86 自在なること
ニュギスは酷く動揺していた。
それは人間界にまで自らを連れ戻しに来た姉の存在にであろうか?
違う。ニュギスは冬休みを終え学園に帰ってきた時点で薄々と姉の気配を感知していた。
やってきた理由も即座に想像できたし、ご対面となったところで予想通りでしかない。むしろ思ったよりも遅かったくらいだ。
そうではなく、姉の存在ではなく、ニュギスは迷っていた。
自らの不義に、欲に、エゴに。
姉が正しいのはわかっている。帰るべきなのは理解している。
考えるまでもなく、考え抜いた末、それが正解なのである。
なのに嫌だと思うワガママは、以前のニュギスには決して表に出せるはずのないものだった。
ニュギスは孤城の姫君。
筋金入りの箱入りであり、外の世界に出たこともない。書物で知識をむさぼり、想像で世界を空想するだけの世間知らず。
諸事諸々は臣下としてあてがわれた六十六名の悪魔たちに任せきりで、なに不自由ない。
ただし六十六名の臣下は常に入れ替わり立ち替わる。同じ日の内で六度は交代があって決して無駄口を漏らさず、仮面を被っているかのように個性を極力消している。
そのせいもあってニュギスは誰ひとりとしてその名と顔を一致させて記憶できていない。
ニュギスが名を知るのは優しい両親と美しき姉たち、そして彼女らに付き従う専属の付き人数名くらいのもの。
そういう隔離された生活をしていて、閉鎖された環境を生きていた。
そのころのニュギスは退屈で仕方がなかった。
まるで冷めた仮面舞踏会の最中、相手がいないでずっと誰かの踊りを見ているような。
優雅ではあるしなにひとつの不足もないが、楽しそうに踊る誰かを羨むばかりの日々だった。
無論、そこに在ることの重要性は痛いほど理解していた。ただ眺めているだけの退屈も必要なことであると。
踊る家族はニュギスのために奔走していて、領土のために尽力している。それを止める道理などあろうはずもない。
ならばとニュギスが踊り始めれば、その全てを台無しにしてしまう。積み上げたなにもかもに泥を塗り、破滅させてしまう。
秘密の公爵であるという――それだけではなくもうひとつ、ニュギスには秘密があった。
その秘密が外に露見すれば、魔王の一角が落ちる。魔界の均衡が崩壊する。
だからニュギスはただ見ているだけしか許されない。
それでいいと思っていた。そうするしかできないと諦めていた。
ずっとずっと、ずっとずっと。
長く閉鎖された世界で生きて、泥に浸かっていくように現状を諦観してきた。
それがニュギスという少女のはずで、それがワガママを言い出すだなんて、そんなことあってはならない。
私情を禁じ、欲望を封じ、エゴを殺す。
そうでなければならない。そうあろうとし続けた。
その魂をこの目で見たあの時までは――
◇
「お元気そうでなによりでございます、末妹様」
「……ジュガー。お姉さまがいらっしゃるのなら、貴方が侍らないわけがありませんわね」
「私はあの方のしもべですから」
その世界には主であるアティスと、招かれた自分とニュギスだけしか存在しないと阿沙賀は判断していた。
だからこそニュギスを置いて唯一の敵であるアティスに突っ込んで行けたのであり、後顧の憂いを感じず現在戦えている。
だが彼の直感を潜り抜けてもう一柱、その世界には影のように控えて潜む者がいた。
その悪魔はジュガー。汰奉のジュガーという。
髪は灰色、柔和で穏やか。年若いようにも見え、年老いているようにも見える不思議な人相の男だった。
ただ年齢を推し量ろうと思っても、そのきっちりとした執事服がなによりも雄弁に自らを仕える者であると語っている。そこに年月など無関係だと佇まいだけで主張していて、柔らかい表情で他の要素を拒んでいる。
メリッサもメイドとして相当高いところにいたが、彼はそれに加えて年季と忠誠心が図抜けている――紛うことなく執事であった。
位は侯爵。アティスの六の臣下のひとりにして筆頭。異世界にだって必ず付き従う、姫君の付き人である。
ニュギスをしてその気配も姿も見えなかったが、それでもここにいることだけは確信していた。
故に驚かず、けれどいつもと違って多少なり思うところはある。
現在、ニュギスはアティスと敵対しているつもりであるからして。
そんな態度を即座に察して、ジュガーは棘のない笑みで懸念を取り払う。
「ご存じの通り私に戦闘能力はございません。アティスお嬢様と下郎が戦っている内にどうこう、というわけではありませんのでご警戒なさらず」
「はじめから警戒などしておりませんの。――ですが、お茶をお願いできますかしら?」
「よろこんで」
強がりも見て見ぬふりして畏まって一礼。ジュガーはその場にあったティーセットの準備にとりかかる。如才ない男である。
ニュギスはごく当たり前のようにアティスの座していた席、その向かい側の空席に腰を下ろす。
よく知る姉のことだ、この席がニュギスのために用意されていたのはわかっている。
阿沙賀にかかずらっている間、ジュガーにもてなすようにと言いつけてあったのだろう。
「どうぞ」
「ええ、ありがとうございます」
すぐに暖かなミルクティーが用意され、ニュギスはそれをソーサーごと受け取る。
一口いただけば舌に馴染んだ美味だと自然に唇を綻ばせる。
「おいしい、ですの」
「恐悦至極にございます」
見上げれば画面の向こう側、阿沙賀とアティスが戦っている。
こちらに被害が及ばぬようにとわざわざ亜空間の座標をズラしたところでふたりは相争っている。
ニュギスは、いつものようにそれを見ていることしかできない。
「わたくしはどうすればよいのでしょう――おしえてくださいませ」
その時、果たしてニュギスは誰にそれを請うたのか。
それはきっと、本人でさえわからない。
◇
「なんじゃそりゃーー!!」
アティスが戦闘をはじめるのにわざわざ別空間へ移行したのは、当然ニュギスを巻き込まないため。
それはつまり、同じ亜空間世界内において同席すれば、巻き込まない自信がなかったとも言える。
――津波の如く大雪が押し寄せる。
それも至る所から。
山の傾斜から滑り落ちるように押し寄せてくるのはわかる。だが下から這い上がるように来たるのはなんなのか。挙句に虚空の上空から瀑布のごとく降り注いでくるのはなにかの冗談としか思えない。
逃げ場など、あるはずもない。
大海に浮かぶ藻屑のように、阿沙賀は真っ白な雪に呑まれて押しつぶされる。
それをごく間近にいながらまるで雪に触れず、眺めるアティスはひとり語りかける。
「ニュギスちゃんは純粋無垢でやさしい子。貴様のような下郎にもわたくしの魔魂顕能について説明してあげているのでしょう?」
「……空間の顕能だろ」
返答の呟きの直後、雪山のように積み重なった積雪をぶっ飛ばして阿沙賀はその姿を現す。
ハナから答が返るとわかっていたからこその疑問形。アティスは膨大な雪を蹴散らされても平然と。
「その通り。名は聞いていまして? 『界竄』といいますわ。空間の自在化がその能力」
「…………」
実際、阿沙賀はニュギスの口からアティスの顕能を聞いたことなどなく、ただの事前情報と状況から見ての当て推量であった。
とはいえ遠凪や迷亭をも超越した空間技能を魔術のみでやってのけたなんて事実があったら理不尽どころの騒ぎではない。順当に顕能由来であったことは安堵さえできる。
どうにせよ、厄介なことには変わりないが。
「貴様ら人間にわかりやすく言えば人魂啓術十節をわたくしは取り扱えますわ。啓術使いども以上にね」
「わーお、わかりやすい」
それで言えばこの世界は啓術でいう九節――『亜空展象』。
しかしあれは術者の無意識剥き出しの魂を映し出して亜空間を染め上げるもの。この空間は、もっと恣意的だ。
それこそが啓術使い以上ということで、つまり。
「雪は白くて綺麗で風流ですので重宝しておりますが、殺し尽くせないのでしたら変えましょう」
ぱちんと指を鳴らすと、それだけで世界の様相は変貌する。
術者アティスの思うがままに。
ぼう、と。
紅蓮の炎が世界を埋め尽くす。
「っ、」
雪の全てが反転したように、莫大な赤き火炎が見上げる山の如くに盛っている。
しかし不可思議、それだけの炎であるならば相応に膨大な熱量をもってしかるべき。なのに阿沙賀は汗一つ流さず、むしろ凍えて震えて息が白い。
「くそ、ホントになんでも思い通りか。冷たい炎なんてありかよ!」
この世界はアティスの世界。
故にいかようにもその法則や現象を操ることができ、また組み替えることも自在である。
思念だけで天変地異を引き起こし、想像だけで不可能を可能とする。
この場においてまさしく彼女は造物主、世界を改竄せし神のごとき存在。
「黙って死んでいなさいな。その小うるさい口を閉じてあげましょう」
「っァ……!?」
またひとつ世界が彼女の手により塗り替わる。砂遊びでもするように容易く。
今回は喪失――この世界から空気が消えた。
当然、そうなれば生物的な摂理に従い阿沙賀は呼吸ができなくなる。酸欠の苦しみを味わうことになる。
「か……は……っ」
みるみるうちに顔が青く染まり、思考が蝕まれ、命の灯火が消えていく。
膝をつく阿沙賀に、アティスは容赦なく凍えた炎を差し向ける。
炎に呑まれれば全身は凍り付き、指先から壊死がはじまっていく。体内にすら入りこんで臓腑を焼き凍えさせ、血液一滴まで冷却させる。
絶対零度のごとき冷却の炎は、無酸素の中でも轟々と燃え盛っている。
◇
「これはまずいね」
そう思うんならさっさと手を貸せオモワレ!
「そうだね、今の君は随分と死にたくないようだし……よほど彼女が気がかりかい? おっと、彼女たち、かな?」
無駄口叩くな、いいからどうにかするぞ!
「もちろんさ。彼女が世界を思うがままに変えるのならば、君だって自分を思いのまま――存分に行きな」
◇
――『■■■■■■■』
◇
「っ、おぉぉりゃァー!」
炎に触れることはできないとか、膨大なエネルギーに対抗するなどありえないとか。
酸欠とか凍り漬けとか死に掛けとか。
そんな理屈を笑い飛ばすがごとき理不尽。
全部まとめて拳ひとつで吹き飛ばし、阿沙賀は立ち上がる。
アティスは最大の警戒をもってそれを叫ぶ。
「っ、出ましたわね。厄介、理不尽――ふざけた顕能ですわね!」
「やっぱりこれ、顕能なのか」
「見るに、そのようですわね。信じがたいことですが」
ここは未だに酸素なき世界。
火炎が消えても冷気は残る極寒でさえあり、人どころか悪魔さえ生存不可の領域である。
なのに阿沙賀は平然と立つ。普通に声を発する。
壊死した部位も綺麗に元通りで凍傷さえも残っていない。
それは条理を覆す力の恩恵に他ならず、アティスほどの大悪魔の見立ては間違いなく――阿沙賀は人類初の顕能を行使していた。
「物理を覆し現象を吹き飛ばす――ならば」
アティスは事前から阿沙賀のそれを知っていた。ゆえに驚きも最小限に攻撃の手を緩めない。
大重量で押しつぶしても駄目。冷気で肉体に訴えても駄目。触れないはずの炎で焼き凍らせても駄目。見えない空気供給を断っても駄目。
次の一手は、だからそれらと次元の違うもの。
ぐにゃりと。
ぐしゃりと。
「――あ?」
阿沙賀は歪んだ。
それはどこまでも一方的で理不尽なる空間圧縮。
まるで絵の描かれた紙ペラをぐしゃぐしゃに握りつぶして丸めたような、文字通り上位次元からの圧殺だ。
絵が人間を害することなどありえないのと同じように、ごく一方的で回避も防御も感知も不可能。
空間術を磨き上げて極めた先にある、ひとつ上の次元からの攻撃である。
見えざる手のひらが阿沙賀という現実の存在を空間の上からまとめて握りつぶす――
「ぐにゃぐにゃウゼェ!」
「なっ!?」
ならばその上の次元とやらへ干渉ができさえすれば、逆に食い破ることも可能ということ。
阿沙賀の拳は既にその域にあり、潰れかけた空間を殴って砕いて災難を免れる。
ありえざる暴虐にアティスでさえ呆気にとられる。
当の阿沙賀は手を開いて閉じて感覚を確かめながら、素朴に問う。
「ちなみにどんな顕能かってのは、見てわかるもんなのか?」
「……人の魂などわかるはずがないでしょう」
「そりゃそーか」
阿沙賀だってよくわからない。
自分が一体どんな力を有しているのか、この顕能の名前さえ不明なのだ。
そしてその力をよく知る悪魔からすれば、名を知らぬことは致命的である。そして最大の恐怖でもあった。
「ですが……貴様、それの名を知りませんわね?」
「知るわけねェだろ。さっきまで顕能かどうかも怪しかったンだぞ」
「ではまだ未覚醒、その出力で……ふざけておりますわ」
顕能は覚醒の際に自ずからその名を天命のごとくに閃くもの。
自己の魂を顕わとする瞬間に、世界に宣するように。
その名をもって顕能は顕能として正しく成立するとされている。
つまり名の欠けた力など、まだまだ顕能の本領に達していない。よくてその片鱗、本質の一端に過ぎない。
オモワレがかけた制限――彼は阿沙賀から顕能の名を忘却させることで力を抑制しているのである。
それでこれほどの不条理を見せつけてくるというのだから恐ろしい。
当人はあっけらかんと。
「ま、いいや。ともかくこれでオメェを殴れそうだな」
「……っ」
ふっとアティスの姿が掻き消える。正面からの激突を不利と見て一時的な撤退を選ぶ。
しかし。
委細気にせず阿沙賀はその場で拳を振り下ろす。
莫大な魔力、不明の顕能、そして阿沙賀の怒りの籠った一撃は確かに狙い通りに着弾した。
ばきん、と。
なにかが壊れる音がして、虚空にヒビが走る。ヒビ割れは瞬く間に広がり裂傷となり、最後には耐えかねて砕け散る。
世界が、砕け散ったのだ。
アティスの造り上げた亜空間。
それはレイヤー構造化されており、ひとつの亜空間上に複数の階層を有する。上位層から下位層への干渉は可能だがその逆はできない。
ひとり最上層にアティスは君臨し、六つの世界を下に敷く七階層で構築されていた。
特にその最下層に阿沙賀を押し込み、アティス本体とは実は空間的に遠く離れたところで対峙していたことになる。
その次元の壁を、空間的な距離を、阿沙賀は打ち砕いたのだ。
それは言うなればアパートメントの壁をすべてぶち抜いて吹き抜けにしたような暴挙。建物自体に傷ひとつつけない手管は見事だが、めちゃくちゃである。
七つの世界ごとひとまとめに粉砕することで逃げ場をなくす算段であったが、同時に。
この空間内に存在していた面子全てが一堂に会することとなる。
遠凪と遊紗、ニュギスとジュガー、そして阿沙賀とアティス。総勢六名。
「阿沙賀、と誰――敵か!?」
「っ、先輩!?」
「契約者様……」
「随分と乱暴な方だ」
「わたくしの世界を……! なんという粗暴で下品な!」
無論、逃げようとしたアティスすら引っ張り出すことに成功し、間合いに収める。
その場全員の反応を無視して阿沙賀は既に殴りかかっている。
アティスは空間増設と転移を同時に発動し、紙一重で回避――否。
「くっ、このわたくしに傷を」
紙一重で回避し損ねる。
けれど間合いは広げた。阿沙賀が一足で踏み込めるより、わずか外。
追撃の一撃が届く寸前で、それを行使できる猶予あるギリギリの彼我の距離。
「やはり、貴様のような存在と直接争うのは危険ですわね」
「っ!」
なにかヤバイ。
阿沙賀は直感的にそれを理解して、しかし間に合わない。そういう間合いを奪われている。
「おいでなさい、我が臣下たち。我が命に応じて敵を討て」
『――はっ! 我が姫君!』
そう、世姫アティスは姫たる者。そもそも戦う役目にない。
自らで敵と争い討つ戦士でもなく、誰かに差配されて動く駒でもない。
それらを従えて命ずるような、悪魔の上に立つ悪魔である。
「なっ、召喚……五柱同時に!?」
異界とつなぐゲート、それをイの一番に理解できたのは専門家である遠凪。
今、人間界と魔界との間に門が開いた。
その門を潜って、強大な悪魔が現われいずる。




