ単に空を飛んでみたいだけのような気がして、そう訊ねてみた。だが、違ったらしい。
「手をこまねいてみていたら、私の姉さんや夏子さんみたいな被害者が増えるよ。私たちにはそれを防ぐ手段があるのだから、使わなければいけないと思うよ」
「わかった」
しっかりとした考えが、キリコにもあるらしい。正義のヒーローとしては申し分のない考え方だ。彼女にメタルスーツを預けたのは正解だったかと思う。
「ただし問題がある」
「どういう問題?」
キリコはいつの間にか手にビスケットの袋を持っていた。それを開きながらぼくに問いかける。
ぼくはそのビスケットの袋がはじけるように開かれ、床に幾つかのビスケットが散乱するのを見届けてから、答えた。
「メタルスーツの存在を警察に秘匿していること。その犯人を見つけてから着込んでいたのでは間に合わないし、着込んだままウロウロするのは目立ちすぎる」
「…………そうだね。六郎、手は何かあるの? 作戦とか」
床に散らばったビスケットを拾い集めるキリコ。せっせと拾うその姿を見ながらぼくは自分でコーヒーを入れなおすために立ち上がる。ぬるいコーヒーは限界だ。
「ないわけじゃないな。その代わり、キリコ。ちょっと付き合ってもらうよ」
「へ?」
キリコはビスケットの袋を持ったままそう言うのだった。
三日後の夜。ぼくは眠い目をこすりながらホテルの屋上に座っていた。分厚いコートを着込み、寒気に耐えている。例の怪物、血を吸う怪物だとキリコは主張していたが、ぼくはそこから彼を『モスキート』と仮に名づけていた。その『モスキート』の事件の発生周期をみる限り、今夜あたりまた出没しそうな気配がするのである。
『モスキート』、つまり『蚊』だが、あれは本来自分の卵を産むためのエネルギーをつくるために、手っ取り早く人間や家畜の血を吸っている、という話を聞いたことがある。が、今回は何度も事件が起こっている。と、いうことは『モスキート』はそうした一時的なエネルギーのためだけにではなく、生きるための栄養摂取のために吸血している可能性が高い。つまり、奴は定期的に人間の血を吸う必要があるのだ。血吸いコウモリか、ミズカマキリのように。
もちろん、これらはぼくの予想に過ぎない。ただ単に、何らかの理由で大量の人間の血液が必要になった人間が、何らかの器具で人間の血液を奪っている、という可能性もなくはない。しかしいずれにしても事件発生が周期的である以上、『犯人は周期的に人間の血を必要としている』という可能性は高いので、ぼくとキリコはこうして町を見下ろしているというわけである。すでに街は暗く、肉眼では何も見えない。ぼくは暗視スコープに望遠レンズを合わせたゴーグルをつけて、町を見ている。その横にいるキリコはメタルスーツを着込んだまま、のしのしと屋上を歩き回っていた。暇なのか、あるいは寒いので動いていないと縮こまってしまいそうなのかはわからないが、不機嫌なのは確かなようだ。キリコの着ているメタルスーツの背中の、肩の辺りに装備が一つ追加されている。先ほど完成したばかりの『カノン』だった。構造上の理由でかなり長くなってしまった。縦にして背負わせてみたがキリコの身長を超えていたので、横にしてある。いずれ飛行ユニットも背負わせるつもりなのだから、縦にしていると邪魔だと考え、両肩に乗せるように装着した。使うときにはもちろん取り外して、手に持って使うことになる。
ぼくはかれこれ数時間に渡って町を見下ろしていた。集中力はあるほうだと思っているが、何の事件も感じられない。精々、チカンに間違われた男性が必死の釈明をしているところとか、浮気がばれた男性の必死の釈明だとか、警察のお世話になる酔っ払いくらいがいいところだ。それにこの冬空、師走。街はそうでなくともあわただしいし、忘年会シーズンらしく、どことなく浮ついている。
「六郎……」
いつの間にか座り込んでいたキリコがあくびをしていた。確かに眠くなるのもわかるが、これから戦いに出かけるかもしれないのだから、緊張感を保てないものだろうか。
「今何時?」
その声に、ぼくは時計を確認した。
「三時前だよ」
「眠いよ……」
あまりそういう気合の入らない返答は聞きたくないのだが、と思う。
「キリコ、これは君が言い出したことなんだが。余計な犠牲者を増やしたくないのなら頑張ってくれ。結果を出すには不断の努力が不可欠だろう」
「わかってるよ。けど、六郎も悪いよ。睡眠時間足りてないから」
本当に眠そうなのだが、キリコも言いたいだけなのだろう。本来、責任感はある人間だからいざとなれば多分頑張ってくれるはずだ。とはいえ、確かに昨日も朝の四時くらいまで付き合わせたから、確かに睡眠時間は足りてない。しかし遊んでいたわけではなくて戦闘に勝つために、作戦成功のために必要な訓練のためなのだ。仕方のないところだった。
「すまないね。しかし頑張ってくれ。これが成功したら常時、ぼくの部屋にミルクココアとビスケットを用意しておくことを約束するから」
「……それ、いつでも食べに行っていいの?」
「ご自由に」
そういいながらぼくはゴーグルを上げ、ポケットから眠気覚ましのガムを取り出してキリコに与えた。キリコは口元を手で隠したが、目が完全に笑っている。完全に食べ物で釣られているようだ。
安い女だ。ぼくはそう思ったが、素直で可愛い奴だとも、思えないこともない。ミルクココアとビスケット。どれだけ高価なビスケットを買っても500円以内におさまるだろう。金持ちであるぼくからしてみれば取るに足らない金額だが、キリコの感覚にしてもそれほど高価ではないだろう。値段の問題ではないのかもしれないが、これでやる気を出してくれるのなら安い。
「ちょっとやる気でたよ」
「それは何より」
ぼくは再びゴーグルをかけ、町を見下ろした。何時間もかけて情報を調べたり、作戦をたてたり、こうして寒空の下で町をゴーグルで見回したりというぼくの地味な努力。さきほどキリコにも言ったことだが、そうした不断の努力が結果に結びつくのである。努力していても結果が出ないということはよくあることだが、結果を出しているものは必ず努力をしている。
天才とぼくはよく自分のことを言うが、天才というのは『自覚』を持った人間のことなのだとぼくは思っている。つまり、どれだけ人間が怠惰で、覚えが悪く、逃避しやすい性格かということを知っている人間が天才なのだ。その自覚を持ち、自分が努力から逃げないだけの環境を作り、覚えがよくなるような勉強方法を取り入れ、不断の努力が行える者。それが天才だ。ただそれだけのことができれば、この世界では天才になれる。なぜなら凡人はそうしたことができないからだ。ぼくがよく自分のことを天才だと自称するのも、常に天才であり続けなければならないという枷を自分にはめて、努力を継続せざるを得ないように追い込むためでもあるのだ。つまり、天才とはその結果を出す時間の何倍、何十倍のもの時間をかけた努力に裏打ちされたものである。それがぼくの信条だ。
ただ漠然と町を見ているだけではない。ぼくはこれまでの事件を何度も見返した。事件現場に足を運ぶことさえもした。どういった場所で事件が起きているのか、犯人がどうした考えでこれを行っているのか、突き詰められるところは全て突き詰めた。結果的に、ぼくはこの町を見下ろす際の『要注意箇所』をピックアップしている。事件のおきそうな箇所を既に幾つか候補としてあげているわけであり、そこを重点的に見ている。
あとはこのぼくの、努力が結果となるか、否かの問題だ。
ぼくにできることはそこまでである。敵を発見することまでが、ぼくの努力によってできること。あとはぼくのつくったメタルスーツ、そして『カノン』とキリコに委ねるしかない。『モスキート』の実力がどれほどかはわからないが、油断していて勝てる相手ではないだろう。
そのとき、闇夜の中に動きがあった。
「キリコ、来た」
ぼくはゴーグルをつけたままそう言った。誰かが、何者かに裏路地に引っ張り込まれるのが見えたのだ。
「出番?」
「ああ、行ってくれ。練習どおりに」
キリコはバイザーを下ろし、屋上の端に置いてあったハンググライダーのような骨組みを取り出した。いちおうハンググライダーとして飛べるように作ってあるが、小さなエンジンをくっつけてある。簡易的な飛行ユニットのようなものだ。本格的なものはまだ完成していないが、このくらいの飛行ユニットならすぐに作ることが出来る。昨日までキリコにはこれの操作を覚えてもらうために夜遅くまで付き合ってもらっていた。夜間飛行はかなり危険だが、このくらいの作戦しか思いつかない。自動車で運ぶ方法もないことはないのだが、戦闘の巻き添えになって壊される危険性や、幾つかの要注意箇所が車では入れないところだったので結局空から行くしかないという結論となったのである。
「よしっ……ビスケットとココアのために。気合入れていきますか!」
場所を教えるとキリコはガムを吐き、屋上から飛び立って行った。余計な被害者を出さないためにやっているのではなかったのか、とぼくは思ったが、突っ込まないことにする。
ちなみにこのハンググライダーはエンジンを取り付けてはいるものの、滑空しかできない。ここから先は、キリコを信じるしかないようだ。ぼくはキリコとの通話をONに切り替え、ホテルの中に戻った。ぼくは車で現地まで行くことになる。屋上からではさすがに細かいところまでは見えないし、戦闘が終った後のメタルスーツの回収もしなくてはならないからだ。
エレベーターを使ってホテルの一階に降りて、さらにロビーを抜け自動ドアを抜けて駐車場に戻ったとき、キリコが何か言った。
『ごめん、六郎! 失敗した!』
「えっ、どうした?」
何か慌てた様子だったので、ぼくは焦った。軽自動車に乗り込みながら、インカムをスピーカーとマイクに接続する。運転しながらインカムで話すのは危ないから、こうするしかない。なお、一応念のために言うがぼくはすでに18歳になっており、免許をとっている。
『犯人の姿が見えたから、空中から蹴りでも入れてやろうと思ったんだけど、グライダーごと突っ込んじゃって、壊しちゃったよ……』
そんなことか。ぼくは安堵した。
「君が無事ならそれでいい。それより、敵はどうなった?」
『残念ながら平気な顔してるよ。ただ、あんまり夜目が利かないみたいでふらふらしてる。今、襲われそうになってた人を助けて、ちょっと様子を見てる感じ』
キリコはとりあえず大丈夫な様子だ。眠気も吹っ飛んだことだろう。
「バルカンは使えないの?」
ぼくは訊ねた。様子など見ていないで、決めてしまえるときに決めてしまわなければならないだろうに。
『20発しかないんだよ。少し慎重になるよ』
「奇襲できるなら使う価値はあるよ」
弾数を気にするキリコに声をかける。キリコとぼくではやや価値観が違うようだ。前回の戦いでも彼女はバルカン砲を確実に当てられる状況を作ろうとして作戦を立てた。アームバルカンは威嚇射撃や牽制の目的で作ったから、作ったぼくとしては別に弾切れを起こしても痛くもないだろうと思っている。それに、今は『カノン』も完成しているのである。特にアームバルカンの弾丸をけちる必要はないだろう。『カノン』の装弾数は2発であるが、一撃決まればまず勝ちというくらいに強力な武器である。
『…………ね、六郎。この“カノン”って武器、バルカンよりは精度があるんじゃない?』
「ちょっと待ちなよ。まさか、物陰から『カノン』で敵を狙撃するつもりかい」
『それが一番いいと思うんだけど。命中したら勝ちでしょ』
ぼくは目の前の赤信号を恨む。車はまだ、現場に着かない。
しかしキリコはもう背負っていた『カノン』を取り外して構え、『モスキート』に狙いをつけているようだ。ぼくは爆音を警戒し、通話を切る。途端、車の外から強烈な破裂音が聞こえてきた。どうやら間に合ったらしい。
この破裂音はキリコが『カノン』の引き金を引いたということを意味する。果たして、『モスキート』に命中させることはできたのだろうか。
『はずれた……』
通話をONに戻した途端、キリコの声が結果を伝えていた。自分に直接かかわってくることでないのであれば笑い話になっていたところだ。しかし、ぼくはすんでしまったことを悔やんでも仕方がないと思っている。
「キリコ、『カノン』の装弾数は二発だけだ。あとの一発は今使うべきではない。ブレードを抜くんだ」
『いっ、今、それどころじゃ……』
ばたばたという喧騒の音が聞こえた後、足音が高らかに響いた。逃げているようだ。
どうして逃げているのだろうか。メタルスーツで戦うべきであるのに。臆病風に吹かれたとは考えにくいが、何をしているのか問わねばならなかった。
「どうした、キリコ。戦うんだ」
『わかってるけど、待ってよ。今は逃げたいの』
「何が原因?」
『あいつ、“カノン”を避けたんだよ』
避けた、という部分を強調してキリコは言った。避けた?
言い訳ではなさそうである。それだけ『モスキート』は機敏だということだろうか。ぼくはようやく現場まで到着した。急いで車を降りたが、ちょうどそこへメタルスーツを着たキリコが走ってくるところだった。
現場は裏路地の中で、ちょっと路地が複雑に絡み合って迷路のようになっている。
こんなところで『カノン』を使ったのだから、さぞかし音が響いたことだろう。ご近所様たちが花火でもやっていると勘違いしてくれていたらいいのだが。
路地の幅はニメートルギリギリというところである。ぼくは急いで物陰に隠れる。
「キリコ、君の姿を確認した。敵はどこに? 君の背後か?」
『お察しの通りだよ』
息を切らせながらキリコがぼくの質問に答えた。
『私の背後にいるよ!』
天才であるぼくは、素早くキリコの背後を見て、そこに何もないことを知った。つぎにぼくはその上側の空間を見やった。そしてその瞬間、確かにキリコの背後にそれがいることを知るのである。
「ふせろ、キリコ!」
ぼくは叫んでいた。想像以上に『モスキート』の動きが速かったのだ。ぼくの声を聞き、キリコは素早く地面に倒れこむようにして伏せた。
キリコの背中に向けて落っこちるような勢いで迫ってきた『モスキート』の右腕が空を切る。モスキートと名づけてしまったが、その体躯はほとんど人間に近く、外骨格と長い口吻、背中の羽が見られる以外は大して違わない。だが彼はこの狭い場所で『カノン』の一撃を避けるくらいに敏捷性があるらしい。
「あわわっ」
地面を転がり、起き上がるキリコ。大急ぎで右耳のスイッチをひねり、背中からブレードをとる。途端、がつんという鈍い音がした。とりだしたばかりのブレードと敵の足がぶつかりあったのだ。場所がせまくて、お互いに動きづらいのかもしれない。
何度かぶつかりあった後、キリコは飛び掛るように一撃を振り下ろした。『モスキート』が両腕を交差させ、それを受け止める。ブレードならば一刀両断かと思ったが、鈍い音がしただけだった。見事に受け止められている。ブレードも今後強化策を練らなければならないようだなとぼくは思う。キリコは受け止められたが離れなかった。そのまま力押しで敵の両腕を切断するつもりらしい。だが、『モスキート』も両腕を掲げ、それを振り払おうとしている。あと少しでもブレードが浮いたら、片足を振り上げて蹴りを見舞うつもりであろう。
「くっ!」
「貴様……」
唸るような声を『モスキート』があげた。ぼくはびっくりした。こいつらは、喋ることができるのか。
一体どこから声を出しているのか、咽喉はどこにあるのか、ぼくはそういう疑問を抱いたが、今はそんなことを言っている場合ではないようだ。
「あんた、喋れるの!」
キリコがぼくに代わるように質問をぶつける。『モスキート』は答えた。
「当たり前だ、元は人間だからな……。貴様はなんで俺の邪魔をするんだ」
「見過ごせないからだよ、あんたのやってることが!」
元は人間、という部分をキリコは無視している。だが、ぼくは興味を引かれた。彼らは何者かによって人間から、あのような姿に改造されたのか。グレイダーのように機械によって強化するのではなく、人間というカテゴリーからも逸脱し、細胞段階から変異した存在になることで、力を引き上げる。ぼくには思いもよらないことだ。第一、そんなことは許されない。
「復讐しているだけなんだよ、事情も知らず……知らずに」
「事情?」
キリコの目が燃えた。怒っている。
「そんなことを言うんだったら、私の姉さんを返しなさいよ。夏子さんを返しなさいよ! 身勝手なことを言うから!」
ブレードを引き離し、キリコは左手を『モスキート』に向け、アームバルカンを発射した。連続する発射音と共に、弾丸が敵を襲う。だが、『モスキート』は両腕で顔を護り、目や口吻への着弾を避けた。外骨格に当たった弾丸は跳ね返って散っていく。
「ふん!」
敵は顔面を両腕で護った格好のまま直進し、キリコに体当たりをしかける。キリコは背後を一瞬振り返ったが、隠れているぼくを見てから、自分も突進してくる『モスキート』体当たりを仕掛けた。後ろに下がるとぼくに危害が及ぶと判断したのだろう。お礼を言うべきところなのかもしれないが、その暇がない。
メタルスーツを着たキリコと『モスキート』がぶつかり合った。反動があるはずだが、互いに足を踏ん張り、跳ね返りを押さえ込む。『モスキート』は真正面からぶつかり、キリコはそこへ左肩からぶつかった。そのまま力比べになるかと思ったが、キリコは素早く左肩に右腕で触れた。そこには、発射スイッチがある。
「ぐわっ!!」
キリコの右肩が輝き、熱光線が発射された。たった一発しか撃てない武器だが、ここで放てば確かに避けられることはない。キリコの判断力に賞賛を送りたい気分にさえなる。至近距離から熱光線をくらった『モスキート』は燃え上がり、よろめいた。
そこへさらに踏み込み、キリコは気合を乗せてブレードを振り下ろす。
「きえぇい!」
いい声だ。今度こそブレードは『モスキート』の外骨格を切り裂いた。だが、それは彼の左手を切断したにすぎない。致命傷ではない。さらに踏み込んでもう一撃といきたいところだが、キリコはそれを避け、一度下がって今度は右腕のアームバルカンを発射する。何発か撃ったところでかしゃん、と金属音が空しく鳴る。弾切れだ。
『モスキート』は呻いていた。バルカンを食らっているようだが、さしたる反応がない。かと思えば、いきなり空に浮き上がり、キリコに突撃を仕掛けてくる。キリコはそれをブレードで受けたが、支えきれずに吹き飛ばされる。
「くっ」
ぼくの近くまで吹き飛ばされてきたキリコは、倒れたまま背中の『カノン』を抜いて『モスキート』に向けた。確かに倒れたまま攻撃できる武器はそれしかない。しかし、『モスキート』は追撃をかけない。彼も一度『カノン』を向けられているのでその威力を警戒しているのだろう。バルカンが通じない相手であるのならば、『カノン』で貫くしかないが、彼は一度『カノン』を避けている。『カノン』の弾丸は二発しか入っていない。さきほど一発撃ったので次が最後だ。さすがのキリコも発射することができないでいる。
「……ちっ」
舌打ちをするキリコ。少しずつ、ゆっくりと起き上がるが、『カノン』の狙いは敵につけたままだ。しかし、敵は動かない。そうしている間に『モスキート』を焦がしていた炎は立ち消え、彼は残った右腕をキリコに向けた。
「姉さんを返せというのなら、俺は息子を返してもらいたい」
「息子?」
疲れが出てきたのか、キリコは少し息を切らしながら問い返す。
「俺の息子は殺された、社会に殺された。まだ13歳、これからだというときにだ。今後大きくなり俺と酒も飲み交わし、彼女のひとりも出来たかと冷やかしながら、いつかは俺のもとを巣立っていくという、そんな楽しみがあったのに」
『モスキート』にも事情があるらしい。そんなことは当たり前のことで、いちいち聞いてやる必要性をぼくは感じなかった。が、キリコは相手の言葉を無視して斬りかかれるような人間ではない。
「金をせびられて、殴られ叩かれ、蔑まれて貶されて、羞恥にまみれた陰湿な暴力を受け、息子は殺された。誰にも助けを求められずにだ!」
叫んだ。
キリコは斬りかからない。
「俺は許せん、息子を殺したこの社会が、世界が、秩序が許せない! 全部、全部俺が食らい尽くして殺し尽くし、真っ白で綺麗な世界にしてやるのだ、この世から、一切の悪を排除するのならば、全てが無に帰らなくてはダメなんだ」
「あ、そう」
イライラしたようにキリコは言い捨てる。
「短絡的だよ。身勝手なことを言わないで…………」
キリコも怒っていた。それぞれの事情があるのは当たり前であり、キリコにもぼくにも、事情がある。
『モスキート』は社会全体への不満を持って、どういう手段をとったのかは不明であるものの改造を受けてあのような姿となり、夜な夜な人を殺しているのだ。それは許されることではない。
「私は、そんな思考を受け付けないから!」
「邪魔をするなら貴様も!」
『モスキート』は飛び掛った。素早く動き回り、ぼくの目にも止まらない速さで旋回した。
「うっ?!」
彼はたちまちにして、キリコの背後に回りこんだのである。残った右腕での一撃を受け、キリコは前のめりになった。かなり効いただろう、ぼくが同じことをされていたら、腰から上が砕け散って消えていたに違いない。
「キリコ!」
ぼくは思わず叫んでいた。
その声により、『モスキート』がぼくの存在に気付く。まずい、やってしまった。
しかし、その瞬間。
「スキありっ!!」
気合一閃、『モスキート』の腹部に『カノン』の砲身がめり込んだ。ばきばきっ、と何かが折れるような音が響く。
「ぐげぇっ!」
キリコの反撃に、敵は口吻のあたりから何かを吐き出した。血だった。それに構わず、キリコは砲身を敵の腹部に突き刺したまま、それを掲げるように空へ向ける。夜空に向けて一撃、祝砲を打ち上げるかのような構えだ。
「ハードストライクカノン……ファイヤーワークス、って感じだね」
穏やかだが、怒りのこもる声でそう言った後、キリコはトリガーを引き込んだ。
『カノン』の轟音が鳴り響き、強烈な衝撃に『モスキート』は四肢を分裂させながら夜空に向けて吹っ飛んでいった。空を舞う醜くなった『モスキート』に向け、さらにキリコは右肩のミサイルを放つ。白煙の尾を引きながら飛んだミサイルはあっけなくその残骸に命中し、空中で爆発したのであった。
ぼくはひとまずの勝利に安堵し、キリコをねぎらうために物陰から出た。しかし、キリコは両腕で腰の辺りをおさえながら地面に座り込んでしまった。
「お疲れ様……痛むのかい?」
ぼくは訊ねた。キリコは頷く。無理もない。綺麗に背中から殴られたのだ。その後ぼくに気を取られた彼のスキを突けたから簡単に倒せたものの、『モスキート』は決して弱い敵ではなかった。ゼロ距離から『カノン』を撃った衝撃もあるだろう。ぼくはキリコの背中に手を触れた。
「楽じゃないね」
「それはそうさ」
敵は強いだろう。メタルスーツを着ていても、決して楽に倒せる相手ではない。
「違うよ」
キリコはぼくの顔を見た。
「あの人は、息子さんを殺されたと言って、怒っていたんだね。可哀想だよ」
そいつを『カノン』とミサイルで爆殺した人間が何を言っているのかと思ったが、どうやら本気らしい。
「それより、元は人間だったというところがぼくには驚きだったけれども」
「そうだね。もしかすると、暴れているような人たちはみんな、そうなのかもしれない。みんな、社会への不満をもって、全部壊してしまおうとしているのかもしれないね」
「かわいそうだと思う?」
ぼくは訊ねた。キリコが感傷的になるようならば、メタルスーツを着て戦っていくことは彼女の精神によくない影響を与えていくだろうと思ったからだ。
「……かわいそうだけど、あの人たちは自分のことだけしか考えていないみたい。わかってくれないなら、今まで殺してきた人たちのことを教えてあげないといけないね。姉さんだって、私が殺されていたら同じように思ったはず」
キリコはそう言って、なんとか立ち上がった。早くここから立ち去りたかったぼくとしてはありがたい。
「よし、もう行こう。早くここから出て、余計な騒ぎが起こる前に家に戻りたい」
「ちょっと待ってくれないか? 辻井六郎くん」
声をかけられて、ぼくはハッとして上を見た。そこに誰かが浮いている。
さきほどまで、そこにはなかったはずの存在だ。いや、そんなことよりも『浮いている』!
「うっ……」
その姿は、グレイダーにそっくりだ。装甲を身に纏った人間の姿。こうしてみると細部がかなり違っているが、確かにグレイダーによく似ている。色はグレイダーの白と青に対して銀色と赤紫という、目立ちそうな色合いだ。あまり人のことは言えないが。銀色という金属の色丸出しの装甲は予算の都合なのかもしれない。さらに、バイザーをあげると顔がよく見えるグレイダーに対して、彼はフルフェイスのメットのような顔全体を覆うマスクをかけており、顔が全く見えない。
「がんばっているみたいだな。ちょっと私の話を聞いていかないか」
ずしん、と重量感のある着地音をたてて、彼は目の前に立った。キリコは警戒し、背中に仕舞っていたブレードに手をかける。
「あんた……誰なんだ」
ぼくは訊ねた。すると、彼は困ったように首をひねり、そしてこう言った。
「そうだな…………システマー。メタルシステマーと名乗ることにしようか」
「システマー?」
ぼくは復唱した。システムを操るという意味か? 少し驕ったような印象を受ける。
「あんたたちもあいつらを許せず、剣をとったのかい。身内が殺されでもしたのかい」
「そんなところだよ。あんたもそうなのか?」
ぼくは少し後ろに下がり、キリコの後ろに隠れた。情けない話だが、このシステマーと名乗った男が突然豹変し、襲い掛かってこないとも限らないからだ。キリコはまだブレードに手をかけている。『カノン』もミサイルも、アームバルカンもレーザー砲も使ってしまった今、頼れる武器はブレードしかない。
「まあね」
彼は腰に手をやり、何かスイッチを押した。瞬間、彼の腰部に差されていた剣が抜かれる。
「!」
キリコはよく反応し、飛び出してシステマーの剣を受けた。鈍い金属音が鳴り、両者の剣が弾かれる。
システマーは手を緩めず、そのまま何度か剣を振るった。キリコもよくそれを見切り、ぼくが剣の錆びにならないように防御をとってくれる。何度か攻撃を仕掛けた後、システマーは一度退いた。キリコはそれを追わない。
「……よろしい。なかなかできるようだ」
ふざけたセリフを吐き、システマーは剣を納める。ぼくは唸った。この男、かなり場慣れしている。テレビで見たことのある、空を飛ぶメタルスーツはどうやらこの男で間違いないようだ。これまで多くの敵を相手にしてきたのだろう。
背中についている飛行ユニットを操作し、彼は地面を蹴った。
ふわり、とシステマーは浮き上がる。何の説明もなく、彼は『浮いた』のである。非現実的な光景に、ぼくは息を飲んだ。彼野飛行ユニットはぼくが作っているものとまるで違う。どうなっている。バラしてみたい。
敵が剣を納めたにもかかわらず、キリコは斬りかからなかった。ぼくはそれを責めたりはしない。手持ちの武器がブレードしかない今、敵を逃がしても仕方がないのだ。猪突猛進に斬りかかるよりはずっとぼく好みの慎重さである。
「この次に会うときは、空に浮けるようになっているといいのだがな」
捨て台詞のようにそんなことを言い、システマーはそのまま上へとあがっていき、最後には見えなくなった。非常識すぎる。
キリコはブレードを背中に仕舞い、どっとその場に倒れこんだ。ぼくは心配したが、どうやら意識はあるようだ。
「キリコ!」
「大丈夫、ちょっと疲れただけ」
「そ、そうか。車まで歩けるか? すぐに休むといい」
キリコはふらふらだった。さすがの彼女も疲労している。システマーという男と対峙したこともその一因だろう。実力のしれない者と向かい合うだけでも大層疲労する。
なんとか起き上がり、車に乗り込んだキリコ。ぼくはもちろんすぐにエンジンをかけ、車を出す。
「……ところで六郎」
「どうした?」
ぼくはつとめて優しい声で応じた。連日、頑張ってグライダーの操作を覚えてくれたキリコだ。もう少し気をつかってやろうと思ったのである。なお、グライダーは回収していないが、『モスキート』に突っ込んで壊れたということなのでその意味はあまりない。
「約束だからね、ミルクココアとビスケット……」
ぼくは思わず口元をほころばせた。今死線をくぐったばかりだというのに、その話題とは。気が抜ける。
「もちろんだよ。毎日でもおいで」
そう答えると、バックミラーのキリコは、安心したように目を閉じたのだった。