第一章:出奔
俺は、信じていた。
国家を。信仰を。剣を振るうことの意味を。
誰のためかなんて、考えるまでもなかった。
“与えられた正しさ”が、そのまま自分だった。
それを手放したのは、一瞬だった。
火の粉が舞う村。
祈る声より先に、命令が届いた。
その命令を疑った瞬間──俺は、兵士ではなくなった。
「敵対勢力をかくまっている可能性がある」と、上官は言った。
女も子供も老人も、祈っているだけだった。
だが、命令には「排除」と記されていた。
それは軍の言葉で「殺せ」を意味する。
初めて剣が重かった。
これまでは軽かった。誇らしかった。
誰よりも早く構え、誰よりも正確に振るえた。
だがあの日、鞘から抜くという動作すら、身体が拒んだ。
「……剣を抜かないのか」
上官が言った。声に怒気はなかった。
「この命令を拒んだら、誰が“兵士”としてお前を庇う?」
「“信仰”を手放す者に、国は名前すら与えん」
空気が凍った気がした。
鎧の下の皮膚が、じわりと汗ばむのがわかった。
あれは脅しではない。事実だ。
“名前を失う”という言葉が、こんなにも重いものだったとは。
それでも、俺は剣を抜かなかった。
燃える祈祷所の前で、ひとりの子供と目が合った。
涙で濡れた頬。動かない母親の腕を掴んでいた。
その姿が俺の視界に入った瞬間、何かが崩れた。
剣が震え、視線が逸らせなくなった。
その“逸らせなさ”が、俺の中の兵士を殺した。
仲間たちは俺を見ていた。
「命令は?」と目で問いかけてきた。
俺は答えなかった。
ただ一歩だけ、剣を地面に突き刺して立ち尽くした。
その夜、俺は軍を離れた。
正式な命令もなく、報告もせず。
逃げたのだと自分でも思う。
だがそれ以上に、“信仰の外側”へ出る必要があった。
制服を脱いだのは、火の匂いが抜けきらない森の中だった。
胸元の紋章を引きちぎったとき、血が出た。
ただの布切れに、肉体が拒否反応を起こすほど
自分の中で“神と国家”が根を張っていたのだと知った。
どこに向かうのかもわからなかった。
命令のない世界で、歩き方さえ思い出せなかった。
それでも歩いた。
“ここではない場所”へ向かうために。
その日から、俺は祈っていない。
神の名も、口にしていない。
ただ、焼け跡の中で俺を見ていた子供の瞳だけが、
今も、まぶたの裏に焼きついている。