あの日の夜「短編」
仕事を終えて帰宅し、スーツを脱いでソファに沈み込む。
テレビはつけず、部屋の灯りも落としたまま、スマホだけを手に取った。指が勝手に動き、短い動画が次々と流れていく。誰かの失敗、誰かの成功、誰かのどうでもいい日常。音は出していない。画面の光だけが、暗い部屋を断続的に照らしていた。
疲れているわけじゃない。
満たされていないわけでもない。
新卒で入った会社にそのまま残り、もう数年が経つ。地元にある支社で、顔なじみの同僚と同じような毎日を送っている。特別な出世はないが、困るほどの不満もない。休日には車で少し走れば、それなりに店もある。都会ほどじゃないが、不便すぎるほど田舎でもない。
それでいい、とずっと思ってきた。
動画が切り替わった瞬間、指が止まった。
夕方の街。
少し広めの道路。
オレンジ色に傾いた空。
歩道沿いに並ぶ、見覚えのあるような建物。
ただそれだけの映像だった。
どこにでもある地方都市の風景。
それなのに、胸の奥がふっと緩んだ。
――あ。
声にならない声が、喉の奥で引っかかる。
思い出してしまった、と気づいたときにはもう遅かった。
高校の頃に付き合っていた、彼女のことを。
名前はすぐに出てこなかった。
代わりに、制服の袖を引っ張る癖とか、ファミレスのドリンクバーで必ず炭酸を選んでいたこととか、そういう取るに足らないことばかりが浮かんでくる。
忘れたつもりでいた。
実際、普段は思い出しもしない。
それなのに、こういう何でもない瞬間にだけ、唐突に顔を出す。
高校生の頃の恋なんて、今さらどうこう思うようなものじゃない。
そう頭では分かっている。
彼女とは、同じクラスだった。
席が近かったわけでもないし、最初から特別仲が良かったわけでもない。話すようになったのは、帰りの方向が同じだったからだ。駅までの道を、何となく一緒に歩くようになった。
会話の内容は覚えていない。
ただ、隣を歩く時間が当たり前になっていた。
付き合い始めてからも、派手なことは何もなかった。
放課後にファミレスへ行き、安いセットメニューを分け合う。テスト期間は一緒に勉強したふりをして、ほとんど喋っていた。未来の話なんて、ほとんどしなかった。
卒業すれば、何となく続くと思っていた。
何の根拠もなく。
彼女が東京の大学を目指していると知ったのは、ずいぶん後になってからだった。
驚いたが、反対する理由もなかった。夢があることを、羨ましいとも思った。
別れは、はっきりした形では訪れなかった。
受験、卒業、引っ越し。
連絡は少しずつ減り、会わない時間が増え、いつの間にか「恋人」と呼ぶには曖昧な距離になっていた。
最後に会った日も、特別な言葉は交わしていない。
またね、と言って別れた。
本当に、それだけだった。
動画はいつの間にか別のものに変わっていた。
スマホを伏せ、しばらく天井を見つめる。
気づくと、車のキーを手に取っていた。
夜の道は空いている。
信号に引っかかりながら、無意識にハンドルを切る。
気がつけば、あの頃よく行っていたファミレスの前に来ていた。
駐車場は暗く、看板の灯りは消えている。
入口には、もう色あせた「閉店のお知らせ」。
――あぁ。
そういえば、閉店したんだった。
エンジンを切ったまま、しばらく動けずにいた。
何をしに来たんだ、と自分でも可笑しくなる。
ここで何度も笑って、何度もどうでもいい話をして、未来のことなんて何も考えなかった。
その場所は、もうない。
「何してんだ、俺」
小さく呟いて、キーを回す。
車は何事もなかったように動き出す。
彼女が今どこで、何をしているのかは知らない。
知りたいとも、思わない。
ただ、確かにあの時間があって、あの恋があった。
それだけで十分だ。
家に戻り、部屋の灯りを落とす。
明日も、変わらない一日が始まる。
過去は遠くなった。
それでも、消えたわけじゃない。
それを確かめただけの、あの日の夜だった。




