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アサガニシガ一阿沙賀と悪魔と大江戸学園七不思議  作者: ウサ吉
第三幕 阿沙賀と御霊会と厄介大悪魔
64/115

64 人界魔王


「こちらになります、阿沙賀様、遠凪様」


 その日は随分と早くから目が覚めた。

 緊張して眠れなかった、なんてことはなく、ぐっすりとよく眠れたせいで寝覚めがよかったらしい。

 とはいえ予定時刻からするとそう猶予はない。外で待っていようと手早く準備をして、朝食も済ませたらいつかのようにノックがあった。

 それはまるきり二週間前の時と同じであった。

 ドアを開ければ案の定メイドのメリッサが挨拶をくれて、遠凪もまたそこにいる。もはや驚くこともなくそのまま玄関を出た。


 遠凪とふたりでメリッサの案内に従い、車に乗り込み、迅速に出発。

 前日まで精を出していた学園祭の準備とは一旦切り離し、これからはじまる非日常の戦場へ向かう。


 移動の間、阿沙賀も遠凪もほとんど無言であった。メリッサもまたその空気を読んで静かに最低限の事項のみを口にする。



 対話に費やせる時間は五分。

 その間は他の御霊会には手出しさせず、結界内にもいれない。

 リアと志津と彼女らの悪魔のみを結界内で護衛に置く。

 説得に成功したら右手を挙げる。

 失敗した場合、その他危機を感じた場合は左手を挙げる。

 こちらでも状況は観測するが外部には漏らさない。

 場合によって即時介入も視野にいれている。



 などの説明を受けながらも車は進み、気が付けば街中を外れどんどんとひと気のない方向へ。いつしか道さえなくなり、木々におおわれた山道を進む。

 どこまでか行けば遂に車での侵入すらできなくなり降車、メリッサに先導されて拓けた場所に出る――


「あ、阿沙賀くん、遠凪くん。おはようございます」

「……リア。おう、はよさん」

「おはよう、リアさん」


 そこには大軍が居並ぶ……というこもなかった。

 いたのはリアとそれから甲斐田・志津だけ。先の説明の通り、こちらは別働隊で人数は絞っている。


 志津はすぐに細い目をこちらに向けて。


「今日はすまなかったね。なに、あんたらの仕事は最初で終わる。ちゃっちゃと済ませて学園に戻んな」

「…………」


 随分と気軽に投げかけられた言葉に、阿沙賀も遠凪もうまく返答はできなかった。

 返答がなくとも志津はキビキビと。


「メリッサ、あんたは事前に話したようにふたりに付きな。はしゃぐなら力づくでもいいからね」

「承知いたしました」


 顎を引くように頷けば、再びこちらに視線を向ける。


「さて、ガキども準備はいいかい。そろそろ時間だ」


 言うと志津は当たり前みたいに虚空に指を通す。そのままくるりと回す――まるでドアノブを捻るように。

 するとなにもないはずのそこに見えない扉が発生、そして開放されたのが遠凪にはわかった。

 この山一帯に強力な結界が張られているのは遠目でも理解できていたが、こうもごく自然に啓術行使をできることには驚いた。

 まるで手足を動かすように違和感が一切なく、ただ当然と啓術を使いこなす。

 年季のいったと言えば一言で終わってしまうが、その練度は遠凪をして瞠目に値する。


 一方で阿沙賀にはそうした術の機微などわからない。

 なにかやっている、程度であって扉にすら気づけていない。

 だから動作よりも言葉に反応して、ちょっと気にかかっていたことをこの際に言っておこうと決めた。


「準備……ん。ちょっと待ってくれるか」


 一言言い置いて、振り返る。不服気に唇を尖らせて。


「おいこら、ニュギス」

「え」


 急に水を向けられたニュギスは不思議そうに首を傾げる。

 今朝から道中に至るまで、どこかギクシャクとして互いに言葉は向けていなかった。

 だからこれは、今日最初の会話。


「どうしたよ。なんかオメェ……楽しそうじゃないぞ」

「……それは」

「いつものオメェなら笑ってるはずだろ。なんでちょっと不満そうなんだよ」


 いつも無暗に笑って見守っていた少女の、口角が下がっている。眼差しが憂いている。

 そんな風にニュギスが不満そうだと、阿沙賀もまたどこか納得がいかない。今のありさまに、かすかな違和感を覚えてしまうのだ。


 そこを指摘されるとは思わなかった悪魔の少女は、ちょっとだけ意外そうにして、すぐに目をそらす。


「それはその……」

「言えって」

「ええ」


 観念したように、ニュギスは目を合わせなおす。

 それでもやはり言いづらそうにして。


「なんといいますか、その。なんとなく収まりが悪いといいますでしょうか。喉に小骨が引っかかっているといいますか……解釈違いを感じておりますの」

「? 解釈違い?」


 なんだそれと問いを続けることはできなかった。


 ――――!!


「っ!」

「これは……!」


 烈風のごとき魔力圧がこの場の全員を襲う。

 妖しくも悍ましい冷風は凄烈、魂を冷まし肉体には本能的な震えを及ぼす。

 それは先ほど開いた扉から発せられる強力な、しかし指向性なき敵意である。


「勘付かれたね」


 誰に、などという問いは不要であろう。

 この結界内には現在、たった一柱の悪魔しか存在しない。

 そして、全封鎖されたはずの結界に綻びが生じたことでそちらを出口と意識を向けられた。

 それだけで身の毛もよだつような怖気を周囲に振りまく。敵は最悪の怪物であった。


 なににせよ猶予はない。

 会話が途中であろうと、準備不足であろうと、もはや突き進む他に道はない。

 志津は手短に告げる。


「いくよ、あんたら。奴さんは待ちきれないみたいだ――さっさと訃報を伝えてやりな」


 そして願わくば、消沈ののちに静かに帰郷してもらってくれ。



    ◇



 飛び込めばそこは不毛の世界。

 内装に気を配る必要がないとはいえ、こうただ無限にだだっ広いだけの殺風景はいかにも作り物めいている。

 それは複数人での結界展開において下手に齟齬が生まれないようにと最低限の最小公倍数を折衷する必要があるためだ。

 結界の情報が少ないだけ連携が楽になり、構築強度にリソースを割り振れる。


 約百名の御霊会の啓術使いによる結界は――現状という注釈はつくが――確かに公爵ヘルツォークの悪魔を封じ込めることができていた。


 そして無論、障害物さえなにもないそこに降り立つ人間がいれば――先客からすれば注目してしまうのは道理だろう。

 逆もまた然り。

 このなにもない世界でただひとり佇む悪魔を、阿沙賀たちは間違えようもなく発見できる。


 その――

 その男は――

 激烈にして猛烈な、憤怒を纏って立っていた。


 深い紺に近い黒髪は長く、上背はあるが細身で華奢、その顔立ちも中性的で一見して女性にも見えた。

 だがそんな華やかなはずの容姿はすべて台無し。夜叉面でも被っているが如く怒りのままに固まってその形相に変化がないのだ。

 燃え上がる瞳は血走って、今この瞬間でさえぎょろぎょろと忙しない。なにかを探し求めているように。

 常に激怒して、常々怒り狂って、遂にはなにもかも巻き込んで爆発してしまいそうな……そんな憤慨の悪魔であった。



 彼こそがグウェレン。

 人界魔王にして大江戸・門一郎の元契約悪魔。

 人間界に座する四柱の公爵ヘルツォーク、そのひとつ――隔断カクダンのグウェレンである。



「――――」


 その存在を一目見た。

 その存在を認知した。


 ただそれだけのことで、阿沙賀はすべてを悟ってしまう。

 横合いで泣きそうに顔を崩す友人を見て、理解できてしまう。


 あれは理不尽そのものだ。

 歩き思考し叫ぶ理不尽の権化。

 どうしようもなく、抗いようもない、一方的かつ想定外なるもの。


 あれはまずい。


 試胆会などよりも。

 竜人ドラゴンなどよりも。

 これまでで巡り合ったなによりも。


 あれは危険だ。どうしようもない。


 在るだけで勝利の予感を掻き消され、逃げる以外の道を塞ぐ。

 自然に身が震え、心音が馬鹿みたいにうるさい。頬をつたう汗が氷のように冷たくて皮を削いでいる気さえする。

 視点が定まらない。見ていたくない。けれど目が離せない。瞬きひとつの合間に死んでいておかしくない。

 

 この感情の名は知っている――恐怖。


 いや感情でさえない。理性でもありえない。それ以前の本能がそのように結論付け、決して変わることのない答えとして心中に刻みつける。


 燃える炎に触れれば熱い。

 水底に沈めば息ができない。

 巨大なものがぶつかれば圧し潰される。

 そんな当たり前の事実と同じく、そうなる前から知っている。理解を強制される。


 ただ見ただけで、その恐怖を押し付けられた。


 あぁたしかにこれは――

 まさしくこれこそは――



 魔王である。



「…………」

「……」


 最大級の警戒に沈黙する阿沙賀の肩を叩いて、遠凪は恐れを抱きながらも勇気を振り絞ってそれに歩み寄っていた。

 反射で追いかける手が虚しく空を切る――当初の予定通りに、遠凪はグウェレンにひとりで相対する。


 遠凪はゆっくりと歩む。

 強い向かい風でも吹きすさんでいるように足取りは重いが、それでも前へ進んでいる。

 このプレッシャーの中で動けるだけでも、それは百万の重石を担ぐより困難な偉業に思えた。恐怖に顔を歪めずしかめ面を維持して向き合える者はこの世にどれだけいるのだろう。

 ましてや会話に持っていける人間などは、今や彼以外に存在しないのかもしれない。


「貴様は……」


 そして遠凪が歩み寄ることを許しているのは、グウェレンのほうにも困惑が生まれていたからだった。

 その外見に、その魂に、その瞳に。

 垣間見るのはかつての――


「オレの名は遠凪・多々一」


 名乗り上げは威勢よく、とはいかなかったが、震えも怯えもなく発声できたことを、遠凪はひどく安堵していた。


 そう、自分は大江戸・門一郎ではなく、遠凪・多々一というひとりの人間。

 だが同時に。

 独立したひとつの魂でもありながら、それは受け継がれし血筋を否定するものでもない。


 意を決して、それを告げる。


「――大江戸・門一郎の孫だ」

「! そうか……門一郎の、血縁か……」


 グウェレンが強く反応する。圧力が増す。挫けそうだ。

 それでも遠凪が立っていられるのは、背中を見つめる友人の存在があったから。

 阿沙賀の前で不様をさらすのは、なにがなんでも嫌だった。


 そんな健気にも精一杯に胸を張る男の姿を、グウェレンは細かに観察している。

 予想外の存在の出現に、人界の魔王も態度を決めかねているように思えた。

 少なくともここ一か月の間、争い続けた御霊会のメンバーには一切見せなかった顔色であり、動揺でもあった。

 値踏みするような視線にさらされながら、遠凪は決して目を逸らすことなく真正面から言葉を投げる。


「あんたには伝えなくちゃいけないことがふたつある」

「……聞こう」


 見た限り門一郎の孫であることに疑いの余地はない。

 ならば他全ての有象無象とは異なった存在であろう。

 ほんのわずか気にかかる……現在のグウェレンから遠凪への評価はそんなところであるが、それでも言葉を聞くだけの評価ではあったらしい。

 とりあえず第一段階はクリアと見ていいか。


 言葉が通ずるのなら、第二段階。

 

「ひとつ――じいさんは、大江戸・門一郎は既に亡くなっている」

「…………」


 果たしてグウェレンは――


「それは。本当、なのか……?」


 愕然としたような問いかけだった。

 聞く耳もたずに暴れ続けているという話からすれば、随分と意外な反応である。

 迷子が行先を訊ねるように、グウェレンはいう。


「門一郎は強い。誰にも負けない。死ぬはずがない。

 あらゆる悪魔を従え、人間としての寿命などという些少に縛られるわけがない。

 心の在り方でさえ自死を選ぶような低劣とは違う。崇高で広大で、揺るぎなき魂を持っていた。

 その門一郎が、どうして死ぬという?」

「人としての死を、自ら選んだからだ」


 遠凪は、祖父の最期を家族とともに看取った。

 満足そうな死に顔を、今でも鮮明に思い出せる。


「たしかにじいさんならきっと悪魔にも近しく生き永らえることができただろう。公爵すら真っ向倒せる戦力をもっているんだから誰かに殺されることもありえない。自殺の選択も、あの性格じゃたぶんなかったはずだ」


 そこはグウェレンに全面的に同意できる。

 数十年も会っていない悪魔と同じ感想がでてくる辺り、門一郎は最期までその魂のままに生きたということ。


「けど、そういうひとだからこそ、ひとであることに拘ったんだ。

 長く生きることが幸福か? 強い力があれば満足か? 望ましきは誰かの出した答えなのか?

 自殺じゃない、自然な寿命だ。天寿を全うしただけだ――祖父の名に懸けてオレが断ずる、大江戸・門一郎は死んだ。けれど、あれは正しい死だった」

「…………」


 沈黙。

 だが遠凪はその静寂に違和感を覚えていた。

 想定外のリアクションだから、ではない。

 ただその動作や仕草に感情がこもっているように見えないのだ。

 こいつの感情は、だって常にハナからひとつきり。


 気づく――嵐の前の静けさ。


「では、門一郎は……俺を遺し、一言もなく、勝手にこの世から去ったと……」

「!」


 ――ヤバイ。

 遠凪は全力全速力で防御の啓術を編み上げる。


「ふざけるなよ、ふざけるな! そんなことがあるはずがない、ないだろうがァ――!!」


 激怒。

 それは火山の大噴火を思わせた。


 高ぶった感情は魔力を伴って結界内を駆け巡り、閉ざしたはずの外の世界にさえ激震を巻き起こすほど。

 内部の者たちからすれば瞬間的に台風が発生したも同じ。

 ギリギリで全員の防御が間に合っていなければ、おそらく外壁に吹き飛ばされて赤い染みになっていた。


 そんな周囲を気にも留めず、怒りの頂点に達したグウェレンは一人叫ぶ。


「違う、そうじゃない。門一郎は、そんなんじゃない……!

 そんな不様な死に様を、俺の門一郎がするはずかない!」


 門一郎が死亡した事実を認められないのではなく、その死に方にこそ納得がいかない。

 そんなありふれたつまらない結末など断じて認められない。認めていいはずがない。

 自分の信ずる大江戸・門一郎という男は、そんな終わり方を迎えるわけがない。


 その身勝手な言い分に遠凪からも物申したい。


「グウェレン!」

「黙れ大嘘吐きめが!」だがにべもなし「貴様の言うことなど信じるものか! 門一郎は生きている! 死ぬはずがない! 必ず再び相まみえるのだ!!」

「……っ」


 あぁ駄目だ。こいつはもう止まらない。

 もはやあの世の門一郎と顔を合わせ、自分に都合いい結末を与えられない限り暴れ回る。

 たとえもし、この場に門一郎当人が居合わせて説得したとしても、彼の望む姿で望む言葉を語らないのなら偽物と断じるだろう。


 キルシュキンテのように喪失を嘆くのではなく、喪失そのものを否定している。

 デオドキアのようにただ激怒しているのではなく、怒りの本質が信仰のそれ。


 自らの信仰する大江戸・門一郎というありえざる幻想を追い求めて暴走する大災害。

 それが隔断のグウェレンであった。


 敵の理解を深めつつ、遠凪は遮られようとも構わずに自分の言いたいを言う。

 悪魔相手に怯んで自分を押し出せないのは敗北に直結する。


「そうか聞く耳もたないか! けどな、もう一コ言いたいことがあるんだ言わせろよ――じいさんに代わってあんたはオレが倒す!」

「門一郎以外にこの俺を殺せるものかぁ――!!」


 遠凪の生命力が爆発的に膨れ上がり、その周辺に空間のゆらぎが発生。拳を握って術の下準備を完了させる。

 グウェレンはその怒りのままに魔力を嵐のように発散し、見下すように顎を上げる。


 あわやそのまま激突か――そう思われた刹那、割って入る男がいる。

 ふたりの相対に水を差す、無関係の第三者。


「阿沙賀!?」


 ふらりと遠凪とグウェレンの間に阿沙賀はその身をねじ込む。

 両者が気を練り、拳を握って、踏み込もうとした――その寸前での不自然なほど自然な割り込み。

 あまりの急な飛び込みに遠凪などはつんのめりそうになるが、むしろ体は逃げるように後ずさりしていた。


 そのなぜは阿沙賀の身に纏う膨大なる魔力による威圧感。

 遠凪が咄嗟に身を引くほどの――グウェレンが驚愕し、警戒せざるをえないほどの魔力。

 なにせそれはグウェレンと同等、文字通り公爵クラス。


 ニュギスとの契約――『契約者の要請に応じて契約悪魔は保持する魔力を譲渡する。ただし譲渡する限度は敵対する者の最大魔力量を超過しないこととする』。

 敵が公爵ヘルツォークであるのなら、ニュギスのもちうる魔力ほぼ全ての譲渡となる。

 流石に一括でとはいかないが……それでも現在の阿沙賀の背負う魔力は侯爵フュルストの規模を遥々超えている。


 阿沙賀はグウェレンなんて振り返りもしないで、ただ真っすぐに遠凪を見る。


「説得は失敗した。後ろの奴らも動けねェ。じゃァおれが出張っても問題ねェな?」

「ばかっ、やろう! 問題大アリだ、ここはオレが――」

「間違えるなよ遠凪、命の順位だ」

「は……?」


 急になにを言い出す。

 どうしてこのタイミングで割り込む。

 似つかわしくない表情で、似つかわしくない言葉を――なぜ。


 一瞬にして疑問は乱立するも、阿沙賀はそのどれとして返答はしなかった。

 やはり、言いたいことを言うだけの身勝手。悪魔のよう。


「――おれのために生きるおれが死んでも、それはおれが困るだけだ」

「なっ、なにを言って……!」

「だがオメェは大勢の命を背負ってる。生き延びなきゃならねェ……たとえおれを見捨ててもだ」

「!」


 試胆会の契約。

 遠凪が死ねば全て御破算となって世界が転覆しかねない。

 そんなことはわかりきっている。

 だがなぜ彼にはまるで似合わないそれを今この時に言い始める。


 なにか。

 ざわざわと。

 背中に悪寒が撫ぜつける。


「あさ……ッ!!」

「わり」


 とん、と阿沙賀は遠凪を押した。

 混乱している遠凪はそれに反応することもできず――強大な魔力を伴っての押しのける腕は、軽い印象に反して遠凪の身を強烈に吹き飛ばす。


「がァ――っ!?」


 吹っ飛んで声もでない遠凪は、抵抗空しく結界の果てまで飛んでいく。

 そのままでは壁に激突してしまう。その寸でで先回って一声をいれるのは阿沙賀。この場で意見が一致しているであろう憎々しい相手に。


「キルシュキンテ拾え! そんで帰れ! ここはおれが引き受ける!」

「ち……礼は言わんぞ」


 遠凪との縁故を介して現れた契約悪魔のキルシュキンテは、すべて状況を見ていた。

 この場で最善の行動も、当然に理解できている。


 いや彼女でなくとも、誰も彼もが理解できる。

 どんなわからず屋でも見た瞬間、暴力的なまでに脳裏に叩きこまれる。


 ――あれには勝てない。


 負けず嫌いの阿沙賀でさえもそれを確信できてしまって。

 そしてその結論が出たのなら打つべき手立ては撤退の他になく、撤退にしても非常に困難なのは明白だった。

 これほどの不吉を予感させる怪物が、やすやすと逃げの一手を許してくれるはずがない。


 ならば――誰かが奴を足止めする必要がある。


 阿沙賀がそれを買って出る。

 キルシュキンテによって結界の外へと追放されていく遠凪を見届け、さてと正面――グウェレンに向き直る。

 先手必勝の、口撃。


「――おれの名前は阿沙賀・功刀だ」

「……ふん」


 名乗りに返す価値もなし。問答するほど興味もない。

 グウェレンは口も開かずただ見据えるのみ。

 しかして視線は逸らせない。名乗る男に釘付けになってしまっていることが苛立たしい。


 返る名乗りも言葉もないことに、阿沙賀は見るからに落胆する。


「無視か。あーオメェがなんで門一郎にフられたのか、なんとなくわかった気がするぜ」

「……なに?」


 それはグウェレンにとって聞き逃せない言葉。


 門一郎のことだから……だけではない。

 そういう気の惹き方をしてきた御霊会の者は幾らでもいた。全て無視して踏みつぶして来た。

 だが膨大な魔力を纏う阿沙賀は、遠凪とは違う意味で捨て置けない。

 こいつの牙は、グウェレンにさえ傷を与えうる。そこらの雑魚のように取り扱っては火傷しかねない。


 阿沙賀はニュギスの魔力でなんとか注意を惹き、その上で言葉でもって挑発する。


「ノリが合わねェンだよ不粋野郎。オメェは自己中心的すぎる。自分しか見てねェつまんねェ」


 とはいえいつものように、それは阿沙賀の本音でもあって。


「おれも自分本位なほうだが、それだって自分だけじゃねェ。誰かと遊ぶことが楽しいンだ。そこはたぶん大江戸・門一郎とも同じ意見なんだろうぜ。だから次はノリのいい試胆会メンツを集めた」


 こいつは、グウェレンという悪魔は、自分しか見ていない。

 鏡の前で悦に浸って叫び散らかす哀れな怪物。そのくせ鏡越しにいないはずの幻影を見ている。自分という鏡の枠に収めた、自分に都合いい門一郎だれかを妄想している。

 その妄想を本物と勘違いし、本物を偽物と断ずる。度し難いほど愚かな独りよがり。

 信仰しているつもりになって実際は穢しているだけの破綻、その上八つ当たりに他のあらゆるを害しているなどと――気にくわない。


「一人遊びの独りよがりならひとりでやってろよ。他人を巻き込むな、厄介ファンがよォ」

「出しゃばったのは貴様だろうが!」


 怒号とともに踏み込み、拳を振り下ろした。

 ただの愚直な殴打ストレート。それだけで結界がひび割れ、周辺空域に裂傷が走る。

 次元をも揺るがすその破壊力を、しかして阿沙賀は腕をクロスして受け止めている。


 互いの力の一端を了解し合い、手早く終わることはないと理解を共にする。

 グウェレンは苛立たし気にいう。


「……邪魔をするなよ、慮外者。俺は門一郎の孫と話していたのだ」

「はっ。ちげェな。間違えンなよ……あいつは遠凪・多々一だ」

「そんな単一の名称などよりも門一郎の血脈であることのほうが重要であろうが」


 当然のように断ずるグウェレンに対し、阿沙賀の瞳は針のように細くなり、口元の笑みがつり下がる。


「……大江戸・門一郎は嫌いだが、安心したよ。オメェも大嫌いになれそうだ」

「ほざくなよ。この場にある時点で場違いであろうが。貴様、啓術に関する才能が一切皆無だな?」

「なんだよ、人界の魔王サマはそんなこともわかっちまうか。だからどうした」

「魂がまるでひらいていない……そのぶんだけ受け入れるほうに振り切っているようだが、くだらんな」

「なに……?」


 受け入れるほう?

 それは聞いたことのない発言だ。

 無論、追求してる暇などない。


「他者の力で自らを誇る愚者よ、貴様は戦場に立っているつもりか? なんと不愉快な思い違い! 悪魔の力で悪魔を制し、それで貴様が強くなったと、どれだけ恥知らずの勘違いを催している馬鹿め! 貴様はなにもない無能者だ!!」

「おいおい、現状だけ見て根本を見逃してるぞ……そもそもおれが公爵悪魔と契約できてるってことはよォ」


 割と的を射ているし、阿沙賀に反論の余地はない。

 けれどそこで黙っては口喧嘩にならない。

 棚上げにして話を別方向に――グウェレンの嫌がる方向に逸らす。ドラゴンよりもわかりやすいその逆鱗、ぶち抜いてやるよ。


「その分野において、おれは大江戸・門一郎に匹敵するってわけだ?」

「ふざけるな慮外者がァ!!」


 怒声は爆発のようだった。

 怒りと比例して発散される魔力は遂に結界を砕き去り、だがすぐに別の術者が寄り集まって結界を張り直す。


 そんな周囲の苦労など知らず、中心のふたりは戦闘をはじめている。



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