56 メイドさん来襲
我レ思う――理不尽とは一方的かつ想定外の強烈な殴打。
理由なく理屈なく、なにより脈絡がない。
相互の理解がありえないほど断絶していて、そのくせなにより鮮烈なものだから見るものを否応なく巻き込む。
まさに青天の霹靂が直撃するがごとし。
驚愕であり脅威である得体の知れないもの。
誰もが神や運命を呪う、それ以外に責を向ける先が不在するふざけた事象。
悪意も善意もないまぜになっているのに、現出する結果にはなんらの影響もしていない。
そんな理不尽に対する術などあるものか。
そんな理不尽に抗する手などあるものか。
なくたって構わない。
殴られたのなら殴り返すだけ。
怒りは理不尽に突き立てるべき牙である。
理不尽への怒りを忘れるな。
神も仏も悪魔さえ――その怒りは止められない。
◇
「見つけた……!」
そこは大江戸学園よりはるか北方。
日本の最北端に近い雪国、人里離れた山奥の、どうしてそんなところにあるかもわからない古びた祠。
そこには一柱の悪魔が存在した。
彼は彼方の先より生じたある小さな反応を感じ取って沸き立った。
一瞬にも満たない、ほんのかすかな名残り。消えゆく残り香のごとき儚い明滅。気づかない者は触れ合うほどに近くても気づかない。
そういうミクロの世界の極小残滓――だがどれだけゼロに漸近しようとゼロではない。
そしてそれが奴の痕跡であるというのなら、彼には掴むことができた。
なにせここ数十年間、ただそれを見つけ出す探知のためだけに全神経全能力を傾注させていたのだ。
文字通り、この惑星すべてを探し続けていた。
そして遂に遂に見けた。
見つけた以上はここに留まる理由もない。
ねぐらにしていた小さな祠を粉砕して、彼は立ち上がる。
周辺に伏せて仕掛けられた、どこぞの三流啓術使いどもの多重感知結界を踏みにじる。即座にその屹立は多方面に伝播されたが、知ったことか。
居ても立っても居られない。
体が疼いて、心が沸き立つ。魂が燃え滾る。
待ち望んだ時は今だと全身全霊で噛み締めて、その悪魔は向かうべき先を睨みつける。
なにが阻もうとも関係ない。
なにが起きようともどうでもいい。
ただそこに彼がいるのならば――この隔断のグウェレンもまたそこにいなければならない。
なぜならグウェレンは――
◇
現在、人間界において存在を確認されている公爵の位階にある悪魔は実に三柱。
公爵とは魔王の存在しないこの世界において最も恐るべき悪魔。実質的な最上位階であり動き出せばそれだけで国がひとつ亡ぶ最大脅威とされている。
この世界内においてという注釈はつけれども、魔界の魔王よりもなお少数の希少であり遭遇できる絶望――それが人間界の公爵である。
ゆえにこのように呼ばれるのは必然であった。
膨大の畏怖をこめ、些少の畏敬を摘まみ、高らかな警戒警報を含めた人類からの異名。
人間界の魔王――人界魔王と。
「待っていろ、すぐに行くぞ――大江戸・門一郎ッ!!」
隔断のグウェレン。
不動にして不可解の公爵として世界最大の警戒を集める悪魔――彼は人界魔王にして、大江戸・門一郎の元契約悪魔である。
◇
そして厄介に過ぎる大悪魔の出立よりおよそ一か月後の昼下がり――
「…………」
大江戸学園、その門前にて校舎を見上げるひとりの少女がいた。
少女の出で立ちは日中の街中において非常に奇異で目立っていたが、当の本人はそんな視線など意に介さず完璧な微笑をたたえている。
クラシカルなロングスカートはどこまでも深い黒。
相反する純白のエプロンドレスに襟とカフスが輝かしい。
そして冠がごとく堂々と頭上に戴くホワイトブリム――その服装の名をメイド服という。
日本の亡びを防ぐため――メイドさんはこの百鬼夜行の大江戸学園へいざ参るのである。
◇
――こんこん。
控えめなノックが戸を叩く。
そのドアは大江戸学園学生寮、無数に並ぶうちの表札に阿沙賀とある部屋であった。
「んァ……?」
音に反応してか、もぞりと毛布にくるまったなにかが蠢く。
眠りこけている家主、阿沙賀・功刀である。
土曜の午前なんてものは学生にとってぐたぐだと微睡むためのひと時と決まっている。
それは阿沙賀にとっても同じであり、一週間の学業という試練を超えて得た休息の時間を余さず堪能するべく布団という聖域に閉じこもっている。
とはいえ、ノック。
聞こえてしまった以上は無視もできない。
億劫そうに右手を伸ばし、とりあえず携帯電話を掴んで画面を表示。
現在時刻確認――十時十二分。
「いや早ェよ、もっと寝かせろよ、常識弁えた訪問して欲しいわ」
「いえ、とても怠惰な性情を慮った時間帯に思えますが?」
布団の外には、宙に浮く少女がいる。
美しさを全身で発散しながらも、その相貌に飾られた表情は愛らしくていとけない。
高貴な仕立てよいドレスを平服として着飾ってなんらの違和感もなきお姫様。身の毛もよだつ恐怖を潜ませた眼球は金色に彩られて吸い込まれそうになる。
美麗と愛嬌を矛盾なく一杯に詰め込んで欲望の隠し味を混ぜたが如き悪魔の少女、恣姫ニュギスである。
ニュギスは悪魔のくせにごく常識的に怠けた態度の契約者に言う。
「だいだい翌日が休みだからと夜更かしをするからいけませんの。夜更かしの原因にしても面白味のないB級映画の鑑賞って、絶対寝ていたほうが時間の活用としては有用でしたでしょうに」
「うるせェ。オメェはおれのオカンか」
「ちょっ……! うら若き乙女に向かってそれは侮辱でしょう!」
「というか悪魔の若いって幾つまでなんだ?」
「えっ、えー? それはその、心の持ちようと言いますか……明確な線引きはしないに越したことはないデリケートな問題ではありませんの?」
三十路あたりになって自分が若い世代か老いた世代かで悩みだすみたいな話である。
下からすれば充分におじさん、おばさん。しかし上からすればまだまだ若造という微妙な立ち位置。
――こんこん。
などと未だ布団の中で駄弁っていれば、続く二度目のノックが響く。
その繰り返されるノックはやはり控えめで、すこしばかり阿沙賀は不思議に思う。
同じ寮の馬鹿どもなら、もっと乱暴な打撃になるはずだ。なんなら大声あげてはよ起きろと騒ぎ立てるだろう。
寮外の面子であればエントランスでインターフォンを鳴らすはずで――はて、ではこのノックの主は誰であろう。
多少の疑念は好奇心にも似て、渋々ながらも阿沙賀の身を起こす理由になった。
毛布を蹴散らし立ち上がる。
寝巻であること、寝ぼけた顔つき、寝ぐせの放置――身だしなみを一瞬だけ気にしたが、すぐにまぁいいかと放り捨てる。
この阿沙賀・功刀、起き抜けだろうとなんだろうと自らの有様に一切の恥ずるものなし。
あっ、いややっぱノーパンだけは恥ずかしいわ……。未だに慣れない……。
下半身の寂しさを今日も感じながら、ともかく決めたが早いのがこの男。
欠伸を噛み殺しながら玄関に向かって、特に気も払わずにドアを開く。
「はいよォ」
そこにはメイドさんがいた……。
「……は?」
それは確かに青いメイドだった。
最初は髪色が青いと思ったが、それは内側だけだとすぐに気づいた。インナーカラーというやつで、外側は落ちついた黒。
ただインナーカラー、瞳の色、そしてアイシャドウに爪まで同じ濃い青で彩られ、その色が印象づくのは道理であろう。
その上で流れる長髪に冠とばかりにホワイトブリムが飾られる。
豊満な肢体を禁欲的な黒の衣装で包み込み、純白のエプロンがその清廉さを訴えかけてくる。
容姿は上等、着こなし完璧、青い瞳の視線は一切揺らがない。背中に芯が入ったように不動の直立姿勢を保っている。
そんな場違いなほど圧倒的な完成度、コスプレなどとは言わせぬ風格――断言して彼女はまさしく青いメイドであった。
さしもの阿沙賀も急展開というか突拍子もない登場に硬直してしまう。
どう想定すれば日常風景にメイドさんが飛び込んでくるという。ありえないだろう夢を疑うほうが正気に近い。
しかして絵物語から飛び出して来たようなどこからどう見てもメイドさんはそこに存在する。いくら観察しても変わらない。夢幻のように消えたりもしない。
そこにはメイドさんがいた……
「いや、ほんとどなたですかァ!?」
「思いのほか動揺していますのね、契約者様」
彼が敬語になるのは大抵精神的に気圧されている時である。
当然、そんなごく狭い世間でしか通じていない理解を初対面のメイドが知る由もなく。
単純に誰何を受けて、恭しくも挨拶をば。
「私は甲斐田家に仕えるメイド悪魔、糸々のメリッサと申します。以後、お見知りおきをお願い致します」
「甲斐田……? リアんとこの?」
わずかに納得がしみ込んできて、動揺は小さく減じる。
「左様でございます。この度は事前の通達もなしに直接の訪問となってしまいましたことを大変に申し訳なく存じます。しかし急を要する事態につきご容赦くださいませ」
「ん、そりゃ構わねェけど……急を要するってのは?」
「本日は我らが甲斐田家におきます現当主、甲斐田・志津様からの会談のご招待をさせていただきたく参りました」
「甲斐田の当主、会談……招待? あァそういうのはおれにゃよくわからんな」
現れて早々に立て板に水とばかり要件を伝達してくるメイドのメリッサ。阿沙賀には相槌を打つので手いっぱい。
いや並べられる言葉自体はわかるのだが、それは単語の理解にすぎず裏に用意された意図にはとても辿り着けそうにない。
こういうのは自分の領分ではないのだ。
頭を掻いて、緩く息を吐き出し、視点を変える。
手元にパスされた話題を面倒くさそうに放り投げる、適材適所の文字通りに。
「――遠凪、おいこらいるんだろ」
「あ。バレた?」
ひょっこりとドアの陰から現れたのは隣部屋の友人、遠凪である。
いつもの下手くそな笑みを貼り付けた様子は、突如来襲したメイドさんへの阿沙賀の反応を見て楽しんでいたことが予測され、自然と口調は低くなる。
ドアを開けたらメイドさんがこんにちは、ってそりゃ驚くだろうが。
「遠凪、オメェからもう一遍説明しろ」
「! これは誠に申し訳ございません。言葉を咀嚼する猶予も考慮せずに急いてしまっておりました」
「あー、いやメイドさんは悪くない。単純に翻訳機が仕事してねェってだけ」
「? はぁ、そうでしたらよろしいのですが……」
イマイチよくわかっていないようだが、とりあえず彼女の非ではないと理解して頷いた。
メリッサとしては、おそらく言葉が単調で駆け足になってしまった自覚があった。
それはこの学園に踏み込んだ時より感じる奇妙な気配に、どこか心がざわめいて焦燥してしまっているせいだ。
ここは別の誰かの領域、長居するのは不興を買うやもしれない。早くこの場から立ち去りたい。
そういう感情が読みとられたと思って慌てたが、そうではないらしい。
――阿沙賀は油断ならない相手であると伺っていたのだが。
沈黙するメイドに代わって、既に話を聞き及んでいた遠凪が噛み砕いて。
「端的に言うと、ちょっと今からリアさんのおばあさんに会いに行くぞってことだ――どうせ暇だろ、付き合えよ」
「リアの、ばあさん?」
先ほどメイドの述べていた甲斐田家の御当主――甲斐田・志津。
まさかリアの祖母であったか。
「…………」
はて、なぜだろう。
なにか途轍もなく嫌な予感がひしひしと感じられる。
振り返れば悪魔が極上の笑みをたたえていた――あぁこりゃまた面倒事だと、阿沙賀は悟った。




