料理で負けたら王太子の妻? 今は悪役令嬢ですが、前世は三つ星店の料理長ですよ?
「この料理を作った人を呼んでちょうだい」
私の十八歳の誕生日を祝う食卓で、その言葉はよく響いた。
父が杯を置いた。母も食事の手を止め、壁際にいた給仕の娘が肩を震わせる。
また始まった、と思われたのだろう。
無理もない。私はロゼルダ・ラグニエ。気に入らない料理が出れば厨房の者を呼びつけ、気に入らない相手には人前で恥をかかせる、評判のよろしくない侯爵令嬢だ。
そして、たった今、前世を思い出した。
日本。三十四歳。料理人。
料理長を務めた日本料理店がミシュランの三つ星を得た夜、仲間と厨房の床に座って飲んだ安い缶ビールまで、はっきり覚えている。
その私が、皿の前で動けなくなっていた。
白身魚にナイフを入れたときからおかしかった。
繊維に沿って身がほどける。柔らかいのに水っぽくない。ひと口噛むと、魚の甘さに香草の青い香りが重なり、あとから澄んだ酸味が追いかけてきた。
皿の底には、トマトのジュが薄く敷かれていた。
赤い色はないのに、口へ運べば熟れたトマトの香りがした。
うまい。
腹が立つほど、うまい。
「ロゼルダ。今日は殿下のお心遣いで――」
「文句なら、僕が聞こう」
父の言葉に重なって、隣から声がした。
顔を上げる。
レイヴァス・オルディス王太子。二十二歳。
父はかつて、幼い王子の教育係を務めていた。その縁で、今日の祝いの席に彼を招いたのだ。
料理の腕は諸国の職人からも認められている、と聞いたことがある。以前の私は、王子なのに物好きだとしか思っていなかった。
整った顔も、きれいな銀灰色の髪も見えていたはずなのに、私はそれまで、この人が何を作っているかさえ気にしていなかった。
王子は私の皿を見た。
「その魚は僕が作った。初めて僕の料理を食べてくれたのは、侯爵だ。今日はそのお礼も兼ねて、祝いの一皿を贈らせてもらった。口に合わなかったかな?」
私は皿と王子を交互に見た。いつもの料理長の新作だとばかり思っていた。
「この魚、普通に煮たんじゃないわね?」
王子の眉がわずかに動いた。
「え?」
「水分を逃がさず、低い温度で均一に火を入れている。トマトは加熱して澄ませたのではなく、一度凍らせた?」
私の前で、給仕の娘が瞬きを繰り返した。
「……そうだが」
「厨房を見せて」
「ロゼルダ! 殿下に向かって、何という口の利き方だ。無礼だぞ!」
父が椅子を鳴らして立ち上がった。
「も、申し訳ございません。娘がとんだ――」
「構わない、侯爵。料理の話なら、僕も遠慮のない言葉の方がいい」
王子が制しても、母は頭を両手で抱え、椅子に沈み込んでいた。
「……終わったわ」
顔も上げずに呟く声で、ようやく我に返った。
今、私は何をしているのだろう?
十八年分の記憶と、前世の三十四年分の記憶が、頭の中でひどく混ざっている。
しかもロゼルダ・ラグニエという名前には、前世でも覚えがあった。
仕込みの合間に読んでいた恋愛小説。気位が高く、主人公を追い詰め、最後には社交界から消える悪役令嬢。
私の名前だった。
破滅。失脚。将来への備え。
考えることは山ほどある。
それでも私は、もう一度魚を食べた。
先ほどより少し冷めている。その温度になっても、生臭さはまるでなかった。
どうやって作ったの?
私の知らない食材で、どうしてここまで作れるの?
「……おいしいから、聞いているのよ」
口にすると、食卓が静まり返った。
王子が私を見ている。
「一皿食べただけで、あなたの仕事を分かったつもりはないわ。だから教えて。最後にかけた油は何?」
私が褒めたときより、その質問をしたときの方が、彼は嬉しそうだった。
「菜種油に、柑橘の若葉の香りを移したものだ。皮も試したが、この魚には葉の方がよかった」
「どうやって香りを移したの?」
「そこから話すと長い。君の誕生日が終わってしまう」
「なら、明日」
即答してしまった。
王子の口元が緩んだ。
「いいよ。明日の午後、城へ来るといい。その代わり、君の作ったものも一品、味見させてくれ」
「ええ。今度は、あなたを驚かせてあげる」
私は皿へ視線を戻した。
最後のひとかけらまで、おいしかった。
こんなに悔しい食事は、久しぶりだった。
◇◆◇
翌朝、私は厨房の入口で追い返された。
「お嬢様にお入りいただく場所ではございません」
料理長のベルシュは、私を見ても手を止めなかった。
大きな手だった。節が太く、何本もの薄い傷がある。
私はその手を知っている。前世の私も、似たような手をしていた。
昨夜までの私は、一度もよく見たことがなかったのに。
「昨日は、ごめんなさい。急に料理人を呼べなんて言って」
返事はなかった。
「その前も。冷えたスープのことで給仕を叱ったでしょう。私が着替えに時間をかけたせいだったわ」
包丁の音が止まった。
「……今朝、あの娘は、お嬢様の食事の担当を外してほしいと申しました」
胸のあたりが重くなった。
私は昨日までの私を、知らないふりにはできなかった。
「分かったわ。ほかの仕事に替えてあげて。私からも謝りたいけれど、会いたくないなら、それを優先して」
「承知いたしました」
「それで、お願いがあるの。台を一つと、道具を貸してほしい」
ベルシュの顔が硬くなった。
「今度は、何がお気に召しませんでしたか?」
「昨日の魚よ」
「しかし、おいしいと――」
「おいしかったから悔しいの。私も作りたい」
ベルシュは長いこと私を見た。
それから、使っていない丸鍋を一つ、台へ置いた。
「お怪我をなさいませんように」
信用されていないことくらい分かった。
今は、それでいい。
米はあった。南の地方から入るもので、屋敷では多めの湯でゆでて湯を切り、肉の付け合わせに使っている。海の乾物も、熟成させた豆の調味料もあった。
前世と同じ味が、そのまま瓶に入っているわけではない。
豆醤を少し舐める。醤油より麦の甘い香りが強く、塩もきつい。
これは面白い。
鍋へ手を伸ばすと、ベルシュが言った。
「お嬢様、何人分を?」
「ここにいる人の分も。皆、まだ朝ご飯を食べていないでしょう?」
「私どもの食事は、あとで」
「ええ。だから、あとで食べるものを作るの。鶏の身と皮、それからあちらの茸を分けてもらえる?」
新しい指輪を外し、髪を結び直す。
前世のようには手が動かなかった。指の腹は柔らかく、鍋も重い。
それでも、米を研ぐ手つきは戻ってきた。
鶏皮を焼く。脂が出て、細かな音がし始める。茸を切り、鶏の身をそろえ、豆醤の塩に合わせて味を決めた。
鍋の蓋を閉じたときには、厨房の何人かがこちらを見ていた。
「その匂い、何ですか?」
「炊き込みご飯」
「お米の湯を切らないのですか?」
「今日は、汁を全部吸わせるの。ほかの仕事の邪魔にはならない場所で、蒸らさせて」
私は使った台を拭き、道具を洗った。
配膳がひと段落してから蓋を開ける。
ふわりと上がった湯気に、若い下働きが鼻を近づけた。
米の表面には鶏の脂が薄く光り、底には淡い焦げができていた。
ベルシュが小さな匙で味を見た。
ひと口。
もうひと口。
「……お嬢様。底の方も、いただいてよろしいですか?」
「ええ。そこが好きなの?」
「香りが違います」
私は少しだけ笑った。
ベルシュは給仕たちの分も取り分け、別室へ運ばせた。あの娘の分には、焦げのあるところも入っていた。
料理をおいしいと言ってもらえたときの嬉しさは、生まれ変わっても変わらなかった。
これを、もっと増やしたい。
私の名前を聞いただけで顔を曇らせる人に、違う顔をしてほしい。
人を呼びつけて謝らせるより、その方が、ずっと気分がいい。
城へ持っていく分は、なくなった。
全員が食べ終わる頃には、鍋底に米一粒残っていなかったからだ。
◇◆◇
「手ぶらで来たのか?」
王子に迎えられて、私は唇を尖らせた。
「ちゃんと作ったわよ。全員おかわりしたの」
「何を?」
説明すると、彼は不満そうな顔をした。
「次は、僕の分を先に取っておいてくれ」
案内された離宮の厨房は、私が思っていたものと違った。
調理台には小さな鍋が幾つも並び、棚には日付を書いた瓶が詰まっている。片隅には、硝子瓶と手押しのポンプをつないだ、奇妙な装置まであった。
空気を抜く仕掛けだ。
私は足を止めた。
「……その瓶で、昨日の油を?」
「葉の香りを移した。火にかけると、欲しい香りまで変わってしまうから」
前世でも、料理人たちが研究していたことだった。
凍らせて澄ませる技法。低温での火入れ。減圧することで素材へ香りを移す仕掛け。
一つなら、たまたまかもしれない。
三つ重なれば、疑いたくもなる。
もしかして、彼も?と。
「あなた、料理は誰に習ったの?」
「本を読んで、作って、失敗して。城の料理人に質問することもあるが、決まった師はいない」
「料理をする前の記憶は……」
「あるよ。もっと小さな頃は、外で遊んでいた」
普通の返事が返ってきた。
王子は訝しそうに私を見て、棚から一冊の帳面を取った。
「昨日の料理なら、このあたりだ」
余白まで書き込まれていた。
葉の量。切り方。瓶に入れる順序。油の種類。うまくいかなかった理由には、何度も線が引かれている。
私は頁をめくった。
最初の方は、今より幼い字だった。
台所から借りた鍋の大きさ。焦がした根菜の絵。料理人に叱られた、と書いた日の次にも、同じ料理の記録があった。
「このときは、いくつ?」
「十歳かな。ああ、その頁は見るな。塩を入れたのに、味が薄いと思ってまた入れている」
彼が帳面を取ろうとしたので、私は少しだけ身を引いた。
もう一行読みたかった。
答えを知っている人の記録ではなかった。
私が前世で覚えた技法へ、違うところから、少しずつたどり着いている。
しかも途中には、私にも思いつかない試みがある。
「……全部、自分で?」
「だから、失敗も全部僕のせいだ」
彼は私から帳面を取り上げた。
この世界の食材と道具で、失敗を重ねて、ここまで来た人なのだ。
背筋がぞくりとした。
前世の記憶があるから、私の方が上だなんて。
そんな甘い考えで、この男の前には立てない。
「卵を借りてもいい?」
「急に何だ?」
「私も一つ、作るわ」
王子は目を細めた。
「いいね。やっと、君の作ったものが食べられる」
だし巻き卵を作った。
海藻と乾いた魚から引いた出汁は、前世とは香りが少し違う。豆醤の強さに合わせて加減し、丸い鍋で少しずつ巻いていく。
王子は口を挟まなかった。
切り分けた一切れを口へ運んでから、私の手元を見た。
「今の出汁を、もう一度飲ませてくれ」
私は小皿へ少し注いだ。
彼は卵と交互に味を見た。食べ終えても、すぐには何も言わない。
胸が落ち着かなかった。
美食家にも、名のある同業者にも、何度も料理を出してきた。それなのに、目の前の男の返事が気になる。
「……何とか言ったら?」
「もうひと切れあるだろう? 先にくれ」
「感想を言ってからよ」
「おいしい。腹立たしいことに、少しも水っぽくない」
思わず笑ってしまった。
彼がこちらを見る。
「何だ?」
「私も昨日、同じことを思ったの」
王子も笑った。
その顔は、食卓で見た王子様より、ずっと若く見えた。
「ここでは、レイヴァスと呼んでくれ」
「なら、あなたも令嬢扱いはやめて。鍋を一つ持つたびに人が飛んできたら、何もできないわ」
「分かった、ロゼルダ」
「ええ、レイヴァス」
呼んでから、私は皿を彼の方へ押した。
残った卵は、全部食べられた。
◇◆◇
それから私は、忙しくなった。
ベルシュに頼んで屋敷の厨房を使わせてもらい、手を馴らした。米の炊き方を変え、豆醤を煮詰め、魚の乾物を何種類も味見した。
前世の味を再現したくて始めたのに、この世界のものを使うと、違うおいしさになる。
それが楽しかった。
屋敷の離れを小さな食堂にしたいと父に言うと、最初は笑われた。
「殿下に褒められたからといって、そこまでせずとも」
「お父様も、客としていらして。おいしくなかったら、二度目は招かないわ」
父は首を振っていたが、離れを使うことは許してくれた。
机を運び、献立を書き、週に二度だけ客を招く。
最初の客は、私の誘いを断れなかった父の友人たちだった。
銀の皿にのせた揚げ物を、ある夫人は不思議そうに見た。
「魚を、このように薄い衣で?」
「天ぷらです。今、召し上がって。お話は、そのあとで」
口に入れると、小さな音がした。
夫人の目が丸くなる。
隣の夫へ何か言おうとし、先にもうひと口食べた。
「……そちらの茸も、いただけるかしら?」
「もちろんです」
次の週には、その夫人が友人を連れてきた。
私は茶碗蒸しを出し、豆醤で香ばしく焼いた魚を出した。最後には、小さく結んだ焼きおにぎりへ熱い出汁を注いだ。
夫人たちは最初、私のいる厨房の方を窺っていた。
けれど食べ始めると、誰がどの席で、誰に挨拶をしたかという話は止まった。
「そのお米、もう一つは多いかしら?」
「小さいのを作りましょうか?」
「ええ。……いいえ、同じ大きさでお願い」
私は笑って、鍋へ戻った。
レイヴァスは、毎回は来なかった。
王宮での仕事があり、領地への視察もある。訪ねてきても試食をする暇のない日には、献立の紙だけ眺めて帰った。
その代わり、時間が空くと厨房へ現れた。
「君の魚は、焼く前に何かしているだろう?」
「それを調べに来たの?」
「会いに来た。ついでに聞いている」
言い方がずるかった。
私は聞こえなかったことにして、下ごしらえの順序を説明した。
「そう簡単に教えていいのか?」
「使えばいいわ。それで私よりおいしくできると思うなら」
彼は心底楽しそうに笑った。
数日後、私はその言葉を後悔した。
彼は豆醤を使い、私とは違う香草を合わせて魚を焼いてきた。表面の薄い艶に、前世で使っていた柑橘にも似た香りがあった。
私はひと口食べ、黙って次を食べた。
「どうだ?」
「……もう少し大きく切りなさいよ」
「その注文は、褒め言葉と受け取っていいかな?」
「おいしいと言っているのよ。何度も言わせないで」
彼は翌週、二人分の大きさで作った。
私はその翌日、彼が黙るまで新しい椀物を食べさせた。
彼が作ってくれたものの中で、特に好きになった料理がある。
秋麦包み。魚と野菜を薄い麦の生地で包んで焼く、この国の祝い料理だった。
切ると中から湯気が上がり、生地の内側へ魚の汁が染みていた。
「これ、あなたが考えたの?」
「昔からある料理だよ。初めて人に食べさせた料理でもある」
「父が食べたというのは、これだったのね?」
「あのときは、閉じ目から汁が漏れた。侯爵は皿に残った分までパンで拭って食べてくれたよ」
彼は何でもないことのように言った。
けれど、どんなに新しい料理の記録にも、その麦の生地の改良が、ときどき挟まっていた。
私は皮の端まで食べた。
次に作ってくれるのを待つだけでは、足りなくなった。
楽しかった。
私の知っているやり方を見せれば、彼は思いがけないところへ運んでいく。彼の料理を食べると、私にも次の一皿が浮かぶ。
勝ちたい。
明日も、食べたい。
二つの気持ちが、だんだん分けられなくなっていった。
ある日、彼は新しく作った根菜のソースを、私に見せる前に脇へよけた。
「それは?」
「失敗。香りが苦い方へ寄りすぎた」
「味を見ていい?」
小皿にもらって舐めた。
確かに苦い。けれど、そのあとに香ばしさが残る。
「ここ、好きだわ」
「どこが?」
「最後に残るところ。煮詰める前のものはある? あと、乳酪を少し」
試しに合わせると、苦みの角が丸くなった。
彼が小皿を取る。
私は別の匙で、もう一つの配合を試した。
「……こっちだ」
「ええ。あなたが欲しかった香り、これでしょ?」
顔を上げると、彼はこちらを見ていた。
「何?」
「いや。君は、僕が失敗すると嬉しそうだな」
「試せることがあるからよ。あなたの失敗、面白いもの」
「ひどい言い方だ」
そう言いながら、彼は笑っていた。
その日は雨で、帰りの馬車が来るまで時間があった。
二人で使い終えた道具を洗った。彼が洗い、私が拭いて棚へ戻す。
最後の皿を返してからも、私は棚の前を離れなかった。
「ねえ。私、ここではないところで料理をしていた記憶があるの」
彼がこちらを見た。
「君が言っていた、前の店?」
やはり聞かれていた。
つい口にしてしまうことが、何度かあったのだ。
「ええ。日本という国。こことは違うものを食べて、違う道具を使うの。私はそこで大人で、料理長だった」
レイヴァスは濡れた手を拭いた。
「それで、料理を覚えた?」
「十八の誕生日に、全部思い出したと言ったら、信じる?」
彼はすぐには答えなかった。
窓を叩く雨の音がした。
「それから、もう一つ。前の国で読んだ物語に、私が出てきたの」
「君が?」
「正確には、私と同じ名前の侯爵令嬢よ。家族も、この国も同じ。その話の中では、今の私は悪役令嬢なの」
「悪役令嬢?」
「主人公に意地悪をして、恋の邪魔をして、最後には皆に嫌われる役。前の国の物語では、そう呼ぶのよ」
言ってから、私は布巾の端を折った。
「でも、今までのことを物語のせいにする気はないわ。給仕を泣かせたのも、料理人を怒鳴ったのも、私だから」
「これからは?」
「変えたいの。私の名前を聞いて嫌な顔をした人が、私の料理を食べて笑ってくれたら嬉しい」
彼は少し黙り、私の手から布巾を受け取った。
「どうして、僕に話した?」
「あなたの帳面を見たから。あれだけ一人で考えてきた人に、全部、自分が思いついたような顔はしたくなかったの」
「……なるほど」
彼は少し考えて、棚から小皿を一枚取った。
台の端に残しておいた小鍋から、先ほどのソースを少し注ぐ。
「この組み合わせも、その国のもの?」
「いいえ。今、ここで考えたわ」
「なら、君と僕が作った料理だ」
彼はもう一度味を見た。
「その記憶がどこから来たのかは、僕には確かめられない。でも、君が今ここで考えて、作っているところは見ている」
肩に入っていた力が、少し抜けた。
「驚かないの?」
「驚いているよ。さっきから、君の国で食べてみたいものを考えてる」
「来られないわよ。場所だって分からないもの」
「だから、君に作ってほしいんだ」
馬車が着いたと知らせが来るまで、私たちはまた料理の話をした。
帰り際、彼は雨の向こうまで私を見送った。
「次、いつ来る?」
「明後日。新しい豆醤が届くの」
「分かった」
馬車が動き出してから、その問いは豆醤の話をする前だったと思い出した。
私は窓を閉めた。
頬が熱かった。
◇◆◇
私の食堂に客が増えるにつれて、変な噂も増えた。
本当に作っているのはベルシュで、私は皿へ飾りを置くだけ。
食べた者を虜にする何かを混ぜている。
王子が通うのは、侯爵家から頼まれているから。
最初の二つは腹が立った。
最後の一つは、思っていたより痛かった。
「味の分からない連中です」
ベルシュはそう言ってくれた。
彼は今、私の頼んだ材料を、使う順序にそろえて置いてくれる。
父の客の一人が、私には使えないような大きな包丁を持ってきた日には、取り替える品まで一緒に考えてくれた。
「放っておけば、そのうち静まります」
「嫌よ」
私は米の入った袋を台へ置いた。
「あなたに作らせているなら、あなたの料理だって悪く言っているのよ。食べ物に変なものを入れているなんて」
レイヴァスが来たのは、その日の夕方だった。
彼も噂は聞いていた。
「僕から、君が作っていると話すこともできる」
「それじゃ、王子に言わせたと噂されるだけじゃない?」
「そうだろうな」
「だから、皆の前で料理をしたいの」
彼は私を見た。
「仕込みから盛り付けまで、全部。材料も調べてもらう。誰も私の後ろに立たせない」
「公開調理だな」
「料理人組合に審査をお願いするわ。そこで、あなたと勝負したい」
言った途端、彼の顔が変わった。
王宮の廊下で人に声をかけられたときの、優しく整った笑みが消える。
「僕を選んだのは、名前があるから?」
「あなたに勝ちたいからよ」
彼は笑った。
「受ける。ただし、条件がある」
「お金なら、父に頼まなくても少しは――」
「僕が勝ったら、君は僕の妻になる」
米袋に置いていた手が滑った。
袋の口からこぼれた米を、二人で見た。
私は袋を起こした。
「……今、何と言ったの?」
「僕が勝ったら、結婚してくれ」
「聞こえていたわよ」
「じゃあ、二度言わせるな」
普段と同じ口調だった。
けれど彼は、私の返事を待つあいだ、一度も笑わなかった。
「私が勝ったら?」
「君の願いを一つ叶える。僕にできることなら」
「王太子の結婚を、あなた一人で決めていいの?」
「父上の裁可は必要だ。だから、僕自身の望みとして願い出る。もちろん、君が同じことを望んでくれたら」
私は彼を見た。
妻。
この人と、同じ家で。
毎日、顔を合わせて。
嬉しいと思ってしまった自分に腹が立った。
「私が受けなかったら、勝負はしないつもり?」
「勝負はするよ。君が賭けまで受ける必要はない」
私は彼の目を見返した。
「受けるわ」
こんなことで、包丁を鈍らせてたまるものか。
「私が勝つもの」
「それは楽しみだ」
レイヴァスはようやく笑った。
彼が帰ったあと、私はこぼれた米を拾った。
ベルシュが箒を持ってきてくれたので、何も見なかった顔をしてほしいと頼んだ。
「どのあたりからでしょうか?」
「全部よ」
料理長は返事をしなかった。
その口元が笑っていた。
◇◆◇
料理人組合が設けた勝負の日は、一か月後になった。
広場に二つの調理台を置き、仕込みから盛り付けまですべて公開する。調味料も道具も検査を受け、助手はつけない。
五人の審査員も調理を見届け、二皿を食べ終えてから一人一票を入れる。投票用紙を集め、結果を発表するのは組合長だ。
課題は、銀鰭魚一尾と土地の秋の食材で、二皿のもてなしを作ること。
基本の調味料と、卵や乾物などの食材は共通に用意される。課題の銀鰭魚一尾と、野菜、米、麦粉は、自分で買いそろえなくてはいけない。
同じ市場。同じ予算。前日の昼から日没まで。
家の者に仕入れを任せることも、商人から贈り物を受けることも禁止だった。
魚屋の前でレイヴァスに会ったときは、仕方ないと思った。
少し離れたところには互いの護衛がいるが、買い物に手を出さない決まりだった。
次の茸屋では、顔を逸らした。
三軒目の穀物商で目が合ったときには、とうとう我慢できなくなった。
「どうして行く先々にあなたがいるのよ!」
「それは僕の台詞だ! 先に入っていたのは僕だぞ」
「私が先に魚を選んでいたわ」
「魚屋まで自分のものにするな」
商人は私たちを交互に見て、笑いを噛み殺していた。
私は麦粉の袋へ手を伸ばした。
「そっちより、奥だ」
「自分の買い物をしていたら?」
「そっちは新しく見えるが、香りは奥の袋の方がいい。気になるなら、黙って嗅いでみろ」
私は両方の袋の口を開けてもらった。
奥のものは、甘い香りがした。
「……こっちをいただくわ」
「どういたしまして」
「あなたには何も言っていないけれど?」
店を出るとき、彼が買おうとしていた米を見た。
「それ、割れた米がずいぶん混ざっているわ。袋の底まで見せてもらいなさい」
彼は商人を振り返った。
袋を替えてもらい、外へ出てくる。
「君にも、礼は言わないからな」
「どういたしまして」
今度は彼が笑った。
それからは、別々に歩こうとする方が面倒になった。
同じ店を覗き、互いの籠を隠し合い、売り手に言われた値段へ二人同時に文句をつけた。
野菜売りの前で、私が葉付きの根菜を選ぶと、彼が籠を覗き込んだ。
「葉も使うのか?」
「そうよ。あなたは?」
「使うつもりだったが、君に先を越された」
「材料が同じでも、料理は同じにならないでしょ?」
「そうだな」
嬉しそうに言うので、私まで笑いそうになった。
食材を検査所へ預けに行く頃には、日は西へ傾いていた。
魚は氷を詰めた箱で店から検査所へ運んでもらった。検査が済めば、食材は封をして氷室で保管される。翌朝まで手を触れられない。残りの袋は私たちが持ってきたので、腕には幾つも赤い跡がついていた。
「もう夕暮れか。……疲れたな」
「あなた、男なんだから、私の分も少しくらい持ってくれていいじゃない」
「うるさい。これは勝負だ。自分の食材くらい、自分で管理しろ」
「紳士と呼ばれている割に、甲斐性のない王子様だこと」
「別に、好きでそうしてるわけじゃない」
少し低い声だった。
私は彼を見た。
「あら、そう。皆に好かれるため? あなたは大人気だものね」
「そういうことを言ってるんじゃない。からかうなよ」
「からかっていないわ。皆、言っているもの。雲の上の人。天から降りてきたような王子様だって」
彼は少し黙った。
「……なら、皆、節穴なんだな」
検査所の前には小さな広場があった。食材の確認を待つあいだ、私たちは袋を足元へ置き、石段に並んで腰を下ろした。
「僕は、そんな高尚な人間じゃない。嫉妬もするし、悔しがる。いい顔をするのも疲れるし、四六時中笑ってなんかいたくない」
「なら、本当のあなたはどんな人なの?」
「さあ。……もう、よく分からない」
彼は自分の膝へ目を落とした。
広場の向こうで子供が追いかけっこをしていた。
一人が転びかけ、別の子が笑う。転びかけた子も笑って、また走り出す。
レイヴァスもそれを見ていた。
「でも、料理をしているときは分かる。腹が立ったら腹が立つし、うまくできれば嬉しい。失敗も、いつまでも覚えてる」
「十歳の、塩を二度入れた鍋とか?」
「あれを思い出させるな」
私たちは少し笑った。
彼の横顔を見ていると、胸の奥がむずむずした。
いつもの憎らしい、頼もしい人だった。
あの顔まで忘れてしまうほど、彼はほかの場所で違う顔をしているのだろうか?
「……なぜ、あんなことを言ったの?」
「あんなこと?」
「あなたが勝ったら、私を妻にするって」
「ああ。……あれか」
彼は口元を手で隠した。
「君には、悪いことをしたと思ってるよ。勝負を申し込まれたのが嬉しくて、先に口から出た」
「誰でもよかったの?」
聞いてしまってから、指先に力が入った。
レイヴァスはすぐに私を見た。
「違う」
「だったら――」
「料理以外では、僕は自分の望みをあまり口にしてこなかった。用意された服を着て、決められた席へ座って、そこで必要なことを話す。それで済んでいたから」
風が吹いた。彼の額へ髪が落ちた。
「だから、初めて逆らってみたくなったのかもしれない」
「国王陛下に?」
「違う」
「では、誰に?」
「僕自身に。どうせ無理だと考える方の、いつもの自分に」
私は彼の横顔を見つめた。
「それで、どうして私なの?」
そこだけは、曖昧なままにしたくなかった。
彼は石段の先へ視線を移した。
「君と仕込みをした翌日、離宮の厨房がやけに静かだったんだ」
「私がうるさいって言いたいの?」
「……うるさかった方に、戻りたいって言ってる」
声が出なかった。
「失敗しても君が勝手に味見をするし、うまくできたら、もっとよくなると言ってくる。次に何を作るか考えるたびに、君が何と言うかも考えるようになった」
レイヴァスは顔をこちらへ向けた。
「君が来ない日は、食堂へ会いに行けばよかったと思う。来てくれた日は、もう少しいてほしかったと思う」
胸の奥が、苦しいほど熱くなった。
「……私の評判は、知っているわよね?」
「まあね」
「そんな私を妻にしたら」
「知るかよ、そんな噂ばかり」
思わず目を見開いた。
彼は顔をしかめた。
「君が前にひどいことをしたのは知ってる。けれど今、厨房でどう働いているかも見てる。僕の失敗作を前に、何を言うかも知ってる」
「レイヴァス……」
「君だって、人前で見られている君が全部じゃないだろう?」
私は足元の籠を見た。
この人は、記憶の中の私を見たわけではない。
私が鍋を振り、迷い、味見をし、失敗してきた時間を、隣で見ていたのだ。
「お互い、評判だけじゃ分からないことがあるんだな。案外、お似合いだと思わないか?」
「……かもね」
ようやく、それだけ答えた。
彼も少し黙った。
広場の子供たちが、一斉に誰かの名を呼んだ。
「で、君は決めたのか?」
「何を?」
「勝ったときの願い」
私はもう一度、彼の顔を見た。
今ここにいる彼を、明日も見たかった。
料理をしていない時間にも。
「……今、決めた」
「何?」
「勝ったら言う」
「何だ、それ?」
私は立ち上がった。
「私が絶対に勝つから」
彼も袋を持ち上げた。
「あっそ。僕は負けないけど」
検査所から呼ばれたので、私は一歩先に歩き出した。
頬が熱いままなのは、夕日のせいにしておいた。
◇◆◇
翌朝、広場は人で埋まっていた。
二つの調理台は低い柵で囲まれ、三方に観覧席が組まれていた。
組合長、年配の料理人二人、宿の女主人、菓子職人の男。五人の審査員が席についていた。
女主人には見覚えがあった。私の食堂へ、料理人が何人隠れているのか確かめに来た人だ。今日は私に会釈せず、台に並ぶ食材を見ていた。
レイヴァスは先に着いていた。
いつものきれいな上着ではなく、袖を留めた料理着を着ている。
私も同じだった。
髪をまとめ、指輪を外し、手を洗う。
隣へ立つと、彼は私の顔を覗き込んだ。
「眠れた?」
「ええ。あなたこそ」
「眠ったよ。……少し遅くなったが」
私も寝不足だった。
夜中まで献立を頭の中で組み直した。昨日の言葉も、その隙間へ何度も入り込んできた。
彼の試作帳には、ここ数日の日付もあるはずだ。
私と同じように、今日のために考えてきた。
それが嬉しかった。
そして、それでも勝ちたかった。
組合の立会人が食材の封を解いた。
昨日選んだ魚が出てくる。鰓も、目も、変わりない。
包丁を確かめ、鍋を置いた。
ベルシュは柵の向こうにいた。父の後ろには、以前、食事の担当を外れたいと言った給仕の娘もいる。
私と目が合うと、彼女は小さく会釈した。
私は頷き返した。
そのすぐ後ろで、誰かが言う声がした。
「本当に一人でできるのかね」
「ここまで来れば、さすがに料理人を隠せまい」
聞こえていた。
レイヴァスも、そちらを見た。
私が口を開くより先に、彼は私へ向き直った。
「ロゼルダ」
「何?」
「今日は、僕も君の料理を食べるからな。審査員の分だけ作って終わるなよ」
私は笑った。
「負けたあとでも、食欲があるといいわね」
「そっくり返す」
開始の鐘が鳴った。
私は魚へ包丁を入れた。
鱗を引き、腹を開き、身を外す。
刃先へ伝わる感触が、魚ごとに違う。今日の魚は身が厚く、脂もある。
骨を焼く火をつけ、茸を分けた。
レイヴァスの包丁も動いていた。
早い。刃を引く角度に無駄がない。
顔を上げた彼と目が合った。
「見る暇があるのか?」
「あなたこそ」
私は手元へ戻った。
骨の焼ける匂いが立ってくる。焦がしすぎずに引き上げ、水へ入れる。海藻と乾いた茸は別の鍋で、欲しい香りを確かめていた。
身には薄く塩を当て、出てきた水分を丁寧に拭う。
共通に用意された調味料を合わせ、食堂で使っている下味を作った。豆醤の塩気を確かめ、今日の魚に合わせて少し加減する。
麦粉の半分を軽く乾煎りし、広げて冷ます。残りの粉と合わせて生地を練り、休ませる。そのあいだに根菜を刻んだ。
ようやく、周囲から違う声が聞こえ始めた。
「あの魚、もう全部分けたのか?」
「あれだけの骨を取るのに、うちではもっとかかる」
私は聞き流した。
今、気になるのは、隣で立ち始めた出汁の香りだった。
レイヴァスは小さな器を並べていた。
その中へ魚と茸を入れ、出汁を合わせた卵液を注いでいる。
私は手を止めかけた。
茶碗蒸しだ。
彼は蓋をして、蒸気の立つ鍋へ置いた。火の加減を確かめ、次の鍋へ向かう。
米が炊かれている。
切り分けた魚が網に並んでいる。その隣には粉と、冷やした水の器があった。
天ぷら。
その下に、米を置く気だ。
私の料理で、私に勝ちに来た。
喉の奥が熱くなった。
私が考えた技法ではない。前世の国で、大勢の料理人が磨いてきた料理だ。ここで教えた私よりうまく作るなと、言うつもりもない。
それでも、こんなに悔しい。
そして、この男の作ったものを、今すぐ食べてみたい。
「ロゼルダ」
彼が私の台を見ていた。
「その生地……」
「ええ」
私は魚へ豆醤のたれを塗り、刻んだ茸を重ねた。
「秋麦包みを作るわ」
彼の目が見開かれた。
「君が?」
「この国の料理を、私が作ってはいけない?」
レイヴァスは、驚いた顔のまま笑った。
「いいや。……早く、食べてみたい」
私もだった。
レイヴァスは自分の鍋へ戻り、蓋を持ち上げた。その顔が、また笑った。
「……楽しいな!」
思わず声が出たようだった。
「僕は今、生きてる。次に何をされるか、分からない相手が隣にいる!」
「そうよ。料理は楽しいのよ!」
「君とだからだ! 対等にやり合える君とだから、こんなに楽しい!」
「対等? 私の方が腕は上よ!」
「はっ、よく言う!」
彼は笑ったまま鍋の火を弱め、私は休ませていた生地を伸ばした。
「それは食べてから決める!」
「ええ。せいぜい驚きなさい!」
柵の向こうで、誰かが息を呑んだ。
「殿下が、あんなふうに……」
審査席でも、組合長が筆を止めてこちらを見ていた。
私は笑いを噛み殺し、粉を打った台へ目を戻した。
この国で好きになった料理を、私が覚えてきたことを全部使って、もっとおいしく作ってみたかった。
魚の脂は、前世で使った魚とは違う。豆醤の香りも、麦の味も違う。
その違いが、今は面白かった。
焼いた骨の出汁へ、海藻と茸の出汁を少しずつ合わせる。表面の余分な脂をすくい、刻んだ根菜を火の通る順に入れた。
一皿目は、この国の秋の野菜を味わう澄んだスープ。
二皿目は、魚を包んだ秋麦包み。
豆醤で引き出した魚の甘さを、乾煎りした麦粉の香りで包む。中の汁を受け止める茸は、先に余分な水分を飛ばしておいた。
生地を閉じ、焼き窯へ入れた。
窯の奥へ伸びる熱を見た。
前世の厨房なら、つまみ一つで窯の温度を変えられた。
ここでは、火と石と、今まで何度も焼いてきた手の感覚が頼りになる。
私は焼く位置を少し変えた。
前世の店の看板も、受けた評価も、この広場には持ってこられない。
私が今作るものを、食べてもらうだけだ。
一皿目を出す鐘が鳴った。
私は五つの器へスープを注いだ。
立会人が料理へ覆いを掛け、審査席へ運んでいく。
レイヴァスの蒸し物も運ばれた。
隣の調理台で油が鳴った。
レイヴァスが揚げた魚を引き上げる。衣の先が、細い花のように開いていた。
いい油の音だった。
負けたくなかった。
あの音に、あの手に。
二皿目に使う器を温める。
包みの端が、きれいな麦色になってきた。
引き出しても、すぐには刃を入れない。中の熱が落ち着くのを待つあいだ、葉付きの根菜を最後に整えた。
焼けた生地にナイフを入れた。
軽い音がして、魚と茸の湯気が上がる。
内側は、破れずに汁を受け止めていた。
私はようやく息をついた。
器へ盛り、葉を添え、五皿の縁を確かめる。
最後の一皿を立会人へ渡したとき、終了の鐘が鳴った。
急に、広場の音が戻ってきた。
肩が重い。額に汗をかいている。指も、少し熱かった。
隣を見ると、レイヴァスも同じように息を吐いていた。
彼は袖で汗を拭いかけ、布を探し直した。
私は自分の台にあった、まだ使っていない布を差し出した。
「……ありがとう」
「ええ」
それだけ言うのに、ずいぶん力が要った。
審査を待つあいだ、互いのために残しておいた一人分の料理を交換した。
レイヴァスの茶碗蒸しは、匙を入れるとすっと切れた。すくった卵はふるりと震え、口へ運ぶまで崩れなかった。
口に入れると、魚と茸の味が静かに広がる。
私のものより、卵の甘さを前に出している。底の方には、薄くほぐした魚の身が沈めてあった。
天丼には、この国の香草が少しだけ混ざっていた。
衣は軽い。魚はまだ熱く、噛むと汁が出た。米には豆醤の甘辛い味が染み、その先で香草がふっと香る。
知らない料理になっていた。
私が知っている料理の、その先にある。
箸を止められなかった。
彼の方を見ると、秋麦包みの断面を確かめていた。
ひと口食べ、器の底に落ちた汁まで生地で拭っている。
「……何か言いなさいよ」
「君こそ」
「今は嫌」
「僕もだ」
顔を見合わせて、笑ってしまった。
彼の料理を食べるのが、こんなに楽しい。
負けるかもしれないと思うのが、こんなに怖い。
レイヴァスはスープを飲み終え、器を置いた。
「粉を、先に炒った?」
「半分だけ。全部だと香りが強すぎたわ」
「あの魚の下味、食堂で使っていた配合だな」
「あなたの茸の切り方、変えたわね?」
「その方が、卵と一緒に食べられる」
彼は空になった器を、もう一度見た。
「……負けたな」
「まだ、判定は出ていないわよ」
「僕の中では出た。スープで感じた魚の香りが、包み焼きでもう一度出てくる。でも、今度は脂の甘さが違う。もう一度スープを飲んで、確かめたくなる」
レイヴァスは唇を結んだ。
「僕は一皿ずつのおいしさに気を取られた。二皿を一緒に食べてもらうことを、君ほど考えられなかった」
「おいしかったわ」
「知ってる。おいしく作ったからな」
私は笑った。彼も少しだけ笑ったが、指は器の縁へ残っていた。
そこで、組合長に呼ばれた。
五人の投票が終わったという。
私たちは柵の前へ並んだ。
女主人が票を数え、五枚の投票用紙と集計表を組合長へ渡した。
組合長は集計表を読み、隣の審査員へ何かを囁いた。その男が小さく頷く。もう一人も、集計表へ目を落としてから頷いた。
私は両手を握った。
隣には、私が知っている中で一番手強い料理人がいる。
勝ちたかった。
組合長が顔を上げた。
「三対二。勝者、レイヴァス殿下!」
拍手が起きた。
胸の奥が、すとんと落ちた。
負けた。
私は自分の台を見た。焼き窯の火がまだ赤い。伸ばした生地の切れ端も、使い終わった鍋も、全部そこにある。
もう少し、できたことがあっただろうか?
「待ってください」
審査席で、あの女主人が立ち上がった。
「その票数は――」
「審査の総意でございます」
組合長が遮った。
レイヴァスは拍手へ顔を向けなかった。
「投票用紙を見せてくれ」
「殿下。そのようなお手間は」
「いいから、見せて」
低い声だった。
組合長は投票用紙を片手で押さえ、彼へ身を寄せた。
「殿下のお立場もございます。侯爵令嬢に敗れたとなれば、今後のお付き合いにも差し障りが。ラグニエ嬢には別に、相応の賞を――」
すぐ隣にいた私にも聞こえた。
握っていた手が、ほどけた。
では、さっきの発表は。
「僕の料理だけでは、足りなかったか?」
レイヴァスが言った。
組合長が瞬く。
「僕の身分まで皿にのせないと、彼女に勝てなかった?」
「いえ、そういう意味では――」
言い終わる前に、レイヴァスの手が伸びた。
組合長の胸ぐらを掴む。
拍手が止まった。
彼は顔が触れそうな距離まで身を寄せ、相手を睨みつけた。
「料理を愚弄するな」
広場から、音が消えた。
「あれだけ手元を見て、食べて、それでもまだ王子の機嫌を取ることを考えていたのか? 君は、何を審査しに来たんだ?」
その声を、私は初めて聞いた。
あの王子が。人前で、胸ぐらを掴んで。
自分の勝利を取り消すために、本気で怒っている。
「……ぷっ」
レイヴァスの目が動いた。
駄目だと思った。
けれど、もう遅かった。
「ちょっと、あなた……人前で本性を出すにしても、それなの!?」
笑いが止まらなかった。
広場中が呆気に取られているのに、私だけが笑っていた。
「わ、笑うな! 僕は本気で怒ってるんだぞ!」
「そんなの、見ていれば分かるわよ!」
私は目元を押さえ、もう片方の手で彼の腕に触れた。
「まず、手を離してちょうだい。私も話したいの」
レイヴァスは一度唇を結び、組合長を放した。
「投票用紙を確かめてくれ。立会人にも」
女主人と菓子職人が頷いた。組合長の手元から五枚の票を引き取り、立会人と一緒に署名を確かめ始める。
息を整え、私は彼へ向き直った。
「判定の上では、私の負けでございますね、殿下」
それまで一度も彼に向けたことのない口調に、その目が丸くなった。
「き、君……僕にも敬語を使えたのか……」
「ぷっ……驚くところ、そこ!?」
また笑ってしまった。
ひとしきり笑って、目に溜まった涙を指で拭う。
それから私は背筋を伸ばし、料理着の裾をつまんだ。
体に染みつくまで、何度も習った。
足を引き、ゆっくり膝を折る。視線を伏せ、首の角度まで整えた。
ざわめきの中で、誰かの話し声が途切れた。
「勝負の結果とは別に、私からお返事を申し上げます」
顔を上げる。
レイヴァスだけを見た。
「殿下。結婚のお申し出、謹んでお受けいたします」
今度こそ、広場がざわついた。
「違う! こんな判定で君を――君の勝ちだ、この勝負は!」
「殿下」
彼が口を閉じる。
「私では、不足ですか?」
「何を言ってる。そんなわけが――」
「では、私の話をお聞きになって」
私は立ち上がった。
「負けたから従うのではありません。私が、あなたと結婚したいのです」
彼の喉が動いた。
「王国一の紳士と謳われた方が、淑女をいつまでお待たせになるおつもりですの?」
「……ぷっ」
レイヴァスが吹き出した。
私は目を丸くした。
「えっ?」
「いや、すまない。今度は淑女になって、僕に勝ちにくるから」
「はあ!?」
「そんな顔をされたら、僕はお手上げだ」
「あなたのために今こうしているんだけど!? あなたが迷わないように、私は――」
顎へ指が添えられた。
言葉の途中で、唇が触れた。
短い口づけだった。
何が起きたのか分かるより先に、周りから大きな声が上がった。
「な……にゃ、何をするのよ!」
顔が熱い。耳まで熱い。
レイヴァスはまだ、私の顎へ触れていた。
「……うるさい口だと思って、塞ごうと」
「うるさっ……キス、今、ここで……!」
息を吸い、言い返そうとして、私は止まった。
彼まで赤かった。
目が合うと、もっと赤くなった。
「どうして、あなたまで赤くなるのよ!」
「……今の君が、あまりにも可愛かったから」
「は、はあっ!?」
「そう怒鳴るな。僕だって、こんな大勢の前でするつもりじゃなかった」
「したのはあなたでしょう!」
「分かってる!」
広場のどこかで笑い声がした。
レイヴァスは片手で顔を覆い、すぐに下ろした。
私の手を取る。
「受けるよ、ロゼルダ。君からの求婚なら、喜んで」
握られた指から、熱が伝わった。
「君が好きだ。……僕と結婚してくれ」
「だから、そう申し上げているのよ」
今度は、彼も私も笑った。
拍手が上がりかけたところで、先ほどの女主人が咳払いをした。
「おめでとうございます。では、こちらの話もよろしいですか?」
その手には、五枚の投票用紙があった。
「署名はすべて確かめました。票の記載も、先ほど集計したときのままです」
菓子職人と立会人が頷いた。
女主人と菓子職人が一枚ずつ、票を広げていく。
ロゼルダ。レイヴァス。ロゼルダ。レイヴァス。
最後の一枚にも、私の名前があった。
「三対二。勝者は、ロゼルダ・ラグニエ嬢です」
喉が詰まった。
自分の名前を、もう一度見た。
女主人は組合長へ向き直った。
「私たちは料理を食べて票を入れました。身分に合わせて読み替えてよいとは、聞いておりません」
組合長は答えなかった。その横で頷いていた二人も、目を伏せた。
「投票用紙も、発表を変えた理由も、皆様にお示しします。組合としての説明は、私たちからも求めます」
レイヴァスが頷いた。
「頼む。僕の名を、誰かの仕事を踏みにじるために使わないでくれ」
女主人は私へ顔を戻した。
「おめでとう。あの二皿をいただいて、うちの料理も、もっとおいしくできるはずだと思えたんです」
私は何度も頷いた。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
レイヴァスが私の手を持ち上げる。
「ロゼルダ。君の勝ちだ」
広場が沸いた。
私の名前を呼ぶ声がした。
噂話で聞くのとは違う、大きな声だった。
私は彼を見た。
こんなに嬉しそうに、私の勝利を告げている。
それでも、指へ少し力を込めて聞いた。
「悔しくないの?」
「ものすごく悔しい」
即答だった。
「今すぐ、もう一度やりたい」
「今日は駄目。私が勝った日なんだから」
レイヴァスは口を結び、それから大きな声で笑った。
私も笑った。
勝った。
この男に、勝ったのだ。
女主人にスープの作り方を尋ねられ、説明を始めると、次の食堂の日を尋ねる声が重なった。
「予約はどちらへ?」
「あの包み焼きも食べられるのかしら?」
「二皿では足りない。ほかの料理もあるだろう?」
献立の紙を探す前に、ベルシュが客の名を書き始めていた。
父が私の肩を叩いた。
「今度は、私にも席を取っておいてくれ」
「お父様、いつもお食べになっているでしょう?」
「友人を連れていきたいんだ。……それから、殿下。先ほどのお話は、あとで私にも」
レイヴァスが背筋を伸ばした。
「改めて、二人でご挨拶に伺わせてください。父上にも、僕たちの望みとしてお伝えします」
「食堂は続けるわよ」
「それも一緒に話そう」
父は私たちを交互に見て、長く息を吐いた。
「まずは、今日の客の話をしなさい。皆、待っている」
私は笑って、次の客へ向き直った。
少し離れたところに、給仕の娘が立っていた。
「お嬢様。次のお食事の日に、母を連れてきてもよろしいでしょうか?」
「ええ。お休みの日に、お客様としていらして」
私はそこで、一度言葉を切った。
「それから、あの日はごめんなさい。私が遅れたのに、あなたを叱って」
彼女は少し俯き、それから私を見た。
「……母にも、あのお焦げを食べさせたいんです」
「ええ。いいところを取っておくわ」
次に来てくれる日に、おいしいものを出そう。
そう思いながら顔を上げると、レイヴァスが私を見ていた。
「君も、ずいぶん評判をひっくり返したな」
「まだよ。次は、料理のためだけに集まってもらうわ。あなたも、もっと食べたくなるものを出してあげる」
「楽しみにしてる。でも、その前に」
彼は私へ近づき、声を落とした。
「君の願いを、まだ聞いてない」
勝ったら、一つ。
昨日、石段に座って決めた願いだった。
私は彼へ向き直った。
「本当のあなたでいて」
レイヴァスが瞬いた。
「私の前では、料理をしていないときも。笑いたくないときまで笑わなくていいし、腹が立ったら、ちゃんと言って」
「……さっきのを見ても?」
「見たからよ。あなたが私の料理をあんなに大事にしてくれるなんて、嬉しかった」
彼は少し俯いた。
「ただし、次からは手を出す前に、口で怒ってちょうだい」
「分かった。あれは、僕が悪かった」
「ええ。私もちゃんと聞くわ。私に怒っているときも」
レイヴァスは私を見た。
それから、笑った。
「君には、かなわないな」
「今日、負けたばかりでしょう?」
「料理の話だけじゃない」
彼が私の手を取った。
私はその指へ、自分の指を重ねた。
あれだけ大勢の前で口づけておいて、彼はまだ、この手を握るだけで少し照れる。
どうしよう。
勝つ前より、この人が好きだ。
「でも、料理では次は負けない」
「結婚したら、私が手加減してあげると思ったら大間違いよ」
「するな。一度でもされたら、僕が怒る」
「ええ。上等だわ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
片づけを始めた台から、焼いた麦の香りがした。
明日も、この人と料理をしたかった。
その次の日も。
握った手を軽く揺らすと、彼はこちらを見た。
「あ、それはそうと」
「なんだ?」
「あなたを贔屓した審査員の方々、私が王妃になったあと、こってり絞るから」
「……君はやはり、悪役令嬢かもしれん……」




