63 星のしたで密やかに約束を
『星がきれい!』
遊紗は随分とマメにメール連絡をとってくる。
気分がよければ挨拶を――おはよう、こんにちは、おやすみまで。
なにか物珍しいものを見つければそれを――虹の写真、友人とのエピソード、可愛らしい猫の動画やら。
本当に些細な日常会話――いまなにしてますか? アタシは寝る準備! 今日こんなことがありました!
不快にならない程度を見極めて連打したりもせず、けれどふと気づけば大抵は未読メッセージがスマホに映る。
なんならこちらが返答せずとも気にしないらしく、言いたいことを言いたいだけらしい。気分じゃないなら返信しなくてもいいと直に言われている。
一方で筆不精とまではいかないまでもマメとも言えない阿沙賀は、その対応にいつも四苦八苦していた。
返信しなくてもいいとは言うが、全部を全部無視するというわけにもいかない。
とにもかくにも相槌を打って、感心して、困惑して、なにかしらの反応は返している。
お気に召しているかはさだかではないが、不愛想な返しにも喜色が滲んだ文面でまた返信がくる。
そして今回。
「…………」
文字を視線でなぞって理解及べば、阿沙賀はとりあえず体育館を出た。
いつもよりずいぶん遅い時間帯で、季節柄すでに外はとっぷり夜更け。ハードな運動に火照った体には涼やかで心地よい。
未だに騒がしい廊下をひとり突き進み、一番に教室に帰ってはさっさと体操服を着替えてしまう。
他のクラスメイトが戻って来たころには制服姿で誰より早くカバンを引っ掛けお先に失礼させてもらう。
その足で向かう先は階段であるが、下降せずに上り階段へ。
学園祭準備期間のため随分と後ろに伸びた下校時刻もそろそろ迫っていて、すれ違う者はいても前を行く者はいない。
長い階段をひたすら上り、最上階。重い鉄扉が遮るも、阿沙賀は躊躇なしにそれを開いて再び外へ――屋上へでる。
風が吹いた。
「……あれ、先輩?」
「おう」
そこにはひとりの少女がいた。
夜の闇にも輝く金色を放つ、星のような少女――大江戸・遊紗である。
「え……。なんで? なんでここに?」
思いのほか驚いている遊紗に、阿沙賀は笑って。
「なんとなく、呼ばれた気がしてな」
あの文面を見た瞬間に、なんとなく直感できた。
遊紗は屋上にいるだろうと。
そして、自分に来てほしがっていると。
阿沙賀の言葉を噛みしめるようにして二度の瞬き。それから破顔。遊紗はとてもとてもうれしそうに笑った。
「うん。そう……だね、うん、呼んだよ。待ってた。えへへ」
「待たせた」
「ううん。ちょうどよかったよ」
「そうか?」
そりゃよかった。
夜の屋上は明かりがない。
グラウンドを照らすライトの輝きと、空の月と星々の頼りない光だけが闇を遠ざけてくれている。
あまり離れると表情も読み取れそうになく、阿沙賀はフェンスに寄り添う遊紗に近づく。しかし近づきすぎても今の阿沙賀は汗臭いだろうし、三歩分程度の距離を保って隣に。
屋上から見下ろせば、グラウンドでは大勢の生徒たちが各々の目的をもって走り回っている。
荷物を運んであっちこっち。
未だになにか運動しているのはなんの出し物だろう。
妙に広範囲で白線を引いているが、あれはまさかナスカの地上絵だろうか?
「ふふ」
横合いから楽し気な声が聞こえた。唄うような笑み。
疑う余地もなく遊紗のもので、阿沙賀はひょいと顔を向ける。
「どうした」
「んーん。ただね、こういう雰囲気、すきだなぁって」
「まぁ、楽しいよな」
お祭り騒ぎのその準備。
来たる本番への期待と高揚、着々と形になっていく出し物、そしてそれを共有するみんなの笑顔。
いつもとは、違う学校。
渦中にあってのめり込んでいて、楽しくないはずがない。
「そういえば先輩のクラスの出し物は……」
言いながら、なにか気づいてちょこっと不満そうに一歩距離をつめる。
阿沙賀はそれに応ずる形で下がって距離を保つ。すると遊紗の不満の目つきがさらに尖って、阿沙賀は頭を掻く。
「いや汗臭いぞ」
「気にしないもん」
そういわれてもな、と思う。
遊紗はこっちの言い分も知ったこっちゃないとばかりずいと近づく。肩が触れそうなほどの距離。
阿沙賀は肩を落として、もうこれ以上の後退はやめておいた。気恥ずかしい部分もあるが、まあ我慢。
それだけでうれしそうになって、遊紗はいう。
「そんなに汗かくくらい動くって、先輩のクラスの出し物は……もしかしてダンスとかかな」
「おー、すげェな。その通りだよ」
急な名推理に素直に驚く。
鋭いと感じさせることは多いが、やはり目ざといと改めて思う。
するとむしろ遊紗が恐縮してしまう。てへりとばかり片目を閉じて。
「えへへ……ごめん、実は知ってた。お兄さんに聞いてたから」
「そういうことか」
「すっごい本格的らしいね。絶対見に行くからね!」
「あー」
すこし言い淀み、若干の強がりを纏って気軽そうに。
「実はおれ、学園祭の初日に用事があってな、来れねェんだ」
「え! そうなの?」
今度は遊紗のほうが大層驚いて、すぐに悲し気な顔になる。
「用事って、それ動かせないやつなんですか?」
「残念ながらな」
「そっか……ほんとに残念」
重い病でも告白されたようにあんまり不憫そうにするものだから、阿沙賀はあえて吹き飛ばすようにおどけて。
「たった一日だけだ。残り三日もある。しっかり欠席分を取り返すくらい楽しんでみせるさ」
「あ。うん。そう……だね」
道端の野花のように小さく笑う。
あまり悲しいを表に出し過ぎると気遣われる。気遣いたいと思っているのに気遣われるのでは本末転倒だろう。
遊紗はことさら明るく。
「じゃあ初日以外に行くね。もうめっちゃ応援するから!」
「いや適度でいいから」
「もう遠慮しちゃってぇ。可愛い後輩の応援だよ? めっちゃうれしいでしょー?」
「それは……そうかもな」
「え」
そこはいつものように煮えくりかえらない返答ではないのか。
素直に肯定されると、ちょっと驚いて――照れてしまうじゃないか。
遊紗の心情を気づいているのかいないのか、阿沙賀は普段通りに話を続ける。
「んで、そっちは? どんな出し物やるんだ?」
「あっ。えぇと」
一瞬言葉を取りこぼすも、なんとか持ち直して。
「きっ、喫茶店だよ。メイド喫茶!」
「……メイド」
その単語で思い起こされるのは二面性のある悪魔、過日の真正コスプレメイドである。
すると遊紗はませた調子で。
「先輩も男の子だねぇ。やっぱりメイドさんが気になっちゃう感じ?」
「いや……さいきん、見かけてな」
「あっ。そうなの?」合点がいったという風に「それって土曜に現れたっていう青色メイドさんのこと?」
「遊紗も見たのか?」
それは間違いなく真正コスプレメイドこと糸々《イトシ》のメリッサであろう。
まぁ、悪魔の美貌とメイドコスチュームでは隠形もなしじゃ目立つだろう。目撃者が複数いてもおかしくはない。
「ん。アタシじゃないけど、クラスの友達がね。
それで、あんまりメイドさんに感動したうちの男子が盛り上がっちゃって、もともと純喫茶だったうちの出し物が急遽メイド喫茶にしようってことになったんだ」
「あー。なるほどな」
なんだか無性に納得できた。
メリッサのメイド姿は男の子のハートを的確に射抜く強力なパワーがあった。メイドさんマジメイドさん。
女子な遊紗はむしろ引いている気もしたが、そこはあまり責めないであげてほしい。
「てことは遊紗も着るのか、メイド服」
「う……うん……」
「絶対行くわ」
「もう。イジワル」
やはり彼女もコスプレは気恥ずかしいのか、だいぶ恨みがましい視線を送られるも阿沙賀は気にしない。
こっちもダンス見に来るということだし、お相子だろう。
そこらへんを踏まえているのか、感情的な納得はできないまでも理性は文句を言うことを控えさせる。ため息ひとつで遊紗はこの話題を横に置くことにした。
それよりも、この流れになった以上は前々から言い出せずにいた提案を投げるべきタイミングだろう。
本当は先ほどのメールで幾らか会話したのちに自然と滑り込ませようとしていたのだけど、こうなった以上は仕方がない。
面と向かって言うのは少々の勇気が要るが……気持ちは伝わるはずだ。
すこし、面映ゆそうに遊紗はいう。
「んと、それでね、先輩」
「?」
随分と言いづらそうにしている。目が泳いで言うべき言葉を探しているように見える。
珍しい。いつもなら言いたいことはぐいぐい率直に言ってくるだろうに。
すこし不思議に思いながらも、阿沙賀は黙って待つことにした。
沈黙の合間はどれくらい経ったか――顔を朱に染めながらも意を決して、遊紗は勢いよくこちらを向いて目線を合わせる。
「その。学園祭の……いつでもいいんだけど」ごくりと唾を飲み込んで「いっ、一緒に見て回りませんか?」
「…………」
ふと、放送が入る。
寂しいメロディとともに下校時刻を伝え、生徒たちに帰宅を促している。
阿沙賀は渋い顔になって言葉を探す。なにか円満に通ずる言葉はないかと。
とはいえそんな便利な言葉など見当たらず、無難に簡素な物言いになる。
「ほかの友達はいいのかよ。家族とか、従兄とかさ」
「……それって体のいい断り文句かな」
「ちげェよ。ただマジで年に一度のお祭りだぜ? 知り合ってやっと一か月って相手を誘うのはだいぶもったいねェだろ」
「……」
もっと近しい間柄の相手がいるはずだ。
これから先を見据えて、もっと深い仲になっておきたい相手もいるはずだ。
なのにどうしてここで阿沙賀・功刀を誘うという。
ゆきずりの仲。幾度か会って話したが、まだまだひと月程度しか付き合いはなく、もっと親しい友は他に幾らでもいるだろう。
本当に、阿沙賀にはわからなかった。
すると小さなため息。遊紗らしくもない、くたびれたものだった。
「先輩って出会ってから付き合っての時間の長さとか気にするみたいだけど」
「そりゃオメェ、過ごした時間は大事だろ。長い分だけ相手を知れるわけだし知られるわけだし」
「そうだね、それはそう思うよ。でも、それだけってわけでもないじゃん」
「うん?」
殊の外、鋭い刺すような言葉に阿沙賀は面食らう。
「気が合うっていうのかな、短い間でもすごく仲良くなれる時もあるよ」
「そりゃ……あるだろうがよ」
「灰色の十年もあれば、虹色の一瞬だってあるはずじゃん。付き合いの長さが付き合いの深さに勝つなんて誰が決めたのさ」
「思いのほかロマンなことを言うぜ」
「出会いにロマンを求めない女の子はいないよ」
しかしとすると、阿沙賀と遊紗の出会いはどれになるのだろう。
屋上で鉢合わせた時か? 遊紗は覚えていない。
賭場で賭けの対象にされた時か? 阿沙賀は知らなかったし出会うとは違う。
では廊下ですれ違ったあの時だろうか。
それとも……まだ真実の意味では出逢ってさえいないのか?
出会いやロマンはともかく、あの時から彼女の笑顔は変わらない。
なのに、今では酷く落ち込んで泣きそうにまでなっている。
阿沙賀のせいだ。
「あんまりそういう理由で壁を作られると、アタシ、ちょっとかなしいよ」
「あー。いやそういうつもりじゃないんだが」
年若い女の子相手への距離感を掴めていない阿沙賀の落ち度。
いや年若いって、一歳差だろうにと思うかもしれないが、この年頃にとっての一歳は――一年は非常に長いもの。
阿沙賀は許しを請う被告人の気分で心情を吐露する。正直な気持ちだった。
「おれは……遊紗、オメェをできるだけ丁寧に扱いたいんだよな」
近しいほど雑に取り扱ってしまいがちな阿沙賀は、だからこそ距離感を大事にしてある程度の間合いをあけている。
少女という属性にどこか脆さを感じ取っていて、特に遊紗は見かけは明るく元気だが、内面には柔い部分があるのを知っているから。
阿沙賀のほうこそ、どこか近づくことに恐れている。
遠ざけたいわけじゃない。
けれど、そんな不用意に身を投げ出されると身構えてしまう。こちらから、かわしてやらねばぶつかるのではと心配になる。
そういう間合いに不満なのは遊紗のほう。言い換えれば、それは心の壁だから。
「でもそんなに恐る恐るじゃ怖がってるのとおんなじじゃん。アタシ、怖いのかな」
「そんなんじゃねェよ。そんなんじゃねェけど……」
壊れものを扱う手つきというより、腫物に触れるようになってしまっていないか。遊紗を、恐れてはいないか。
内実がどうであれ、遊紗の感じるものはそれであって阿沙賀の言い分は言い訳になってしまう。
本音はときどき言い訳みたいになる。
「あー。なんつーか、なんて言えばいいんだ……」
言葉が見つからない。
この心の内を正しく伝える言葉がどこにもない。
だからどうしても拙く、子供のような幼い言葉になってしまう。
「遊紗が怖いンじゃねェ。どっちかって言えば、おれが怖がられるのが、怖い」
「…………なんか、先輩ってわりと感傷的だよね」
「そォか?」
「そうだよ、そう。ぜったいそう」
あまり評されたことのない形容に、阿沙賀はこそばゆそうに受け取って。
それから改めて受け取った言葉を吟味して味わって、結果、少々の意固地であったことを自省する。
「ん。ま。ともかく、悪かったな。自分のスタンスを他人に押し付けンのはよくないって、知ってたはずなんだけどな」
どこぞのドラゴンじゃあるまいし。
「うぅ。それを言われるとアタシがスタンス押し付けたみたいで……すみません」
「謝るな謝るな。オメェのほうが正しいよ。正しい側まで謝っちまったら収拾つかなくなるだろが」
「じゃっ、じゃぁ……」
言われて遊紗は俯いた顔を上げ、阿沙賀を見つめる。
一度スカされた言葉をもう一度。今度こそ、あなたにこの気持ちが届きますように。
「一緒に、学園祭回ってください」
「おう」
「約束ですよ?」
「約束ね。なんなら指切りでもするか?」
既視感ある言葉につい茶化すように肩を竦めると、意外なほど目を輝かせて遊紗は頷く。
「そうだね、指切りしよ!」
「おっ、おう」
むしろ阿沙賀のほうが気後れしてしまって、おずおずと手を差し出せば、すぐに遊紗もまた同じように指を伸ばす。
触れ合い重なり合う小指はこんなにも小さいのに、結ぶ約束はどんなものより固い。
夜空の星々は穏やか、静かに地上を見守っている。
◇
「おれってそんな線引きにうるせェか?」
夜は深まって更け、学園の灯りもどんどん消えていく。
あんなにも賑やかだったひとの気配もほとんどが消えて、残るのは見回りの教師くらいだろうか。もしくは人知れず躍起になって作業を続ける生徒もいるかもしれないが。
グラウンドのライトも落ちてしまえば、屋上に届く輝きは本当に空の月と星だけ。
遊紗を先に帰らせ、阿沙賀はなんともなしにひとりでぼんやり星見をしている。
遊紗が言っていたように、今夜は星がきれいだ。
『そうだねぇ、そういうところはあると思うよ。特に僕にね!』
誰にと向けたわけでもない独白にも鬱陶しいくらいに食いついてくるのは迷亭であった。
いや、阿沙賀もまたどこか返答を期待していたのかもしれない。
そうであったとしても厄介者であることは変わらない。風情ある静寂がやかましい声に打ち崩されて鼻白む。
「そりゃオメェは嫌いだからな。線引きってより断崖絶壁が隔ててるぞ」
『そんな絶壁も僕らの前には無意味だよ。こんなに惹かれ合っているんだ、何度引き離されても元サヤってやつさ。これこそ運命だよね!』
「嘘吐きの口から出る運命ってワードほど薄っぺらいもんはねェなァ」
というか惹かれ合ってねェし、元サヤってもともとかけ離れてンだから元も子もないだろうが。
まるで遠慮のない物言いは、一視点からすれば親密さの証明でもある。
この程度の悪口を言っても言われても、決して仲違いしないと互いに了解している。
些細な一言で決裂するような間柄からすれば、随分と気安く気軽な関係性にも思える。
阿沙賀は大抵の相手にはこのような対応をしているはずだが……どうしてか遊紗にはそうならない。
なぜだろう。
疑問する阿沙賀に、迷亭は苦笑しながらふとトーンを落として。
『とまぁあまりふざけ続けていると嫌われてしまうし、ちょっと真面目に分析してあげると、君のそれは代替え行為ってやつだね』
「代替え?」
『うん。本当に線引きを大事にしてるんなら同じ時期に出会ったメアベリヒくんともそうであるはずだろう? でも、君たちにそういう隔意は見当たらないよね』
「む」
たしかに。
ニュギスに対しては近寄りすぎるなとは思わない。勝手にしてろと彼女の意志に任せている。
今も名が出たことでひょいと阿沙賀の肩に顎をおいているが、べつに放っている。
そこの差異は、要は庇護対象か否かということだろう。
……ふつうは人間と悪魔という種族差を最大の違いと見なすところなのだが。阿沙賀としては頓着が薄い。
迷亭はそこを指摘すべきかちょっとだけ悩んだが、どうせ自覚はないと諦めた。話を進める。
『線引きを大事にしてるんじゃなくて、ほんとうはこっち側――悪魔や召喚士側に、彼女を巻き込みたくないのさ。そこは遠凪くんと同じだね?』
「そりゃそうだろ」
それとこれになんの関係があるという。
気づいていないことこそが阿沙賀の見落とし。
『それで、巻き込みたくないという感情がどうしてもでちゃう。自分に近づくと巻き込まれるって思ってしまう。だから遠ざける。いじらしいけれど、大江戸くんの側からすればただ拒絶されてる気分だよねぇ』
本音は悪魔関連に関わってほしくないのだが、それをストレートに言えず、というか阿沙賀のほうが自覚していなくて、それで代わりにそれらしい理屈で線引きしているだけだと。
理由の代替えだ。
「あー」
納得、できてしまう。不本意ながら。
ただ見透かされたような形が不愉快で、阿沙賀は悪態をつく。
「ち。オメェほんとそういう観察眼はまっとうに優れてンな。腹立つ」
『なんで真面目に考えてあげたのに罵倒されているのかなぁ? もうすこし優しくしてくれてもいいんだよ?』
「オメェはおれの感情把握してンなら嫌われてるってことをもうすこし重く受け止めろ」
『照れ隠しかなって』
「殴りてェ」
この場に迷亭がいたら確実に殴ってたよ。引きこもりやがって。この拳の行き場がないぜ。
いや、行き場ならあるか。
「てことはまたあいつにとばっちりをやっちまったってことか。どうにも……よくねェなァ」
理不尽やとばっちりは腹立たしいとわかっているのに、それを他者に押し付けてしまうなんてダブルスタンダードもいいところ。
遊紗には二度目でもあって、非常に決まりが悪い。
しかもこの件は釈明の余地もなく、説明も許されない。こちら側に巻き込むわけにはいかない。
だからできるのは自分で自分を戒めるくらいで。阿沙賀は拳を自分の額にこてんとあてる。
そして、とばっちりを食らわせた彼女にできることはひとつ。
――学園祭を一緒に見て回る。遊紗の望んだこと。
それを、気兼ねなく実行するには。
「…………」
顔を上げ、天を見上げる。やはり星々がきれいで、吸い込まれそうだ。なのに手を伸ばしても一向届かず、やはりそれは遥か彼方の輝き。
掴めないもの。届かないもの。どうしようもないもの。
なんだかどこかくたびれたみたいに、阿沙賀はため息とともに。
「……なァ迷亭」
『ん、なんだい、阿沙賀くん』
「嘘、ついてくれよ」
『へぇ?』
意外な言葉に興味深そうにする。いつもと異なる語調にわくわくする。
彼の一言一言が心をときめかす。一挙手一投足から目が離せない。
なにせ阿沙賀は迷亭にとって百年待った運命のひと。無二の理解者なのだ。
そんな彼の常ならぬ様子は、それだけでそそる。ささいな変化で心満たされる。
強い君も大好きだけど、弱った君も、また好ましい。
空間を隔てた悪魔の笑みなど見えやしない。
けれど阿沙賀は直感で感じとりつつ、けれど言葉も止めることはできない。
「――おれは公爵の悪魔、隔断のグウェレンには勝てねェか?」
それは弱音だった。
それは挑戦だった。
それは意地だった。
迷亭はそんな複雑怪奇の阿沙賀の心を余さず読み取り、その上でこの上なく嬉し気に甘い嘘を吐く。
『そうだね。きっと……負けるよ』
「そうか……負けるのか……」
「…………」
どこまでもわかりやすい嘘は、きっと相手が阿沙賀でなくとも看破されただろう。ニュギスも複雑そうな顔つきになっている。
いや問わずともわかりきっていた事実でしかない。
阿沙賀は隔断のグウェレンには勝てない。
『メアベリヒくんの力は借りないんだろう?』
「それは前提だ。ありえない」
迷亭は嬉しそうだけど寂し気に。
『だよね、それでこそ阿沙賀くんだ。けれど、だったらやっぱり悪いことは言わない。
阿沙賀くん、立ち向かおうなんて思わないほうがいい、すぐに逃げたほうがいい。学園は消えちゃうだろうけど、境界門は開通するかもしれないけど……命には代えられないだろ?』
そもそも阿沙賀は戦う理由などなかろう。
学園祭を憂いなくとは言うが、そんな程度のことで絶対的な上位者と戦おうとするのは馬鹿げている。
阿沙賀自身が、それを誰よりも理解していて……だから彼の提案は遊紗と、なにより遠凪のため。
「そうだな、命には代えられねェ」
遠凪による説得が失敗したあとを想像してみた。
当たり前のように歯を食いしばって――遠凪という男は勝てない相手にも挑みかかるだろう。
そして順当に死ぬ。なんの番狂わせもなく呆気なく。
そんなふざけた想像をして、阿沙賀は大層立腹した。ならば自分が行くと勝手に奮い立った。
リアとの約束は破ってしまうが……それで遠凪を見殺しにするよりはマシだ。というか先に約束を破るのは遠凪のはずなので、自分には情状酌量の余地があるはず。
――いや遠凪が立ち向かうというのは阿沙賀の、言ってみれば単なる想像に過ぎないのだけど、嫌に強く確信できる未来なのである。
「だからおれが戦うんだ」
『……君は。本当に頑固で人の話を聞かないねぇ。すこしくらい年長者の忠告に耳を傾けてもいいだろうに』
「相手が嘘吐きじゃなきゃな」
『まったく君というやつは……』
やれやれと肩を竦めるような間をおいて。
『たしかに阿沙賀くんならメアベリヒくんとの契約によって魔力量でなら公爵ともタメを張れるだろうさ。遠凪くんよりはまだしも対等に近く感じるかもしれないけれど。
でもね、逆を言えばそれだけなのさ――それ以外じゃ全部で勝ち目がないじゃないか』
魔力制御。
戦闘経験。
魔術行使。
なにより魔魂顕能。
他にも細かく挙げていけばキリがない。
公爵という人界最高位の悪魔と、悪魔に力を借りるしかできない能無しとの埋めようのない差。
「そうかもな。オメェの言葉は正しいだろうよ、迷亭」
反論はできない。もしかしたら本当にそうかもしれない。わかっている。
それでも。
「それでも行くさ。たとえおれが死んでも――その程度じゃねェかよ」
ハナから止まる道はないのだ。
それは転げ落ちるようにも似た性であり、危ういが最短で潔く走るしかできない。
阿沙賀が阿沙賀である以上、それ以外には選べない。
『馬鹿だね。君は。馬鹿だよ……』
たとえ果てには道が途切れていたとしても……終わるその瞬間まで止まることはない。




