王妹は隣国の王弟と出逢い安らぎを得る
お久しぶりです。「司書と侍女、どちらがお好きですか?」のスピンオフです。
これだけでも読めるように書いたつもりですが、本編を読んでもらうといっそう理解出来るかと思います。よろしくお願いします。
麗らかな日差しが煌めいて湖面の輝きがいつもよりもいっそう増している。国境も安定し、不穏な輩も動きを近頃は身を顰めていた。暫く静養するという名目で地方の湖畔の離宮に滞在している。穏やかな日々が積み重なっていく。こういう日常がいつまでも続けばいいのに、とユージェニーはふうと息をついた。
「殿下、どうかしましたか? そんな大きなため息をついて」
「違うぞ、レオポルド、心配事なぞではない。気分がいいんだ」
久しぶりにレオポルドと名を呼ばれたこの国の宰相であるマルゴワールは、優美な手付きでポットからカップへとお茶を注いだ。
「どうぞ、貴女のお好きな銘柄のお茶です、殿下」
「他に誰もおらん。殿下は止めてくれ」
「そういう訳にはいきませんよ」
ふわりと笑んで、しかしけじめをつけるように背筋を正してカップをユージェニーに差し出した。シトラス系の香りの豊潤な逸品だ。趣味が高じてマルゴワールが手ずからユージェニーの為にブレンドした茶葉だった。その名も「レディジェニー」という。さっそくカップを持ち上げて、お茶を口に含んだ。砂糖を入れたわけではないのにどことなく甘みのある、しかしさっぱりとした味わいだ。同時に豊かな香りが鼻に抜け、ユージェニーの胸に満足感が広がった。
「相変わらずの美味しさだ。ありがとう、レオポルド」
にこやかなまま、実に食えない奴だと評判の宰相は右手を胸に当てて大仰な様子で騎士の礼を取る。
「どういたしまして、レディ」
そうして自身のカップにもお茶を注いで湖面を見ながら香りを楽しんでいる。その様子を眺め、ユージェニーは昔の出来事に想いを馳せた。
かなり昔に病弱の妃の為に建てられたというこの離宮は、王都から離れ過ぎて普段滅多に使われることは無い。こうして滞在するのも彼女自身も二十年ぶりとなる。誤魔化せないほどに膨らんだお腹を抱え、南の隣国の王弟で不治の病に冒されたサルバドールと引き籠って以来だ。ユージェニーはここで娘を産み、サルバドールを看取ったのだ。
◆
「口を開くことを許すぞ、隣国の王妹よ」
豪奢な王座で尊大にそっくり返った蛙のような小太りの男は、目を眇めてユージェニーを射貫いた。成人してまだ間がないとはいえ、外交力のない兄王の代わりにあちこちに働き掛けて国の安定に心を砕き続けていた彼女はもう、疲れ果てていた。顔色も悪く、眩暈をも感じてもいた。この国独特の薫物のせいか、吐き気も覚える。ようするにカーテシーを披露することも出来ず、無礼ではあるが殊更に背筋を伸ばして堂々と見えるようにすくと立って、この国の王を上から目線で見下ろしていたのだ。相手が気を悪くするだろうことも重々承知だったが、こちらも王族だ、不敬にはあたらないだろう。
「偉大なる隣国エルスールの王にご挨拶申し上げます。ルセントール王国ヴォルテーヌ王家が王女ユージェニー・ノエラ・ヴォルテーヌと申します」
「何やら具合の悪そうな貧相な顔だな。とにかくその不服そうな顔を止めよ。余は別に其方に縁談を強要したわけではないぞ」
「……この縁談は我が兄王が推し進めたものと承知しております故」
「そのようだな。まあこちらとしても利のある話だったからな。それに、……」
見た目こそそっくり返った蛙だが、この御仁はけっして愚かな方ではない。深呼吸をして吐き気を何とか抑え込み、ユージェニーは笑顔を作ろうと努力した。
南の国境線を分け合う隣国エルスールの王であるレオカディオは思わせ振りな様子で一旦言葉を切り、唇を舐めた。
「余の弟は其方を本気で気に入ったようだ。兄としては宜しく頼むと言うのが筋だろう」
軽くため息をつくのはレオカディオの望みではないからなのか。多分そうなのだろうが、本心は未だ見えてこない。何よりもこの場に婚約者となる予定の人物の姿が無かった。望まれているのならどうして出迎えてもらえないのか。ユージェニーには体の不調に加えて不安が募った。
ユージェニーのすぐ上の兄オーギュストは、王妃の言いなりだ。王としての資質は第一王子だったギュスターヴには備わっていたが、第二王子のオーギュストには少々足りなかった。ギュスターヴが病死した後、繰り上がりで王となったオーギュストは、良く言えば優しい気質だが、優柔不断で決断力に欠ける。父である前王の残した大臣や官僚たちが優秀だったので、即位当初はそこそこに上手く統治出来ていたのだが、自己顕示欲の高い王妃の意見に惑わされるようになると、これがいけなかった。外戚である王妃の父や祖父も出張ってきて、都合のいいように王の意向を操ろうと画策したのだ。元々はギュスターブの婚約者であった彼女を密かに好いていたオーギュストは、死んだ兄に対する後ろめたさもあったのか、どうしても王妃に対して強くは出られない。
内政では平時であればそれでも何とかなったのかもしれない。この頃、外交的には北のエーデルシュタイン公国との鉱山を巡るいざこざや、海の向こうの神秘の国アジーラとの折衝など、国境線を接する国々とのやり取りには微妙なバランス感覚が必要で、兄王には荷が重く王妹のユージェニーが側近たちと協力して何とかやり過ごしている状態だ。
とかく派手に見えたユージェニーの活躍ばかりが持て囃されるのがどうにも気に食わなかったのだろう、王妃はオーギュストに強く迫り、隣国からの婚約の打診があった際、厄介払いが出来るとばかりにユージェニーの意向も何もないままに承諾する返事を送ってしまった。王妃に唆されたとはいえ、王の言葉には重みがある。ましてや国同士の約束だ、撤回など簡単には出来ない。
一緒に苦労を重ねてきた大臣や官僚たちには惜しまれたが、年頃の娘らしいことに見向きもせず政治に振り回されて過ごした数年の間に、ユージェニーはもう兄王の尻拭いをするのに疲れていた。体調も万全とは言えないが、とにかく会って話さねばどうにもならないと、わざわざ隣国エルスールまで来たというのに何故本人がこの場にいないのだ。
「レオカディオ国王陛下、わたくしとしては婚約を承知する前にご本人に会わせてもらいたいのですが」
迫り来る眩暈と戦う為に、腹に力を入れぐっと背筋を伸ばした。この頃のユージェニーは、長く伸ばした髪を美しく結い上げ、シンプルながらひと目で分かるほどの上質な布地に精緻な刺繍を施したドレスを着ていた。体調が悪いのでコルセットは緩めてあったが、元々騎士に憧れて剣を振るっていた少女時代を経て常態的に鍛えている彼女には、コルセットは必要ないほどに身体のラインも整っていた。ほうとため息がそこここで零れた。ユージェニーの立ち姿に護衛の近衛騎士たちが感心して目を見開いたのだった。
「もっともな要望だな。……誰か、サルバドールをこれへ」
王の一声に応じて王座の横手にあった大きな扉が音を立てて開いた。先触れが数人、その後から車いすに乗った青年が見えた。長めの黒髪を瞳と同じ藍のリボンでくくって一方に垂らし、整った顔立ちをしていたが、頬はこけたように見え、顔色もあまり良くない。しかも成人男性とは思えないほどに線が細い。ユージェニーの前に車いすで近づくと、後ろで押していた騎士に合図を送って停めさせた。そして穏やかに笑んで挨拶の言葉を口にした。
「見た通りの病身なので、このままで失礼する。私がサルバドール・デュ・エルスールだ」
嬉しげにユージェニーを目を細めて見つめている。
「ああ、来てくれたんだね。私の願いを叶えてくれてありがとう」
まさか、自分よりも具合の悪そうな男が婚姻相手だとは思っていなかったユージェニーは、とっさに返す言葉を失っていた。
◆
サルバドールの従僕がこちらへどうぞと案内してくれたのは、王宮奥の陽当たりが良く、眼下の庭園が見渡せる一室だった。傍らの本棚にはたくさんの書籍が並び、大きな机の上は雑然とものが置かれた状態だ。この様子を見るに、普段からここで過ごしているのだろう。開け放たれている扉の向こうには整えられた寝台も見える。サルバドールはいきなり私室へとユージェニーを誘ったのだった。
彼女が勧められたソファに腰を落とすと真向いにサルバドールは陣取った。
「この部屋の中なら私の自由が利くからね。それに立ちっぱなしで疲れたろう」
柔らかな声色で話す彼は、複数の従僕に車いすからソファに移して貰い、ひざ掛けを用意してもらったりとやたらと世話を焼かれていた。もういいから、と世話する手を払い除けようとしては失敗している。ここの使用人たちはきっと主人のことが心配でならないのだろう。微笑ましく思い、自然口角が上がったユージェニーを見て、困ったように目尻を下げた。
「皆、私が何も出来ないと思っているんだよ。そんなことは無いのに」
「殿下を心配しているのですね。良き主従関係と見ました」
そして、サルバドールの指示で出された冷たそうな飲み物を見て、ユージェニーは目を輝かせた。熱いお茶は懲り懲りだったのだ。
「レモネードですね。喉が渇いてましたから有難いですわ」
「レモンも入っているけれど、レモネードではないよ。ハーブをブレンドしたお茶だ。安心して飲むがいい。貴女の顔色が良くないように思えたので、さっぱりとしたものを用意させたのだ。お気に召したかな」
はっとしてユージェニーがサルバドールを凝視する。殿下は先ほど何と言ったか。「立ちっぱなしで疲れたろう」と、「安心して飲むがいい」と。
サルバドールは合図を送って部屋にいた使用人たちを下がらせ、二人きりとなった。
「自分の身体がもう長いことこんな調子なので、他人の体調にも敏感になるんだよ」
そう言って真摯な顔つきでこう付け足した。妊娠しているのではないか、と。
暖かな色調の部屋で穏やかに見える主がさらりと言った言葉に、ユージェニーは珍しくも目を瞬かせて動揺した。
「……な、なぜ……」
「どうして分かったのか、かな。貴女の顔色の悪さにどうやら吐き気もありそうだと気付いたからですよ。そしてここに来る間の貴女の足取りと歩き方を見て、判断しました」
グラスを手にしたまま、ユージェニーは動けなくなった。国に置いてきた唯一信頼出来る乳母だけが知る事実だ。他の誰にも、腹の子の父親にさえ明かしていなかったのに。
何も言えないユージェニーの手の中のグラスを取り上げて、宥めるかのようにそのまま彼女の手を両手で包み込む。
「その子の父親の名を伺っても?」
「―――」
「言えませんか。まあ会ったばかりで、すぐには信用してもらえまい。何と言ってもこの縁談は政略結婚だと思っているのだろう」
「あ、あの、……」
「求婚されて、さて困ったのか。それとも渡りに船といったところか。お互い王族同士だから、政略結婚であることは承知の上だ。その際、女性側は処女性を求められるのは常識だ」
淡々と事実を述べているだけで嫌味は感じられない。昔も今も貴族同士の政略結婚では当然のように純潔であることが条件だ。ましてや王族レベルでは絶対条件ともいえる。
最前からの具合の悪さに加えてユージェニーの背中に冷たい汗が流れた。気付かれないうちにさっさと結婚出来たなら。結婚は先でもとりあえず身体の関係を先に持てば。今の月数だと誤魔化せると考えて、ここエルスールに来たのだ。彼女は追い詰められていた。よほどの相手でない限り求婚を受けようと思っていた。だが、妊娠していることが先にバレてしまうとは想定外だ。
彼女の浅はかな打算は泡と消えたのだ。知らず、身体が震える。サルバドールに取られた手も震えているだろう。現実逃避したくて俯きぎゅっと目を瞑った。いつもなら滔々と心にも無いことをいくらでも話せるというのに、何も言葉が出て来ない。
「……ユージェニー嬢、安心して」
柔らかなテノールが彼女の耳元に心地良く響いた。気付くとサルバドールは彼女の手を包み込んだまま、テーブルを回ってきてぴたりと寄り添った。手の甲を撫でられ、次いで愛おしいと言わんばかりに自分の頬に擦りつけると小さな音と共に指先に唇が触れた。
「安心してほしい。誰にも言わない」
「でも、……でも」
「これまで王族同士として幾度となく顔を合わせる機会があった。生気溢れる貴女はいつも輝いて見えた。それはもう一目惚れしたと思ってもらっていい。憧れの貴女と結婚出来るのなら、私は何事でも受け入れよう」
私はもう長くはないのだ。そう言いつつ骨ばった手でユージェニーの髪を撫でた。
「だから、どうぞ私を隠れ蓑として利用してほしい。喜んでその腹の子の父親となりましょう。……心から望んだとしても、私にはもう貴女と身体を繋げることなど出来そうにないのだから」
「……、それでは、わたくしの都合ばかりでサルバドール殿下にはちっとも利がありません」
「一番近くで貴女を見ていられるのだ。こんなに嬉しいことは無い」
顔を上げた彼女の頬に涙が零れ落ちた。今まで兄王の為、国の為に気を張ってきたユージェニーが初めて安心して甘えられる場所を見つけた瞬間だった。激しい恋情が無くてもこの方となら穏やかな日々を送れるに違いないと思った。
それまでの体調の悪さもあり気の抜けたユージェニーは、すうっと意識が遠のいていくのを感じた。いけないとも思ったが、頭を撫でるサルバドールの手のひらの温かさに安心して目を閉じたのだった。
◆
ユージェニーはあの夜の会話の夢を見ていた。
「―――今何と言いましたか?」
目の前の端正な顔立ちの男は、珍しくも眼を目一杯見開いた驚きの表情でこちらを凝視した。
「だから、私を抱いてくれと言った。……こんなこと、何度も言わせるな」
そういう問題か? いや違うだろう! そう、今にも怒鳴り散らしたい気持ちを胸の中に抑え込んで、マルゴワールはユージェニーを見据えた。暫く二人で凝視し合った後、ふいと先に目を逸らしたのは、ユージェニーの方だった。
「悪い、分かっているんだ」
今社交界で囁かれている噂がある。あの氷のような宰相補佐官が一人の女性に夢中になっているらしいと。そろそろ婚約が整い発表されるようだと。その噂が本当ならば、多くのご令嬢たちが涙することになるだろうと。
「お前には好いた女性がいるのだろう? 噂になっているぞ」
「……彼女となら良き家庭が作れると思ったのです。例え、……愛したわけでは無くとも、慈しむ気持ちがあるのなら」
「何だ、その微妙な言い方は。好いているのではないのか」
「……好き、というか、妥協したというか」
視線をユージェニーから外し、素知らぬ方を見ながらマルゴワールは答えた。そう、しかし彼は否定の言葉を口にしなかった。ということは本気で婚約しようとしているのだということは分かった。
だとしても。他に誰がいる? 触れられてもいいと思った相手はユージェニーにとってマルゴワールだけだったのだから。それは別に愛情とは違ったものだ。
官僚たちや大臣との協議、隣国との騙し合い、はたまた商人との折衝に追われる毎日を送り、神経を擦り減らしていたユージェニーにはいつもの冷静さがなくなっていたのだろう。下手をすると国王よりも目立つ王妹を表舞台から引きずり下ろしたい一心で、早く結婚して片付いてしまえと言わんばかりにあらゆる縁談を薦めてくる王妃の態度に腹を立て、だったら先に処女を棄ててやると決心したのは二十歳の祝いを受けたすぐ後のことだった。
結婚なんぞしたくないし、そんな暇もない。自分にはもう瑕疵がありますと断る理由を作りたい。しかしそれには相手がいる。誰にするかはさすがに慎重にならざるを得ない。王族の心得として閨教育を受けた彼女だが、教えられた閨事のあれやこれやを出来る相手がどうにも想像がつかなくて困っていた。
一応少女の頃には少女らしい淡い夢があった。麗しい騎士に跪いて求婚されるというものだ。だが自分は王女だ、結婚とは政治絡みの政略的なものだといつしか理解していた。しかし国の状態を思えば、ユージェニーが結婚して政治から離れる選択肢はない。だから一生独身で国を支える覚悟は出来ていた。
先日の舞踏会を思い出す。ダンスを踊る為に手を取られるだけで虫唾の走る男性もいた。そんな相手はさすがに嫌だ。少なくとも自分自身がある程度の好意を持てる相手が良いのだが。
ふと浮ぶのは、幼き頃より互いに研鑽し合った幼馴染みのレオポルド・マルゴワール公爵令息だ。今は宰相の補佐官の一人となっている。次期宰相は彼だろうと言われるほど、図抜けて優秀な男だった。家柄も容色も良く、実際ユージェニーの婚約者候補の一人とされていた。結婚したら臣籍降下して公爵夫人となり、政治世界からは引退を迫られるだろう。そんなことは出来ない。だから一夜限りの相手になってもらうのがいいんじゃないかと。
しかしユージェニーには断られることは分かっていた。彼にはお気に入りの令嬢がいる。身分差からまだ公にはしていないが、いずれその令嬢と結婚するのだろうと。
慕う相手の居る男性を奪いたいわけではない。だが、他に誰がいる?
何度目かの問いを自らに投げ掛けた。そうしてユージェニーは行動に移したのだった。
「レオポルド、お前を困らせたい訳じゃないんだ」
「だったら……! 冗談でも口にしていいことではありませんよ」
でも、他に頼める相手もないんだ。ユージェニーは口の中でそう小さく唱えた。
「……お前が駄目なら、ジャン=リュックに頼むしかないか」
「はっ? あいつはいけません」
もう一人の幼馴染みの名を出すと、マルゴワールは全力で否定してくる。だったらどうすれば処女を棄てられる?
ここはユージェニーの私室の隣に用意されている応接室だった。先ほど侍女たちが二人の為に軽食とお酒を置いていった。常からこうしてマルゴワール宰相補佐官が王妹殿下の部屋を尋ねて内密の話をすることは良くあることだったから、さっさと二人きりにしてくれたのだった。
用意されていたグラスを思い切り呷った。思ったよりも酒精が強くて、途端ユージェニーはむせ込んだ。呆れたように見ていたマルゴワールが背中を擦ってくる。何度も何度も。背中が熱を持ったように熱くなってきた。やがて背中を擦っていた手が、下ろされたプラチナの髪に移り、優しく梳き落とされた。
いつしかマルゴワールがユージェニーを引き寄せていた。後頭部に大きな手のひらを感じ、頬が胸板に当てられる。とくとくと心臓の鼓動がする。それは普段よりも早いリズムを刻んでいた。
「殿下、……ユージェニー、貴女が願えばどんな男だってその願いを叶えてくれるでしょう。でもそれは危険極まりない行為です。お止め下さい」
「だが、本当に結婚したくないんだ。他国の王族と結婚させられたらこの国はどうなる? 自惚れでなく立ち行かなくなるだろう? なのに王妃ときたら、……」
「陛下にご相談をされては?」
「王妃の言いなりなんだぞ。女の幸せとやらを考えろと諸手を挙げて賛同するに違いないよ。兄上は分かってらっしゃらないのだ」
そうかもしれないとマルゴワールは思った。決して愚かな方ではないのだが、あの方は王妃の言いなりだ。どんなにユージェニーがこの国にどれほど貢献しているか、行く末を案じているのか、理解出来ないのだ。
「傷物の女を普通男は嫌がるだろう? ましてや王族相手だとそれは許されるものではない。だから……」
ユージェニーのつむじに柔い何かが当たった。
「それほどのお覚悟があるのなら。……私がお相手しましょう」
そう。他の男に触れさせない。触れさせたくない。
ユージェニーの願いはこの国の安定した平和だ。結婚せずにこの国の政治に関わり続けることだ。だから胸に抱くこの想いを彼女に告げることなく蓋をして、公爵家の為に他の女性を娶ろうとしているのに。
今までにも様々な彼女の願いを叶えてきた男は、それまでにも何度も自問自答を繰り返してきた。ユージェニーへの想いを告げるか否か。結婚は出来ない、何より彼女がそれを望んでいない。では自分はどうすればいいのか。
処女を捨て去りたい。これが彼女の願いだ、だったら自分が叶えてやればいい。そうして今宵一夜の夢を見ればいい。有らん限りの想いをぶつけて捨て去ろう。婚約が整う前だ、裏切りにはならない筈だと、頭の片隅で理屈を捏ねた。
マルゴワールはテーブルに置かれたもう一方のグラスを一気に呷ると、彼女を難無く抱き上げ、そのまま奥の扉を目指した。
◆
ユージェニーの意識が浮上してきた時、見えたのは心配気なサルバドールの顔だった。身体を起こそうとするが力が入らない。
「起きたかね? もう暫く横になっているといい」
するりと頬を撫でる手が優しい。ユージェニーは眼だけを動かして辺りを見渡した。ここは何処だろう。自分に与えられた客間では無さそうだが。
そんな思いを汲んでくれたのか、ここは私の寝室だとサルバドールは答えた。
「今は夕刻だ。貧血を起こしたようだな。ちゃんと食べていたか? つわりでも食べれそうなものを用意させようか」
「あ、あの、申し訳ありません」
病人であるサルバドールの寝台を横取りする訳にはいかないと再度起き上がろうとしたがやはり無理があった。恥ずかしくなって上掛けを引っ張り上げ顔を隠そうとしたが、上手くいかなかった。手を押さえられ、頬に口付けを落とされたからだ。
「今晩はこのままここに泊まるといい。同衾したように見えてちょうど良い」
「殿下、そんな訳には」
「今更縁談を断るつもりか? その腹の子をどうするんだ」
ユージェニーは黙り込んだ。サルバドールのいう通りだ。
「私がむりやり引き摺り込んだことにすればいい。兄上はお前にそんなこと出来るはずが無いと言いそうだが、周囲の目は誤魔化せるさ」
「……」
「貴女の侍女を呼んで、着替えを手伝ってもらうといい。貴女が寝ている間に衣装を用意させたから。すまないが今夜の晩餐会には出席してもらうよ。そこで大臣たちに婚約を発表する」
「……お気遣いありがとうございます」
素直な感謝の言葉を聞いて、サルバドールはにこりとした。
「これから一緒に過ごすんだ。遠慮はいらないよ」
一旦出て行ったサルバドールは今度は老医師を帯同して戻ってきた。信頼出来るという彼専属の医師にユージェニーの身体をつぶさに診て貰った。妊娠したことを知られたくなかったユージェニーは国で医師に掛かっていなかったので、これで大きな安心感を得た。
確かに妊娠しているということ、しかし身体の疲労が溜まりに溜まっているのでしばらく安静が必要だということを告げられた。
「安静に、か。では今夜の晩餐会は欠席だな」
「そんなわけには」
「医者の判断だよ。身重の貴女に無理をさせたくない。私が上手く話をつけてくるから安心して」
会ったばかりの彼は顔色がいいとは言えなかったのに、この数刻で頬には赤みが差し、目が輝いて、心底嬉しそうにしている。その様子を長く診てきたという老医師も驚いたようだった。
こうしてユージェニーとサルバドールの婚約が整った。ユージェニーの体調が思わしくないので、婚約式はもうしばらく後にすると話がまとまり、彼女はこのままエルスール国に留まることとなった。
サルバドールの兄であるレオカディオは、サルバドールの私室に居ついているユージェニーを見舞いに来ては、感謝の意を示し続けた。婚約を受けてサルバドールがどんなに元気になったかをひとしきり語っていくのだ。ついでにどんなに優秀な弟かと手放しで持ち上げるのだった。仲の良さそうな兄弟の様子にユージェニーも嬉しく思った。こんなに歓迎されるとは思ってもみなかったことだから。
婚約の誓約を教会で執り行った後、サルバドールの体調が悪くなった。それまで気が張っていたと思われ、寝付いてしまった彼をユージェニーは献身的に面倒をみた。
「亡くなった兄ギュスターヴの為に薬師たちが改良を重ねて作り上げた薬があります」
レオカディオにそう奏上したのは、サルバドールのことを本気で心配していたからもあるが、それよりも膨らみ始めた腹部を気にしてのことだった。
「優れた薬師もたくさん居りますし、何より環境の良い場所にその離宮は建てられています。サルバドール殿下をそこにお迎えしたい。ゆったりと静養なされては如何と思うのです」
ユージェニーは言葉を尽くして何とか自分の国の王家直轄地の外れたところにある離宮へと自分たちの居を移そうとしていた。レオカディオは無論反対したが、サルバドール本人が強く希望した為、ユージェニーの思惑通りに滅多と人の尋ねて来ない離宮へと引き籠ることが出来たのだった。
◆
二人が離宮へと移ってきてから月日が経ち。月満ちてユージェニーの待望の赤子が誕生する。知らせを受けて懐かしい人物が王家の使者として尋ねてきた。
「サルバドール王弟殿下、はじめてお目にかかります。……ユージェニー王妹殿下。お久しぶりで御座います」
恭しい礼を取るマルゴワールを彼女は目を細めてじっくりと眺めた。補佐官筆頭となり、忙しくしていると聞いているのにわざわざ来てくれたのか。風の便りにあれから噂の令嬢と恙無く婚約したと聞いた。
あの夜。ユージェニーの名を何度も呼び、優しい手つきで抱き締めてくれた男は、別の女性と結婚する。レティシアーネと名付けられた赤子が自分の娘だと知らないままだ。それでいい。たった一度きりの閨で子を宿してしまったユージェニーは、自分の思惑を外れて結婚するに至った訳だが後悔はない。マルゴワールとの子を宿したこと、サルバドールと出会えたことは何物にも代えがたい喜びだったと感じるからだ。これが愛情なのかどうかは分からないのだが。
「君は妻の幼馴染みだそうだね。積もる話もあるだろう、ゆっくり滞在していってくれ」
暫く前までは短い距離なら確かに歩いていたのに、ここのところ寝付くことの多くなったサルバドールは、それでも優しい笑みを浮かべてマルゴワールに話し掛けた。そして車いすに乗ったまま、自室へと下がっていった。
様々な感情を押し殺した瞳でそれを見送ったユージェニーは、マルゴワールへと意識を戻した。
「元気だったか」
「はい。相変わらずやることは山積みですけどね。……貴女も元気そうで何よりです。お子様も恙無くお育ちですか」
「ああ。名をレティシアーネという。わたくしの祖母の名を戴いた」
暫くは二人でとりとめの無いことをお互いの報告がてら話した。開け放した窓からすいと心地よい風が通り抜けていく。侍女が淹れ直してくれた熱い紅茶を口にすると、そういえば、とユージェニーは言葉を繋いだ。
「婚約したそうだな。おめでとう」
「ありがとうございます、と言っておきましょう。……貴女があのままかの国からお戻りになりませんでしたから。私なりのけじめです」
微妙な言い回しにユージェニーは引っ掛かりを覚える。
「それは、……戻ってきたら何かが変わったということか」
「過ぎたことです。忘れて下さい」
今言った言葉をか。それともあの夜をか。
「貴女が政治に関与し続けたいという気持ちに応えたつもりでした。でも貴女は戻らなかった」
「それは、……すまないと思っている。全部お前たちに押し付けてしまった」
「お疲れのご様子でしたからね。それまで貴女は国の舵取りを実に良くやっていた。これ以上頑張れないということだったのでしょう。こうしてお子もお産みになられたのです。そろそろエルスールへと戻られては如何か」
マルゴワールはソファから立ち上がって冷徹な冷たい目でユージェニーを見下ろした。
彼は怒っている。処女を棄てて独身を貫くと言って閨を共にしたのに、唐突な縁談を受けてそのまま帰らず結婚し子まで成したのだから。――サルバドールの子ではないのだけれど。
「―――本当に申し訳ないと思っているんだ。だが、……エルスールへ戻るのは無理だ」
「何故ですか。貴女はもうこの国の王女ではないのですよ」
先ほどの挨拶で王妹殿下と呼んだくせに、そう怒気を含んだ言葉を投げつけたマルゴワールにユージェニーはぽつりと呟いた。
「サルバドール様の具合が良くない。エルスールへの移動ももう難しい。わたくしの出産が終わるまではと頑張ってくれたのだけどね。あと幾ばくも無いと医師の見立てだ」
マルゴワールは絶句した。気が抜けたようにユージェニーの隣へと腰を下ろすと、彼女の手を取り握り締めた。
◆
「当ててみせようか」
今宵は一泊してから明日に王都へと戻ると言ったマルゴワールと別れ、サルバドールの様子を見に来たユージェニーに彼はそんなことを言い出した。
「何をです?」
「彼がレティシアーネの父親だね。色は違うけれど意志の強そうな目元がそっくりだ」
はっとしたユージェニーは頭を殴られたような思いだった。娘は見た目、ユージェニーの色を、プラチナの髪に紅い瞳を、受け継いで生まれてきたからバレることは無いと安心していたのだ。
「それに彼は公爵家の一員だろう? もちろん王家との血の繋がりもあるはずだから」
「……そんなに分かり易いですか」
悪戯を見つけられたかのように人の悪そうな顔をしたかと思うと、ユージェニーの身体を寝台へと引き寄せる。
「じっくりと観察していないと分からないだろう。私は君を一番に想っているからすぐに分かったけれど」
いつものように頭を撫でて髪を梳いてくれる。サルバドールの手はいつも優しい。ちょっと嫉妬したよ、などと囁かれ思わず肌掛け越しにぎゅっと抱き締めた。
「ただ一度だけの関係です。恋情とか愛情とかじゃないのです」
言い訳のようにぐりぐりと頭を寄せてくるユージェニーを抱きしめ返してサルバドールは呟いた。
「私では子を与えてやれなかったんだ。彼には感謝しているよ。お陰でユージェニーと出会えて結婚出来たのだから」
「サルバドール様、わたくしは、……」
「無理しなくていい。私の選んだことだ。私は貴女を愛しているのだから、それで十分満足だ。愛させてくれてありがとう」
そうして季節がいくらか巡ったころ、その日は穏やかに訪れた。夕暮れの色の重なるとき、サルバドールはユージェニーに看取られて静かに帰らぬ人となったのだった。
◆
簡素化された式の後、レオカディオはどうあってもこのまま遺体を引き取って帰国すると強く主張した。ユージェニーもサルバドールをエルスールに埋葬することを望んだので、それには異存はなかった。
レオカディオはユージェニーに労いの言葉を掛け、一緒に来ないかと誘ってくれた。だがサルバドールのいないエルスールに行ったところで自分の居場所はないと、静かに首を振って断った。
「だとしても、其方は余の大事な義妹だということを忘れないでくれ」
止まっていた涙がまたもや零れ落ちる。彼はレティシアーネを抱き上げると優しくあやし、お前は一緒に来るか? などと話しかけていた。
「いえ、陛下。申し訳ありませんが、その子は渡しません。こちらで大切に育ててみせます」
「そう怒るな。言ってみただけだ。この子が望めばいつでもエルスールへと来るがいい。いつだって歓迎するぞ」
感謝の想いで頭を下げ続けるユージェニーに別れの挨拶を残してレオカディオは帰っていった。
その姿を見送ったのは、ユージェニーと王都から駆けつけてきたジャン=リュックだ。マルゴワールはどうしても外せない用があると悔やみの伝言を彼に託していた。
「姫君をあの男に渡せるわけがないでしょう。何の関係もないのに」
「何の関係もないって、あの方から見れば姪にあたるのだぞ」
「そうじゃないでしょう。伊達に長い付き合いじゃない。見れば分かります、貴女とマルゴワールとの子だ」
またもや殴られた気分に陥ったユージェニーは、くらくらすると言って寝込んでしまった。当面このまま離宮で暮らすことになっていたのだが、これからどうしたらいいのかは頭が良く働かない。
再婚しろと言われるかもしれないが、今度こそ突っぱねようと決意を固くする。それよりもこの子のことだ、レティシアーネをどうするか。
このまま自分の娘として手元に置いて育てるのがいいのだろうか。これから今一度政治の世界へと戻るつもりだが、要らぬ係争に巻き込まれたりしないだろうか。
「マルゴワール閣下はもう結婚しています。この子を殿下のお子様としてお披露目するのは危険なのでは」
そう言って顎に蓄えた髭をひねりながらジャン=リュックは考えたふうに言う。
「そんなに分かり易いか? サルバドール様は大丈夫だと仰っていたけれど」
「あの方とはどう見ても似ても似つかないでしょう。王家の色を持っている姫だ、マルゴワールと付き合いのある人だと分かるかもしれない。それに」
「なんだ」
「王妃様のことが心配です。お世継ぎがまだですから。下手をすると排除にかかる可能性も無きにしも非ずかと」
次の年には息子が誕生するのだが、それはまだ分からない時のこと。考え過ぎだと笑い飛ばせないほどの意見だった。
「貴女が国政に戻るというなら、私の養子にして育てましょう。王族ではなしに、普通の幸せを見つけられるように。幸いアジーラからの提供品で髪や目の色を変えられるものがあります。ピアスの形をしているのでそれを付けると王家と関わりがあるとは思われないで済む」
「……ジャン=リュック、お前結婚はどうするんだ」
「考えていません。知っているでしょう、私は女には惹かれない質だ。どのみち養子を取ろうと考えていました。いつ死んでもおかしくない仕事であるし、それに、……愛する人とは結ばれないのだから」
そうだった、彼は女性を恋愛対象とはしていないのだった。
口角を上げて無理矢理のように笑顔を作った彼に、ユージェニーは寂しさの色を見た。だが次の言葉に愕然とすることになる。
「だから、せめて代わりに愛する人の子を育てさせてください」
「はっ? まさか、……レオポルドを」
「そりゃ誰にも言ってませんからね。ばらしたら、殿下といえども血を見ますよ」
泣き出したレティシアーネを覗き込んであやし始めたジャン=リュックを、ユージェニーは呆然と見つめることしか出来なかった。
◆
王家の色を持って生まれたレティシアーネは、物心つく前には認識阻害のピアスを付け、ジャン=リュックの下で子爵家の娘として育てられることとなった。普通の幸せを、などと言っていたくせに、普通の貴族令嬢とは思えないほどの幅広い知識と家事全般の生活力や剣術体術を極め、ユージェニーの管轄する<図書館>の一員となった。ユージェニーは時折護衛も出来る侍女として派遣されてくるレティシアーネをたいそう可愛がり、まるで実の親子のようだと噂されている。
再び国政に関与し始め、引き継いだ時にはひと昔の名残でこの世の悪事を煮しめたような酷い組織だった<図書館>に対して、ユージェニーは遠慮なく鉈を振るった。腐れ切った組織を健全(とはいえ、後ろ暗いことも引き受けるが)なものへと変貌させた。自分が政界を引退するまでにはこんな組織など必要ない世界を創ろうと毎日奮闘している。
兄王に嫡子が誕生すると同時に臣籍降下を宣言し、元は第二王子オーギュストが管理する予定だった長らく放っておかれた大公領を治めることとなり、王妹から女大公へと称号も変わった。サルバドールに愛されたその美しい白金の髪を肩口で切り揃え、ドレスを脱ぎ捨て近衛騎士の格好をするようになったのもこの頃だ。
その後二人の息子に恵まれた王妃は憑き物が落ちたように大人しくなった。継承権が自分の息子にあるということで安心したのかもしれない。それよりも祖父や父親が相次いで亡くなり圧迫が無くなったことが大きいと考えられた。ギュスターヴが亡くなってすぐにオーギュストと婚約させられて、彼女もまた、苦しんでいたのだろう。
宮廷もかなり安全になったと思われたが、レティシアーネをジャン=リュックは手放そうとしなかった。このまま子爵令嬢として幸せに生きてくれたらいいとユージェニーも考えた。心置きなく思い切り国政に切り込めるからだ。
「やつは言ったんだ、普通の幸せを見つけられるようにと。なのに」
「レティは<司書>である限り、普通の令嬢とは言えませんな。しかし、あれならばどこでも生きていけますよ。それに夫になったユーグもそのままでいいと言ってるんですから。いいではないですか」
涼しい顔をして湖を眺めるマルゴワールは、レティシアーネが自分の娘であろうことを改めて問うたりしなかった。だがきっとそうなのだろうと、彼女がピアスを外す度に確信を深めていた。その上で黙秘することを決めている。今さら生物学上の父親だと伝えたところでどうしようもない。ましてやユージェニーへの気持ちから愛せないと思っていたけれど、長らく慈しみ育てた愛情を持つ妻に、悟られるわけにはいかないからだ。
昔のような激しい想いはもう、マルゴワールも持っていない。あの夜に全て曝け出して棄て去った。何よりも一番苦しかったろう時期に彼女の側にいたのは、自分ではなくサルバドールだった。亡くなった方にはいつまでも追いつけないのだな、と少し寂しく思うのみだ。
「それでも、普通の幸せを掴んでくれたと思っている。受け入れてくれたユーグに感謝だな」
「結婚式ではレティはとても綺麗でしたね。若い頃の貴女とそっくりだ。そういえば私は貴女のウエディングドレス姿を見損ねました」
縁談について話し合うとエルスールへと向かったと思ったら、そのまま帰らずなし崩しのように婚約したとの知らせが届いたのだから。今なら納得出来る。子を宿してしまったから帰るに帰れなかったのだと。
「そうだったな。腹が目立たないうちにとさっさと式を挙げてしまったから」
「……それでもあのお方は全てを飲み込んで結婚なさったのですね」
「うん。大きなお方だった。身体は病いに冒されていたが、広く私を包んでくれたのだ」
サルバドールと過ごした日々はユージェニーに生きる糧を与えてくれた。今思うに、あの方を確かに愛していたのだと感じている。目の前にいる、娘の父親に向かう感情とはまた違ったものだ。
「そろそろこちらへと立ち寄ってくれる頃ですか」
「そうだな。今日中には着くと知らせがあった。ジャン=リュックも来ると言っていたな」
「……私が殿下に付いて王都を離れるから後は頼むと念押ししたというのに」
結婚してしばらくは、ユーグは近衛騎士団の、レティシアーネは本来の図書館の司書として、二人とも仕事に追われていたが、ひと段落ついたからと休暇を取って旅行へ出かけたのだ。途中滞在先として提供するから離宮へと寄ってくれないかと伝えておいたのだ。
久しぶりに娘との時間が取れるとユージェニーは浮き立っていた。サルバドールへの想いの残るこの離宮で、娘が生まれたここで、また心穏やかに過ごせるとは考えもしなかった。それだけの月日が流れたことを実感する。
「いいじゃないか。年寄りらしく三人で思い出に浸ろうではないか」
「楽しみですね。それもまた一興」
今は国の様々な難題と戦う同志としてのユージェニーに柔らかな視線を送り、さて紅茶をもう一杯どうですかと、マルゴワールはポットを手に取った。
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