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料理で負けたら王太子の妻? 今は悪役令嬢ですが、前世は三つ星店の料理長ですよ?

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/11/06

「この料理を作った人を呼んでちょうだい」


 私の十八歳の誕生日を祝う食卓で、その言葉はよく響いた。


 父が杯を置いた。母も食事の手を止め、壁際にいた給仕の娘が肩を震わせる。


 また始まった、と思われたのだろう。


 無理もない。私はロゼルダ・ラグニエ。気に入らない料理が出れば厨房の者を呼びつけ、気に入らない相手には人前で恥をかかせる、評判のよろしくない侯爵令嬢だ。


 そして、たった今、前世を思い出した。


 日本。三十四歳。料理人。


 料理長を務めた日本料理店がミシュランの三つ星を得た夜、仲間と厨房の床に座って飲んだ安い缶ビールまで、はっきり覚えている。


 その私が、皿の前で動けなくなっていた。


 白身魚にナイフを入れたときからおかしかった。


 繊維に沿って身がほどける。柔らかいのに水っぽくない。ひと口噛むと、魚の甘さに香草の青い香りが重なり、あとから澄んだ酸味が追いかけてきた。


 皿の底には、トマトのジュが薄く敷かれていた。


 赤い色はないのに、口へ運べば熟れたトマトの香りがした。


 うまい。


 腹が立つほど、うまい。


「ロゼルダ。今日は殿下のお心遣いで――」


「文句なら、僕が聞こう」


 父の言葉に重なって、隣から声がした。


 顔を上げる。


 レイヴァス・オルディス王太子。二十二歳。


 父はかつて、幼い王子の教育係を務めていた。その縁で、今日の祝いの席に彼を招いたのだ。


 料理の腕は諸国の職人からも認められている、と聞いたことがある。以前の私は、王子なのに物好きだとしか思っていなかった。


 整った顔も、きれいな銀灰色の髪も見えていたはずなのに、私はそれまで、この人が何を作っているかさえ気にしていなかった。


 王子は私の皿を見た。


「その魚は僕が作った。初めて僕の料理を食べてくれたのは、侯爵だ。今日はそのお礼も兼ねて、祝いの一皿を贈らせてもらった。口に合わなかったかな?」


 私は皿と王子を交互に見た。いつもの料理長の新作だとばかり思っていた。


「この魚、普通に煮たんじゃないわね?」


 王子の眉がわずかに動いた。


「え?」


「水分を逃がさず、低い温度で均一に火を入れている。トマトは加熱して澄ませたのではなく、一度凍らせた?」


 私の前で、給仕の娘が瞬きを繰り返した。


「……そうだが」


「厨房を見せて」


「ロゼルダ! 殿下に向かって、何という口の利き方だ。無礼だぞ!」


 父が椅子を鳴らして立ち上がった。


「も、申し訳ございません。娘がとんだ――」


「構わない、侯爵。料理の話なら、僕も遠慮のない言葉の方がいい」


 王子が制しても、母は頭を両手で抱え、椅子に沈み込んでいた。


「……終わったわ」


 顔も上げずに呟く声で、ようやく我に返った。


 今、私は何をしているのだろう?


 十八年分の記憶と、前世の三十四年分の記憶が、頭の中でひどく混ざっている。


 しかもロゼルダ・ラグニエという名前には、前世でも覚えがあった。


 仕込みの合間に読んでいた恋愛小説。気位が高く、主人公を追い詰め、最後には社交界から消える悪役令嬢。


 私の名前だった。


 破滅。失脚。将来への備え。


 考えることは山ほどある。


 それでも私は、もう一度魚を食べた。


 先ほどより少し冷めている。その温度になっても、生臭さはまるでなかった。


 どうやって作ったの?


 私の知らない食材で、どうしてここまで作れるの?


「……おいしいから、聞いているのよ」


 口にすると、食卓が静まり返った。


 王子が私を見ている。


「一皿食べただけで、あなたの仕事を分かったつもりはないわ。だから教えて。最後にかけた油は何?」


 私が褒めたときより、その質問をしたときの方が、彼は嬉しそうだった。


「菜種油に、柑橘の若葉の香りを移したものだ。皮も試したが、この魚には葉の方がよかった」


「どうやって香りを移したの?」


「そこから話すと長い。君の誕生日が終わってしまう」


「なら、明日」


 即答してしまった。


 王子の口元が緩んだ。


「いいよ。明日の午後、城へ来るといい。その代わり、君の作ったものも一品、味見させてくれ」


「ええ。今度は、あなたを驚かせてあげる」


 私は皿へ視線を戻した。


 最後のひとかけらまで、おいしかった。


 こんなに悔しい食事は、久しぶりだった。


 ◇◆◇


 翌朝、私は厨房の入口で追い返された。


「お嬢様にお入りいただく場所ではございません」


 料理長のベルシュは、私を見ても手を止めなかった。


 大きな手だった。節が太く、何本もの薄い傷がある。


 私はその手を知っている。前世の私も、似たような手をしていた。


 昨夜までの私は、一度もよく見たことがなかったのに。


「昨日は、ごめんなさい。急に料理人を呼べなんて言って」


 返事はなかった。


「その前も。冷えたスープのことで給仕を叱ったでしょう。私が着替えに時間をかけたせいだったわ」


 包丁の音が止まった。


「……今朝、あの娘は、お嬢様の食事の担当を外してほしいと申しました」


 胸のあたりが重くなった。


 私は昨日までの私を、知らないふりにはできなかった。


「分かったわ。ほかの仕事に替えてあげて。私からも謝りたいけれど、会いたくないなら、それを優先して」


「承知いたしました」


「それで、お願いがあるの。台を一つと、道具を貸してほしい」


 ベルシュの顔が硬くなった。


「今度は、何がお気に召しませんでしたか?」


「昨日の魚よ」


「しかし、おいしいと――」


「おいしかったから悔しいの。私も作りたい」


 ベルシュは長いこと私を見た。


 それから、使っていない丸鍋を一つ、台へ置いた。


「お怪我をなさいませんように」


 信用されていないことくらい分かった。


 今は、それでいい。


 米はあった。南の地方から入るもので、屋敷では多めの湯でゆでて湯を切り、肉の付け合わせに使っている。海の乾物も、熟成させた豆の調味料もあった。


 前世と同じ味が、そのまま瓶に入っているわけではない。


 豆醤を少し舐める。醤油より麦の甘い香りが強く、塩もきつい。


 これは面白い。


 鍋へ手を伸ばすと、ベルシュが言った。


「お嬢様、何人分を?」


「ここにいる人の分も。皆、まだ朝ご飯を食べていないでしょう?」


「私どもの食事は、あとで」


「ええ。だから、あとで食べるものを作るの。鶏の身と皮、それからあちらの茸を分けてもらえる?」


 新しい指輪を外し、髪を結び直す。


 前世のようには手が動かなかった。指の腹は柔らかく、鍋も重い。


 それでも、米を研ぐ手つきは戻ってきた。


 鶏皮を焼く。脂が出て、細かな音がし始める。茸を切り、鶏の身をそろえ、豆醤の塩に合わせて味を決めた。


 鍋の蓋を閉じたときには、厨房の何人かがこちらを見ていた。


「その匂い、何ですか?」


「炊き込みご飯」


「お米の湯を切らないのですか?」


「今日は、汁を全部吸わせるの。ほかの仕事の邪魔にはならない場所で、蒸らさせて」


 私は使った台を拭き、道具を洗った。


 配膳がひと段落してから蓋を開ける。


 ふわりと上がった湯気に、若い下働きが鼻を近づけた。


 米の表面には鶏の脂が薄く光り、底には淡い焦げができていた。


 ベルシュが小さな匙で味を見た。


 ひと口。


 もうひと口。


「……お嬢様。底の方も、いただいてよろしいですか?」


「ええ。そこが好きなの?」


「香りが違います」


 私は少しだけ笑った。


 ベルシュは給仕たちの分も取り分け、別室へ運ばせた。あの娘の分には、焦げのあるところも入っていた。


 料理をおいしいと言ってもらえたときの嬉しさは、生まれ変わっても変わらなかった。


 これを、もっと増やしたい。


 私の名前を聞いただけで顔を曇らせる人に、違う顔をしてほしい。


 人を呼びつけて謝らせるより、その方が、ずっと気分がいい。


 城へ持っていく分は、なくなった。


 全員が食べ終わる頃には、鍋底に米一粒残っていなかったからだ。


 ◇◆◇


「手ぶらで来たのか?」


 王子に迎えられて、私は唇を尖らせた。


「ちゃんと作ったわよ。全員おかわりしたの」


「何を?」


 説明すると、彼は不満そうな顔をした。


「次は、僕の分を先に取っておいてくれ」


 案内された離宮の厨房は、私が思っていたものと違った。


 調理台には小さな鍋が幾つも並び、棚には日付を書いた瓶が詰まっている。片隅には、硝子瓶と手押しのポンプをつないだ、奇妙な装置まであった。


 空気を抜く仕掛けだ。


 私は足を止めた。


「……その瓶で、昨日の油を?」


「葉の香りを移した。火にかけると、欲しい香りまで変わってしまうから」


 前世でも、料理人たちが研究していたことだった。


 凍らせて澄ませる技法。低温での火入れ。減圧することで素材へ香りを移す仕掛け。


 一つなら、たまたまかもしれない。


 三つ重なれば、疑いたくもなる。


 もしかして、彼も?と。


「あなた、料理は誰に習ったの?」


「本を読んで、作って、失敗して。城の料理人に質問することもあるが、決まった師はいない」


「料理をする前の記憶は……」


「あるよ。もっと小さな頃は、外で遊んでいた」


 普通の返事が返ってきた。


 王子は訝しそうに私を見て、棚から一冊の帳面を取った。


「昨日の料理なら、このあたりだ」


 余白まで書き込まれていた。


 葉の量。切り方。瓶に入れる順序。油の種類。うまくいかなかった理由には、何度も線が引かれている。


 私は頁をめくった。


 最初の方は、今より幼い字だった。


 台所から借りた鍋の大きさ。焦がした根菜の絵。料理人に叱られた、と書いた日の次にも、同じ料理の記録があった。


「このときは、いくつ?」


「十歳かな。ああ、その頁は見るな。塩を入れたのに、味が薄いと思ってまた入れている」


 彼が帳面を取ろうとしたので、私は少しだけ身を引いた。


 もう一行読みたかった。


 答えを知っている人の記録ではなかった。


 私が前世で覚えた技法へ、違うところから、少しずつたどり着いている。


 しかも途中には、私にも思いつかない試みがある。


「……全部、自分で?」


「だから、失敗も全部僕のせいだ」


 彼は私から帳面を取り上げた。


 この世界の食材と道具で、失敗を重ねて、ここまで来た人なのだ。


 背筋がぞくりとした。


 前世の記憶があるから、私の方が上だなんて。


 そんな甘い考えで、この男の前には立てない。


「卵を借りてもいい?」


「急に何だ?」


「私も一つ、作るわ」


 王子は目を細めた。


「いいね。やっと、君の作ったものが食べられる」


 だし巻き卵を作った。


 海藻と乾いた魚から引いた出汁は、前世とは香りが少し違う。豆醤の強さに合わせて加減し、丸い鍋で少しずつ巻いていく。


 王子は口を挟まなかった。


 切り分けた一切れを口へ運んでから、私の手元を見た。


「今の出汁を、もう一度飲ませてくれ」


 私は小皿へ少し注いだ。


 彼は卵と交互に味を見た。食べ終えても、すぐには何も言わない。


 胸が落ち着かなかった。


 美食家にも、名のある同業者にも、何度も料理を出してきた。それなのに、目の前の男の返事が気になる。


「……何とか言ったら?」


「もうひと切れあるだろう? 先にくれ」


「感想を言ってからよ」


「おいしい。腹立たしいことに、少しも水っぽくない」


 思わず笑ってしまった。


 彼がこちらを見る。


「何だ?」


「私も昨日、同じことを思ったの」


 王子も笑った。


 その顔は、食卓で見た王子様より、ずっと若く見えた。


「ここでは、レイヴァスと呼んでくれ」


「なら、あなたも令嬢扱いはやめて。鍋を一つ持つたびに人が飛んできたら、何もできないわ」


「分かった、ロゼルダ」


「ええ、レイヴァス」


 呼んでから、私は皿を彼の方へ押した。


 残った卵は、全部食べられた。


 ◇◆◇


 それから私は、忙しくなった。


 ベルシュに頼んで屋敷の厨房を使わせてもらい、手を馴らした。米の炊き方を変え、豆醤を煮詰め、魚の乾物を何種類も味見した。


 前世の味を再現したくて始めたのに、この世界のものを使うと、違うおいしさになる。


 それが楽しかった。


 屋敷の離れを小さな食堂にしたいと父に言うと、最初は笑われた。


「殿下に褒められたからといって、そこまでせずとも」


「お父様も、客としていらして。おいしくなかったら、二度目は招かないわ」


 父は首を振っていたが、離れを使うことは許してくれた。


 机を運び、献立を書き、週に二度だけ客を招く。


 最初の客は、私の誘いを断れなかった父の友人たちだった。


 銀の皿にのせた揚げ物を、ある夫人は不思議そうに見た。


「魚を、このように薄い衣で?」


「天ぷらです。今、召し上がって。お話は、そのあとで」


 口に入れると、小さな音がした。


 夫人の目が丸くなる。


 隣の夫へ何か言おうとし、先にもうひと口食べた。


「……そちらの茸も、いただけるかしら?」


「もちろんです」


 次の週には、その夫人が友人を連れてきた。


 私は茶碗蒸しを出し、豆醤で香ばしく焼いた魚を出した。最後には、小さく結んだ焼きおにぎりへ熱い出汁を注いだ。


 夫人たちは最初、私のいる厨房の方を窺っていた。


 けれど食べ始めると、誰がどの席で、誰に挨拶をしたかという話は止まった。


「そのお米、もう一つは多いかしら?」


「小さいのを作りましょうか?」


「ええ。……いいえ、同じ大きさでお願い」


 私は笑って、鍋へ戻った。


 レイヴァスは、毎回は来なかった。


 王宮での仕事があり、領地への視察もある。訪ねてきても試食をする暇のない日には、献立の紙だけ眺めて帰った。


 その代わり、時間が空くと厨房へ現れた。


「君の魚は、焼く前に何かしているだろう?」


「それを調べに来たの?」


「会いに来た。ついでに聞いている」


 言い方がずるかった。


 私は聞こえなかったことにして、下ごしらえの順序を説明した。


「そう簡単に教えていいのか?」


「使えばいいわ。それで私よりおいしくできると思うなら」


 彼は心底楽しそうに笑った。


 数日後、私はその言葉を後悔した。


 彼は豆醤を使い、私とは違う香草を合わせて魚を焼いてきた。表面の薄い艶に、前世で使っていた柑橘にも似た香りがあった。


 私はひと口食べ、黙って次を食べた。


「どうだ?」


「……もう少し大きく切りなさいよ」


「その注文は、褒め言葉と受け取っていいかな?」


「おいしいと言っているのよ。何度も言わせないで」


 彼は翌週、二人分の大きさで作った。


 私はその翌日、彼が黙るまで新しい椀物を食べさせた。


 彼が作ってくれたものの中で、特に好きになった料理がある。


 秋麦包み。魚と野菜を薄い麦の生地で包んで焼く、この国の祝い料理だった。


 切ると中から湯気が上がり、生地の内側へ魚の汁が染みていた。


「これ、あなたが考えたの?」


「昔からある料理だよ。初めて人に食べさせた料理でもある」


「父が食べたというのは、これだったのね?」


「あのときは、閉じ目から汁が漏れた。侯爵は皿に残った分までパンで拭って食べてくれたよ」


 彼は何でもないことのように言った。


 けれど、どんなに新しい料理の記録にも、その麦の生地の改良が、ときどき挟まっていた。


 私は皮の端まで食べた。


 次に作ってくれるのを待つだけでは、足りなくなった。


 楽しかった。


 私の知っているやり方を見せれば、彼は思いがけないところへ運んでいく。彼の料理を食べると、私にも次の一皿が浮かぶ。


 勝ちたい。


 明日も、食べたい。


 二つの気持ちが、だんだん分けられなくなっていった。


 ある日、彼は新しく作った根菜のソースを、私に見せる前に脇へよけた。


「それは?」


「失敗。香りが苦い方へ寄りすぎた」


「味を見ていい?」


 小皿にもらって舐めた。


 確かに苦い。けれど、そのあとに香ばしさが残る。


「ここ、好きだわ」


「どこが?」


「最後に残るところ。煮詰める前のものはある? あと、乳酪を少し」


 試しに合わせると、苦みの角が丸くなった。


 彼が小皿を取る。


 私は別の匙で、もう一つの配合を試した。


「……こっちだ」


「ええ。あなたが欲しかった香り、これでしょ?」


 顔を上げると、彼はこちらを見ていた。


「何?」


「いや。君は、僕が失敗すると嬉しそうだな」


「試せることがあるからよ。あなたの失敗、面白いもの」


「ひどい言い方だ」


 そう言いながら、彼は笑っていた。


 その日は雨で、帰りの馬車が来るまで時間があった。


 二人で使い終えた道具を洗った。彼が洗い、私が拭いて棚へ戻す。


 最後の皿を返してからも、私は棚の前を離れなかった。


「ねえ。私、ここではないところで料理をしていた記憶があるの」


 彼がこちらを見た。


「君が言っていた、前の店?」


 やはり聞かれていた。


 つい口にしてしまうことが、何度かあったのだ。


「ええ。日本という国。こことは違うものを食べて、違う道具を使うの。私はそこで大人で、料理長だった」


 レイヴァスは濡れた手を拭いた。


「それで、料理を覚えた?」


「十八の誕生日に、全部思い出したと言ったら、信じる?」


 彼はすぐには答えなかった。


 窓を叩く雨の音がした。


「それから、もう一つ。前の国で読んだ物語に、私が出てきたの」


「君が?」


「正確には、私と同じ名前の侯爵令嬢よ。家族も、この国も同じ。その話の中では、今の私は悪役令嬢なの」


「悪役令嬢?」


「主人公に意地悪をして、恋の邪魔をして、最後には皆に嫌われる役。前の国の物語では、そう呼ぶのよ」


 言ってから、私は布巾の端を折った。


「でも、今までのことを物語のせいにする気はないわ。給仕を泣かせたのも、料理人を怒鳴ったのも、私だから」


「これからは?」


「変えたいの。私の名前を聞いて嫌な顔をした人が、私の料理を食べて笑ってくれたら嬉しい」


 彼は少し黙り、私の手から布巾を受け取った。


「どうして、僕に話した?」


「あなたの帳面を見たから。あれだけ一人で考えてきた人に、全部、自分が思いついたような顔はしたくなかったの」


「……なるほど」


 彼は少し考えて、棚から小皿を一枚取った。


 台の端に残しておいた小鍋から、先ほどのソースを少し注ぐ。


「この組み合わせも、その国のもの?」


「いいえ。今、ここで考えたわ」


「なら、君と僕が作った料理だ」


 彼はもう一度味を見た。


「その記憶がどこから来たのかは、僕には確かめられない。でも、君が今ここで考えて、作っているところは見ている」


 肩に入っていた力が、少し抜けた。


「驚かないの?」


「驚いているよ。さっきから、君の国で食べてみたいものを考えてる」


「来られないわよ。場所だって分からないもの」


「だから、君に作ってほしいんだ」


 馬車が着いたと知らせが来るまで、私たちはまた料理の話をした。


 帰り際、彼は雨の向こうまで私を見送った。


「次、いつ来る?」


「明後日。新しい豆醤が届くの」


「分かった」


 馬車が動き出してから、その問いは豆醤の話をする前だったと思い出した。


 私は窓を閉めた。


 頬が熱かった。


 ◇◆◇


 私の食堂に客が増えるにつれて、変な噂も増えた。


 本当に作っているのはベルシュで、私は皿へ飾りを置くだけ。


 食べた者を虜にする何かを混ぜている。


 王子が通うのは、侯爵家から頼まれているから。


 最初の二つは腹が立った。


 最後の一つは、思っていたより痛かった。


「味の分からない連中です」


 ベルシュはそう言ってくれた。


 彼は今、私の頼んだ材料を、使う順序にそろえて置いてくれる。


 父の客の一人が、私には使えないような大きな包丁を持ってきた日には、取り替える品まで一緒に考えてくれた。


「放っておけば、そのうち静まります」


「嫌よ」


 私は米の入った袋を台へ置いた。


「あなたに作らせているなら、あなたの料理だって悪く言っているのよ。食べ物に変なものを入れているなんて」


 レイヴァスが来たのは、その日の夕方だった。


 彼も噂は聞いていた。


「僕から、君が作っていると話すこともできる」


「それじゃ、王子に言わせたと噂されるだけじゃない?」


「そうだろうな」


「だから、皆の前で料理をしたいの」


 彼は私を見た。


「仕込みから盛り付けまで、全部。材料も調べてもらう。誰も私の後ろに立たせない」


「公開調理だな」


「料理人組合に審査をお願いするわ。そこで、あなたと勝負したい」


 言った途端、彼の顔が変わった。


 王宮の廊下で人に声をかけられたときの、優しく整った笑みが消える。


「僕を選んだのは、名前があるから?」


「あなたに勝ちたいからよ」


 彼は笑った。


「受ける。ただし、条件がある」


「お金なら、父に頼まなくても少しは――」


「僕が勝ったら、君は僕の妻になる」


 米袋に置いていた手が滑った。


 袋の口からこぼれた米を、二人で見た。


 私は袋を起こした。


「……今、何と言ったの?」


「僕が勝ったら、結婚してくれ」


「聞こえていたわよ」


「じゃあ、二度言わせるな」


 普段と同じ口調だった。


 けれど彼は、私の返事を待つあいだ、一度も笑わなかった。


「私が勝ったら?」


「君の願いを一つ叶える。僕にできることなら」


「王太子の結婚を、あなた一人で決めていいの?」


「父上の裁可は必要だ。だから、僕自身の望みとして願い出る。もちろん、君が同じことを望んでくれたら」


 私は彼を見た。


 妻。


 この人と、同じ家で。


 毎日、顔を合わせて。


 嬉しいと思ってしまった自分に腹が立った。


「私が受けなかったら、勝負はしないつもり?」


「勝負はするよ。君が賭けまで受ける必要はない」


 私は彼の目を見返した。


「受けるわ」


 こんなことで、包丁を鈍らせてたまるものか。


「私が勝つもの」


「それは楽しみだ」


 レイヴァスはようやく笑った。


 彼が帰ったあと、私はこぼれた米を拾った。


 ベルシュが箒を持ってきてくれたので、何も見なかった顔をしてほしいと頼んだ。


「どのあたりからでしょうか?」


「全部よ」


 料理長は返事をしなかった。


 その口元が笑っていた。


 ◇◆◇


 料理人組合が設けた勝負の日は、一か月後になった。


 広場に二つの調理台を置き、仕込みから盛り付けまですべて公開する。調味料も道具も検査を受け、助手はつけない。


 五人の審査員も調理を見届け、二皿を食べ終えてから一人一票を入れる。投票用紙を集め、結果を発表するのは組合長だ。


 課題は、銀鰭魚一尾と土地の秋の食材で、二皿のもてなしを作ること。


 基本の調味料と、卵や乾物などの食材は共通に用意される。課題の銀鰭魚一尾と、野菜、米、麦粉は、自分で買いそろえなくてはいけない。


 同じ市場。同じ予算。前日の昼から日没まで。


 家の者に仕入れを任せることも、商人から贈り物を受けることも禁止だった。


 魚屋の前でレイヴァスに会ったときは、仕方ないと思った。


 少し離れたところには互いの護衛がいるが、買い物に手を出さない決まりだった。


 次の茸屋では、顔を逸らした。


 三軒目の穀物商で目が合ったときには、とうとう我慢できなくなった。


「どうして行く先々にあなたがいるのよ!」


「それは僕の台詞だ! 先に入っていたのは僕だぞ」


「私が先に魚を選んでいたわ」


「魚屋まで自分のものにするな」


 商人は私たちを交互に見て、笑いを噛み殺していた。


 私は麦粉の袋へ手を伸ばした。


「そっちより、奥だ」


「自分の買い物をしていたら?」


「そっちは新しく見えるが、香りは奥の袋の方がいい。気になるなら、黙って嗅いでみろ」


 私は両方の袋の口を開けてもらった。


 奥のものは、甘い香りがした。


「……こっちをいただくわ」


「どういたしまして」


「あなたには何も言っていないけれど?」


 店を出るとき、彼が買おうとしていた米を見た。


「それ、割れた米がずいぶん混ざっているわ。袋の底まで見せてもらいなさい」


 彼は商人を振り返った。


 袋を替えてもらい、外へ出てくる。


「君にも、礼は言わないからな」


「どういたしまして」


 今度は彼が笑った。


 それからは、別々に歩こうとする方が面倒になった。


 同じ店を覗き、互いの籠を隠し合い、売り手に言われた値段へ二人同時に文句をつけた。


 野菜売りの前で、私が葉付きの根菜を選ぶと、彼が籠を覗き込んだ。


「葉も使うのか?」


「そうよ。あなたは?」


「使うつもりだったが、君に先を越された」


「材料が同じでも、料理は同じにならないでしょ?」


「そうだな」


 嬉しそうに言うので、私まで笑いそうになった。


 食材を検査所へ預けに行く頃には、日は西へ傾いていた。


 魚は氷を詰めた箱で店から検査所へ運んでもらった。検査が済めば、食材は封をして氷室で保管される。翌朝まで手を触れられない。残りの袋は私たちが持ってきたので、腕には幾つも赤い跡がついていた。


「もう夕暮れか。……疲れたな」


「あなた、男なんだから、私の分も少しくらい持ってくれていいじゃない」


「うるさい。これは勝負だ。自分の食材くらい、自分で管理しろ」


「紳士と呼ばれている割に、甲斐性のない王子様だこと」


「別に、好きでそうしてるわけじゃない」


 少し低い声だった。


 私は彼を見た。


「あら、そう。皆に好かれるため? あなたは大人気だものね」


「そういうことを言ってるんじゃない。からかうなよ」


「からかっていないわ。皆、言っているもの。雲の上の人。天から降りてきたような王子様だって」


 彼は少し黙った。


「……なら、皆、節穴なんだな」


 検査所の前には小さな広場があった。食材の確認を待つあいだ、私たちは袋を足元へ置き、石段に並んで腰を下ろした。


「僕は、そんな高尚な人間じゃない。嫉妬もするし、悔しがる。いい顔をするのも疲れるし、四六時中笑ってなんかいたくない」


「なら、本当のあなたはどんな人なの?」


「さあ。……もう、よく分からない」


 彼は自分の膝へ目を落とした。


 広場の向こうで子供が追いかけっこをしていた。


 一人が転びかけ、別の子が笑う。転びかけた子も笑って、また走り出す。


 レイヴァスもそれを見ていた。


「でも、料理をしているときは分かる。腹が立ったら腹が立つし、うまくできれば嬉しい。失敗も、いつまでも覚えてる」


「十歳の、塩を二度入れた鍋とか?」


「あれを思い出させるな」


 私たちは少し笑った。


 彼の横顔を見ていると、胸の奥がむずむずした。


 いつもの憎らしい、頼もしい人だった。


 あの顔まで忘れてしまうほど、彼はほかの場所で違う顔をしているのだろうか?


「……なぜ、あんなことを言ったの?」


「あんなこと?」


「あなたが勝ったら、私を妻にするって」


「ああ。……あれか」


 彼は口元を手で隠した。


「君には、悪いことをしたと思ってるよ。勝負を申し込まれたのが嬉しくて、先に口から出た」


「誰でもよかったの?」


 聞いてしまってから、指先に力が入った。


 レイヴァスはすぐに私を見た。


「違う」


「だったら――」


「料理以外では、僕は自分の望みをあまり口にしてこなかった。用意された服を着て、決められた席へ座って、そこで必要なことを話す。それで済んでいたから」


 風が吹いた。彼の額へ髪が落ちた。


「だから、初めて逆らってみたくなったのかもしれない」


「国王陛下に?」


「違う」


「では、誰に?」


「僕自身に。どうせ無理だと考える方の、いつもの自分に」


 私は彼の横顔を見つめた。


「それで、どうして私なの?」


 そこだけは、曖昧なままにしたくなかった。


 彼は石段の先へ視線を移した。


「君と仕込みをした翌日、離宮の厨房がやけに静かだったんだ」


「私がうるさいって言いたいの?」


「……うるさかった方に、戻りたいって言ってる」


 声が出なかった。


「失敗しても君が勝手に味見をするし、うまくできたら、もっとよくなると言ってくる。次に何を作るか考えるたびに、君が何と言うかも考えるようになった」


 レイヴァスは顔をこちらへ向けた。


「君が来ない日は、食堂へ会いに行けばよかったと思う。来てくれた日は、もう少しいてほしかったと思う」


 胸の奥が、苦しいほど熱くなった。


「……私の評判は、知っているわよね?」


「まあね」


「そんな私を妻にしたら」


「知るかよ、そんな噂ばかり」


 思わず目を見開いた。


 彼は顔をしかめた。


「君が前にひどいことをしたのは知ってる。けれど今、厨房でどう働いているかも見てる。僕の失敗作を前に、何を言うかも知ってる」


「レイヴァス……」


「君だって、人前で見られている君が全部じゃないだろう?」


 私は足元の籠を見た。


 この人は、記憶の中の私を見たわけではない。


 私が鍋を振り、迷い、味見をし、失敗してきた時間を、隣で見ていたのだ。


「お互い、評判だけじゃ分からないことがあるんだな。案外、お似合いだと思わないか?」


「……かもね」


 ようやく、それだけ答えた。


 彼も少し黙った。


 広場の子供たちが、一斉に誰かの名を呼んだ。


「で、君は決めたのか?」


「何を?」


「勝ったときの願い」


 私はもう一度、彼の顔を見た。


 今ここにいる彼を、明日も見たかった。


 料理をしていない時間にも。


「……今、決めた」


「何?」


「勝ったら言う」


「何だ、それ?」


 私は立ち上がった。


「私が絶対に勝つから」


 彼も袋を持ち上げた。


「あっそ。僕は負けないけど」


 検査所から呼ばれたので、私は一歩先に歩き出した。


 頬が熱いままなのは、夕日のせいにしておいた。


 ◇◆◇


 翌朝、広場は人で埋まっていた。


 二つの調理台は低い柵で囲まれ、三方に観覧席が組まれていた。


 組合長、年配の料理人二人、宿の女主人、菓子職人の男。五人の審査員が席についていた。


 女主人には見覚えがあった。私の食堂へ、料理人が何人隠れているのか確かめに来た人だ。今日は私に会釈せず、台に並ぶ食材を見ていた。


 レイヴァスは先に着いていた。


 いつものきれいな上着ではなく、袖を留めた料理着を着ている。


 私も同じだった。


 髪をまとめ、指輪を外し、手を洗う。


 隣へ立つと、彼は私の顔を覗き込んだ。


「眠れた?」


「ええ。あなたこそ」


「眠ったよ。……少し遅くなったが」


 私も寝不足だった。


 夜中まで献立を頭の中で組み直した。昨日の言葉も、その隙間へ何度も入り込んできた。


 彼の試作帳には、ここ数日の日付もあるはずだ。


 私と同じように、今日のために考えてきた。


 それが嬉しかった。


 そして、それでも勝ちたかった。


 組合の立会人が食材の封を解いた。


 昨日選んだ魚が出てくる。鰓も、目も、変わりない。


 包丁を確かめ、鍋を置いた。


 ベルシュは柵の向こうにいた。父の後ろには、以前、食事の担当を外れたいと言った給仕の娘もいる。


 私と目が合うと、彼女は小さく会釈した。


 私は頷き返した。


 そのすぐ後ろで、誰かが言う声がした。


「本当に一人でできるのかね」


「ここまで来れば、さすがに料理人を隠せまい」


 聞こえていた。


 レイヴァスも、そちらを見た。


 私が口を開くより先に、彼は私へ向き直った。


「ロゼルダ」


「何?」


「今日は、僕も君の料理を食べるからな。審査員の分だけ作って終わるなよ」


 私は笑った。


「負けたあとでも、食欲があるといいわね」


「そっくり返す」


 開始の鐘が鳴った。


 私は魚へ包丁を入れた。


 鱗を引き、腹を開き、身を外す。


 刃先へ伝わる感触が、魚ごとに違う。今日の魚は身が厚く、脂もある。


 骨を焼く火をつけ、茸を分けた。


 レイヴァスの包丁も動いていた。


 早い。刃を引く角度に無駄がない。


 顔を上げた彼と目が合った。


「見る暇があるのか?」


「あなたこそ」


 私は手元へ戻った。


 骨の焼ける匂いが立ってくる。焦がしすぎずに引き上げ、水へ入れる。海藻と乾いた茸は別の鍋で、欲しい香りを確かめていた。


 身には薄く塩を当て、出てきた水分を丁寧に拭う。


 共通に用意された調味料を合わせ、食堂で使っている下味を作った。豆醤の塩気を確かめ、今日の魚に合わせて少し加減する。


 麦粉の半分を軽く乾煎りし、広げて冷ます。残りの粉と合わせて生地を練り、休ませる。そのあいだに根菜を刻んだ。


 ようやく、周囲から違う声が聞こえ始めた。


「あの魚、もう全部分けたのか?」


「あれだけの骨を取るのに、うちではもっとかかる」


 私は聞き流した。


 今、気になるのは、隣で立ち始めた出汁の香りだった。


 レイヴァスは小さな器を並べていた。


 その中へ魚と茸を入れ、出汁を合わせた卵液を注いでいる。


 私は手を止めかけた。


 茶碗蒸しだ。


 彼は蓋をして、蒸気の立つ鍋へ置いた。火の加減を確かめ、次の鍋へ向かう。


 米が炊かれている。


 切り分けた魚が網に並んでいる。その隣には粉と、冷やした水の器があった。


 天ぷら。


 その下に、米を置く気だ。


 私の料理で、私に勝ちに来た。


 喉の奥が熱くなった。


 私が考えた技法ではない。前世の国で、大勢の料理人が磨いてきた料理だ。ここで教えた私よりうまく作るなと、言うつもりもない。


 それでも、こんなに悔しい。


 そして、この男の作ったものを、今すぐ食べてみたい。


「ロゼルダ」


 彼が私の台を見ていた。


「その生地……」


「ええ」


 私は魚へ豆醤のたれを塗り、刻んだ茸を重ねた。


「秋麦包みを作るわ」


 彼の目が見開かれた。


「君が?」


「この国の料理を、私が作ってはいけない?」


 レイヴァスは、驚いた顔のまま笑った。


「いいや。……早く、食べてみたい」


 私もだった。


 レイヴァスは自分の鍋へ戻り、蓋を持ち上げた。その顔が、また笑った。


「……楽しいな!」


 思わず声が出たようだった。


「僕は今、生きてる。次に何をされるか、分からない相手が隣にいる!」


「そうよ。料理は楽しいのよ!」


「君とだからだ! 対等にやり合える君とだから、こんなに楽しい!」


「対等? 私の方が腕は上よ!」


「はっ、よく言う!」


 彼は笑ったまま鍋の火を弱め、私は休ませていた生地を伸ばした。


「それは食べてから決める!」


「ええ。せいぜい驚きなさい!」


 柵の向こうで、誰かが息を呑んだ。


「殿下が、あんなふうに……」


 審査席でも、組合長が筆を止めてこちらを見ていた。


 私は笑いを噛み殺し、粉を打った台へ目を戻した。


 この国で好きになった料理を、私が覚えてきたことを全部使って、もっとおいしく作ってみたかった。


 魚の脂は、前世で使った魚とは違う。豆醤の香りも、麦の味も違う。


 その違いが、今は面白かった。


 焼いた骨の出汁へ、海藻と茸の出汁を少しずつ合わせる。表面の余分な脂をすくい、刻んだ根菜を火の通る順に入れた。


 一皿目は、この国の秋の野菜を味わう澄んだスープ。


 二皿目は、魚を包んだ秋麦包み。


 豆醤で引き出した魚の甘さを、乾煎りした麦粉の香りで包む。中の汁を受け止める茸は、先に余分な水分を飛ばしておいた。


 生地を閉じ、焼き窯へ入れた。


 窯の奥へ伸びる熱を見た。


 前世の厨房なら、つまみ一つで窯の温度を変えられた。


 ここでは、火と石と、今まで何度も焼いてきた手の感覚が頼りになる。


 私は焼く位置を少し変えた。


 前世の店の看板も、受けた評価も、この広場には持ってこられない。


 私が今作るものを、食べてもらうだけだ。


 一皿目を出す鐘が鳴った。


 私は五つの器へスープを注いだ。


 立会人が料理へ覆いを掛け、審査席へ運んでいく。


 レイヴァスの蒸し物も運ばれた。


 隣の調理台で油が鳴った。


 レイヴァスが揚げた魚を引き上げる。衣の先が、細い花のように開いていた。


 いい油の音だった。


 負けたくなかった。


 あの音に、あの手に。


 二皿目に使う器を温める。


 包みの端が、きれいな麦色になってきた。


 引き出しても、すぐには刃を入れない。中の熱が落ち着くのを待つあいだ、葉付きの根菜を最後に整えた。


 焼けた生地にナイフを入れた。


 軽い音がして、魚と茸の湯気が上がる。


 内側は、破れずに汁を受け止めていた。


 私はようやく息をついた。


 器へ盛り、葉を添え、五皿の縁を確かめる。


 最後の一皿を立会人へ渡したとき、終了の鐘が鳴った。


 急に、広場の音が戻ってきた。


 肩が重い。額に汗をかいている。指も、少し熱かった。


 隣を見ると、レイヴァスも同じように息を吐いていた。


 彼は袖で汗を拭いかけ、布を探し直した。


 私は自分の台にあった、まだ使っていない布を差し出した。


「……ありがとう」


「ええ」


 それだけ言うのに、ずいぶん力が要った。


 審査を待つあいだ、互いのために残しておいた一人分の料理を交換した。


 レイヴァスの茶碗蒸しは、匙を入れるとすっと切れた。すくった卵はふるりと震え、口へ運ぶまで崩れなかった。


 口に入れると、魚と茸の味が静かに広がる。


 私のものより、卵の甘さを前に出している。底の方には、薄くほぐした魚の身が沈めてあった。


 天丼には、この国の香草が少しだけ混ざっていた。


 衣は軽い。魚はまだ熱く、噛むと汁が出た。米には豆醤の甘辛い味が染み、その先で香草がふっと香る。


 知らない料理になっていた。


 私が知っている料理の、その先にある。


 箸を止められなかった。


 彼の方を見ると、秋麦包みの断面を確かめていた。


 ひと口食べ、器の底に落ちた汁まで生地で拭っている。


「……何か言いなさいよ」


「君こそ」


「今は嫌」


「僕もだ」


 顔を見合わせて、笑ってしまった。


 彼の料理を食べるのが、こんなに楽しい。


 負けるかもしれないと思うのが、こんなに怖い。


 レイヴァスはスープを飲み終え、器を置いた。


「粉を、先に炒った?」


「半分だけ。全部だと香りが強すぎたわ」


「あの魚の下味、食堂で使っていた配合だな」


「あなたの茸の切り方、変えたわね?」


「その方が、卵と一緒に食べられる」


 彼は空になった器を、もう一度見た。


「……負けたな」


「まだ、判定は出ていないわよ」


「僕の中では出た。スープで感じた魚の香りが、包み焼きでもう一度出てくる。でも、今度は脂の甘さが違う。もう一度スープを飲んで、確かめたくなる」


 レイヴァスは唇を結んだ。


「僕は一皿ずつのおいしさに気を取られた。二皿を一緒に食べてもらうことを、君ほど考えられなかった」


「おいしかったわ」


「知ってる。おいしく作ったからな」


 私は笑った。彼も少しだけ笑ったが、指は器の縁へ残っていた。


 そこで、組合長に呼ばれた。


 五人の投票が終わったという。


 私たちは柵の前へ並んだ。


 女主人が票を数え、五枚の投票用紙と集計表を組合長へ渡した。


 組合長は集計表を読み、隣の審査員へ何かを囁いた。その男が小さく頷く。もう一人も、集計表へ目を落としてから頷いた。


 私は両手を握った。


 隣には、私が知っている中で一番手強い料理人がいる。


 勝ちたかった。


 組合長が顔を上げた。


「三対二。勝者、レイヴァス殿下!」


 拍手が起きた。


 胸の奥が、すとんと落ちた。


 負けた。


 私は自分の台を見た。焼き窯の火がまだ赤い。伸ばした生地の切れ端も、使い終わった鍋も、全部そこにある。


 もう少し、できたことがあっただろうか?


「待ってください」


 審査席で、あの女主人が立ち上がった。


「その票数は――」


「審査の総意でございます」


 組合長が遮った。


 レイヴァスは拍手へ顔を向けなかった。


「投票用紙を見せてくれ」


「殿下。そのようなお手間は」


「いいから、見せて」


 低い声だった。


 組合長は投票用紙を片手で押さえ、彼へ身を寄せた。


「殿下のお立場もございます。侯爵令嬢に敗れたとなれば、今後のお付き合いにも差し障りが。ラグニエ嬢には別に、相応の賞を――」


 すぐ隣にいた私にも聞こえた。


 握っていた手が、ほどけた。


 では、さっきの発表は。


「僕の料理だけでは、足りなかったか?」


 レイヴァスが言った。


 組合長が瞬く。


「僕の身分まで皿にのせないと、彼女に勝てなかった?」


「いえ、そういう意味では――」


 言い終わる前に、レイヴァスの手が伸びた。


 組合長の胸ぐらを掴む。


 拍手が止まった。


 彼は顔が触れそうな距離まで身を寄せ、相手を睨みつけた。


「料理を愚弄するな」


 広場から、音が消えた。


「あれだけ手元を見て、食べて、それでもまだ王子の機嫌を取ることを考えていたのか? 君は、何を審査しに来たんだ?」


 その声を、私は初めて聞いた。


 あの王子が。人前で、胸ぐらを掴んで。


 自分の勝利を取り消すために、本気で怒っている。


「……ぷっ」


 レイヴァスの目が動いた。


 駄目だと思った。


 けれど、もう遅かった。


「ちょっと、あなた……人前で本性を出すにしても、それなの!?」


 笑いが止まらなかった。


 広場中が呆気に取られているのに、私だけが笑っていた。


「わ、笑うな! 僕は本気で怒ってるんだぞ!」


「そんなの、見ていれば分かるわよ!」


 私は目元を押さえ、もう片方の手で彼の腕に触れた。


「まず、手を離してちょうだい。私も話したいの」


 レイヴァスは一度唇を結び、組合長を放した。


「投票用紙を確かめてくれ。立会人にも」


 女主人と菓子職人が頷いた。組合長の手元から五枚の票を引き取り、立会人と一緒に署名を確かめ始める。


 息を整え、私は彼へ向き直った。


「判定の上では、私の負けでございますね、殿下」


 それまで一度も彼に向けたことのない口調に、その目が丸くなった。


「き、君……僕にも敬語を使えたのか……」


「ぷっ……驚くところ、そこ!?」


 また笑ってしまった。


 ひとしきり笑って、目に溜まった涙を指で拭う。


 それから私は背筋を伸ばし、料理着の裾をつまんだ。


 体に染みつくまで、何度も習った。


 足を引き、ゆっくり膝を折る。視線を伏せ、首の角度まで整えた。


 ざわめきの中で、誰かの話し声が途切れた。


「勝負の結果とは別に、私からお返事を申し上げます」


 顔を上げる。


 レイヴァスだけを見た。


「殿下。結婚のお申し出、謹んでお受けいたします」


 今度こそ、広場がざわついた。


「違う! こんな判定で君を――君の勝ちだ、この勝負は!」


「殿下」


 彼が口を閉じる。


「私では、不足ですか?」


「何を言ってる。そんなわけが――」


「では、私の話をお聞きになって」


 私は立ち上がった。


「負けたから従うのではありません。私が、あなたと結婚したいのです」


 彼の喉が動いた。


「王国一の紳士と謳われた方が、淑女をいつまでお待たせになるおつもりですの?」


「……ぷっ」


 レイヴァスが吹き出した。


 私は目を丸くした。


「えっ?」


「いや、すまない。今度は淑女になって、僕に勝ちにくるから」


「はあ!?」


「そんな顔をされたら、僕はお手上げだ」


「あなたのために今こうしているんだけど!? あなたが迷わないように、私は――」


 顎へ指が添えられた。


 言葉の途中で、唇が触れた。


 短い口づけだった。


 何が起きたのか分かるより先に、周りから大きな声が上がった。


「な……にゃ、何をするのよ!」


 顔が熱い。耳まで熱い。


 レイヴァスはまだ、私の顎へ触れていた。


「……うるさい口だと思って、塞ごうと」


「うるさっ……キス、今、ここで……!」


 息を吸い、言い返そうとして、私は止まった。


 彼まで赤かった。


 目が合うと、もっと赤くなった。


「どうして、あなたまで赤くなるのよ!」


「……今の君が、あまりにも可愛かったから」


「は、はあっ!?」


「そう怒鳴るな。僕だって、こんな大勢の前でするつもりじゃなかった」


「したのはあなたでしょう!」


「分かってる!」


 広場のどこかで笑い声がした。


 レイヴァスは片手で顔を覆い、すぐに下ろした。


 私の手を取る。


「受けるよ、ロゼルダ。君からの求婚なら、喜んで」


 握られた指から、熱が伝わった。


「君が好きだ。……僕と結婚してくれ」


「だから、そう申し上げているのよ」


 今度は、彼も私も笑った。


 拍手が上がりかけたところで、先ほどの女主人が咳払いをした。


「おめでとうございます。では、こちらの話もよろしいですか?」


 その手には、五枚の投票用紙があった。


「署名はすべて確かめました。票の記載も、先ほど集計したときのままです」


 菓子職人と立会人が頷いた。


 女主人と菓子職人が一枚ずつ、票を広げていく。


 ロゼルダ。レイヴァス。ロゼルダ。レイヴァス。


 最後の一枚にも、私の名前があった。


「三対二。勝者は、ロゼルダ・ラグニエ嬢です」


 喉が詰まった。


 自分の名前を、もう一度見た。


 女主人は組合長へ向き直った。


「私たちは料理を食べて票を入れました。身分に合わせて読み替えてよいとは、聞いておりません」


 組合長は答えなかった。その横で頷いていた二人も、目を伏せた。


「投票用紙も、発表を変えた理由も、皆様にお示しします。組合としての説明は、私たちからも求めます」


 レイヴァスが頷いた。


「頼む。僕の名を、誰かの仕事を踏みにじるために使わないでくれ」


 女主人は私へ顔を戻した。


「おめでとう。あの二皿をいただいて、うちの料理も、もっとおいしくできるはずだと思えたんです」


 私は何度も頷いた。


「……ありがとうございます」


 声が震えた。


 レイヴァスが私の手を持ち上げる。


「ロゼルダ。君の勝ちだ」


 広場が沸いた。


 私の名前を呼ぶ声がした。


 噂話で聞くのとは違う、大きな声だった。


 私は彼を見た。


 こんなに嬉しそうに、私の勝利を告げている。


 それでも、指へ少し力を込めて聞いた。


「悔しくないの?」


「ものすごく悔しい」


 即答だった。


「今すぐ、もう一度やりたい」


「今日は駄目。私が勝った日なんだから」


 レイヴァスは口を結び、それから大きな声で笑った。


 私も笑った。


 勝った。


 この男に、勝ったのだ。


 女主人にスープの作り方を尋ねられ、説明を始めると、次の食堂の日を尋ねる声が重なった。


「予約はどちらへ?」


「あの包み焼きも食べられるのかしら?」


「二皿では足りない。ほかの料理もあるだろう?」


 献立の紙を探す前に、ベルシュが客の名を書き始めていた。


 父が私の肩を叩いた。


「今度は、私にも席を取っておいてくれ」


「お父様、いつもお食べになっているでしょう?」


「友人を連れていきたいんだ。……それから、殿下。先ほどのお話は、あとで私にも」


 レイヴァスが背筋を伸ばした。


「改めて、二人でご挨拶に伺わせてください。父上にも、僕たちの望みとしてお伝えします」


「食堂は続けるわよ」


「それも一緒に話そう」


 父は私たちを交互に見て、長く息を吐いた。


「まずは、今日の客の話をしなさい。皆、待っている」


 私は笑って、次の客へ向き直った。


 少し離れたところに、給仕の娘が立っていた。


「お嬢様。次のお食事の日に、母を連れてきてもよろしいでしょうか?」


「ええ。お休みの日に、お客様としていらして」


 私はそこで、一度言葉を切った。


「それから、あの日はごめんなさい。私が遅れたのに、あなたを叱って」


 彼女は少し俯き、それから私を見た。


「……母にも、あのお焦げを食べさせたいんです」


「ええ。いいところを取っておくわ」


 次に来てくれる日に、おいしいものを出そう。


 そう思いながら顔を上げると、レイヴァスが私を見ていた。


「君も、ずいぶん評判をひっくり返したな」


「まだよ。次は、料理のためだけに集まってもらうわ。あなたも、もっと食べたくなるものを出してあげる」


「楽しみにしてる。でも、その前に」


 彼は私へ近づき、声を落とした。


「君の願いを、まだ聞いてない」


 勝ったら、一つ。


 昨日、石段に座って決めた願いだった。


 私は彼へ向き直った。


「本当のあなたでいて」


 レイヴァスが瞬いた。


「私の前では、料理をしていないときも。笑いたくないときまで笑わなくていいし、腹が立ったら、ちゃんと言って」


「……さっきのを見ても?」


「見たからよ。あなたが私の料理をあんなに大事にしてくれるなんて、嬉しかった」


 彼は少し俯いた。


「ただし、次からは手を出す前に、口で怒ってちょうだい」


「分かった。あれは、僕が悪かった」


「ええ。私もちゃんと聞くわ。私に怒っているときも」


 レイヴァスは私を見た。


 それから、笑った。


「君には、かなわないな」


「今日、負けたばかりでしょう?」


「料理の話だけじゃない」


 彼が私の手を取った。


 私はその指へ、自分の指を重ねた。


 あれだけ大勢の前で口づけておいて、彼はまだ、この手を握るだけで少し照れる。


 どうしよう。


 勝つ前より、この人が好きだ。


「でも、料理では次は負けない」


「結婚したら、私が手加減してあげると思ったら大間違いよ」


「するな。一度でもされたら、僕が怒る」


「ええ。上等だわ」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


 片づけを始めた台から、焼いた麦の香りがした。


 明日も、この人と料理をしたかった。


 その次の日も。


 握った手を軽く揺らすと、彼はこちらを見た。


「あ、それはそうと」


「なんだ?」


「あなたを贔屓した審査員の方々、私が王妃になったあと、こってり絞るから」


「……君はやはり、悪役令嬢かもしれん……」

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