褒めるということ
好きな人ができたんだ。
そう自分に打ち明けることで、その対象への接し方が、その他一般と著しく変わってしまうとき、自分は恋愛不適合であると強く思い知らされる。
Aさんのどこが素敵だろうか。
Aさんの優しさ。
Aさんの振る舞い。
Aさんのビジュアル。
まあこんなところか。
ところが、Aさんが好きになってしまったら、
Aさんの優しさとは、過去の雑談を明確に記憶しており、さりげなく、あれどうなった?と尋ねてくれることか。
Aさんの振る舞いとは、予約していたレストランが臨時休業でも、明るく笑顔で別な目的地を検索してくれることか。
Aさんのビジュアルとは、鼻の位置や、全体のバランス、バッグの風合いや、爪の輝きなどか。
このように、誰に頼まれたわけでもないのに、外側から見たAさんを好む理由を詳細に自分のなかで解体していく。
誰かを好きであるということを正当化するために、理由を探し始める。
果たしてこのプロセスは正しいのだろうか。
週一の部屋の掃除の頻度を、ほぼ毎日に変えてみたり、それでもAさんからの返信が思いの外遅いときには不貞腐れて、食器を流しに放置し続けてみたりする。
好きという感情が、日常生活の基本的な部分で綻びを誘発するのであれば、もしかすると、それは好きってことではないのではないか。
Aさんからすれば、己の一挙手一投足で、態度や生活基準が容易にブレてしまうような人間は、眼中にないと考えられるし、なんなら、眼中に入れることはリスクである。
人も物体だから、
バスが急に発進するときには体が進路後方に振れるだろう。
つまりは、安定な状態であり続けたいのが、すべての事柄に共通することだ。
磁石が引き合い、退け合うことも、落雷の呼んで字の如く雷は地面には向かうけれど、地面から雷は昇らない。
虹は太陽と反対方向に出てくるし、溶けない氷はない。
あくまでこれは、我々を取り巻く環境がそうだから、恋愛などという抽象概念もその因果に引き摺られているのか、それとも我々は基本的にそういった解釈でしか物事を捉えきれないだけなのか、そんなことは分かりはしない。実はどうでもいい。
上手くいくことは何をしても上手くいくし、上手くいかないことはとことん上手くいかんのだ。理屈とかではない。そうだから、そうなる。
よって整理すると、相手の行動に依存してメンタルがふわふわとドリフトしてしまうような人間は、恋愛はおろか、何事にも向いていない可能性が高い。
Aさんは褒めるととても喜ぶ。
「Aさんって話してて、すごく落ち着くし、声が素敵です」
「誰もそんなこと言ってくれないから嬉しい!」
真実として、Aさんの声は美しい。
透き通っていて、弾力がありながらにして柔らかく、振動数も安定している。
だけどそこまで伝える必要はないと思うから、結果として落ち着くという表現に落ち着いたわけだ。
続けてAさんは写真を見せてくれる。
そこにはAさんの形のよい手の甲が映っている。
立て続けに褒めたら、声を褒めたことの効果が薄まるばかりか、手を褒めたことで誇張していると受け取られかねず、褒めの効果が消失する懸念を抱く。
しかしここで問題なのは、Aさんの声も手の甲も美しいために、その美しさを伝えないことは自分には耐え難いことのように思えてくる。
本当に感じたことを率直に伝えなければいけないと勝手に胸の奥がモヤモヤしてくる。
「Aさんて、手が綺麗ですね」
こう言ったら気持ち悪がられるんじゃないか、とか、もしも手にコンプレックスを抱えていたら火に油ではないか、とか、誰かを好きであるときに、何通りもの成功と失敗と原因と結果が渦を巻いて脳内でシミュレートされていく。
あらゆる方向の仮説を立てて、それを実際のやり取りで検証していき、あり得ない現象を可能性が低いとして間引いていく。
段々関係が深まるにつれて、Aさんという関数の傾向が見えてくれば、私のAさんに対する想いの最適化が進んでくる。
欲を言えば、こんなことをつゆも思い巡らさずに、
うふふ、あはは、楽しいね。と笑い合っていたいのに。
考えて考えて考えて、それでもなお浅すぎる思考の沼から抜け出せずに溺れていく。
何度溺れれば気が済むのか、分からないほどの沼に沈み続けている。
「褒め上手ですね!嬉しい!」
この返事がまたデータの一部となり、最適化するために脳のリソースを割いていく。
!という記号が暗示することとは、!の成り立ちはなにか、なぜエクスクラメーションマークと呼ぶのか。クエスチョンマークとの類似性は。
こういった事も要素のひとつひとつとして、Aさんの解析に紐付けていく。
全然関係ないがくしゃみが止まらない。
誰かが噂をしているのかな。
それがAさんで、私のことだったら、この恋は上手くいく気がしている。




