10・機工兵器
部屋を出た先は、下りのスロープになっていた。ゆるやかなカーブを描いている。球状になっているこの宇宙船の、下部に向かっているらしい。システマーとキリコはすでにここを駆け下りていた。ぼくも後を追う。
キリコはいつの間にか、システマーのメットを回収してきていた。
「姉さん、これ」
それを持ち主に戻す。走りながらだ。半分壊れていたが、システマーはそれを被る。
「ありがとう」
ぼくは腕の中の小さな水口さんを強く抱いていた。彼女はぼくが目を向けるとゆるく笑みさえも浮かべて見せる、身体の半分が千切れ落ちているのにだ。どうしようもなく、心がえぐられる。この人を失いたくない。彼女の感覚を忘れないように、強く抱く。
心臓の鼓動が、ぼくに伝わる。しかし、その鼓動は小さくなっていく。
もう、本当に時間がないのだ。ぼくは走った。
スロープは終わり、直進する長い廊下に出た。キリコとシステマーはすぐさまそこへ走りこんでいく。壁にいくつか扉が見えたからだ。最初に見えた扉には、システマーが走りこんだ勢いそのままに、蹴りを見舞った。それだけで扉は壊れてしまう。
部屋の中を覗いてみるが、すえたような臭いがする以外にはどうということはない。モーター音のような機械音が鳴っている。空調かもしれない。何か有機物の残骸が見えていた。
「死体安置所かな」
システマーはそう結論付けて、その部屋を出た。ぼくの意見も同じだ。二番目の部屋はキリコが力任せにこじ開けた。僅かに油の臭いがする。どちらかというと、ぼくの研究室によく似た部屋だ。鉄くずや、機械類が無造作にかき集めてある。システマーはその部屋には興味を示さず、もう次の扉を開けていた。
ここは恐らく、ウィンガーが着込んでいたようなメタルスーツもどきを開発する部屋だったのだろう。飛行ユニットも幾つか見えたが、それらは壊れていて使えないようだった。キリコは何か使えるものがないかとその部屋を物色するが、ぼくにはそれに構う暇がない。すぐにシステマーを追った。
「つじい、くん」
かすかな声で水口さんがぼくを呼ぶ。ぼくは彼女の顔を見た。もう目を閉じ、自分の体液に溺れかかりながら、それでも呼吸を続けるその姿。
どう応えるべきなのか、わからない。ぼくに何が出来る。
「水口さん」
ただ、名前を呼び返した。彼女は何かを求めるように、左腕を伸ばす。軽い身体に、痛みを、薄れていく意識を繋いで、腕を掲げた。ぼくに触れたいのか。救いを求めたのか。
彼女を左手で支え、ぼくは右手でその手を掴んだ。ただぼくは、救いたい。この人を救いたかった。
右も左もわからないようなこの敵の要塞の真っ只中で、小さくなる呼吸を、引き止めたい。
「ありがとう、もう、私は満足、だから。辻井く、も、わたし、捨てても」
つっかえながら、聞き取りづらい言葉を、小さな声で水口さんは発した。それでもぼくは、一言も聞き逃すまいとした。
「ず、と、いままで、ありがとう。だからもう。じゅう、ぶん、だから」
自分を捨てていい、そう彼女は言っていた。だがぼくは、決してこの手を離さない。何が起こっても離すものか。
「だめだ、水口さん。だめだ」
「ごめん」
彼女は謝る。何を謝っているのかわからない。ぼくは彼女を抱く腕を強めた。弱々しい彼女の呼吸が伝わる。
「だめだ、だめだ、だめだ! 水口さん、こんなところで死んでしまうなんてだめだ。君は、君はまだ生きていかなければいけないんだ、君を呪縛した敵は今滅びたんだ。今からが始まりなんだ、だから、その最初からもう死んでしまうなんて言わないでくれ!」
「ろ……」
ぼくはこらえていた。あらゆる感情が爆発しそうだ。
忘れたくない、別れたくない。
水口さんが、うっすらと目を開く。それだけでもかなりつらいはずだ。
「六郎」
ぼくを名前で呼び捨てにする。それは、幼い日の彼女の、ぼくを呼ぶ声と同じ。
「君にもまだ未来があるじゃないか。君だって、こんなところで朽ち果てていいなんて思ってないだろう」
「……私、夢、なんか、ないなぁ」
何かを思い出したかのような、そんな顔で、彼女はそう言った。
ずっと昔に、その言葉は聞いたような気がする。科学者になるんだ、と語るぼくの隣で「なれっこないよ」と言い、夢なんてないほうがいいと冷めた目をする彼女がどこかにいた。ぼくの記憶のどこか、遠い果てにその眼差しが焼きついている。
「そんなこと言って、なりたいものないの。ねぇ、ないの?」
そのときぼくは彼女に近づいて、夢なんてないという彼女の夢を訊き出そうとした。なりたいものが誰にでもきっとある。ぼくがそう思っていたからだ。
彼女の返答がどういうものだったか、勿論ぼくは覚えている。
「じゃあ、そうだね。お嫁さんになれたらいいなあ、好きな人と結婚して、その人の帰りをご飯作って待つの。それくらいなら私にもきっとなれる」
ぼくは愕然とした。
「いや、違う。みっちゃん! 君は、君は好きな人のお嫁さんになるんだ。確かにそう聞いた。君はそうなるべきなんだ。あのときぼくは確かに」
そう聞いたんだ。そしてぼくは、科学者になるんだとそのときに言った。
ぼくが幼い日の呼び名を呼んだことに照れたのか、水口さんは弱々しく笑ってから、もう目を閉じた。ぼくは焦ったが、まだ彼女は意識を失ってはいない。そのはずだ。ぼくが、ぼくの腕の中で、命が散っていくことを許すなんてことはない。
「それはだめ。わたしは」
ほとんどかすれて聞こえない声で、水口さんが言う。何がだめなものか。なんとか言い返そうとした。
「六郎くん!」
システマーの声に、顔を上げる。通路の先で、システマーが手招きをしていた。
彼女を治療できる設備が見つかったのかもしれない。すぐにぼくは走り出した。が、同時にシステマーの表情が凍りついた。
その向かい側の部屋から、システマーに向かって何か大きなものが吹き飛んできたからだ。ぼくは足を止めた。システマーのすぐ隣に、大きなものは飛んできた勢いもそのままに叩きつけられた。
「キリコ!」
ぼくはその名を呼ぶ。メタルスーツを着込んだままのキリコが吹っ飛んだのだ。彼女が探索していた部屋の中には、一体何がいたのか。少なくともぼくたちの役に立つものがあったのではなさそうだ。
システマーはすぐに両腕を部屋の中に向けて、バルカン砲を放った。しかしその甲斐もなく、そいつは姿を見せる。
「バイオウィンガー」
吹き飛ばされてダウンしていたキリコが起き上がり、ブレードを引き抜いた。狭い通路の中で振り回すにはつらい武器だ。だが、今のキリコにはショットガンとブレードくらいしかまともに使える武器が残っていないのである。飛行ユニットと同時に使えるバルカン砲の開発をもっと急ぐべきだったと思ったが、後の祭りだ。マインドブラスターはあと一回くらいなら使用に耐えられるはずだが、その一発は中枢を破壊するために必要であった。
「ふっ!」
ウィンガーはすぐにシステマーとキリコに挑みかかった。彼は廃材らしい古い鉄くずを持っていて、力任せにそれを振り回した。ぼくの力では十センチも引き摺ることができそうにないほど重そうな、鉄骨だ。それをいとも簡単に持ち歩いている。信じられない膂力だ。壁に当たることも気にしていない。壁も扉も、ウィンガーの圧倒的な力で粉砕されている。
ブレードでこれを受けようものなら、それごと身体をへし折られてしまう。いかにメタルスーツとはいえ、あのような武器で叩かれて平気でいられるとは思えない。キリコもそれをわかっているのか、回避に専念するようだ。
しかし、ウィンガーは鉄骨を持ち上げると、それを中ほどから自分の爪で引き裂いた。あっけなく真っ二つになる鉄骨を見て、ぼくは息を飲む。あれほどの切れ味、有り得ない。一体どうすればそんな芸当ができるのか。しかも彼は、その重々しい二つになった鉄骨を振り回し、システマーとキリコに向けて投げつける!
システマーは回避に精一杯だったが、キリコは飛び上がって回避し、そのまま壁を蹴りつけてウィンガーに斬りかかった。派手な音がして、切断された鉄骨が壁に跳ね返る。
キリコの攻撃を、ウィンガーが爪で受け止める。幸いにしてブレードが折れることはなく、両者の攻撃がかち合う。だが、ウィンガーの爪は一本だけではない。右手でキリコの攻撃を受け止めたウィンガーは、すぐに左手を突き出す。キリコはそれを回避できない。振り払うような一撃を食らい、吹っ飛ぶ。勇敢なキリコはほとんど真横に飛ばされて背中から壁に激突した。
さらに、そこへウィンガーが追撃をかける。容赦のない追い討ちだ。ぼくは何とかしたい、と思ったがどうにもならない。
そうしていると、水口さんがぼくの手を握り返してくる。それに気付いて視線を落とすと、彼女は涙を流していた。何故かはわからない。
キリコはウィンガーの追撃を辛くもかわし、再び彼に挑みかかっていた。力量の差は決定的なのに、それでも逃げずに打ちかかるキリコ。何を考えているのか、と思った。しかし、手招きをするシステマーの姿が目に入った瞬間に理解した。彼女は、ぼくと水口さんがシステマーのいる部屋に行けるように考えていたのだ!
だからひたすらに打ちかかって、ウィンガーを足止めしているのだ。自分が危険なことになるにもかかわらず。
「水口さん、もうすぐだ……」
ぼくは水口さんの身体をもう一度抱えなおし、できるだけ急いでシステマーのいる部屋へと向かった。ウィンガーと打ち合うキリコの姿が横に見えるが、もう祈るしかない。
「寝かせて。六郎くん」
システマーのいる部屋に入った瞬間、そう言われた。部屋の中には手術台のようなものが二つあり、計器のようなものが奥にたくさん見える。それ以上に、何か怪しい液体の充填された瓶が目を引いた。それが整理棚にぎっしりと詰め込まれ、壁一面を占拠していた。
ぼくはとても小さくて軽い水口さんを手術台にのせた。できるだけ優しくのせたつもりだが、その衝撃だけで、今の水口さんにはつらいものになったに違いない。システマーはすぐにその棚から瓶を何本も取り出した。中には液体だけでなく、固形物が入っているものもあるのかもしれない。だが、液体が透明ではなく濁っているため、正体は不明だ。
「きりあ、もう、むだだよ。もう何も見えないもの、見えない、みえない。痛みも感じない、苦しくもないんだ、すごく、ねむくて」
「もう少しだけ、生きていて。頑張って。努力はしてみるから」
ぼくはまだ、水口さんの右手を握ったままだった。息絶えようとする彼女を、現世に繋ぎとめておきたかった。この手を離せば、彼女が暗黒の底へ落ちてしまうような気がして、その手を離せない。ぼくは弱かった。
「ぼくは……」
手を握り締めて、ぼくは彼女に伝えたかった。眠いという彼女の言葉を聞いて、本当にダメなのかもしれないと思ったからだ。今伝えなければ、永遠に彼女に伝わらなくなってしまう。どんな言葉も、瑣末なことも、重大なことも。
あのとき水口さんが言った、お嫁さんになりたいという言葉をかき消すように科学者になると宣言したときの、ぼくの気持ちも。そのときにぼくがどういうことを考えていたのかも。今伝えておかなくてはならないのに。
「六郎くん、ごめんね。わ、わたしはどうせ、『誘い』に、のったんだ。ど、どのみち、がっこうに、もど、て、みんなと、くらしては、いけなかったんだよ、い、いつかは」
眠いというそのままに、意識が混濁しかけているのかもしれない。水口さんの言葉は、かなり聞き取りづらく、小さな声になっていた。
「いつかは、き、えないと、い、いけないんだ」
「だからって君が今、消えていい道理なんてない!」
ぼくは必死に呼びかけていた。彼女の意識を、ここに縛り付けなければならないのだ。ぼくが彼女に話しかける隣で、システマーは瓶の蓋を開けては何か液体を水口さんに塗ったり、奥にある機械のスイッチを入れたりしている。
「君が、君がいなければ」
祈るような気持ちで、そう言いかけた、その瞬間に扉が開いた。いや、破られた。引き戸を強引に押し開けたような格好で、部屋の中になだれ込んできたのはキリコだ。勿論、彼女は自分の意志でこの部屋に入ったわけではないのだろう。背中から飛び込んできたのがその証拠だ。
キリコはすぐに起き上がりブレードを構えるが、そのブレードも既に中ほどから折れている。それでも彼女は諦めず、ただ武器をとる。キリコの視線の先に、ウィンガーがいる。
ウィンガーがこちらに気付くのに、一秒も必要なかった。
覚悟する時間は与えられなかった。
「みっ」
彼が踏み込んできて、水口さんに迫った。
「ははは、随分やられたみたいだけど、敵の要塞の中で治療行為をしようなんておこがましいにもほどがあるね! いつまでも生にしがみついてないで、さっさといさぎよく消えたらどうだい!」
委細構わず、彼は手術台の上にいる水口さんを蹴り飛ばそうとする。思わずぼくは水口さんを抱きかかえ、かばおうとした。キリコも、システマーも彼に向けて飛び掛った。だが、それでも彼を止めることができない。ウィンガーが左手を軽く振り払うだけで、ぼくたちはまとめて吹き飛ばされた。
ぼくもただの一撃で吹き飛ばされた。同時に激痛が走る。思わず、悲鳴をあげたほどだった。貫かれるような、突き刺すような鮮烈な痛覚で、血の気が引いた。ぼくは大した距離を飛ばず、壁にぶつかってそこに留まる。
ころげまわりたいほどの痛み、叩かれた左肩をおさえて、ぼくは歯を食いしばった。あまりの痛みに目を閉じたままだ。
あまりにも痛い、痛い。だが、水口さんが味わっている苦痛に比べればこんなものは大したことではない、と思い返した。足を伸ばし、手を伸ばし、彼女を護らなければならない。
「君は以前にも邪魔をしてきたことがあるね。そんなにこの子達が好きなのかい。一緒に死ぬといい」
ウィンガーの声が聞こえる。目を開くと、爪を構えたウィンガーが小さな水口さんを掲げ上げているところだった。水口さんはもう意識がないのか、ぐったりしている。ぼくは我を忘れて、ウィンガーに掴みかかろうと走り出した。
「うああああ!」
恐らく、これまでで一番の力仕事だった。だが一瞬のことで何も覚えていない。自分でも信じられないほどの瞬発力を発揮し、ぼくはウィンガーに向けて体当たりをかけていた。
頭の中は真っ白だ。
だがぼくの身体がウィンガーに到達するよりも早く、彼の爪が水口さんの身体に食い込む。ずぶり、と肉を裂く音が聞こえた。
結果的にぼくの目前で、水口影子さんは砕けて消えた。ウィンガーの爪によって、びりびりに引き裂かれて、落ちる。手を伸ばせば届きそうな距離に彼女を作っていた破片が落ちる。体当たりを仕掛けていた体勢のままで、ぼくは思わずそれに手を伸ばした。
瞬間、ぼくの身体は背後に吹っ飛んだ。何かが正面からぶつかってきたからだ。ぼくの身体はたちまちにして血だらけになり、ぶつかってきた重いものと一緒に、再び壁際に押し込まれた。
「好きなんだろう、もっと抱擁するといい」
皮肉そうなウィンガーの声に目をやると、ぼくにぶつかってきたものがぬるりと動いた。
それはもう、無事な部分のほとんど残っていない、水口さんの遺体だった。胸元は抉り取られ、頬の肉も削がれるような擦り傷がついている。もう、彼女は動かない。
どれほどに抱きしめても、心臓の鼓動も、呼吸も感じられない。ただ冷たく固い、死の感触があるだけだ。彼女は、死んだのだ。
助けることは、できなかった。
ぼくは左肩の激痛も忘れて、呆然とした。何もかもが、どうでもよく成り果てていた。負けたのだ。ぼくは、死の運命に負けたのだ!
水口さんというたった一人の女性さえも救えないで、このようなところで!
「そして、そのまま死ぬといい」
ウィンガーが近づいてくる。ぼくは右手で水口さんを抱いたままだった。このまま死ぬのなら、それもいいとぼくは思っていた。水口さんも、夏子さんも護れなかっただめな男には、このようなところで朽ちる運命もお似合いだろう。
爪を振り上げるウィンガーの姿が目にうつるが、興味がなかった。ただぼくは、目を伏せた。途端、目の前に大きな衝撃が轟く。これが死の感触か、と思う。
だが、ウィンガーの爪が振り下ろされたわけではなかった。ぼくの身体も、まだ粉砕されてはいない。
目を開けたぼくの目の前には、キリコが立ちふさがっていた!
折れたブレードを掲げて、ウィンガーの爪を食い止めている。
「キリコ!」
ぼくは叫んだ。今日だけで何度、彼女の名前を呼んだだろう。
「六郎! まだ自殺するには早い! みんなの……」
キリコはウィンガーの爪を押し返し、おまけとばかりに背面蹴りを彼の水月に打ち込んだ。強い! ウィンガーとの力比べに勝っただけでも驚異的だ。蹴りをうけたウィンガーがよろめいて、後ろに下がる。
「みんなの未来を奪った奴に、おしおきをするまでは死ねないよ!」
ぼくを見て、キリコはそう叫んだ。もうすでに息は上がり、あちこちから血を流している彼女は、それでもまだ戦う姿勢を崩してはいない。顔の半分を赤く染めて、氷点下五度の部屋の中で荒い息を吐くキリコ。
なぜ諦めないんだ!
どうしてまだ戦えるんだ!
ぼくは、ぼくは目元が熱くなってくるのをおさえられない。鼻の奥が抜けるように痛い、ぼくはきっと、ひどい顔をしているに違いなかった。恐らく世界で一番格好悪い。
「泣かない! 男だろ、六郎」
泣き顔を見られたのか、キリコがそう言い放って再びウィンガーを見る。折れたブレードを左手に、ショットガンを右手に持った。彼女の気迫は、底なしだった。
「ははは、きみも女泣かせだね。同時に二人も女の子を泣かせるなんて、なかなかできない。そんな罪は身体ごと断ち切ってやろう」
うまいことを言ったつもりで、ウィンガーが笑っている。
そうだ、こんな奴に水口さんを奪われて、どうしてぼくが死ななくちゃいけなかったんだ。こいつは、天才であるぼくを軽視し、ぼくが護るべき水口さんを奪ったのだ。
絶対に許してはおけない輩だ。
この腕の中の水口影子さんに代わって、こいつを叩きのめさなくてはならない! この人の無念を晴らせるのは、今、ぼくだけだ!
あらゆる感情がぼくの中でせめぎあっている。
ぼくはそれを抑制しなかった。する必要を感じなかったからだ。何も必要がない。
体力的には何もそこらの男と変わらないか、見劣りがするくらいの男が、そのようなものを解放してどうなる。制御など必要ない。怒りと、悲しみと、悔恨と、怨嗟と、敬意と、そしてこうしろとぼくに命じる、身体の中から湧き上がる衝動に、ぼくは身体を委ねた。
次にぼくがとった行動は、咆哮をあげることだった。
恐らく、今までの人生の中でも出したことがないほどの大声で、突き抜けるような雄叫びを上げていたと思う。身体のどこかの血管が千切れてもおかしくないほどの衝撃と振動だった。
キリコの背負っているマインドブラスターが、そのぼくの心情に反応したのか、勝手に光を放ち始めた。
「うわっ?」
気付いたらしいキリコは、すぐに両手に持っていた武器を捨てて、マインドブラスターを引っ張り出した。途端、何か近くに凄まじいエネルギー源を察知したらしく、その動力はすぐさまにフルパワーに近い状態を示す。
精神エネルギーを食らって破壊エネルギーに作り変えるマインドブラスターは、ぼくのこの、あらゆる感情を綯い交ぜにした突き抜けるような衝動を食らっているのかもしれない。
「こっ、これならバイオウィンガーも一撃かもしれない」
「いや、まだだ!」
最高の一撃を撃てる状態になっているマインドブラスターを構えたキリコだが、ぼくはそれにストップをかける。ウィンガーはマインドブラスターを警戒しているのか、少し距離を置いている。だが、レーザーを避けることなど不可能だ。
ぼくは右手で水口さんを抱えたままキリコに近づき、右手の先でマインドブラスターに触れた。
触れた途端、ぼくは感情の激流になる。
大きなぼくの感情がうねり、流れ、全てマインドブラスターに流れ込んでいく。ブラスターは強く輝き、限界を超えてエネルギーを溜め込んでいく。
光は強くなり、銃身がガタガタと揺れ始めた。
「ろ、六郎、パワーが強すぎる! 武器自体が持たない!」
「いいんだ、限界まで溜め込む! まだ撃つな!」
「もう限界だって!」
まだまだ足りない。ぼくは感情を爆発させる。それを全部、破壊エネルギーにしてくれる兵器が今ここにあるのだ。全てを、今ここに注ぎ込みたい。後のことなど知らない。
いつまでも、まるで子供!
私だってショックだけど、感情丸出しで、泣いたり怒ったりするのは、大人のすることじゃない。夏子さんのときはあんなに冷静だったのに、どうして今こんなにここで爆発しているんだろう?
私がいるから?
私が。彼にとって、六郎にとって、私って何なんだろう?
別の思考が、ぼくの頭に流れ込んでくる。
誰かの心の声を、盗み聞いているかのように。
ぼくは感情の大激流の中で、目の前の敵に最大の一撃を見舞うことだけを考えていた。
マインドブラスターも、もう限界!
完全に一発撃ったら、壊れる。だったら、もうこの一撃で完全に決めないと勝利はない!
もうわかった、あんたに付き合う。限界まで、完全に壊れる寸前まで溜め込んで、ぶちかましてやろうじゃない!
この思考は、キリコのものだ。
マインドブラスターがぼくたちの精神を吸収してエネルギーに織り込む過程で、二人の感情が同調してしまっているのだ。ぼくの心も、キリコに嘘の言いようもなく伝わっているはずだ。この現象は奇怪だが、今のぼくたちには最高の追い風だ。二人の心は、今ひとつになっているのだ。
それも、敵を討つというところでだ!
“だったらもっと、もっとエネルギーを注ぎこみなよ!”
キリコの心が訴えてくる。
“言われなくても!”
ぼくの心が答える。
憎しみも悲しみも、全てエネルギーに変わる。ぼくは吸収されていく感情にも負けず、もう一度咆哮を放った。がたがたと揺れていたマインドブラスターの砲身の一部が弾けとんだ。先端部はとっくに溶け落ちている。もうレーザーとして、一定方向にしぼって照射することはできない。
撃ったが最後、四方八方に特大のエネルギーレーザーをぶちかます最悪の圧殺兵器だ。一点集中することで破壊力を高めるレーザーという武器の概念をくつがえすような武器である。
“六郎、もう!”
“よし、いけ!”
輝きの中に溶け落ちかけたトリガーを見つけて、キリコは自壊していくマインドブラスターを構える。限界、完全に限界までエネルギーを充填された最終兵器が、キリコの腕の中にある。
「必殺!」
ぼくもその最終兵器に、腕を添えている。これがぼくたちの、最後の攻撃だ!
「レーザー……クラスタ―!」
発射と同時に、マインドブラスターの銃身のほとんどは強烈な輝きに飲まれ、バラバラに吹っ飛んだ。
その輝きは尋常ではなかった。
キリコが『亡霊』に向けて放ったマインドブラスターの何倍もの光が、何十本という単位で出現したのだ。ほぼ指向性を失っていたエネルギーは撃ったぼくたち以外のほとんどを押しつぶすような勢いで移動要塞を蹂躙する。光と熱が、宇宙船の隔壁でさえも容易く打ち砕き、あちこちで爆発音をたてた。
放射時間は体感にして三秒もなかったと思う。しかし、三秒はこの移動要塞を破壊するには十分すぎる時間だったらしい。
最後の攻撃であるマインドブラスターの超強化攻撃、レーザークラスターを撃った瞬間光に包まれる。ぼくは、キリコがぼくの前に塞がるような格好になるのを見た。彼女はレーザークラスターの余熱でぼくが丸焼けにならないように気を払ってくれたのだろう。だが放射時間が三秒に達するかそうでないかというところでマインドブラスターの銃身が破裂し、中に溜め込まれていた膨大なエネルギーが衝撃となってぼくとキリコを襲う。
ぼくはキリコの身体に押されてあえなく後ろ向きに吹っ飛び、腰をついてしまった。右腕で抱えていた水口さんの身体が床に落ち、痛めていた左腕に激痛が走る。しかしこのときキリコは足を踏ん張り、そこに耐えて留まったのだ。光がおさまって、ぼくが目を開けたときにキリコがそびえるように立っていたことからも明らかだ。ぼくの身体を押し込んだので少し楽になり、彼女だけが倒れずにすんだ、ということではない。むしろ直接衝撃を受けたぶんだけ、彼女の負担のほうが大きかったはずだ。立場が逆だったならば、ぼくはあっけなく吹っ飛んで、キリコを下敷きにして倒れていたに違いない。
にもかかわらず、それまでずっと、頑張ってきてくれたキリコは立っていた。
膝を折ることもしなかった。目の前を見据えて、ぼくに背中を向けて、彼女は立っていた。腕を伸ばし、何かからぼくを護るような体勢になったままだった。半分溶け落ちて、残った半分の、そのまた半分はバラバラに吹っ飛んだマインドブラスターを取り落としたのも、ぼくがそれを見て数秒が経過してからの話だ。破裂したマインドブラスターは床に落ちた衝撃だけで真っ二つに折れ、その役目を終えた。
キリコがゆっくりと振り返り、ぼくを見た。疲れた目をしている。全てが終ったと言いたげだった。マインドブラスターを直接撃ったのはキリコなのだから、精神力をかなり吸われたはずなのだ。そういう思考に至るのも当然だ。実際ぼくもそう思う、しかしそれは自分達の身を案じないならば、だ。まだぼくたちには最後の作業が残っている。破壊したこの敵の移動要塞から脱出しなければならない。
この時点ですでに、完膚なきまでに移動要塞、宇宙船は破壊されていた。例えるならば大きなスイカの右側半分だけに何十本もの菜箸を突き刺して、抜いたような有様になっている。穴だらけなのだ。その菜箸の一つがどうやら動力部を破壊したらしく、先ほどから移動要塞の床が揺れている。天井の明かりも長い周期ではあるが、点滅をするようになった。
目の前には大きな穴が幾つも幾つも開いている。どの穴も外壁まで達しているだろう。レーザークラスターは容赦なく移動要塞を破壊していた。ウィンガーの姿が見えないが、恐らくこの攻撃で跡形もなく溶けてしまったに違いない。
逃げなければならない。急いでこの場を脱出しないことには、どうにもならないのだ。中に留まっていればぼくもキリコも無事ではすまない。恐らくは死ぬ。
「さ、逃げよう」
ぼくはそう言って、キリコの手に触れた。その手は火傷しそうなくらいに熱かったが、手を離したりはしない。マインドブラスターに直接触れたぼくの手は、すでに焼けていた。ウランに触れたときのように、熱くもなかったのにひどい火傷ができている。だがそんなことを今気にしている余裕はない。キリコと一緒に、ここから脱出を果たすまでは。
しかし、歩き出そうとした途端、ぼくの膝から力が抜けた。何も考えられなくなり、ぼくは無様に前のめりになる。そしてそのまま床に倒れこんだ。頭から倒れこんだらしいが、そのときのぼくは痛みさえも感じていなかった。床にへばりついたようなかたちだ。ぼくはなんとか立とうとして力をこめるが、どうにも動けなかった。
腕に力が入らない。やむなく床に頬擦りをするような格好になりながらもぼくは目だけでキリコを振り返った。だが、キリコの姿も倒れたぼくの視線には入らない。
「無茶を、するからだよ」
そんな言葉と共に、ぼくの目の前に足が出現した。地面に這いつくばったぼくは、首を動かすこともできないので、目の前にいる人物を見上げることもかなわない。だがこの金属に覆われたブーツは、システマーのものだ。
「マインドブラスターを撃ったわけだから、六郎くんみたいなインドアタイプの人はしばらく動けないよ。別に鍛えてるわけじゃないでしょう。同じインドアタイプでも俳優さんとか緊張感のある職業で精神を鍛えてる人なら、ある程度マインドブラスターの反動に耐えられるかもしれなかったんだけどね」
自分のものとは思えないほど力の入らない身体を、システマーが無理やりに引っ張りあげた。そしてそのまま、ぼくはキリコに引き渡される。
「はい、あんたの彼氏」
「はいはい」
キリコは否定にも肯定にもならない曖昧な返事をして、ぼくの身体を引き受けた。まともに立てないぼくを、肩でささえて無理やりに引き立たせてくれる。メタルスーツの肩の部分が邪魔になるかと思ったが、そこはすでに欠け落ちていた。ウィンガーとの激闘で砕けたのか、レーザークラスターの衝撃で剥げ飛んだのか。他にも、キリコの着ているメタルスーツは欠けたり、ひび割れたりしている部分が目立った。
ぼくはもう、為すがままだ。精神力を奪われるというのは、こういうことなのか。痛めた左手を掴まれなくてよかったなどとぼやけた思考回路で思いながら、ぼくは顔を上げる気力もなく、下を向いていた。
「姉さんも脱出しなきゃいけないでしょう」
「私はまだ、やることがあるから」
システマーは笑った。床の揺れは少し大きくなる。笑っている場合ではない。笑っている場合でないことは確実だが、システマーは笑っていた。
「これだけ破壊した要塞の中で、何をするっていうのさ! 逃げないとこの要塞の落下に巻き込まれて死ぬよ」
「まだ完全に破壊されてはいないよ。『亡霊』は予備の肉体がある限り何度でも復活する。この要塞を完全に殺すために、移動させるつもりだけど」
「予備の肉体?」
キリコが訊ねる。ぼくはぼんやりと思い出す。確かに、『亡霊』はそんなことを言っていた。
――私は復讐のために宇宙を彷徨う思念体、死者の怨念、霊、その集合体。排斥されたものの残留思念を数多に吸い込み、膨張した姿。ゆえに実体を持たない。逆に、どんな身体にでも入り込み、支配することができる。魂を持たない身体ならば。
魂を持たない身体があれば、そこに入り込むことで復活を果たすということか。光り輝く妙な肉体はキリコがバラバラに吹き飛ばしたが、それでもまだ復活するというのか。さすがに『思念体』などと言うだけのことはある。
「だから全部、それを壊しつくさないといけない。私、この要塞を海に沈めるつもり。海の底に沈めて、封印しなくちゃいけない」
「だったら、付き合うよ。私だってこいつらには恨みがあるんだから」
「霧子、あんたは六郎くんを連れてさっさと脱出するの」
システマーは引かなかった。一人だけで、この要塞を海に沈めるつもりのようだ。恐らくその方法も、この天才は思いついているに違いない。
「姉さん、まさか死ぬつもりじゃないでしょうね」
「あはは」
霧子の懸念に、システマーは笑うだけだった。肯定も否定もせず、ただ笑った。それから少し間を置いて、やや落ち着いた声でシステマーはこう言い出した。
「私もねえ、さっきの六郎君みたいに『亡霊』から『誘い』をかけられたんだ」
「ふうん、それで嫌だって言ったから妙な洗脳をくらったんだ」
「いや、多分そこで断っていたら、殺されていたと思うよ」
平然とそう答える。
その返答は、システマーが『誘い』にのったことを意味する。
「えっ、姉さんその誘いにのったの?」
「まぁね」
やや自嘲気味な声になりながらも、システマーは否定をしない。
「姉さん!」
霧子が声を荒げる。当然だろう。
ぼくはようやく自由が戻ってきつつある身体を動かし、顔を上げてシステマーを見た。
「しょうがなかった、とは言わないよ。六郎くんは強い意志で断ったけれど、私は知的好奇心が勝った。それだけの話」
「本気?」
「本当だけど」
システマーはため息を吐いた。それから足の向きを変えて、肩幅に開いた。恐らくキリコに背を向けて、肩をすくめたのだろう。
「私を殺すのなら、好きにしなさい。別にみんなに危害を加える気はないけどね。ただ私の最後の責務として、この要塞を海に沈める、そのための行動を今から開始する」
「そんなこと」
姉の行動が信じられないのか、キリコはシステマーを止めようと腕を伸ばす。しかし、その瞬間に大きく床が揺れた。ぼくは床に倒れたが、キリコは何とか壁に手をついてこらえた。システマーも咄嗟に飛行ユニットを使って、
床から見上げてみると、システマーは水口さんの身体をその手に持っていることがわかった。ぼくがレーザークラスターを撃ったときに取り落としてしまった水口さんの身体を、システマーは大事そうに抱えている。二人は親友同士だった。水口さんがシステマーに絡んでは冷静に突っ返されているという印象を受けていたが、まぎれもなく二人は固い絆で結ばれていたのだ。ぼくはそれを確信するに至った。
なのに、システマーは『誘い』にのっていた。なぜだ、と思わずにいられない。
「霧子、さっさとここから脱出しなさい。ここから先は、私がやる」
「姉さん!」
先ほどとは違う声で、キリコがシステマーを呼んだ。その声がシステマーに届くよりも早く、彼女は踵を返して走り去っていた。この穴だらけになった移動要塞のどこへ行こうというのだろう。
ぼくはどうにか起き上がる。左腕はまだ痛むが、レーザークラスターのショックからはなんとか立ち直りつつあるらしい。精神力を奪われるとはいえ、身体の自由が利かなくなるほどの疲労は一時的なものであるようだ。
「キリコ、彼女を追おう」
「そのつもりだよ」
キリコはぼくを一瞬睨みつけ、ぼくの手をとって、飛び出していく。左腕がものすごく痛んだので悲鳴をあげたのだが、それすら彼女を止めるブレーキにはなりえない。システマーの消えた方向へ、キリコは飛行ユニットと自分の足で走り出していた。
外はまだ、雨が降り続いているらしい。
レーザークラスターがこの移動要塞に開けたたくさんの穴は、ふさがりゆくこともなく雨を要塞の中に垂れ流している。その穴はなんとか人間が通れるくらいの太さがあるのだが、システマーはそこを通ることなく、正規の通路を利用したらしい。となれば、追うのはそれほど難しいことではない。
ぼくは歯を食いしばって激痛に耐えていた。キリコはシステマーに追いつこうと飛行ユニットを使って移動するが、ぼくはそういうわけにいかない。痛む左腕は動かず、右腕はキリコに引かれるままだ。だがぼくは、天才だ。システマーがこうなった今、ぼくが取り乱してはいけない。どういう状況になろうとも、最後まで冷静さを失ってはならない。それが天才というものであり、科学者というものだ。痛みは強引に噛み殺し、目を見開いてキリコについていく。インドアタイプと言われようとも、このくらいのことはしてみせる。
断続的に床は揺れる。完全に破壊できなかったにせよ、レーザークラスターでの攻撃が要塞の動力炉を一部損壊させたことは間違いないようだ。システマーが要塞を制御するというのも、どこまで通用するものだろうか。色々と考えることはある。しかし今は、とにかくシステマーに追いつかなくてはならない。
「姉さんは、何を考えているんだろう」
キリコの言葉が、白く見えた。
「さぁね。彼女は本物の天才だ。何を考えていても不思議じゃない」
「確かにね。昔から何を考えているのか、時々わからなかったし」
視界の先に逃げていくようなシステマーを追って、ぼくたちは移動を続ける。
やがて一つの扉の前に、たどりついた。ここまではほとんど一本道なので、この中にシステマーがいることは間違いなかった。キリコはその扉を押し開いて、中に飛び込む。ぼくもそれに続いた。
そこは操舵室だった。一目がそれがわかるほどに、中は整然としていた。操作パネルらしきものが壁に取り付けられて、あちこちに椅子が配置してある。システマーは部屋の中央に立って、未だに動いているこの船の操作パネルを眺めていた。
「姉さん」
キリコが声をかけると、彼女は振り返った。そして、ため息を吐く。
「やっぱりここまで来たんだ。別に来てもすることはないのに。私しか、これの操作方法はわからないでしょうし」
「だけどあんな話を聞いて、そのまま放ったらかしにはできない」
システマーの言葉に、ぼくが応じた。『誘い』にのるということの意味を、彼女が知らないとは言わせない。例え本当に知的好奇心から彼女が誘いにのったにせよ、命の危険性があってやむなく誘いにのったにせよ、自分の身体を改造されるということについて知らないとは言わせない。今のところシステマーは普通の女性に見えるし、『アシナガバチ』から救い出したあともそれと変わるところはなかったが、そういった常識は『亡霊』のオーバーテクノロジーには通用すまい。
「これは、私の仕事。霧子、それに六郎くん。あなたたちの仕事は終ったわけだから、家に戻って休むことをお勧めする」
腕を組み、システマーがそう言った。だが、勿論キリコは帰らない。
「どうして、誘いにのったの?」
正面からその問いをぶつけた。
この問いにシステマーは目をそらし、壁際においてある椅子に座り込んでしまう。
「その話? さっきも言ったけど、純粋に知的好奇心から。それ以外の理由はないの」
「六郎と同じように誘われたって言ってたけど。つまり、その。知的欲求を満たすために研究し続けるってことに同意したって」
「その通り」
肯定する。システマーは言い訳しなかった。
つまり、敵に機械技術の提供を行ったのはシステマー自身だったのだ。彼女の頭の中身をのぞき見られたわけでは決してなく、自分の意志で提供を行ったわけである。
「システマー」
ぼくは思わず、声をあげた。
「六郎くん」
応えるシステマーの声は、冷静だった。天才の、冷徹な声だった。
「ぼくやキリコや水口さんが亡くなっても、別に構わなかったのですか」
質問をしてみたが、やはりと言おうか、その質問にシステマーは答えない。代わりにこう言った。
「その左腕、多分折れてるよ。しっかり処置しないと、知らないから」
「そんなことはどうでもいいんです。あなたほどの天才でありながら、なぜ彼に手を貸すことを拒まなかったのです」
「天才だからこそ、かもしれないけどね。まぁ私は実際のところ、自分がそれほど、天才天才と呼ばれるほどに頭がいいとは思ってないけど。色んなところから物事を解決するように考えてみてるだけで、ね」
システマーは椅子に座ったまま、ぼくの方をちらりと振り返った。
「私には、自分のしたいことを思う存分にできる施設が足りなかった。六郎くん、このバリアフレームを作り上げるまでにどれほどの苦労があったか、あなたにはわからないでしょうね。材料の調達から、道具まで。グラインダーや、サンダーでさえも手に入れたりレンタルするのにすごく手間がかかって。影子と知り合ってからは色々と動ける範囲が増えて、少しは楽になったんだけど」
淡々と語るシステマー。キリコは悠々と歩き、自分も椅子に腰掛けた。
「姉さん、それならどうして私を頼ってくれなかったの」
ぼくから目をそらし、今度はキリコを見つめるシステマー。
「それはね、あんたを戦わせたくなかったから。本当なら、あなたを巻き込みたくはなかったんだけど」
「なんで? 人数が多いほうが簡単じゃない。それに私に秘密で進めていたことだって、苦労を増やす要因の一つだったんじゃないの」
「勿論、それはあったよ。でも、そんなことくらいで諦められるようなものじゃなかった。普通そうじゃない? 特にあんたは私がこんなの作ってるって聞いたら、自分が着るって言い出すに決まっているんだから」
「姉さん」
不満そうにキリコが彼女を呼んだ。だが、システマーはもうキリコに構わなかった。
「で、六郎くん。『亡霊』は私の知的欲求を全部満たしてくれそうだった。全部だよ、全部。いくらでも好きなことを、どれほどの費用をかけてでも、何もかも、研究し尽くすことができそうだったんだ。時間的な概念すらもなくなるくらいに充実した施設と、倫理の壁もなくやりたい放題にできる素晴らしさ。心が動いたとしても、不思議はないでしょう」
「いいえ」
ぼくは否定した。
当然だ。
天才であるこのぼくは、天才であればこそ、人のためにこの力を使うべきだと思っている。それが天才というものだ。そして科学者というものは、科学を志す者のことをいう。科学とは、人の役に立つべき学問なのである。これらはもう、ぼくが天才になり、科学者になると決めたときからもう絶対永久不変のものなのだ。何があっても変わりはしない。
ぼくは、悪に染まることを許されない。人の道をはずれることを許されない。何があろうとも、ぼくは善の道を行く。自分が正しいと思うことを貫く。ぼくの正義の根幹は、夏子さんとの、水口さんとの、遠い日の約束に根ざしている。だからぼくが悪に染まることは、彼女達を裏切ることに等しい。それは絶対にできないことだ。
「ぼくは、科学者です。科学は常に、人のためにあるべきだと思っています」
正面から、ぼくはシステマーを否定した。
「へえ、強いんだね六郎くんは。秀才タイプだからかな。やりたいことがありすぎて、押しつぶされそうになったりはしないんだね」
システマーが立ち上がり、壁のパネルを操作した。一瞬、落とし穴でもあるのかと思ったが、そうではないようだ。奥にある扉が開いて、通路が見えた。そこへ向かって歩いていく。
「どこへいくの」
「影子を葬ってくるだけよ」
未だに抱きかかえた水口さんの身体を見せ、システマーは通路へと消えていった。
水口さんを葬ると聞いて思わず追いかけたくなったが、通路に向かうところでキリコに制される。
「その左腕、折れてるって言ってたけど、痛むの?」
「ああ、うん」
痛みは麻痺してきたが、左腕の自由は全く利かない。恐らく、本当に折れているのだろう。
「みせて。応急処置だけでも」
キリコはショットガンを抜いて、ぼくの左腕に押し当てた。仕方がない。ぼくは慎重に上着の左袖を抜いて、キリコに処置を任せた。折れている部分を無理やりに引っ張られたり、押し付けたりしたせいでかなり痛んだが、処置が終った後はかなり楽になった気がする。弾丸が切れたショットガンは、副木としてぼくの左腕に固定されている。散々に撃ちまくった後だが、この移動要塞の中の冷えた空気に晒されてすっかり冷たくなっていた。
「こんなものかな、どう?」
「少しはマシになった。ありがとう」
礼を言うと、キリコは頷いてみせる。
「ちょっと前にも馬鹿やって腕を折った子がいたからね。そのとき、応急処置だけでも覚えててよかった」
「そうかい」
ちょうどそこへ、システマーが戻ってきた。もう、水口さんの身体は抱えていない。
「あんたたち、まだいたの?」
少しあきれたような口調だった。
「何度も言ったけど、もうここにいる意味はないよ。あとはこれを海へ落っことすだけ。私と一緒にいたら日本海溝の底まで沈むことになるけど」
「しかし、システマー。あなたはどうするつもりなのです」
問うと、システマーはメットに手をかけて、それを脱いだ。大きくため息を吐いて、応える。
「『誘い』に乗ったからには、元のように学校に通って、世間に出るなんてことはできないね。でも私、ミルクティーがないと生きていけないんだ。困ったね」
「そうですね。少なくとも日本海溝の底には、喫茶店がないと思いますよ」
「そうだね。外が見えないからわからないかもしれないけど、もうこの移動要塞は海の上まで来てるよ。念のために、日本海溝まで動かそうとは思っているけど」
「もう、落下させるつもりですか」
この床の揺れは、要塞の移動によるものもあったらしい。もう海まで来ているとは!
放置しておけば、システマーはこの要塞と運命をともにするだろう。彼女はこのようなところで滅んでいい人間ではない。
「ぼくの家に、ご招待したい。たとえ世界を滅ぼそうとした人間であれど、うちでは才能さえあれば問題ないのです」
「六郎くん」
今度は『亡霊』ではなく、ぼくが『誘い』をかける番だった。彼女の才能は欲しいし、また彼女の友人としてここで彼女が死ぬのを黙ってみているわけにはいかない。
「『亡霊』ほどの環境は用意できませんが、少なくともぼくが使っていたくらいの施設は保障します。それと、ミルクティーとはちみつとホットケーキを」
「魅力的な提案だけど、私にはそれを飲むことができないね」
ほとんど間を置かず、システマーはぼくの提案を拒否した。その言葉はどこかで聞いたことのある科白だと思ったが、ぼくが『亡霊』の『誘い』を断るときに使った言葉とそっくりだ。
「日本海溝の底もごめんだけど、六郎くんのところに行くのもちょっとね」
システマーは微笑む。死ぬ気はなくなったようだ。ぼくはそれだけでほっとして、安堵の息を吐く。しかし、キリコはさらに質問を重ねた。
「姉さん、じゃあどこに行くつもり?」
「どこでも。ま、気ままに暮らしていくつもりだよ。女が一人で生きていくのに、それほど困る時代じゃないから大丈夫。なるべく人の目につかないところで、ひっそりやってこうかな」
「どうしても?」
「まぁね。ミルクティーがあるところにはいるよ。それがないと生きていけないから」
言いながら、壁際のパネルを操作する。すると、照明が赤いものに変わった。
「そろそろ、この要塞を沈める。飛行ユニットが生きているうちに、さっさと脱出して欲しいんだけど」
振り返って、システマーが冷静にそう言った。
「完全に動力が落ちるまで、あと四分。レーザークラスターで空いた穴から脱出すれば早いよ。早く、出て行って」
「姉さん!」
キリコは納得できないのか、叫んだ。ぼくだって納得できない。だが、システマーの意志は変えられそうにないのだ。今はとにかく、脱出するしかない。生きている、という彼女の言葉を信じて、脱出だ。
「キリコ」
「わかってる」
キリコは唇を噛んだ。システマーは奥へ続く通路の前に立ち、ぼくたちが去るのを見届けるつもりだろう。あと四分という時間は短いが、急いで脱出すれば恐らく余裕があるくらいだ。
何か言葉をかけずにはいられないのだろう。キリコは部屋の奥に立っているシステマーを見ている。
だが、ついに意を決して最後の言葉をかけようとした瞬間、その声は叫び声に変わった。
「姉さん!」
システマーの背後に、何かが出現していたからだ。システマーの身体は、糸が切れた操り人形のように、くしゃりとその場に倒れ伏す。彼女の背後に現れた何者かが、システマーに攻撃を仕掛けたことに疑いの余地はまるでない。
そこに出現したのは、新しいメタルスーツを着込んだバイオウィンガーだった。
システマーは倒れたまま動かない。
ウィンガーが部屋の中に入ってこようとしている。逃げるべきか、戦うべきか。ぼくは思わずキリコを見た。メタルスーツに装備されている武器は、ほとんど残っていないはずだ。『カノン』は弾切れ、ブレードは折れ、ショットガンはぼくの腕に副木として固定されている始末である。まともに戦えるとは思えない。
だが、キリコは逃げずにぼくを護るようにウィンガーの前に立ちふさがった。中ほどから折れたブレードを握って、構える。ぼくは彼女に声をかけようとしたが、
「逃げ」
「だめ、逃げられない」
最後まで聞いてもらえず、言葉をさえぎられた。どうせこの移動要塞は沈む。それなら脱出を最優先にするべきだと思ったのだが、キリコはそれを拒否する。ウィンガーはシステマーの身体を踏みつけて、こちらへ歩いてくる。部屋の中へ入り、爪をキリコに向けた。
「そう、どうせ逃げられない。よくわかってるね」
歩みを止めて、ウィンガーがそう言った。一体どうやってレーザークラスターをかわしたのかわからないが、その身体はほとんど傷ついていない。
放射の瞬間に退避したらしいが、それでもあれだけの熱量からどうやって逃げ出したのか。ぼくにもわからない。恐らくは着込んでいたメタルスーツの性能でなんとか本体が無傷ですんだのだろう。メタルスーツが新しいものになっているのはそのためだと思われるが、今はそれを考えている場合ではない。バイオウィンガーが生きていて、今敵として目の前にいる。それだけで十分すぎる。
考えるべきことは多かった。まずシステマーは生きているのか。この移動要塞はどのあたりを飛んでいるのか、本当に四分後に動力が落ちるのか、本当に逃げられないのか。全てを悠長に考えている暇はない。バイオウィンガーが襲い掛かってくるだろう。
この場合、システマーをあてにすることはできない。背後から襲われたのだ。生きているとしても、まともに活躍できそうにない。
ぼくは素早く思考を始めた。その前に立つキリコは折れたブレードだけでウィンガーを食い止めようとしている。ウィンガーは両手を開き、首を振った。
「もう時間がない、最後だ。だが、君たちをここから逃がすわけにはいかない。あれだけのことをしてくれたんだ、生かして帰すと思ったら間違い。男のほうは切り刻んで、女のほうは手足を切り落としてハーレムに叩き込んでやる」
とんでもない科白だった。眩暈がしそうだ。
この欲望に満ちた言葉に、キリコは特に反応を見せなかった。幸運なことにウィンガーの新しいメタルスーツは武器を搭載していないようだ。彼は自らの爪だけで戦ってくるらしい。キリコにも勝機は僅かながら残っている。まだぼくが切り刻まれるわけにも、ましてやキリコを不幸な目に遭わせるわけにもいかない。
ぼくは計算を始めた。月並市は海岸沿いにあるというわけではない。そこから海へでようと思えばそれなりに時間が掛かる。ましてや日本海溝の底まで行くとなれば、それこそ。となれば、この移動要塞は実際かなりの速度で移動しているものと考えられる。ブレーキもあまりかかってはいなさそうだ。
となれば、する気はないが、創意工夫の挙句にここからぼく一人だけで脱出することができたとしても、落下速度に耐えられない。落下速度をパラシュート等で克服しても、海に投げ出された後、うまく生き延びられるかも問題だ。ここは飛行ユニットが必要なところである。システマーの言葉が本当であるとすれば、黙っていれば、四分後に移動要塞の動力は落ちる。そうなっても慣性の法則により要塞はしばらく空中をすすみ、やがて海に落ちるだろう。システマーのことだから、海中に没した要塞は日本海溝の少し手前に落ちて、海底を転がってホールインワン、となるはずだ。彼女ならそのくらいの計算はしている。
やはり、飛行ユニットが必要だ。それがない状態で空中に飛び出しても、助かる確率は低い。
「この要塞はなくなるのに、どこにあなたのハーレムを作るつもり」
「『亡霊』はこれがなくなったくらいで滅びはしないよ。またいずれ、必ず復活する。二十年後、三十年後の可能性もあるが、そのとき君たちはまだ、戦えるのかな」
「そんな先の話は知らないよ。私はいないかもしれないけど、どんな時代だって、希望はあると思う」
「今も希望があると思っているのかねぇ、こんな絶望的な状況でも」
ウィンガーは笑った。そろそろ仕掛けてくるだろう。ぼくは考えを進めながら、キリコとウィンガーを見ていた。どうにかして、彼女を救わなくてはならない。ぼくの命に換えても。
「あるよ。私は強いもの」
「嘘をつくな」
ウィンガーが襲い掛かってくる。床を蹴り、彼は一瞬でキリコに迫った。速い。爪を薙ぎ払う。キリコはその攻撃をブレードで防ごうとしたが、間に合わない。よろめく彼女に向けて、駄目押しとばかりに左での突きが入った。
衝撃で背後に吹き飛ばされるキリコ。ぼくの隣を抜けて、壁に激突する。メタルスーツのおかげで胸元を抉られるということはなかったが、半壊していたメタルスーツは絶望的な砕け方をしている。
「うぐっ」
キリコは呻いて、床に倒れた。倒れただけで、メットが脱げる。彼女の短い髪が露出した。もう、メタルスーツの筋力補助はほとんど機能していないはずだ。ただ、重いだけの鎧に成り下がっている。
それでもキリコは床に手をついて、立ち上がろうとする。彼女は諦めていない。
要塞に入ってからも、散々にウィンガーに立ち向かったのでメタルスーツはもう限界だったのだ。着ている意味が、ない。キリコはそれに気付いたのか、もう意味を成していないメタルスーツの上半身部分を捨てた。腕パーツと連結している飛行ユニットも今は必要がない。重い音がして、金属片が床の上に撒き散らされる。
確かにパワースーツとしては意味のないものとなっていたが、鎧としての意味はまだ残っていた。それを捨てたのだから、ウィンガーに勝つ見込みはなくなったも同然だ。武装も頼りない。折れたブレードが一本だけでは。
ウィンガーはキリコを見ている。恐らく、まずは彼女を始末するつもりでいるのだろう。確かにぼくはひ弱だし、無視していても差し支えないように思えるのかもしれなかった。
それは逆に好機といえる。ぼくはシステマーに近づいた。キリコを見捨てたわけではない。ぼくが行ったところで何かの役に立てるなどとは思えないからだ。ぼくはぼくにできることをするしかないのである。
茶色のブレザーを着た姿。キリコは、『グレイダー』ではなく山内霧子になっていた。壊れていない両脚のパーツだけは残っているが、ブーツだけでは機動力しか補えない。それ以外は脱ぎ去って、重いブレードを構えている。当然ながら、この状態で一撃でも食らったらその時点で終わりだ。ブレードを持ってはいるが、メタルスーツの助力なしで自在に振り回せるとは思えなかった。
「システマー」
その姿を横目に、倒れているシステマーに声をかける。彼女の身体は温かい。背中を割られているが、まだ息はあるようだ。
「六郎くん」
返事があった。生きている。とはいえその声は弱々しい。
「本当に時間がないのに、どうしてまだここにいるの。私と一緒に、海の底の底まで行くつもり?」
「ウィンガーです。脱出の前に彼を倒す必要があります」
ぼくは振り返った。キリコが気になったからだ。
ウィンガーが突進をかけるところだった。その速度に背筋が凍ったが、キリコは素早く動いてその攻撃を完璧に回避した。その動きは今までよりも素早いくらいで、ウィンガーでさえも追撃できないほどだった。一瞬驚いたが、どうやら脚以外のパーツを脱いだことで重量が軽くなり、それだけ機動性があがったらしい。しかし、敵の攻撃こそ回避できるが、敵を打ち破る攻撃力が皆無だ。いずれは追い詰められてしまう。この狭い室内ではそうなるのに大した時間も必要ではなさそうである。
「システマー、何か策は」
打開策をシステマーに求める。
「私はもう、動けない。キリコが何とかするしかないでしょうね、貴方にできることは祈ること」
「神様なんて、いませんよ」
ぼくは現実的な作戦をシステマーに求めた。ぼくの頭脳が通用するような状況ではない。こうした絶望的な事態の中では、あらゆる方面からの解決を瞬時に思いつく、電光のようなシステマーの頭脳が必要なのだ。
「神様がいなければ、祈ってはいけないということはないはずでしょう。そういう言い方が嫌いなら、信じなさい。キリコは強い子だから、きっと何とかしてくれると」
「人任せではありませんか、それにキリコはもうスーツもなく、一人だけで」
今のキリコはたった一人だ。何ができるというのか。
「他に何ができるかって。なら」
システマーはつらそうにしながらも、右手を腰に伸ばした。そこにあった剣が鞘ごと取り外される。
「これを」
ぼくはそれを受け取った。かなり重い剣だった。だが、これしかない。今、この武器を置いてはウィンガーを倒しうる武器はない。
「カートリッジの電気はまだ残っている。あと一回くらいなら加熱できるはず」
頷き、ぼくはキリコにこの剣を預けることにした。そのキリコはウィンガーと交戦の最中だ。
ウィンガーの攻撃を回避し続けるキリコだが、さすがにその動きも読まれつつある。爪を振り回すウィンガーの一撃をついにブレードで防がざるを得なくなり、両腕でブレードを構えている。力を込めてブレードを支えているはずだが、ウィンガーの一撃は彼女の想像以上に重かったのだろう、それを受けた瞬間、キリコは背後に吹き飛んだ。
腰部のメタルスーツもパージされているので、仰向けに転んだキリコのスカートが危うい。が、そんなことを気にしている余裕はキリコにもぼくにもない。膝が隠れるかどうかというくらいの長さだが、あちこちが煤けている。
「キリコ」
ぼくはシステマーの持っていた剣を右腕に持って掲げ、キリコに存在を示した。この武器はあのブレードほど重くはないし、加熱されることで切れ味もかなりよくなる。今ウィンガーを倒すことのできる武器はこれだけだ。
追撃を仕掛けてくるウィンガーを警戒しながらも、素早く起き上がったキリコがこちらに気付いてくれる。
だが、ウィンガーも同時に気付いた。
二人はこちらに向かってくる。キリコの方がわずかに速いが、それでもぼくから剣を受け取り、振り向きざまに一閃するには時間が足りないだろう。少しでも時間を稼ぐために、ぼくは後ろに下がる。それがいけなかった。焦ったせいか足がもつれて、ぼくは尻餅をついてしまう。自分のドジさ加減が嫌になる。キリコに投げ渡し、素早くかがんでその場から退避するという行動をとるはずだったのに、やはりぼくはアクションシーンにとことん向かない。自分だけが死ぬならいいが、キリコを巻き添えにするのは最悪だ。
ウィンガーが爪を振り上げる。突いてくるつもりだ。キリコがぼくから剣をとっているところを、貫くのだろう。たとえキリコが横へ避けたとしても、その爪は間違いなくぼくを殺すだろう。ぼくのことはいいから、キリコは避けて欲しい。
その考えを口にする余裕もなく、キリコが目の前に迫ってきた。ぼくの腕から剣をとる。その背後にはウィンガーがいる。
キリコは剣を抜いて、振り返ろうとしている。ウィンガーの爪をその剣で防御するつもりだ。だが、その素早い行動も間に合いそうにない。
逃げろ、さもなければ君が死ぬことになる。
ぼくはそう言いたかった。しかしその暇もなかった。
ウィンガーの爪が繰り出され、鮮血が飛んだ。ぼくは立ち上がれない。
キリコは、剣を振ろうとしていた手を止めている。動けないのだ。ぼくも動けない。あまりの衝撃にだ。
ウィンガーの爪を止めたのは、キリコの身体ではなく、システマーだった。システマーの腹部に、ウィンガーの爪が突き刺さっている。バリアフレームを貫き、致命傷を与えている。
背中を割られたはずのシステマーが、ウィンガーとキリコの間に飛び込んだのだ。信じられないし、目の前の光景を信じたくない。
ぷっ、とシステマーが血を吐いた。腹部を貫かれて、胃から血液が逆流したのだろう。しかし、その顔は笑っていた。激痛に耐える顔でもなく、ただ彼女は笑っていた。
両腕を突き出し、システマーはウィンガーの右腕に触れた。
「これが私の」
彼女は何かをするつもりだ。そう察したウィンガーが、それをされる前にとどめを刺そうと左手を振り上げた。だが、システマーの方が早い。
「最後の切り札」
呟いた瞬間、システマーの両腕が破裂した。彼女の両脚に仕込まれていた爆薬よりもずっと強烈な爆発だった。
爆発音に、ぼくの耳は貫かれた。びりびりと空気の震えが身体でもわかるほどだ。
しかしそれ以上に目の前の光景は衝撃的であった。明らかにバリアフレームも耐えられないほどの爆発が起こっている。ぼくたちはシステマーの身体が盾になっているおかげでそれほどの衝撃を受けていないが、システマー自身は身体が引き裂かれてもおかしくないほどの損害をこうむるはずだ。
細かい破片が飛び散り、壁や床に跳ね返る。バイオウィンガーは衝撃で吹き飛び、反対側の壁際まで押し込まれていた。しかしその代償にシステマーの両腕は千切れ飛び、肘から先がなくなっている。
ぼくたちは息を飲んだ。両腕に仕込まれた爆薬は、彼女の腕をも吹き飛ばしてしまっていた。最後の切り札というにふさわしい破壊力だが、犠牲が大きすぎる。硝煙のにおいと、肉の焦げるにおいが漂ってきた。
「ごふっ」
システマーは血を吐いて、その場に倒れた。自分で放った攻撃とはいえ、その衝撃に吹き飛ばされないようにするだけでも、大変な体力が要ったはずだ。しかも、腹部を貫かれた状態でだ。システマーがどれほどの肉体改造を受けたのかわからないが、ダメージは深刻なものに違いなかった。両腕を吹き飛ばされたこともあるが、恐らくもう、彼女は立てまい。
「姉さん」
恐々とした調子で、キリコがシステマーを抱き起こす。
「ね、寝ていればいいのに、どうしてこんなこと」
「ふっ」
システマーは息も絶え絶えといった調子だった。身体のあちこちから血を流し、しきりに血を吐いている。馬鹿な、とぼくは思った。あの天才が、こうもあっけなく、息絶えてしまうのか。
「私ね、今まであんたに姉さんらしいこと何にもしてあげられなかった」
小さくなっていく声で、彼女はそう言ってのける。
今の攻撃はさすがに効いたらしく、ウィンガーはあちらの壁際で呻いている。どうやら右腕をなくしたようだ。
弱々しいシステマーの呼吸が、消えかけている。
「例えほんの三十分でも、三時間でも、あなたより先に生まれたから。このくらいはしておかないと、後味がわるい」
「姉さん、勝手なこと……」
キリコがシステマーの身体を揺さぶったが、すぐにシステマーは目を閉じた。死に身を委ねたのだということはわかった。腕の傷よりも、腹部を貫かれたことが致命傷だったのだろう。出血もだいぶひどかった。
天才である山内霧亜は、亡くなってしまった。両腕を失い、妹をかばって息絶えた。
馬鹿な、とぼくは思った。メタルシステマーという人は、やや自意識の過剰な天才だった。少し尊大な態度に見合うだけの実力を持っている、何をしても許されそうな存在だったのだ。死んだ、ということが信じられない。
「痛い痛い痛い、全く痛い。こんなにも痛い、ひどい痛みだ。こんなにも痛い思いをさせてくれた方にお礼をしなくては」
バイオウィンガーの声が聞こえてくる。ぼくたちの傷ついた心に配慮しない、土足で踏みにじるような声をあげて、千切れた右腕を押さえながら、ゆっくりと立ち上がってくる。
彼こそが今、最後の敵だった。憎むべき敵だ。
「しかし礼をするべき相手は死んでしまったようだね。もったいない、彼女はとても愛らしい玩具になれたのに。それにしても君はついに最後の一人となったわけだが、さて、どう楽しませてくれるのかな」
敵も同じことを思っているのかもしれない。
互いに、最後の戦士。
「一騎打ち」
キリコは立ち上がった。その手には、システマーの剣が握られている。相当に重いはずだが、全くそう思わせない動きだ。
「貴方を一撃で叩き斬って、この戦いを終らせる」
カートリッジを使って、剣を加熱させる。それが終るとすぐに、キリコは鞘を捨てた。相打ち覚悟らしい。構えを取り、敵を強く睨んだ。すさまじい眼力である。全身から殺気がほとばしる、鬼のような気合が感じられた。
正眼に構えるキリコに、ウィンガーは左腕の爪を向ける。彼は背中の飛行ユニットを展開した。自分の羽もあるのだが、さらに機動力を増すということらしい。
ぼくはシステマーの身体を抱えてその場を離れようとしたが、バリアフレームを着込んだシステマーの身体が予想外に重い。やむなく諦めて、自分ひとりだけ部屋の隅に退避する。ウィンガーは勿論だが、今の状態のキリコも怖い。頼りにはしているが、近くにいたくないのである。それほど、彼女は怒っていた。
二人は睨みあっている。間もなくこの移動要塞の動力は落ちるだろう。そうなればぼくたちの脱出する見込みはなくなる。いや、キリコの飛行ユニットが役に立たなくなった瞬間から、ぼくたちの脱出の見込みはほとんどない。海に落ちても、要塞の水没に巻き込まれてしまうことになる。その後、助かるとは思えない。
ぼくにできることは、二人の戦いの結末を、見届けることだけだ。
夏子さんや水口さんの顔が思い出されてくる。もうすぐ彼女達のところへ行けるのかもしれない。だが、そこに行くのに手ぶらではいけまい。どうか今だけは、キリコに力を貸してくれ。ぼくは祈った。ぼくは神様なんか信じないし、死んだ後のことなんて全く考えたこともないが、今だけは何にでもすがりたい。キリコを、勝たせて欲しい。
「キリコ」
ぼくは彼女の名を呼んだ。呼び捨てにすると決めたときから何度となくこう呼んできた。だが、今ほど祈りをこめてこの名を口にしたことはない。勝つんだ、そう願いをこめ、祈りをこめ、ぼくはその一言だけを口にした。彼女の名を。
キリコはぴくりとも表情を動かさない。多くの思いを込めて、赤く熱を持った切っ先と敵を見ている。加熱された剣は赤く見える。白く輝いているようでもあった。対照的にキリコは冷静に見えた。メタルスーツもない、ただの女の子のはずなのに、彼女は果てしなく大きく見える。本気で打ち合えば間違いなく負けてしまうというのに、彼女は畏怖を覚えるほどに張り詰めている。
勝負のときは、あっけなく訪れた。
照明がほんの一瞬だけ、点滅した。その瞬間に全てが決まっていた。
赤く輝く剣が、闇の中に踊る。
灯りが点くと同時に、鮮血が飛沫となって散った。
ぼくが見たのは、剣を振り終わった直後のキリコと、彼女とすれちがったウィンガーの姿だった。
「くっ」
キリコは呻いて、残心もとれずにのろのろと振り返る。だが、切り裂かれていたのはウィンガーの方だった。
その腹部は完全に裂かれていて、体液を盛大に噴出している。
がつん、と大きな音がして、壁のパネルに何かが食い込む。そちらを見てみると、白い硬質製の三角定規のようなものが壁に突き刺さっていた。よく見るとそれはウィンガーの爪だ!
キリコは襲い掛かってきたウィンガーの爪を切り飛ばし、さらに胴体にまで傷を負わせたのだ。メタルスーツも着ていないのに、恐ろしい破壊力だと言える。
「うぐっ、こ、この」
ウィンガーは往生際悪く、残った左腕でキリコに掴みかかろうとした。しかし動きは格段に鈍くなっており、もはやそれを回避しようとするまでもない。
キリコは荒い息をつきながらも足を踏ん張り、剣を構える。これで終わりだ。
「この、クソガキぃ!」
「消えなよ!」
キリコが一度剣を引き、大きく踏み込みをかけて、鋭い突きを繰り出す。ウィンガーの足掻きに合わせたその突きは、まさしく吸い込まれるように彼の大きな口の中へ飛んでいった。
それが全ての終わりだった。剣は彼の口から後頭部へ抜け、その勢いで彼の巨体を押し飛ばす。ブーツの助力があるとはいえ、上半身の膂力は全てキリコによるものである。すさまじいパワーという他はない。
彼は、何も言わずにあお向けに倒れる。いまだ余熱で赤く光る剣は、ウィンガーの咽喉を焼き、魚を焼くときのようないい音をさせた。
「ぐぅ、ふぅっ!」
二秒ほど彼は呻いていたが、すぐに静かになる。バイオウィンガーは、完全に息絶えた。多くの人間を殺した死神は、ここに潰えたのである。よくやった、キリコ。そう言いたかったが、言葉が出ない。
メタルスーツもなしに、改造戦士を打ち倒したキリコ。彼女は、強かった。私は強い、と何度となく言っていた彼女だが、それが本当であったことが立証された。そのキリコは膝をつき、息を整えている。相当に疲労したはずだ。ぼくは何も言わない。
すると彼女はやがて顔を上げて、剣を刺されて倒れるバイオウィンガーの姿を見下ろした。
そして息を吸い、キリコは。
動かないシステマーと、ウィンガーの倒れた部屋の中で、ぼくが見ていることも気にせずに、咆哮をあげた。
女の子の咽喉から出ているとは思えないほど、ほとばしるような、悲しみに満ちた声だった。慟哭といってもいい。その声を、擬音として表現することもできかねるほどの、すさまじい声。感情の爆発だったのかもしれない。
ぼくは歩いて、叫び終わったキリコを抱いた。たぶん、初めて。左腕は折れているので、右腕だけで彼女を抱きしめた。
「六郎」
彼女はぼくの名を呼んだ。ぼくはその言葉になんと返答をしたのか、忘れてしまった。頷いただけのような気もするし、ああと曖昧に答えた気もする。
「ありがとう」
礼を言われて、ぼくは戸惑った。ありがとうも何もない。ぼくがついてきたせいで、仲間が二人も死んでしまった。親友になれたかもしれない二人だった。
そしてぼくたちも恐らく、海の底に沈む。もう、ここに動くような飛行ユニットは残っていない。メタルスーツのものはもう接続を切断したのでどうあっても使えないし、恐らく壊れているだろう。背中を割られたシステマーのバリアフレームのものも、もう破壊されている。ここに来るまでにメタルスーツの残骸らしきものも見つけたが、あれらは全て壊れていた。
海の底へ行く。
だが、やるだけのことはやった。ぼくはもう一度キリコを抱き寄せた。彼女は抵抗しない。
部屋の中は闇に包まれた。恐らく、移動要塞の動力が全て落ちたのだ。続いて、すぐに浮遊感がぼくたちを襲った。床が不安定になり、落ちていく感覚に包まれる。
要塞は、海面に向かって落下を始めているのだ。これでいい、全ては終る。ぼくはそれでもキリコを抱きしめていた。
あとに残ったのは、血と硝煙の臭いだけだった。