48 黎刀の
「遊紗ちゃん!」
遠凪は叫びながら外より窓を突き破る。一年七組の教室へ転がり込む。
そのとき、ちょうど異空間に飲まれて消えた三名の残影を目撃、アルルスタのそれであると理解する。
残るのは静寂の教室と生徒たち、そして愛らしい寝顔の遊紗だけだ。
安堵に息が漏れる。
「ふぅ……最終手段にアルルスタに頼んでおいて正解だったな」
どうやら一歩間に合わずに敵の魔の手が遊紗に届いていたようだ。
それをアルルスタが防いで侵入者を自分の空間に閉じ込めた。
状況を飲み込めた――のは、どうやら遠凪だけではない。
すぐに気を引き締めなおして遠凪はそちらを見遣る。内実を悟らせないような軽い調子で、声をかける。
「用心深いな、まさかバラけてやってくるとはよ」
「トラップを警戒して囮を先に送るのは定石だろう」
教室のドアの向こう、そこにはふたりの男が立っている。
遠凪にはわかる。見た目は人間であっても、その片方は悪魔である。そして悪魔を平然と連れているのは契約者でしかありえない。
敵――九頭竜の邪法啓術使い。
莉々子とカウヘンレを先行させ、距離をおいて追随していたのだろう。その用心のお陰でアルルスタの異相空間に巻き込まれないでこうしてここにいる。
味方を罠に突き落として道を作り、素知らぬ顔で現れた、とも言う。
なにはともあれ。
「敵がいるならちょっと失礼。啓術・六節――『区隔結界』」
「!」
気軽に気安く、遠凪は結界を張る。
それは以前この場所で竜木が張ったのと同じ多重構造結界。
ひとつの結界内を分割することで複数の部屋を設ける技法であり、それぞれの部屋同士の干渉を避けることができる。
これによりひとつの部屋に一年七組の生徒と机や椅子などを置くことで、戦いに巻き込まない人道的な配慮と遊紗の保護をし。
かつもうひとつの部屋に遠凪と敵二名を置くことで、逃さないための囲いとして機能させた。
おまけ程度だが障害物を除いたことで、まっさらな教室は戦場として申し分ないだろう。
結界の発動に驚きはないが、その精度と速度は驚嘆に値する。多重構造化は非常に難しい技法なのである。
結界は異相の空間とは違い現世の空間を切り取っているに過ぎないため、内部で区分けすることはそれだけ体積を減らす。ひとつの部屋が狭くなる。
その問題を解決するために空間術の応用で、結界内における疑似的な空間延長をせねばならない。閉じた空間を広げるという矛盾を成立させなければならないのだ。
空間技法においてはそうした矛盾がしばしば発生し、故に扱いうる者は才能で振り分けられる。
難なくそうした高位の術を使って堪えた様子もない遠凪は、ならばよほど才覚ある啓術使いであると見受けられる。
油断せずに、男たちは名乗りを上げる。
「滝・貝士郎だ」
黒いコートを纏った壮年の男がそう名乗り。
「黎刀のバルブルベルグ」
厳しい顔つきの男がそう名乗った。
「……なんだ、名乗るのか?」
遠凪が不思議そうに問えば、貝士郎は面倒そうに。
「そういう契約だ」
「貴殿も名乗れ、それが流儀というものだ」
敵対者との会敵に際する名乗り上げ――その手の振る舞いに細かな指示をつけてくる悪魔もいると聞いたことはあったが、初見であるとちょっと面食らう。
……ドボルグドワはカウントしないものとする。
流儀ね、と遠凪はあまり熱もなしに肩を竦める。
「オレは名乗らんぞ、匿名希望だ」
「なに?」
「オレは情報リテラシーが高いんだ、ネットでもしっかり気を付けて一生ロムってる」
それはリテラシー能力が高いといっていいのか微妙であったが、相手は友人ではなく敵。ツッコみではなく激怒が飛ぶ。
「ふざけているのか、戦いに臨む者が互いに名乗るのは戦の流儀として――」
「流儀は押し付けるもんじゃなくて貫くもんだろ? それとも、ゴタゴタとくっちゃべるばかりがあんたの流儀なのか?」
「言いよる」
「御託じゃなくて実力で語ってみやがれ!」
「!」
言葉尻とともに遠凪は一挙に駆け出す。
……どうも後ろで静かに術式を練っている貝士郎がいたので、さっさと接近せねばまずいと判じた。
そして、その特攻にこそバルブルベルグと貝士郎は虚を突かれる。
そりゃそうだと間合いに――拳の間合いに届いた遠凪は苦笑する。
悪魔と契約した者が悪魔を喚ばず、敵対悪魔に自ら殴りかかってくるなど暴挙でしかない。
阿沙賀という例外中の例外を隣に置いている遠凪はその常識をちょっと忘れかけていた。
なにせ、遠凪自体もまた契約悪魔に頼らない戦い方をする例外側の男。
「おらぁ!」
「ち」
それでも棒立ちで遠凪の拳打を受けるほどバルブルベルグも愚かではない。
反射で顕能執行――それを発現させて受け止める。
「黒い……刀?」
「『刃は黎く命は朱く』という」
「毎回どうも」
軽口の合間にも拳と刀は幾度も交錯する。
先んじて近接できたのが幸運。ショートレンジでは振り回す刀よりも前後動作だけで打ち込める殴打のほうが早い。
とはいえ刀は鋭利さと威力で圧倒している。特に担い手は悪魔であり、その膂力は人のそれとは隔絶する。
ならばこちらも底上げするのみ。
啓術・一節――『魂魄活性』。
単純な肉体的な強化を既に遠凪は施してある。
威力や膂力に関してはそれ。
では、鋭利なる斬撃にはどう対処しているというのか。いくら肉体を強化しても、鋭い刃はそれを裂くはずではないか。
遠凪は無傷で刃を捌いている――
「ほう」
上手い、とバルグルベルグは素直に遠凪の技量に感心をした。
これだけ斬撃を閃かせ叩き込んだのに、遠凪はすべて受け流している。素晴らしい手捌きと啓術駆動でこの上なく上手く対処してのけている。
それのなぜは啓術・五節『空所固定』。
防刃の用途で手全体に固定した空間を纏い、まるで見えない籠手のようにしている。
皮膚で触れれば殺傷されるとわかっているから籠手で受け流し、逸らし、確実に処理している。
そしてそれは攻撃の際には強靭な硬度から武器ともなる。反撃を警戒しなければならない。防御にも刀を用いる必要がある。深追いができない。
『空所固定』の攻防一体の運用、即興で思いついてできることではない。練磨された術理が見える。
啓術を前提とした奇妙な体術――我流じゃない。誰か師がいて矯正された動きだ。
なにより、こいつは刃物も悪魔も恐れていない。
敵を想定し、敵対を想像して長い修練を積んでいる。
武装した人間や悪魔と対峙しても戦えるようにと、恐怖心を押し殺せるほどに綿密な修練をだ。
驚くべきことに対悪魔の戦闘を、彼はその若さで完璧に習得していた。
「素晴らしい」
よって打ち合いは一方的には陥らず、連打する拳と狙いすます刀は拮抗に帰結する。
互いに未だ手傷はない。
だがその均衡は危うく、なにかもうひとつの要因でもあればたちまちに崩れ大きく傾くだろう。
遠凪はそれを自覚して、近接格闘を持続させながら口を回す。
「にしても、あんたの能力はそれだけか?」
漆い刀を作ること、本当にそんな単純にして質素な内容が彼の魂の顕れなのか?
なんとも理不尽さに欠ける、言ってしまえば弱い顕能ではないか。なにか隠し玉でも――
「その通り!」
返答を期待したかと言えば、これまでの会話から推測して確かに期待した。
だがここまであっさりと肯定されるとすこし驚く。動きにわずかに動揺が伝播する。
打ち込まれた斬撃に、一歩押される。固定したはずの空間が軋み、かすかに破損する。
そこを突いて動くのはさらに別角度で状況を窺っていた貝士郎。
「人魂啓術・七節――『領域変性』」
「啓術! やはりか!」
――滝・貝士郎には気を付けてください。
リアの言葉が思い起こされる。
申し訳なさと悔しさを滲ませた、告解のような震えた声だった。
「滝・貝士郎はもともと御霊会の人間でした」
ゆえに啓術使いとして真っ当に修練を積んでいる。ほかの九頭竜の面子とはわけが違う本当の啓術使い。
ただ才気においてそこそこでしかなく、召喚士には届かなかった。
自信はあった。
傲慢なほど自分が選ばれた存在と信じていた。ほかの有象無象とは違うと言い放っていた。
そして現実に突き当たり――そういう手合いこそが邪法に逃げる。
身の丈に合わない自負を着飾って、ゆえにそれが虚飾であると知れた時……彼は自分以外に理由があると断じたのである。
やり方に問題がある。自分に正道は似つかわしくない。凡人とは経路が違うのだと。
そうした逃避の言い換えでもって貝士郎は道を踏み外し、邪法の徒に堕ちた。
九頭竜の頭目が竜木であるのなら、その竜木に啓術及び悪魔のことを教えた最初の原因こそが滝・貝士郎なのであった。
だが。
「それはこっちも得意分野だ! 啓術・七節――『領域変性』!」
術式を練っていたのはこちらも同じ。
悪魔に都合いいよう周辺環境を塗り替えようとした貝士郎に対し、遠凪はその逆。悪魔に居心地悪いよう人界の性質を色濃くさせんと同じ術を行使する。
領域を変質させる術が不可視の衝突をはじめ、無音で食らい合う。自分の色を押し付け合う。
「馬鹿な……!」
こちらもまた拮抗。領域はどっちつかずに常態のままで維持される。
だがそれはおかしい。おかしいと貝士郎は狼狽する。
遠凪は今、格闘戦で悪魔とタイマンを張って拮抗している。
そのために啓術をふたつ並行で使用していて、場の結界も維持――その上で第四の術を発動して貝士郎と引き分けているということ。
なんだその集中力と術制御は。
桁外れの常識外れもいいところ。
まずいかに啓術を駆使しても人間は悪魔と真っ向でやりあって勝てるものではない。戦況を劣勢に傾斜させないだけでも驚嘆である。
その啓術というのは膨大な集中力と思考能力とを要する技術であり、ひとつ行使するだけでも難事。
貝士郎は一度にふたつ啓術を使うことなどできやしない。
あの竜木でさえ、みっつが限度だろう。それだけでも歯噛みするほどの嫉妬を覚えたというのに。
なんだ、この少年は!
「……」
その感想は貝士郎の契約悪魔バルブルベルグにもあった。
だがそれは貝士郎とは真逆の感情と言えた。
嵐のように怒涛に放たれていた斬撃が、ふとゆるむ。
バルブルベルグは大きく後ろに下がって一旦、攻防をとりやめる。
「?」
遠凪は深追いもよくないとその場にとどまって、だが意図の理解まではいかない。
不思議そうにしながらも警戒心は毛ほども解かないで視線だけで問う。
「――ここまで強い人間を私ははじめて見た」
バルブルベルグは言う。賞賛だった。
「前衛で戦える啓術使いというだけでも珍しいが、悪魔《私》とここまで渡り合うとはな。見事だ」
「狭いんだな、見識が」
「言うではないか」
ちらと背後、自分の契約者を見遣る。
未だに『領域変性』の陣取り合戦に専念しており、冷や汗をかいては現状維持に努めている。
対して遠凪は涼しい顔。まるで術の起動など匂わせないほどに平常に構えている。
このままではおそらく領域の色は遠凪に支配される。
そもそもここは彼の結界内なのだから、多少なり有利ではあろうが……いや、そんな些事でここまでの差はでないだろう。
これは端的、圧倒的な実力の差であった。
そしてその事実を誰より痛感しているのは貝士郎であり、彼は歯を噛み砕かんばかりに噛みしめて悔しさを耐えている。
腹立たしい。腹立たしい。腹立たしい!
あぁこれだから天才とかいう輩は大嫌いだ。みんな死んでしまえ……!
などと、そんな貝士郎の激怒と憎悪に塗れた感情が契約の縁故を通じて伝わってくる。
その狂気じみた嫉みの心が彼の啓術を支えている。天才に対して現状維持を成し遂げている最大の要因が嫉妬心なのは、なにかの皮肉か。
この分だとあと数分といったところ。
数分で領域を飲まれ、こちらに不利に陥る。
遠凪が追撃を仕掛けてこないのはそれを理解していて、時間経過が有利に働くからに他ならない。
ならば。
「こちらも出し惜しみはしていられんな」
「……へぇ?」
バルブルベルグはそこで刃を振るった。
距離が離れ遠凪には届かない刃は、代わりに自分の手首に浅い斬傷を刻む。
当然に傷口からは血が流れ落ち、その流血を手のひらに落として少量握りしめる。
そして。
「ふん――!」
「っ!?」
血を投げ飛ばす、遠凪に向かって。
不可解な行動……つまりそれはなんらかの意味がある。
すくなくとも殺傷力がないだろうと高をくくるわけにはいかない。そもそも敵の投擲物に触れるのはまずい。身をかわして――
「!」
ぐにゃり――ぐぐ――ぐ――かちん。
飛来する血液が、見る間に姿を変える。
質量保存の法則を無視して体積を増やし、形を整え、鋭く研がれたそれは黎い刀。その数七本。
「ちぃ!」
姿かたちが変わろうと運動エネルギーは生きている。勢いそのままに回転しながら襲い来る刀は当初のそれより大きく広く場を制圧する。
半歩でできたはずの回避が、間に合わない。
すれ違いざまわき腹をかすり、頬を裂かれ、血が飛散する。
――黎い刀を作り出す顕能。
確かに嘘は言っていないようだ。ただ材料となるものを黙っていただけで。
そしてその変換することそのものを強みとしてくる器量はバルブルベルグのもの。
本来なら顕能使用に際し媒介物を用意しなければならないのはただの手間のはずが、それを逆手にとった用法――弱い顕能も使いようということか。
「ほら、呆けている場合か?」
「また……っ!」
血を投げてくる。
刀に変わる。
軽い動作、少量の媒介で十七の投擲をなす。
これはかわしきれない。
遠凪は身を低くして正面に再び『空所固定』、不可視の壁を用意する。
手先に展開していたそれとは別に柔軟性や可動域は低いが、代わりに強度のみを追及。
しゃがんだお陰で被弾数は減り、固定空間は二刀の飛翔する刃を受け止め切る。
「さすがの強度! だが!」
回避を捨て防御に回ったのはバルブルベルグの想定内。
その姿勢では即時の行動には移れない。
一足で飛び掛かってくるバルブルベルグの全力の唐竹割りを、回避できない。
「だからどうした!」
刃が振り下ろされる。さながら落雷のごとき恐るべき一撃。
臆さず遠凪は正面の固定した空間をそのまま移動、自らと刀撃の間に置くことで盾に――
バルブルベルグの顕能『刃は黎く命は朱く』、それは血を黎き刀と変換する能力であり。
そして――
「甘い」
黎き刀を血に変換する能力でもある。
「なっ」
ばしゃり、と。
振り下ろされた刀は血に変わる。固形物が、一瞬のうちに液体へと変換された。
血液は見えない板の上を流れ落ち、雫となって降り注ぐ。
下にしゃがむ、遠凪にだ。
そして血は刃となって牙を剥く。
「ぐ……ぅっ!」
とっさに跳びのいても血に触れてしまう。触れた個所の血が鋭利な刃となって斬りつけてくる。
十の浅い切り傷、二の深い刀傷を負ってなんとか退避。
距離を離して再び向き直るが、ダメージは大きい。
怪我の具合と流れ落ちる自分の血を見て、遠凪はやられたなと一人ごちる。
敵の顕能は正直あまり強力とも言えないものだ。だが、その工夫が上手い。
液体を固体に、固体を液体に。
その変換のタイミングと速度は厄介だ。
バルブルベルグは踏み込むか血を放るかの選択の合間に、すこし笑ったようだった。
「どうした、先刻までの軽口は」
「なんだよしゃべり相手が欲しかったのか? だったらそう言ってくれよ、神妙な顔して意外に寂しがりやか」
「ふん、相も変わらず口は減らんか。むしろ感心するな、その傷で強がれるのは」
まったくだ、と遠凪はなんとか口端をつり上げ下手な笑みを浮かべながら無言で同意をする。
痛い。本当に。痛くて痛くてたまらない。
強がって見せてはいるが、本音では今にも痛みにのたうち回りたい。情けなく喚いて逃げ出したい。
このままでは死んでしまうかもしれないのだ。恐怖しないわけがない。
戦いとは痛みと恐怖に満ちている。
悪魔との戦闘だなんて、余計にそうであろう。
悪魔とタイマンなどというどこまでも不利で無謀な挑戦、音を上げて逃げても誰も責めないだろう。
否だ。
遠凪自身が、それを許さない。絶対に。
なぜならその無謀を果たした男がこの学園にはいるのだから。
遠凪のせいでなにも知らないままに悪魔と殴り合う理不尽に遭遇した友人が、今も戦っているのだから。
「だってのに、オレが弱音なんて吐いてちゃ世話ねぇよなぁ! あいつが勝ったのに、オレが勝てないなんておかしいよなぁ!」
自分のせいで友人を危険に陥れた。
自分のせいで友人を無謀に挑ませた。
自分のせいで、友人を理不尽に巻き込んだ。
すくなくとも遠凪はそう思っているし、己の罪過をいついつだとて忘れない。
こうして悪魔の強大さを痛感すればするほどに、それ以上に罪悪感が重くなる。
贖罪にもなりはしないが、それでもここで退くわけにはいかない。絶対に。
「あいつがやってのけた以上、オレもやり遂げねぇと――あいつの友達だなんて言えねぇもんなぁ!!」
強く克己せんと叫びに応じ、魂は縁故を通じてその力を顕す。
「!?」
「教えてやるよ、これの名は『け掛仕桜し廻逆』」
全身の怪我が瞬く間に癒えていく……否、巻き戻っていく。
そんな効力のある啓術は存在しない。ならば必然、それの根源は遠凪ではなく――
「魔魂顕能……魔魂顕能の貸与か!」
そうだ、忘れてはいけない。
この男は啓術使いにして召喚士――悪魔をはべる契約者だ。
遠凪は、未だ自分の契約悪魔を喚び出してすらいない。
『……若様』
不意に縁故を通じてキルシュキンテの声が聞こえてくる。
どうしようもないことをどうにか納得しようと必死になっているような震えた声で。
『契約は契約です』
「あぁ、わかってる。だからきみは手を出すな。なに、顕能を貸してもらってるだけでも充分すぎるさ」
遠凪とキルシュキンテの結んだ契約条項のひとつ。
――キルシュキンテが遠凪・多々一を契約者として真に認めない限り損傷逆行以外の補助は与えず、また戦闘行為の加担もしない。
故にキルシュキンテを喚びだすこともせず、遠凪はひとり戦っている。
すべては未熟な己を認めてもらうため。彼女に相応しい契約者になるため。
この程度の相手、ひとりで勝てないでどうするという。
「さぁ、いくぞバルブルベルグ――あんたの顕能は理解した。今度はこっちの番だ」
「っ」
悪魔を召喚する気か――その警戒と焦燥に身が固まった一瞬を狙って、遠凪が打つ手はこれまでどおり自らの魂を啓くこと。
「啓術・八節――『空間転移』」
「!」
それは文字通り空間転移の術法。
そこからあそこへ空間を経ずして跳躍する移動という概念の究極。
一切の挙動はなく、兆候すらなし――声とともに遠凪の姿はふっと消える。
していない瞬きを無理やり挟み込まれたような心地になり、バルブルベルグは状況理解を一瞬取りこぼす。
すぐに自らの呆けを自戒して敵の位置を探るべく周囲を見回し――
「おらぁ!」
「ぐぁ……っ!?」
「!」
振り返れば完全に予想外、貝士郎が殴り飛ばされている。
貝士郎当人も困惑顔のままで顔面を殴打され、その意識を途絶させていた。
先に啓術使いを落としに来た。
『領域変性』での拮抗を根本からクリアする最短にして豪胆な発想だ。
悪魔を真正面に相手取りながら選ぶ選択としては驚嘆すべき度胸。
だがこれでこの結界内は完全に遠凪の領域として染め上げられ、かつ幾ばくかの集中力を取り戻す。
油断せずにバルブルベルグは血液を再び手のひらにため込み、それを遠凪に向かって放り投げる。できるだけ散らして、広範囲にそれが付着するように。
「もうその芸も通じない」
飛来する血液はバルブルベルグと遠凪の間で、その勢いを失う。見えない壁に激突して。
「! 『空所固定』!?」
空間固定の不可視板。それを彼我の合間に展開している。投擲物の阻害となるように。
漆い刀に変換される前、ただの液体程度では固定は貫けない。飛沫さえも遠凪には遥か遠く届きはしない。
「くそ」
結界内の支配権を完全に得たことで『空所固定』もまた領域全域にまで展開射程を伸ばしている。注意を払えばなんとか生命力の揺らぎでその発生を判別ができるのが幸いか。
これのために先に貝士郎の意識を奪ったのか。
距離をとることの意義は大きく薄れた――いや、それどころか。
「っ」
反射でその場から跳び退く。
ほとんど勘での行動だったが、それは長く生きて多く戦った者に培われた経験則のような勘であった。
その勘が、今はバルブルベルグを救った。
視認はできない。だが、確かにそれは起こっている。
今の今まで立っていたその場所は固定化されていた。
まるで見えない手のひらで掴み取るがごとき所業――敵の座標そのものを固定して捕縛するなど、そんなことができるものなのか?
できないと断じて捕縛される間抜けは避けたい。
そうなると立ち止まることは許されない。ならばもはや突き進む他に道はない。
遠凪に向かって全速力でもって疾駆する――!
「いくぞ!」
「ばーか」
――『空所固定』。
そして真っすぐに駆け抜けたバルブルベルグは、自ら全速力で障壁にぶつかってその運動エネルギーを我が身に返却された。
馬鹿な、とバルブルベルグは思う。
固定空間の気配など感じ取れなかったぞと。
そうか、とバルブルベルグは気づく。
固定空間の気配を察知できていた、それこそがブラフであったのだと。
この結界内は今や全て遠凪の支配下。
空気中の生命力の気配は『空所固定』が設置されていたとしても同質で、本来は見分けることすらかなわない。
わざわざわかりやすく揺らぎを用意しておかなければ。
「他に方法がない、って状況に追い込まれたらその最後の選択肢に罠を仕掛けるなんて常識だろ」
勝利のための手筋は複数あるもので、戦いながら互いにそれを潰し合っていくことで勝敗を決する。
そのひとつひとつの道筋を潰され、最後に残った唯一の活路があったとして。
そんなものは敵の誘導に決まっている。
真正面から近接に持ち込むしかない――そう思い込まされた時点で、バルブルベルグは敗けていた。
「歯ぁ食い縛れよ。あんたが音を上げるまでボコボコにしてやるからな!」
「ちょ……まっ……!」
そうして、『空所固定』を纏った拳で百回くらい殴ってこの戦いは終結した。
◇
「さて、滝・貝士郎。オレは実はあんたにすごい恨みがあるんだ」
バルブルベルグをボコり終えた遠凪は続いて気絶する貝士郎を蹴っ飛ばす。
痛みに跳び起きた貝士郎は、目覚めた瞬間に怒りの形相の遠凪を直視することとなって震える。
どうして彼はこんなにも激怒しているのだ?
「あんただろ? 竜木・竜……九頭竜に大江戸・門一郎のことを教えたのは」
ほかに情報源が見当たらない。
結界の綻びから学園になにかを感じ取るまではいい。だが、その学園が大江戸・門一郎という稀代の召喚士の系列にあるとは野良の啓術使いどもには知りようがない。
御霊会という真っ当な組織に属し、正当に知識をもっていた男がいたからこそ九頭竜の襲撃は発生してしまった。
要はつまり、なんもかんも貝士郎が悪い!
「というわけでとりあえずボコボコにするから覚悟しろよ!」
すこし横を見れば既に自身の契約悪魔がめちゃくちゃボコされていた。
こいつはやる。本気のマジでタコ殴りにして来る。悪魔を殴り殺した(?)パンチをお見舞いしてくる!
恐怖で呂律が回らなくなりながらも貝士郎はなんとか言葉を吐き出す。否定だった。
「なっ、ちが……! 違うぞ! 俺じゃない!」
「……はぁ?」
切実な否定に、遠凪は不可解そうに。
「じゃあ一体だれの入れ知恵で大江戸・門一郎と学園のこと、それに孫娘がいるなんて情報を得たってんだ?」
「そっ、それは……」
「適当に言い逃れしようたってそうはいかないぞ」
「……悪魔だ」
見苦しい奴めと拳を振り上げる遠凪に、貝士郎は酷く怯えた様子でそれを口にする。
単純な暴力への恐怖ではなく、未知のものへの怯懦がそこにはある。
「ある時から時々、竜木に魔界の悪魔から声が届く」
「……なに?」
「素性はわからない。だがそいつの教えてくれることに嘘は一度もなかった。悪魔の告げ口ってやつだ」
人間側から魔界へ干渉する術があるように、悪魔から人間界に影響する手段というのも当然に存在する。
術体系の適性の問題で人間ほど容易くは行えなず、爵位の高い悪魔のみの技となっているが。
そうした高位悪魔は時折、なにがしかの理由をもって人間界にちょっかいをだす。
それは神隠しと呼ばれる次元転送であったり、未知の財宝に隠蔽した呪われた品物の送付だったり。
突如として聞こえてくる、悪魔のささやきだったり。
悪魔のささやきはそちら側を知っている者からすると特に悪魔の告げ口と俗称され、不可思議な情報を得られるという。
たとえば魔界のこと。たとえば悪魔に憑かれた誰かのこと。たとえば、高確率で発生しうる未来予想なんてものまで。
往々にして告げたことで悪魔側に利益があってこその告げ口だが、場合によってはただ混乱を招きたいだけの愉快犯もいて意図を察するのが困難だ。
故に、この大江戸学園について知っている悪魔がいて、それを邪法の徒に告げ口するというのもありえない話ではないのだった。
「……っても、一体どこの誰がそんなことを? まず、どうしてここのことを知っている?」
まさか。
「じいさんの、関係者か……?」