114 それが故に阿沙賀・功刀
――使ったな?
「!」
どこからともなく声が響いた――そう感じた瞬間、ザイシュグラは強烈な衝撃を顔面に受けていた。
凄まじい威力。
踏ん張りもきかず飛ばされ、血を吐いて損傷する。
「!?」
魔王が。
ただ殴られただけなのに痛みを負い、傷をつけられ出血すらする。
ありえない。
無防備であったことを差し引いても、その威力は魔王に痛手を与えるほどのもの。
ありえない。
その拳はすでに一度受けている。まるで無意味な小さな手のひらだったはず。
ありえない。
この魔力は、この感じる魔力は間違いようもなく誰あろうもなく――ザイシュグラ自身のもの。
ありえない!
そこにあるのは、ザイシュグラを殴ったのは――
「よォ、さっきぶりじゃねェか、魔王サマ」
「阿沙賀・功刀……!」
そこに在るのはまさしく間違いなく――阿沙賀・功刀である。
ありえない。ありえていいはずがない。
喰ったのだ。喰らい飲み下し腹に収めた。
なのになのにこいつは、この男は……!
「なぜ……どうして生きている……!!」
ザイシュグラがはじめて見せる強い動揺。
完全に想定外であり、想像の埒外の事態に見舞われて平静を失っている。
阿沙賀は身体の調子を確かめるように肩を回しながら、いつも通りに笑ってやる。
「テメェが使ったンだろ? 『それが故に自我』の能力は自己の自在化。自己ってのは、つまり阿沙賀・功刀ってことだ」
自己の自在化――その自己の意味するところは阿沙賀・功刀だ
阿沙賀・功刀が阿沙賀・功刀を自在にできる、はじめからそういう顕能だったのだ。
ならば。
「テメェはおれじゃねェ」
「だから、ボクには扱い切れないだって? 誰が使っても阿沙賀・功刀が阿沙賀・功刀を自在とするって? ふざけてる!」
コピー不可、共有不能、略奪無為――どころか、奪われた先からすら自在に力を行使する。
能力の行使する先がどこであろうとも、ただ一個人にのみその威を約束する。
なんて、なんて規格外!
千年以上悪魔の魂を喰らい続けたザイシュグラでさえ、こんな事態ははじめてだ。
「だが! キミの魂はボクが握っている! ならば顕能の行使と同じく終えることもできる!」
「いいや、できねェな」
「っ!」
阿沙賀の言葉通り、ザイシュグラには顕能を停止することさえできなかった。
なぜなら彼は阿沙賀ではないから。
「顕能を開始した時点でその操作は全て阿沙賀・功刀に移る。終わらせることも、おれにしかできねェのさ」
ただ故に、顕能をはじめることだけはザイシュグラの意志が必要だった。
発動さえしてしまえばこちらのものだが、発動自体は魂だけの状態ではできなかったのだ。
とはいえそれは想定内のこと。
ザイシュグラの心算は確認できていた。人間界に赴くために、奴は絶対に『それが故に自我』を使うと確信があった。
命をベットするにしては読めていた賭けであったと言える。
結果は上々。想定通りにこうして蘇ることができた。
「それでおれの肉体を依り代におれの魂を降ろした。完全復活だよ、ざまァみろ」
先ほどまで魂を失い動くことのなかった阿沙賀の肉体に、再び魂が宿って当たり前に活動を再開している。
そんな馬鹿な。
ありえないだろう、そんなこと。
どんな理屈だという。どうした作用だという――顕能だからと無茶苦茶が過ぎる。
なんという……荒唐無稽!
おかしい点はまだ幾らもある。自らの顕能をよく理解しているザイシュグラには大きな疑問があった。
「だが、ボクの腹の中で意識を保っていられるわけがない! 数百万の魂の墓場、悲嘆と絶望の坩堝の内で精神が崩壊しないわけが……!」
「あぁその通りだよ。テメェん中はマジで地獄だったぜ。ひとりじゃ起きられなかっただろうよ」
「では、どうやって……まさか先ほどの契約か……?」
「契約?」
なんだっけそれ、とばかりに怪訝そうにオウム返し。すぐに思い出して肩を竦める。
「ありゃ関係ねェよ。というか、契約自体にもあんま意味ねェ。気づかせないようにするための、あー……ブラフ?」
「ボクを馬鹿にしているのか! まさかそんな……くそっ」
「テメェら悪魔にゃ大層大事なもんだろうからな。そっちに気を取られてくれりゃ儲けモンだってな」
契約遵守生命体――悪魔にとって、契約とは重要なものなのだろう。
契約を切り出せば悪魔はそこに罠を探ろうとする。
人に騙されるものかと慎重に、人を騙してやろうと狡猾に、様々な思惑を張り巡らせてはそれだけに目を奪われる。
だからこそ阿沙賀からすれば囮として有効だ。
特に意味のない契約を、勝手に深読みして他の想定を忘れてくれるのだから。
「けどそうやって人間如きと侮って契約を逆手にとられるのって……はっ、まんま阿呆の悪魔そのもので笑えるぜ」
「っ!」
悪魔に対する最悪の侮辱に魔王すらも沸騰しかけるが、さっさと阿沙賀は話を切り替える。
「テメェとの契約なんかじゃねェよ。ただ、なんの因果か契約ではあるがな……目覚ましを頼んどいたってだけだ」
「悪魔との契約の縁故か!」
流石に思考しはじめれば明察。
阿沙賀は頷いて自らを指す。この魂にあるものは、自分だけじゃないのだと。
「おれをおれだと証明してくれる相手が、おれと繋がっている。ずっとずっと肯定をくれてる。
だったらじゃァ混沌の海だろうと、地獄の底だろうと、おれはおれだ」
それは最初から契約し、縁故を結び続けているニュギスと。
そして。
「メリッサと試胆会全員――計九名とおれは契約を結んでいる」
「!」
既に試胆会の契約は破綻した。
彼らを縛る契約もまた失われたということであり、ならばもはや自由。誰と新たに契約するかさえも。
人と悪魔の契約はただその意思のみにより結ばれる。
阿沙賀がそれを許可すれば、はじめから望んでいた彼ら彼女らとも当然結ばれる。
境界門に踏み込む前に、阿沙賀はあの場にいる自分と契約を望むすべての悪魔と契約をしていたのだ。
キルシュキンテとも契約できたのはちょっと意外だったが、きっと遠凪の奴が頼んだのだろう。
彼女を介して間接的に遠凪とも繋がっているので、なんとなくわかるのであった。
このように命綱としてできるだけ縁故を結んでおいたのは、当然に作戦の内。
喰われても魂は残る。消化が必要ということは消化されるまでは腹の中に残存する。そもそも顕能を使うために消化はできない。
それはアルルスタが教えてくれた、間違いない。
故にこうして事前の手を打てたのだ。
阿沙賀からすれば理論通りで作戦通り。
けれどザイシュグラからすればそれは最悪の――
「そんな……ありえない。そんな……理不尽なこと!」
「理不尽だ? はん」
それをまさかお前が言うのかと、阿沙賀は笑ってやろうとして――できずに怒り露わになってしまう。
「テメェも散々、理不尽気取ってきたんだろ? ツケが回ってきただけだよ、テメェの番が来たんだ往生しやがれ」
多くの命を自らの食欲のためだけに喰らい続け、無際限に悲劇を広げてきた。
力だけでその悲劇に対する反撃全てを沈め、好き勝手振る舞い続けた。
無数の憎悪を腹に閉じ込め、気にも留めずにあったが故の燻り続けた積年の恨み。
それがこうして応報せんと遂に来たり。
「笑えよ――おれがテメェの理不尽だ」
◇
激しく、派手派手しく、そしていっそ華やかに。
破滅の星が瞬いては消える。
遠く彼方で爆撃が連続しているよう。届くはずのない果てで超新星爆発が連なっているよう。
流星のごとくに駆け巡る二者の拳のぶつかり合いが、激甚なるインパクトを生じさせている。
近づくだけで余波で消し飛ぶ威力。離れていてもやはり消し飛ぶ。この境界門に生存できる空間はどこにも存在しない。
そんな威力が余剰でしかなく、本命の拳そのものにこめられたエネルギーはもはや想像を絶する。それをぶつけれてなお殴り返せる耐久力など、言うに及ばず。
凄絶に、阿沙賀とザイシュグラは殴り合っている。
それは比喩でもなんでもなく――魔王と魔王とが相争う終末そのものであった。
「やはり……! ボクの魔力を!」
「当たり前ェだろ、おれは今テメェの顕能なんだぞ!」
先ほどまであった断絶と言えるまでの実力差がほとんどゼロにまで縮んでいる。
それは阿沙賀が魔王に喰われていることに由来する。
ザイシュグラによって発動した『それが故に自我』は、当然ながらその魔力源をザイシュグラ自身に求める。
その顕現発動に際して、阿沙賀はできる限りの魔力を持っていったのである。
それが丁度、ザイシュグラの魔力の半分。
つまり今、ザイシュグラと阿沙賀は同量の魔力でもって対峙している。
その莫大すぎる魔力をもって阿沙賀は魔王と真っ向勝負ができている。
「最低だよ、キミは! 人の力でふんぞり返る! 恥知らずの盗人め!!」
「自己紹介かァ!? テメェこそ人の魂喰って王様になったンだろー? そりゃ人の力でふんぞり返ってンのとなにが違うってんだ!」
ぶん殴る。
ただそれだけで空間は激震し、魔力嵐が渦巻く。特段に異能の類もなく、ただの殴打がなにもかも崩壊させて消し去る。
ここが人間界であれば周囲が根こそぎ無に帰していただろう。こんな風に考えなしに力を振り回していてはなにもかもを消滅させていた。
崩壊は止まらない。連鎖して拡大し、この不変とも思われた境界門にすら罅を刻む。
魔王同士の戦いが厭われるわけだ――こんな、こんな馬鹿げた規模の破滅、世界がもたない。
なにもかも。ありとあらゆる。根こそぎに。
この世全てが巻き込まれて滅びゆく。それこそが魔王の闘争。
ただひとつ例外は――ニュギス。
契約でザイシュグラからの余波すら避けられ、気遣いで阿沙賀からの余剰すら掠りもしない。
この終末戦争のような空間で、ただひとり決戦を眺めていられる。
阿沙賀は想定していなかったが、こうして観戦できているだけでも先の契約の意義はあったとニュギスは思う。
とはいえ。
もはや戦いの領域が別次元にシフトしている。ニュギスの手出しは無意味どころか足を引っ張りかねない。できるのはただ見守るだけ。
「いいえ、いいえ……」
できることがないなんて、そんなはずはない。
この場に同行して、ここまで連れ添って、こうして生存を確約されて。
ただ見ているだけでいいはずがない。
それではでニュギスは阿沙賀の対等でなくなってしまう。
なにかをしなくてはならない。
全て任せて背負わせるだなんて許されない。
他のどんな悪魔が阿沙賀と契約して縁を結ぼうとも、ニュギスこそが彼のパートナーであることに変わりはないのだから。
「…………」
現在、ニュギスの魔力を渡しても大して意味がないため、ほぼ全てを自分に戻してある。
戦いからは外れ、流れ弾もありえない。
ならば、できるのではないか。
阿沙賀の勝利の最後の一押しになることが、ニュギスにだって。
目を閉じる。集中する。
この地獄の戦場の只中で無防備に。
それだけ悪魔の契約というものを、自らの親愛なる契約者のことを信じている。
――契約者様、どうか勝利を。共に。
◇
「ふざけている、ありえない。どうしてキミは!」
「なんだよ、ごちゃごちゃ呻いてねェで言いたいことがあるなら具体的に言え、この老害野郎!」
我武者羅の殴り合い。
知恵も理性も吹き飛んだ、獣同士の殺し合い。
ただただ相手をぶちのめしたくて、相手をこの視界から消したくて。
排除の意志と殺傷の決意とだけが膨らみ続けて拳を突き動かす。
「どうしてその大魔力を――ボクの魔力を当たり前に運用してボクと渡り合っているんだ!」
だがそこに込められた魔力が甚大過ぎる。
どんな不様な拳でも、どんな下手な空回りでも、触れる必要すらなく必殺。必ず敵手を殺すに値する殺傷力を有している。
同等の魔力をもつ相手だから死なないだけで、本来ならば指先ひとつで公爵の悪魔であっても跡形もなく消えているはず。
それだけの未曾有の魔力を、どうしてチンケな人間ごときが完全に制御できているという。
阿沙賀は以前まで公爵クラスの魔力にさえ振り回されて御し切れていなかった。
鍛錬してそれを克服したのがごく最近。
なのにどうして今、その数百倍以上の魔力を当たり前に使いこなしてザイシュグラと渡り合っているのだ?
「そんなのおれが阿沙賀・功刀だからだろうが!」
「またそういう理屈にもならないことを!」
「馬鹿野郎が。ここまできてまだわかんねェのか?」
「理不尽ができるから。
――それが故に、阿沙賀・功刀なんだろうが!!」
声高に叫び、踏み込む。
意志の力が拳に宿り、魂の咆哮が推進力となる。
振り下ろされた拳は的確にザイシュグラの人中を打ち抜き、壮絶な威力を叩きこむ。
ザイシュグラはよろめき、しかし膝は折らず。
「ふざっ……けるな――ァ!!」
即座に切り返してくる。
迸る怒りを詰め込んで殴り返してくる。
顔面が歪む。口の中で歯が折れる。目線だけは逸らさない。
尋常ではない威力だった。筆舌に尽くしがたい痛みがある。
それでも阿沙賀だって倒れない。
どれだけ殴られても、どれだけ激痛に嘆こうと、倒れたりしない。
――みんなの声が聞こえる。
生きろと、死ぬなと。
ずっとずっと阿沙賀を肯定してくれている。
縁故を通して、この今も声をかけてくれている。
あぁもうまったく……うるせェなァ。わかってるよ。
敗けないさ。絶対に。
敗けられねェんだ。どうしても!
とはいえ流石に魔力制御の分野ではまだザイシュグラが上だ。
『それが故に自我』の強化分でなんとか拮抗しているが、このままいくと正直勝負はわからない。
拮抗し、ギリギリで勝利も敗北もあり得る。
――いや、この瀬戸際ならば勝ち目のほうが高いと、阿沙賀は思う。
ここに来て見つけた、この魔王のつけ入る隙を。
「マジの喧嘩ははじめてかよ」
投げつけるように、カマをかけるように。
「テメェ、対等の殴り合いははじめてだな?」
「っ」
「わかるぜ、腰が引けてる。臆病者め」
食欲を全てとして魂の軸とする。
そこに戦闘行為が優れるベクトルなどどこにもない。
こいつは自分で言ったように、ただ食べたいで食べ続け、その結果不本意に魔王となった。
戦って勝ち取ったわけでも、生存に必死になったわけでもない。
ただ力がでかいだけのガキ。
ならば喧嘩なんてしたこともないだろう。あっても圧倒的な力をもっての蹂躙であり、一方的な弱い者いじめ。
「いつか魔王に囲まれたことがあったらしいじゃねェか。そん時にはさっさと降伏したらしいが……それ、計略もなにもなかっただろ」
そんな奴が真剣勝負をしたことなどあるわけがない。
対等な、タイマンな、真正面からの喧嘩など、するはずがない。
永く生きようが夥く戦おうが、技術だけは極まっても――根性が足りない。
「心底ビビッてただ逃げた。それを合理と置き換えただけ……負け犬根性丸出しだぜ」
「阿沙賀・功刀――!」
「うるせェぞ負け犬!!」
怒りに動揺した隙を突いて殴り飛ばす。
戦闘中に感情的に叫ぶなど、隙以外のなにものでもない。
大ぶりの反撃をすかして後隙を突く。痛みに悶える瞬間を逃さず追撃する。
規模や威力は世界を滅ぼすほどのものなのに、そこで発生する駆け引きはガキの喧嘩と大差ない。
そしてそうした駆け引きにおいて、ザイシュグラはズブの素人。
これまでの人生において幾度も喧嘩を繰り返した阿沙賀に敵うべくもない。
試胆会を突破し、九頭竜を滅ぼし、死力を尽くして公爵悪魔を倒し、迷える友人を引っ叩いた――これまでの全てが阿沙賀の糧。
理不尽を殺す理不尽に、阿沙賀は成り果てている。
「っ、くそ!」
幾たびの殴打を受け、度重なる暴力をくらい、ザイシュグラは逃れるように間合いを広げる。
だが逃げたりはしない。この迸る怒りがそれを許さない。
ザイシュグラは、もしかしたら生まれてはじめて……食欲ではない感情で拳を握っていた。
「殺す、殺してやる! ここまでボクを怒らせたのはキミがはじめてだ、阿沙賀・功刀! このボクの! 魂喰魔王の名に懸けて!! 必ず殺してやる!!」
「ガキみてェに喚いてンなよ、拳で来いよ、男だろうが!」
「そうさ、愚劣なキミにはそれしかない! ボクとは手の数が違うのさ!」
突如。
ぼう、と。
阿沙賀の全身が発火した。
「なっ」
「まだまだ、こんなものじゃない。ボクの腹は無限だよ!」
いつの間にか床に鈍色の十字架が突き立っている。
宇宙風景が歪み雷雲で満ちている。
そこかしこで大量の右手だけが生えて阿沙賀に伸びている。
見えないなにかが充満し、呼吸に混じって入り込んでくる。
高速で奔る直線がジグザグに曲がりくねって通過した箇所を削っている。
「これは……テメェの喰った魂の!」
「顕能さ。どれもこれも、ボクは名前すら知らないけれど」
そして無数の顕能が一斉に阿沙賀に殺到する。
十字架は近づくほどに阿沙賀の動きを遅らせる。
雷雲は竜の形を模した雷撃を生み落として顎を開く。
伸びた右腕が阿沙賀を引っ張り、全方位に引きちぎろうとしている。
空気よりも微かなガスは内部で細胞と混ざり合って溶解していく。
高速の直線は阿沙賀を貫通してなお止まらず直角に曲がってまた背を狙う。
他にも幾つもの顕能が同時に展開され、その全てが魔王の魔力で強化される。
膨大にして複雑怪奇なる飽和攻撃。
それは単一ではなく群。大群なる制圧征服。四方八方から別種の攻撃が阿沙賀を袋小路に追いやる。
「だったらこっちだってあるンだよ、頼れる力ってもんがな――なァおい、そうだろオメェら!」
声とともに、それは発動した。
阿沙賀の周囲全てが停止し、そして巻き戻る。あらゆる攻撃に対する壁となって防いでくれる。
「! 巻き戻しの……!」
「『け掛仕桜し廻逆』――うちのキルシュキンテの顕能だ知ってンだろ。そんで」
いつの間に、阿沙賀は釘を握りしめている。
「こいつは『命短し恋せよ亡者』。そのどてっぱらに御馳走してやるよ」
巻き戻しの壁を頼りに全方位顕能攻撃を掻い潜り、阿沙賀はザイシュグラへと接近する。
咄嗟に逃げを選ぶザイシュグラに、阿沙賀は抜け目なく指を差す。
「動くな」
『溺れる藁は嘆くばかり』。
今度はフルネウスの顕能、その副次効果だけを抽出してザイシュグラへと課す。強力な重力が全身を襲ってその逃げ足を鈍らせる。
「舐めるな!」
対抗するように、ザイシュグラは新たな顕能を行使する。
それは時の加速付与。
退避の逃げ足を加速し、巻き戻しの壁に遮られている顕能たちを加速する。
時間という同じ属性の力は干渉し合い、どちらが勝るでもなく阻害し合う。
結果として阿沙賀の殴打は回避され、雷竜に噛みつかれ右手の半数に掴まり、そして直線に貫かれた。
「ちィ!」
眩しい雷竜を払いのけ、うざったい引く手を蹴っ飛ばす。直線には貫かれることを前提として無視して綺麗すぎる傷を即時治癒する。
そうして、対応にかまけている一秒もあれば。
「おかわりならまだまだたんとあるよ、賞味していきなよ」
さらに無数の顕能が降り注ぐ。
当然全てが時間加速を付与されて、巻き戻しの壁に干渉。一部が戻り、一部が進み、ランダムに顕能が乱れ飛ぶ。
一見しただけではどれを回避すればいいのかわからない。
ならば全てを止めてもらう。
「だったらこれでどうだ?」
アルルスタの顕能――『相克する合わせ鏡』。
阿沙賀の姿がゆがみ変質し、まるで違った存在へと変わる。
白い肌に豪奢な純白のドレス、銀糸の髪が神々しいまでに輝いている。
愛らしくも無謬なる美貌の悪魔――恣姫ニュギスその人である。
「っ!」
――それは手出し無用の契約を結んだ相手。
そうであると判別できれば、ザイシュグラの手が一瞬停止する。
しかしすぐに思考は回転し、偽物であると断ぜられる。
ザイシュグラはアルルスタの顕能を知っている。
入れ替えでもなく成り代わりでもなく、ただ形を変えただけ。
それならば契約に抵触はしない。
わかっていても一瞬の停滞は悪魔としてのサガ。
そのひと時で阿沙賀が動かすのは口と脚。
「――果たしておれは本物のニュギスか? 賭けるか魔王」
「口車には乗らないよ!」
「ほんっと、コワントの顕能は喧嘩にゃ使えねェなァ」
『賭博縛鎖』は不成立。
気にした風もなく阿沙賀はニュギスの姿のまま跳ね飛び、その距離を詰める。
幾らかの顕能が身を襲うが知ったことか。
「手数の多さは面倒だが、それだけだな。雑に適当な放り投げごときでおれを殺せると思うなよ!」
ザイシュグラの群としての顕能は恐ろしい。
しかしそれは軍ではない。群れているだけ、数が多いだけ。単調で工夫がない。
一方で阿沙賀は数は少なくとも勝手知ったる友の顕能。要領よく適切に使いこなしている。
――という嘘を吐く。
実際のところ、雑だろうと適当だろうと顕能を乱射されるのは厄介極まる。それも魔王の魔力でかまされては、近づくこともままならない。
騙し騙し潜り抜けてはいるものの、種類が多すぎる。速射性が高すぎる。制圧力が強すぎる。
まったくなんてズルい! チートも大概にしておけと叫びたくなる。
とはいえ言っても無駄なので飲み込んで、代わりに強がって虚勢を張る。嘘を吐く。
嘘。
嘘を、信じさせる。
それが迷亭とパメラスカの顕能『嘘吐きと呼ばれた女』なのだから。
ザイシュグラの深層心理にまで働きかけ、群たる顕能放出にわずかな躊躇いを生じさせる。
嵐のように降り注ぐ顕能の群れを多少なりとも遅らせればそれで充分。
阿沙賀は無意味になった変身を解きながら、全力で『け掛仕桜し廻逆』を展開する。
ほんのわずかに緩んだ嵐の中を我武者羅に駆け抜けていく。
敗けない。
死なない。
必ず勝つ。
ここでこいつに敗けて死んじまったら……それは阿沙賀の人生が不幸なものだったという締めくくりになってしまう。
ニュギスとの出逢いが。
七不思議どもとの奇縁が。
遠凪や遊紗、リアとの友誼が。
メリッサ、学園のダチ、甲斐田のばあさん、アティスらとの思い出が。
阿沙賀・功刀を形作る全てが。
全部、こいつに敗けて不幸な結末に至るための茶番に成り果ててしまう。
そんなことが許されるはずがない。
阿沙賀はたくさんの縁故を束ね、無数の思い出を胸に抱いてここに立っている。
積み重ねたなにもかもがこの現在のためにある。
それは敗北のためのお膳立てだったなんて、あるはずがない。
勝つためだ、断固として勝つための礎だったと言い張るとも。
今日までの全ての縁も思い出も出逢いも、ここで勝って明日笑う――そんなハッピーエンドを迎えるためにあったのだと証明してやる!
「ぉぉおお――!!」
「っ、阿沙賀・功刀!」
「ぉおらァ――!!」
ぶん殴る。
渾身の、会心の、満身の一撃。
それはザイシュグラを吹き飛ばさない。衝撃の全ては内部で弾け、漏らさず徹す浸透剄。
「この程度……!」
「耐えるってンだろ、わかってるよ!」
がしっとザイシュグラに掴みかかる。
逃さぬように五寸釘で釘付けにする。
だがどうして。
攻撃を止め、捕縛の動きに変わった何故が不明瞭。
今更、こうして抑え込んでなにになる。動きを止めているのは双方同じ。ならば顕能で狙い撃ちにするだけだろう。
「なにを――」
「あー、いい加減に準備はできたかよ。これが最後のチャンスだぞ、まさか出遅れなんて不様は許さねェからな」
「もちろんですの!」
そう、顕能で狙い撃つために、こうして阿沙賀はザイシュグラを抑えているのだ。
応えるニュギスは全身から膨大な魔力を放出している。
それは公爵悪魔ニュギスのほぼ全魔力と、さらに追加することの――
「たく、やりあってる最中に魔力を寄越せってだいぶ横暴だろうが」
「いつもの逆ですの。新鮮でしたでしょう?」
阿沙賀が保持する魔王の魔力、それを彼女に合わせて変換して渡していた。
本来ニュギスにはありえないほどの大魔力が収束し、それをつぎ込んでいる。
その魔力をたったひとつの魔魂顕能に注いでいる。
「なっ……なんだ……」
どくん、と血が騒ぐ。
ありえないほど心臓が暴れ出し、なのに身体中が凍えていく。魂が大音声の警鐘を鳴らし、心が逃避を選ぼうとする。
その感情の名は知っている。
けれど魔王が味わうことなどありえないはずの感情。
ザイシュグラもまた、魔王と呼ばれたその日から久しく感じることのなかった原初なる思い。
わからない。
どうして。
なぜ。
――なぜ魔王ザイシュグラが恐怖しているという?
「なにが……なにが起きている……?」
声が震える。
歯の根が合わない。
視界が歪み、涙があふれていることに気づく。
ザイシュグラは不様なほどに恐れ怯えている、なぜなら。
「これは……なんだ? どうして、それが……?」
ザイシュグラは知っている。
それを一度見たことがある。
その悍ましさを、その無慈悲さを……この目で直視し絶望したのだ。
「いっ、いやだ……いやだ!」
傲岸不遜の魔王が。
暴食一途の魔王が。
その時、それを理解して――確かに恐れていた。
なにせそれは、それこそが魔王の魔魂顕能。
戴欲魔王ベイロンの――魔王顕能。
「そっ、それは、それだけは……! たっ、食べっ! 食べたくない!! いや、助けて! いやだぁ!!」
――名を『天に戴く地に欲す』。
全てを滅ぼし、無へと還すことで誰にも奪わせない。
終わりを意味し、終幕という形で未来を許さず独占する。
そういう破滅と終焉だけを希求された至上最大最悪の滅びの顕能である。
「おや、どうしましたの魔王さま。こちらは精一杯の贈り物ですのよ。差し上げますので遠慮なく召し上がってくださいな」
形はない。
色もない。
ただ感じる。
それに触れたらお仕舞いだとどんな愚鈍にも無理やりに理解させられる。
ザイシュグラはこれまでになく焦りだし、なんとか阿沙賀の拘束をとこうと躍起になる。
だが直前で受けていた打撃と今も刺さる五寸釘が力を奪い、かつ揺るぎない阿沙賀の力にどうしても逃れられそうにない。
阿沙賀の瞳を見る。
蒼穹のごとく澄み渡り、胆の据わった眼光は一切の恐れはない。
「まさかキミも一緒に死ぬ気なのか!?」
「いんや、あれ指定対象以外にゃ無意味らしいぞ」
「それでも! キミはボクの顕能のはずだ! ボクが死ねば――」
なりふり構わず叫ぶザイシュグラに、阿沙賀はすこし困ったように。
「あぁそっちか。心配せんでもちゃんと用意はできてるよ――ニュギス」
「ええ、この時も待ち望んでいましたの」
ニュギスがこの世で一番欲しいものを奪い去れる、この時を。
「――『欲儘』」
そしてニュギスは遂に自らの欲するものを手に入れる。
なぜならそれが彼女の顕能『欲儘』の能力であるがゆえ。
阿沙賀・功刀がそっくりそのままニュギスの手元にやってくる。その魂も肉体も、揃ってニュギスのものとなる。
実際のところ、阿沙賀は一歩も動いていない。未だにザイシュグラをその手で抑え込んでいる。
だがその存在の在り処が完膚なきまで変更された。
結ばれた縁故がここで全て断裂される。我が儘で嫉妬深いお姫様が自分のものに触れられることを嫌ったが故。
それは同時にザイシュグラの顕能であるという前提事項すらも破棄して、その繋がりさえ綺麗に断絶する。
もはや阿沙賀はザイシュグラとは縁もゆかりもなく――ニュギスのものである。
故に誰が滅びて消えようとも無関係。
終わりがそこに在ったとしても、その対象外であり無意味。
それを受容する存在はたったひとつ。
「ひ……」
既にそれは放たれている。
ただひとりとなった魔王ザイシュグラのもとへ。
減速も加速もせず。
殺意も慈悲もなく。
生も死も一緒くたになって。
「では御機嫌よう、魔王さま」
daemon ex machina――




